2018年3月31日土曜日

映画「グレート・ウォリアーズ 欲望の剣」を観て


1985 アメリカ・オランダ・スペインによる合作映画で、傭兵隊長と王子様とお姫様の物語を、エロ・グロを駆使して描いています。原題は「Flesh + Blood」で、それは「肉と血」です。
イエスは最後の晩餐で、弟子たちにパンとワインを与え、それが自分の「肉と血」であると告げます。したがって「肉と血」は聖体であり、イエスそのもということになりますが、映画ではそれ程高尚な話はありませんでした。もしかするとこの映画では、本物の「肉と血」を暗示しているのかもしれません。また、映画の初めの方で聖マルティヌス(聖マーチン)の木像が土の中から掘り出され、傭兵たちのリーダーの名がマーチンであることから、聖マルティネスを守護聖人としてあちこちで略奪活動を行います。さらに、嫁ぎ先に向かうどこかのお姫様を誘拐し、城を占領し、許婚者を取り戻そうとする王子と戦ったりします。この限りでは、ただの空想アドベンチャー映画です。
監督のバーホーベンは高名な監督で、こうゆう映画を作る人だそうです。この映画の悪趣味性は、まだましな方だそうですが、私にはついていけません。この映画の舞台は、1501年の西ヨーロッパということになっており、宗教改革前夜の価値観の混乱を描いているのかもしれません。


2018年3月28日水曜日

読書について

 私は、「世界史」という極めて幅広い分野を学び教えてきましたので、それに対応するために、長年に亘って多岐にわたる多くの本を買ってきました。今日はネット社会であり、知らないことがあれば、何でも簡単にネットで調べることができます。しかしこうした社会が成立したのは比較的最近で、私から見れば、ほとんど現役の終わりに近い時代であり、現役時代の大半でこの恩恵に浴することはありませんでした。
 入試問題では、出題者の個人的な好みで、非常に特殊な内容が出題されることがあります。調べる方法はまず百科事典、それでわからなければ自分の本箱の本、さらには図書館に調べに行くことになります。こうした苦労は、知的な訓練にも役立ちます。この件についてどこかで読んだ記憶がある場合、本箱中をひっくり返して探し回りますが、記憶庫と書庫を探し回っている過程で、この件がどのよう脈絡で書かれていたかを考えますので、結果的に知識を系統的に整理することになります。こうしたことを繰り返している内に、必要と思われる本を買いあさり、結果的に本がどんどん増えていきます。
 こうした苦労の経験なしに、簡単にネットで検索できる時代に育った人々は、知的訓練が不足するのかといえば、決してそんなことはないと思います。本をひっくり返して探し出す苦労を省略できなら、その労力を他につぎ込めば良いわけです。現在では、私自身もブログを書くにあたって、事実確認のために頻繁にウイキペディアで調べています。それなしに、これ程多岐にわたる内容の記事を一定の間隔で書き続けることは不可能であり、ネット検索は十分に役立っているといえます。
 私は購入した本を、コンスタントに読んできてはいましたが、読めたのは購入した本の一部でしかなく、いつかこれらを全部読みたいと思っていました。仕事をリタイアした後、読みまくり、読み流しただけの本も多数ありますが、一応すべての本に目を通し、その一部をこのブログの「読書感想記」にも掲載しました。私の読書は、書棚にある本を全部読まねばならないとう脅迫観念にとらわれたものでした。そして、すべてを読み終わった後、ほとんどすべての本を古本屋に売却し、実にすっきりした気分になっています。書籍に呪縛されてきた半生から解き放たれた気分です。
 ところで私が大量の本を買い続けたのは、1995年ころまでです。1995年とは、WINDOWS95が発売された年であり、世界がICM基準のパソコンの時代に入ったわけです。この時私もパソコンを購入し、以後20年、パソコンにのめり込み、お金もつぎ込み、その結果本を買うお金も、それを読む時間もなくなってしまいました。当時知り合いの古本屋の主人が最近は若者は携帯に、大人はパソコンにお金を使うため、本を買わなくなってしまった、と嘆いていました。まさに、私もその一人でした。
 本を処分した結果、手元に読む本がなくなってしまいました。長年の習性で、手元に本がないと不安に陥ります。そこで市民図書館に行ってみました。こんな所にたいした本はないだろうと思っていたのですが、意外にも観たことのない本が沢山ありました。考えてみれば、20年近くあまり本を買っていませんでしたので、この間に出版された本について、あまり知識がなく、小さな図書館で見たこともない本に沢山出会い、感動しました。とりあえず、「ウィツゲンシュタイン家の人びと」と「マヤ文明」借りましたが、どちらも500ページ前後の本なので、2週間で読むのは無理かもしれません。

