2018年3月28日水曜日

読書について

 私は、「世界史」という極めて幅広い分野を学び教えてきましたので、それに対応するために、長年に亘って多岐にわたる多くの本を買ってきました。今日はネット社会であり、知らないことがあれば、何でも簡単にネットで調べることができます。しかしこうした社会が成立したのは比較的最近で、私から見れば、ほとんど現役の終わりに近い時代であり、現役時代の大半でこの恩恵に浴することはありませんでした。
 入試問題では、出題者の個人的な好みで、非常に特殊な内容が出題されることがあります。調べる方法はまず百科事典、それでわからなければ自分の本箱の本、さらには図書館に調べに行くことになります。こうした苦労は、知的な訓練にも役立ちます。この件についてどこかで読んだ記憶がある場合、本箱中をひっくり返して探し回りますが、記憶庫と書庫を探し回っている過程で、この件がどのよう脈絡で書かれていたかを考えますので、結果的に知識を系統的に整理することになります。こうしたことを繰り返している内に、必要と思われる本を買いあさり、結果的に本がどんどん増えていきます。
 こうした苦労の経験なしに、簡単にネットで検索できる時代に育った人々は、知的訓練が不足するのかといえば、決してそんなことはないと思います。本をひっくり返して探し出す苦労を省略できなら、その労力を他につぎ込めば良いわけです。現在では、私自身もブログを書くにあたって、事実確認のために頻繁にウイキペディアで調べています。それなしに、これ程多岐にわたる内容の記事を一定の間隔で書き続けることは不可能であり、ネット検索は十分に役立っているといえます。
 私は購入した本を、コンスタントに読んできてはいましたが、読めたのは購入した本の一部でしかなく、いつかこれらを全部読みたいと思っていました。仕事をリタイアした後、読みまくり、読み流しただけの本も多数ありますが、一応すべての本に目を通し、その一部をこのブログの「読書感想記」にも掲載しました。私の読書は、書棚にある本を全部読まねばならないとう脅迫観念にとらわれたものでした。そして、すべてを読み終わった後、ほとんどすべての本を古本屋に売却し、実にすっきりした気分になっています。書籍に呪縛されてきた半生から解き放たれた気分です。
 ところで私が大量の本を買い続けたのは、1995年ころまでです。1995年とは、WINDOWS95が発売された年であり、世界がICM基準のパソコンの時代に入ったわけです。この時私もパソコンを購入し、以後20年、パソコンにのめり込み、お金もつぎ込み、その結果本を買うお金も、それを読む時間もなくなってしまいました。当時知り合いの古本屋の主人が最近は若者は携帯に、大人はパソコンにお金を使うため、本を買わなくなってしまった、と嘆いていました。まさに、私もその一人でした。
 本を処分した結果、手元に読む本がなくなってしまいました。長年の習性で、手元に本がないと不安に陥ります。そこで市民図書館に行ってみました。こんな所にたいした本はないだろうと思っていたのですが、意外にも観たことのない本が沢山ありました。考えてみれば、20年近くあまり本を買っていませんでしたので、この間に出版された本について、あまり知識がなく、小さな図書館で見たこともない本に沢山出会い、感動しました。とりあえず、「ウィツゲンシュタイン家の人びと」と「マヤ文明」借りましたが、どちらも500ページ前後の本なので、2週間で読むのは無理かもしれません。

 図書館で本を借りるようになって、困ったことが起きました。私は本を読む過程で、やたらに線を引く癖がありますが、図書館の本には線を引けません。線を引かないと、自分が関心を持った部分がどこに書いてあったか、分からなくなってしまいます。もっとも、どうせ図書館に返す本ですから、分からなくなっても構わないのですが、それでも線を引かないと不安であり、本を読んだ気がしないのです。しかし、多分これは私の読書の仕方が間違っているのだと思います。下線を付して印をつけるということは、その本のその部分だけを切り取って覚えるということであり、その本全体を捉えていないということです。そのような読み方は、著者に対して失礼であるかもしれません。かつての私にとっての読書は、仕事の必要に迫られてのことであり、仕事に必要と思われる知識に印をつけていたのですが、今ではそのような必要はないので、ゆっくり読書を楽しみたいと思います。























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