 図書館で本を借りるようになって、困ったことが起きました。私は本を読む過程で、やたらに線を引く癖がありますが、図書館の本には線を引けません。線を引かないと、自分が関心を持った部分がどこに書いてあったか、分からなくなってしまいます。もっとも、どうせ図書館に返す本ですから、分からなくなっても構わないのですが、それでも線を引かないと不安であり、本を読んだ気がしないのです。しかし、多分これは私の読書の仕方が間違っているのだと思います。下線を付して印をつけるということは、その本のその部分だけを切り取って覚えるということであり、その本全体を捉えていないということです。そのような読み方は、著者に対して失礼であるかもしれません。かつての私にとっての読書は、仕事の必要に迫られてのことであり、仕事に必要と思われる知識に印をつけていたのですが、今ではそのような必要はないので、ゆっくり読書を楽しみたいと思います。























2018年3月24日土曜日

映画「コレラの時代の愛」を観て


2007年アメリカ・コロンビアで制作された映画で、コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928 - 2014)の小説が映画化されました。この作品は、ノーベル賞受賞(1982)後の作品(1985)です。
 ガルシア=マルケスは、人口2000人ほどの寒村アラカタカで生まれました。この村は彼の小説にしばしば登場する架空の都市マコンドのモデルだそうで、中南米の人でマコンドという名前を知らない人はいないそうです。コロンビアは、カリブ海と太平洋に面し、北米と南米の接点に位置するため、さまざまな人や文化が交流して複雑な社会を形成し、先住民文化も残っていました。そうした中で、ガルシア=マルケスは幼少のころ、退役軍人の祖父や噂好きの祖母から、戦争話や土地に伝わる神話や伝承を聞いて育ったそうで、それが彼の文学に重大な影響を与えたとされます。
 私事ですが、私の祖母は亀山の武士の娘として生まれ、御在所の没落地主の家に嫁ぎ、その夫(私の祖父)ともに東京に移りますが、関東大震災に遭遇して帰郷し、戦争中は名古屋の三菱工場のすぐ傍に住んでいましたが、空襲で焼きだされました。このころから祖母は緑内障を患い、私が知っている祖母はすでに全盲でした。祖母は私によく物語を話してくれ、近所の子も話を聞きたがってよく集まっていました。今から思うと、話の内容は講談ネタだったように思いますが、これが私の物語好きのルーツなのかもしれません。
話がそれましたが、ガルシア=マルケスのノーベル賞受賞の理由は、「現実的なものと幻

想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界を創り出したこと」だそうです。そしてガルシア=マルケス自身は、「多少の誇張はあっても南米の多難の歴史、生きるうえでのグロテスクな部分や猥雑さ、矛盾、葛藤をもとに書いていました」と述べています。ウイキペディアには次のように書かれています。「アフリカ系のものと先住民系のものが交錯する土俗的な辺境の村の物語は、洗練されたインターナショナルなところなど微塵もないまさに辺境の物語であるがゆえに、世界中のどこの人にとっても身近な物語として受け止めることが可能だった。ローカルな世界こそが、実はインターナショナルな世界だった、という覚醒をガルシア・マルケスは世界にもたらした」
 この映画の舞台となったコロンビアの歴史については、「映画でラテンアメリカの女性を観る そして、ひと粒のひかり」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/09/blog-post_28.html)を参照して下さい。そしてこの映画の時代のコロンビアは、政治闘争と内戦、そしてコレラの流行の時代でした。コロンビアに限らず中南米では絶えず政治闘争が展開され、それは上層地主階級の中での権力闘争でしたので、常に民衆は置き去りにされていました。コレラについては、「グローバル・ヒストリー 第14章 1415世紀-危機の時代 1.疫病と世界史」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/141415.html)と「「コレラの世界史」を読んで」
(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html)を参照して下さい。コレラは、1817年に第1次パンデミックが起き、そしてこの映画の時代の1880年代に第5次パンデミックが起きます。なんと19世紀の百年間に5回もパンデミックが起きたわけですから、19世紀はコレラの時代だったといえるかもしれません。そして、映画ではこのコレラが深く関係してきます。
 映画の舞台となったカルタヘナは、古くから港町として発展しました。16世紀以来、内陸のインカ帝国などから収奪された宝物がカルタヘナに集められ、そこからスペインに送られていました。したがってカルタヘナは国際色豊かな街に発展し、スペイン人、黒人、先住民が混在していました。映画でも、しばしば大型船が川を航行する場面が見られ、この映画の主人公たちも、最後にこの川を内陸深くまで遡っていきます。
 物語は多分1930年代初めころに始まります。81歳のウルビーノ博士が梯子から落ちて死亡し、葬儀が行われている最中に、傷心の妻フェルミーナのもとに昔の恋人である76歳のフロンティーノが現れ、「この日が来るのを、51年9カ月と4日待ちました」と告げました。当然、この無神経な言葉に彼女は激怒します。そして物語は50年前のカルタヘナへと戻ります。1879年、フロンティーノはカルタヘナの17歳の貧しい郵便局員でした。彼は、たまたま電報を届けた富裕な家の娘フェルミーナに一目ぼれし、何通もロマンティックな手紙を書き、「ロミオとジュリエット」のように密会を重ねます。しかしフェルミーナの父は、娘を名家に嫁がせることを望んでおり、娘をフロンティーノから引き離します。
 やがて彼女は、自分が「恋」そのものに恋をしていたこと、そしてフロンティーノは幻でしかなかったことに気づき、彼から去っていきます。そして彼女は、コレラの撲滅に大変大きな役割を果たし、国民的英雄となっていたウルビーノ博士と結婚します。一方、フロンティーノは、いつかフェルミーナと結ばれることを信じて、愛と貞潔を守ることを誓います。ところが、その後フロンティーノは何と622人の女性と関係を持ち、それをすべて日記に書き残していました。ほとんど病気です。しかし、多くの場合、彼が女性を漁るというより、女性が彼に寄って来るのです。最初の数回などは、むしろ彼が女性に犯されたというべきかもしれません。こんなに風采のあがらない、まるで濡れ雑巾のように存在感のない彼に、どうしてこんなに女性が寄ってくるのでしょうか。彼自身にもよく判らないのですが、多分彼の女性に対する優しさと、後腐れのない安心感ではないでしょうか。そしてなお、彼はフェルミーナへの愛と貞潔を守ると言い続けています。
 この間に彼は叔父の船会社を継ぎ、船会社の社長となって富と名声を築きます。そして、待ちに待ったフェルミーナの夫の死を知り、葬式の当日に彼はフェルミーナに会いにいったわけです。彼女は初めは激怒しますが、フロンティーノはかつてのように彼女に手紙を送り続け、彼との逢瀬を重ねるうちに、自分の結婚生活が女性として必ずしも幸せではなかったことに気づきます。こうして、彼女を見染てから537かカ月と11日目に二人はめでたく結ばれ、大型客船で川を遡って奥地へ旅立ちます。
 何という物語なのでしょうか。乙女心の残酷さ、結婚生活の日常、男女の関係、若さと老い、純情と欺瞞、要するに「生きるうえでのグロテスクな部分や猥雑さ、矛盾、葛藤」が描き出されています。

  私はこのブログで、中南米に関する書籍や映画を相当数紹介してきました。以下にそれを列挙します。
入試に出る現代史
「第7章 ラテン・アメリカ」
読書感想記
「世界歴史の旅 古代アメリカ文明 アステカ・マヤ・インカ」
インカを読む(1)
 「謎の帝国 インカ -その栄光と崩壊」 「アンデス高地都市 ラ・パスの肖像」
 「トゥパク・アマルの反乱-血塗られたインディオの記録」 「大帝国インカ」
 「敗者の想像力―インディオのみた新世界征服」 「インカの反乱-被征服者の声」
インカを読む(2)
 「図説 インカ帝国」 「インカ帝国の虚像と実像」
 「ペルーの天野博物館-古代アンデス文化案内」
メソアメリカを読む
 「古代メキシコ人 消された歴史を掘るーメキシコ古代史の再構成」
 「マヤ人の精神世界への旅」 
ラス・カサスを読む
「ラス・カサス伝-新世界征服の審問者」 「カール5世の前に立つラス・カサス」
「マチューカ―未知の戦士との戦い」
カリブ海を読む
 「カリブ海世界」 「カリブ海の海賊たち」 「ブラック・ジャコバン」
「収奪された大地 ラテンアメリカの500年」を読む
「亡命の文化―メキシコに避難場所を求めた人々」
「パナマ地峡秘史」を読む
映画鑑賞記
映画で古代アメリカを観る
 「太陽の帝王」 「アポカリプト」 「アギーレ/神の怒り」
映画でラテンアメリカの女性を観る
 「命を燃やして」(メキシコ)  「エビータ」(アルゼンチン)
 「そして、ひと粒のひかり」(コロンビア)
映画「革命児サパタ」を観て
映画でカストロを観て
 「コマンダンテ」 「フィデル・カストロ キューバ革命」 
映画でゲバラを観て
 「モーターサイクル・ダイアリーズ」 「革命戦士ゲバラ」
 「チェ 28歳の革命」 「チェ 39 別れの手紙」
映画「ミッション」を観て(パラグアイ)
映画「サン・ルイ・レイの橋」を観て(ペルー)
映画「ジャスティス 闇の迷宮」を観て(アルゼンチン)
映画「ノー」を観て(チリ)
映画「ミッシング」を観て(チリ)


2018年3月21日水曜日

「客家パワー」を読んで


松本一男著 1995年 サイマル出版会
 客家については、過去に何冊かの本を読みました。中国の長い歴史の中で、華北が混乱すると、人々は安全を求めて南に移動します。中国の歴史上5回、大規模に南部に移動しているとのことです。彼らは南部ではよそ者なので、南部の社会に溶け込めず、孤立した聚落を形成してきました。彼らは周囲から孤立して暮らしていたため、彼らが華北で使用していた言語や風俗が残っていることが多く、これは民俗学的に大変興味深いケースです。また、華北では北方から侵入した異民族との混血が繰り返されますが、客家は彼らが華北を離れた時代の種族の特徴を残していることが多く、大変興味深い研究対象となっています。
 ただ、客家は民俗学的な研究対象というだけでなく、現実に活躍している人々でもあります。近代史において活躍した客家は、太平天国の乱を率いた洪秀全、孫文・蒋介石などに嫁いだ宋家の三姉妹、鄧小平、シンガポールを近代国家に仕立てたリー・クアンユー(李光耀)、台湾の総統李登輝など、枚挙にいとまがありません。本書は、客家の民俗学的探究より、中国国内や世界に散って活躍した客家を描いています。一般に華僑と呼ばれている人々の多くは客家だそうです。彼らは、華北を追われて南部に移住し、さらにそこを追われて東南アジアや台湾に移住し、それらの地域に大きな足跡を残しました。
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2018年3月17日土曜日

映画「バトルフィールド」を観て

2015年にイギリスで制作された映画で、11世紀イギリスにおけるノルマンコンクェストを題材としています。

イングランドでは、9世紀以来サクソン人によるイングランド王国が存在していましたが、繰り返しノルマン人に侵入されており、11世紀には一時デンマークの支配を受け、独立して間もなく、ノルマンディー公に征服されます。話が少し遡りますが、10世紀にノルマン人が北フランスに侵入したため、西フランク王国が形式上彼らを国王の家臣とし、この土地を封土として与え、その結果ノルマンディー公国が成立しました。そしてノルマンディー公のウィリアム(フランスではギヨーム)が、イングランドの王位継承権を要求したのです。これは、もはやヴァイキングの侵略といったものではなく、王位継承を巡る諸侯間の争いです。

 1066年にウィリアムはヘイスティングズの戦いで、激戦の末イングランド軍を破り、ロンドンを制圧し、さらに北上します。その過程でサクソン人領主を追放し、フランスから連れてきた小貴族たちに領地を与えたため、領主層が大幅に入れ替わります。ただし入れ替わったのは領主のみであって、農民が入れ替わったわけではありませんが、フランス人領主の圧政に対して、各地で反乱が起きます。この映画は、そうした反乱の一つを描いていますが、史実とは関りがないようです。邦題の「バトルフィールド」というのはヘイスティングズの戦いのことですが、この映画の時代はこの戦いの後です。この映画の原題は「復讐の剣」です。
 映画の主人公はシャドウ・ウォーカーという気取った名前で、もしかすると日本の忍者をイメージしているのかもしれません。彼はノルマンディーの貴族で、父を叔父に殺され、その復讐に燃えていました。その叔父というのがデュラント伯爵で、サクソン人を征服し、圧政を行っている人物で、民衆の怨嗟の的となっていました。そこでシャドウ・ウォーカーはサクソン人と結んでデュラントを倒すという話ですが、もったいぶった映像の割には内容のない映画でした。ここで仮にデュラント一人を殺しても、結局はサクソン人貴族は滅びるし、以後イングランドはノルマン朝・プランタジネット朝を通じて300年以上フランス貴族を王に戴くことになります。

 この映画は、最低の映画を選んで表彰するラジー賞が授与されたそうです。もちろんラジー賞自体がユーモアであり、本当につまらないB級映画はいくらでもありますが、この映画の場合、前評判の割に期待外れだったことによる受賞だったような気がします。

2018年3月14日水曜日

「道化のような歴史家の肖像」を読んで

池内紀著 1988年、みすず書房
 本書は、世紀末のウィーンに生きたユダヤ人の好事家(ディレッタント) エゴン・フリーデルの一生を、叙情的に描います。
 19世紀のオーストリア帝国は、他の多くの国で国民国家が形成されつつある時代に、多民族国家を形成し、首都ウィーンには多様な民族が集まってコスモポリタンな雰囲気を形成していました。そしてこのウィーンで、歴史上稀に見るほどユダヤ人が活躍し、文化のさまざまな分野で活躍しました。本書の主人公が活躍したウィーンの世紀末とは、こうした時代です。ウィーンの世紀末とは、広い意味で19世紀末から、ドイツによってオーストリアが併合される1938年までを指すのだそうです。なお、1907年に18歳のヒトラーは、美術を学ぶためにウィーンに移住し、挫折し、やがて反ユダヤ主義を学ぶことになります。
エゴン・フリーデルは、1878年に富裕なユダヤ人商人の子として、ウィーンで生まれます。彼は少年時代からトラブル・メーカーだったようで、ギムナジウムを卒業するのも大変だったようで、著者は彼を「永遠の落第生」と呼んでいます。大学に入るころには、彼は商人だった父から莫大な遺産を受け継いだため、一生働く必要はありませんでした。彼はウィーンを徘徊し、興味の赴くがまゝに、あらゆるものに手を出します。かれは批評家・哲学者で俳優、作家、随筆家、歴史家、ジャーナリスト、劇作家、劇評家、また編集者・朗読家・文学キャバレーの経営者でもありました。「要するにフリーデルは、言葉に関わるところのほぼ全域を一人でもってやってのけたのである。」
1920年代に彼の代表作「近代文化史」全3巻が執筆されます。私自身はこれを読んでいませんので、筆者の文章を引用します。「彼は、繰り返し繰り返し、自由の確保に努めている。歴史的素材に、絶えず精神の型を見ることの自由。人間における自己表現の試みとして読み、時代にとっての自己実現の欲求として還元することの自由。ところでこの自由な歴史家は、いかなる新しい成果を付け加えたわけでもない。既成の歴史的事実のなかに、新しいシーンと新しいモチーフを持ち込んだだけである。だがそれによって、ものの見事に近代史が一変した。閉じられていた史実の門が、軽くきしみながら再び開いたぐあいである。よく知られた人物たちが未知の顔をのぞかせ、おなじみの事実が驚くべき関連性を示しはじめた。」

 本書は、絶えず横道にそれ、エピソードを語り、そうすることでエゴン・フリーデルが生きた世紀末のウィーンを描き出しています。なお、ドイツがオーストリアを併合した1938年に、エゴン・フリーデルはビルの窓から飛び降りて自殺しました。


2018年3月10日土曜日

映画「ラスト・キング」を観て


2016年にノルウェーで制作された映画で、13世紀における史実に基づいているそうです。ノルウェーのフィヨルド地域は緯度が高い割に、暖流の影響で不凍港が多く、それを拠点に、かつてノルウェー人はヴァイキングとしてヨーロッパで恐れられましたが、しかし、このころになると、安定した農耕に転じる人々が多くなりました。しかし国土のほとんどが山岳地帯で、平地がほとんどなく、冬は雪に覆われているため、移動手段はスキーやソリが多く用いられますが、それがこの映画の見せ場の一つとなります。
 当時のノルウェーは、王位継承を争う、国王と貴族との争いなどが続いていましたが、12世紀末のスヴェレ王の時代に王権が強化されました。そして1202年に息子のホーコン3世が王位を継ぎますが、1204年に暗殺され、ギスレ伯爵という貴族が実権を握ります。ところが、この年ホーコン3世が他所で愛した女性インガが彼の男子を産みます。彼こそが国王の正統な後継者であり、王権の安定を望む人々が王子を王宮に連れて行こうとし、伯爵たちがこれを阻もうとする、という物語です。
 一応史実に基づいた話だそうですが、物語としてはどこにでもあるような話です。この映画の見せ場はスキーにあると思います。何しろ赤ちゃんをおんぶし、スキーに乗ったまま弓を射、刀を振り回し、クロスカントリーあり、ジャンプあり、回転あり、滑降ありですから、ノルディック複合とアルペン複合を同時にやっているようなもので、映画のかなりの部分がこうした場面でした。多くの危機を克服した後、結局、王子は宮廷に届けられ、ハッピー・エンドとなります。かつて海に生きたヴァイキングが、いつのまにかスキーヤーになっていました。いずれにしても、スキーを用いた戦闘場面など、初めて観ました。
 王子はまだ生まれたばかりですので、当面は側近が摂政として統治し、1217年に王子が13歳になったとき、ホーコン4世として国王に即位します。半世紀近くに及ぶホーコン4世の時代はノルウェーの全盛期で、社会も安定しますが、彼の死後しだいに衰退に向かい、14世紀末にデンマークに併合されて以降、20世紀になるまで独立国家となることはありませんでした。ホーコン4世は最後の君主ではありませんでしたが、繁栄したノルウェーの最後の君主だった、ということなのでしょう。タイトルの「The Last King」というのは英語版のタイトルで、原題は「ビルケバイネル」で、王に仕える戦士のことです。この映画の主人公は王ではなく、ビルケバイネルで、やがて彼らはホーコン4世の下で騎士となっていきます。
 北欧に関する映画は非常に少ないのですが、それでも、これまでに8本の映画を観ています。特に、「エスケープ 暗黒の狩人と逃亡者」は、ホーコン4世後の混乱したノルウェーを描いています。
映画で西欧中世を観て(1)  「ベオウルフ」 「バイキング」
映画で西欧中世を観て(4)  「アーン 鋼の騎士団」 スウェーデンのテンプル騎士団
映画で西欧中世を観て(7)  「エスケープ 暗黒の狩人と逃亡者」 14世紀ノルウェー
映画「ロイヤル・アフェア」を観て 近世デンマーク
映画で三人の女王を観る 「クリスチナ女王」近世スウェーデン
映画「ファイヤーハート 怒れる戦士」を観て リトアニア
映画「四月の涙」を観て フィンランド




2018年3月7日水曜日

「引き裂かれたアイデンティティ」を読んで


G・オオイシ著、1989年、染谷清一郎訳、岩波書(1989)
 本書は、第二次世界大戦中の強制収容の時代を挟んで、日系2世として生きた一人のジャーナリストの半生の回顧録です。
 194112月に日本軍によって真珠湾が攻撃されると、翌1942年に大統領F.ローズヴェルトは、日系移民の反米活動を憂慮して、日系人の収容所への強制的な収監を決定しました。その結果、11万人を超える日系人が、1946年まで強制収容所で暮らすことになります。この政策は明らかに人種差別でした。同じアメリカの敵国であるイタリアやドイツの移民は、強制移住されなかったのです。多くの日本人が財産を捨てることを強いられ、手荷物一つで強制収容所に向かう姿は、同じころのドイツでのユダヤ人の姿と大差ないでしょう。
 著者は、1903年に父がアメリカに移住し、1933年にカリフォルニアで8人兄弟の末っ子として生まれました。そして19428歳の時強制収容所に送られました。そこでは粗末な小屋を与えられ、苦しい生活を強いられますが、問題はそのことではなく、この間に受けた心の傷でした。「まさしくぼくは、砂漠の中で、生きながら食い荒らされたのだった。蟻にではなく、猜疑心というやつに。ぼくは自分に疑問をもち、アメリカ人であることに疑問をもった。自分や両親、ひいては日系人一般には、何かしら悪いところがあるのではないか、という考えにさいなまれた。」それはまさに、引き裂かれたアイデンティティでした。
 その後筆者はアメリカ人女性と結婚し、ジャーナリストとしても一定の成功をおさめますが、心の傷はなかなか癒えませんでした。ほとんどの日系人は、戦争が終わった後も、強制収容という言葉を嫌い、「疎開」という言葉を使ったようです。そうした中で、筆者は自分のアイデンティティを取り戻すためにも、本書を著したとのことです。「日系人強制収容」についてほとんど何も知らなかった私にとっても、本書は興味深い内容でした。

2018年3月3日土曜日

映画「アルゴ」を観て


2012年にアメリカで制作された映画で、1979年にイランで起こったアメリカ大使館員人質事件を題材としています。内容は、基本的には事実に基づいているとのことです。
イランは古い歴史のある国で、イランの歴史については「映画でイスラーム世界を観る 「ハーフェズ  ペルシャの詩」」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post_8.html)を参照して下さい。
 19世紀を通して、イランはイギリスとロシアの草刈り場となり、20世紀に入ると両国によって分割されます。第一次世界大戦後、軍のクーデタによりパフレヴィー朝(イラン立憲君主国)が創建されます。第二次世界大戦中、パフレヴィー朝は親ナチス政策をとったため、一時ソ連軍とイギリス軍に占領されます。1950年代にモサッデク首相がイギリス系アングロ・イラニアン石油会社によって独占されていた石油の国有化を図りましたが、イギリスとアメリカ、及び両国と結んだ皇帝パフラヴィーによって1953年に失脚させられます。この事件にはアメリカのCIAが深く関わっており、これによってイラン民衆のアメリカへの強い不信感が醸成されることになります。
以後パフラヴィー朝の皇帝(シャー)は、CIAFBIの協力を得て独裁体制を樹立し、女性のヴェール着用廃止、土地改革、産業の育成など上からの近代化政策を推進しますが、こうした政策は貧富の差を拡大させるとともに、民衆との繋がりの強いシーア派の宗教指導者たちの反発を招きました。1978年になると、各地で反政府デモが頻発し、軍隊と衝突するなど混乱が頂点に達します。そうした中で、19791月に皇帝は亡命し、2月にフランスに亡命していたシーア派の最高指導者ホメイニが帰国すると、彼の指導のもとでイスラーム教の原理に基づくイラン・イスラーム共和国が建国されます。この年、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、さらにイラン・イラク戦争が勃発しますので、中東は極めて不安定となります。
革命後のイランでは、イスラーム法に基づく国造りが進められます。それは、イスラーム教徒以外は二級市民となり、女性はスカーフの着用が強制されるなど、極めて宗教色の強いものでした。欧米の人々は、このような宗教国家が長続きするはずがないと考えていましたが、この国家は今も続いています。一方、パフレヴィー朝はアメリカの支援によって成り立っていた権力であり、したがってイスラーム法学者や民衆はアメリカに対して強い憎しみを抱いていました。特に皇帝がアメリカに亡命すると、イランはアメリカに国王の引き渡しを要求しましたが、当時皇帝は末期癌を患っており、アメリカには引き渡すことができませんでした。こうした中で、アメリカ大使館員人質事件が起きます。
映画は、ここから始まります。19791022日、イスラーム法学校の学生たちがアメリカ大使館前でデモを行い、しだいに人数が増えて、114日大使館内に侵入しました。彼らの行動はイスラーム原理主義者の団体によって先導されていたようで、政府も警察も彼らの行動を黙認しました。彼らは、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質とし、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求します。こうして人質は1981年1月20日に解放されるまで、444日間幽閉されることになります。そしてこの映画のテーマは、アメリカ大使館内に幽閉された人質ではなく、直前に脱出した6人の大使館員の問題です。
 彼らはカナダ大使館に逃げ込み、大使公邸にかくまわれたのですが、これは大変厄介な問題です。もしこのことがイラン政府に発覚すれば、イラン在住のカナダ人を危険に晒すことになります。そこでアメリカのCIAは、カナダ政府と協力して6人のアメリカ人外交官の救出作戦を実行します。その作戦の内容は、かつてテレビドラマで評判となった「スパイ大作戦」のようでした。まず偽装した映画会社が、ギリシア神話に由来する「アルゴ」という映画のロケハンのため、スタッフをイランに派遣するという設定を偽装します。そしてイランに入国し、6人にカナダ政府発行のパスポートを渡して、飛行場から堂々と脱出するというものです。その過程は大変スリリングで、とても実話とは思えないほどでした。
 結局、6人は1980127日に脱出に成功します。脱出した人々の安全を配慮して、この脱出にCIAが関与していたことは、1997年まで公表されませんでした。これだけ見れば、6人の脱出のために奮闘したCIA要員の英雄的活動の物語です。しかしCIAは、同じ様な手法で、外国の政府を転覆させたり、要人を殺害したり、社会混乱を誘発させたりしているのですから、素直に英雄的活躍として観ることはできませんでした。実際、CIAの要員にとっても、このアルゴ作戦は、外国の要人殺害などと同じような作戦の一つにすぎなかったでしょう。CIAについては「映画でアメリカを観る(7) グッドシェパード」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/02/7.html)を参照して下さい。
 なお、イランはイスラーム法に則って女性差別的な政策を実施していますが、決して女性を蔑視しているわけではなく、革命後女性だけの革命防衛隊を組織して革命への女性参加を促し、さらに女性教育にも積極的です。イランでは年1回行われる大学統一試験の合格者は男子より女子が上回っており、医学部の学生は女子が7割を占めるとのことです。