2018年10月6日土曜日

小説(12-3) ラビリンスドール(3)(麻実)


 失いながら生きてきた。信頼と微笑と正義を。誰とも同じような横顔で、虚飾の色を宿して、見破られていないか、とひやりとする度に心臓が縮んで行くさまが、はっきりとわかる。救いようのない小心者。手に入れた輝きは月光よりも高く輝いているのに、己の色彩の手入ればかりで、すぐさま光を見失ってしまう。
 こんなことばかり繰り返してきた気がするし、これからも、きっとそうだ。
 だから。
 何を食べても、味がしない。あきらが美味しい? と聞くから、不味くもないから、美味しいと答える。ねえ、教えて欲しい。美味しいって何? 綺麗ってどういう意昧? 楽しいって何? 俺には全然分からないんだ。嘘でもない嘘をつく度、あきらの憐れむような空気に、翔は息が上手くできなくなる。
 頻繁に、家から抜け出していることに、あきらは気が付いているはずなのに、どうして何も言わないんだろう。責められたいわけじゃない。許して欲しいわけじゃない。この家はあきらのものだ。俺の事なんてどうとでもできる。いっそ、見捨ててくれたらいいのに。俺を愛してる、とか。まさか。そんな姉のままごとの延長のようなものを本当の恋愛だと言うのなら、本当に、くだらないし、つまらない。いや、くだらなくつまらなく賤しいのは、この俺か。翔は長い溜息を暗室の中で吐いた。
唯一の砦たった、はずの場所で。
 幽かに物音がした。あきらが帰ってきたのだと思って、わざと音を立てて玄関を目指す。
 だが、黙ったままのドア。続いてインターフォンを鳴らした音が聞こえた。鍵をなくしたのかな、と思って勢いよく開けた先にいたのは、驚いた顔をした、知らない女の子たった。
 どっかの某アイドルのような風貌の女の子。年齢は分からないが、俺より年下か、同じくらいに見えた。
 そんなことよりも、見上げた空には祝福の一切を引き受けたようなひどい秋晴れで、彗星の如く飛行機雲が鮮明に映っていた。
 こんな日はまごつく。翔は居心地の悪さを募らせていた。正気でいるのに耐えられなくて、前後左右から迫ってくる「正しさ」から逃げ出したくて、呼吸のできる場所を求めて水面を惨めに這い上がる金魚のように、ひたすら惰眠を貪りたい気持ちになる。現とも幻ともつかない場所で、混沌の淡いに浸る。自分が誰でどこにいるのか分からない。これ以
上の幸福を味わったことがない。
 所詮、演者は舞台がなければ、舞台裏でひっそりと死体のように息をするだけなのだから。
 だが、今は予期せぬ来客だ。軽薄な社交家を演じればいい。
 「えっと、どちらさまですか」
 すると、精巧な人形のような少女は、手にもっていた物を翔に受け渡した。見たところ、どこという特徴のない、ローカル新聞で、色とりどり、多種多様な広告が納められているが、それが翔にとって特別な関心をひかなかった。これ、もしかして、チラシ配りのバイトの子かな。
 「ありがとう、届けてくれて」
 これ以上ない薄い笑顔に、脱力してくる。と思っていた頃、少女は舌足らずな声でようよう言葉を発した。
 「あの、春子さんの広告、あきらさんがとても見たがっていたので、持ってきました。突然、お邪魔してすみせんでした」
 慣れてない丁寧な言葉づかいで少女はぺこりと頭を下げた。
 翔は、ローカル新聞をもう一度眺めた。なんだ。あきらの知り合いか、あきらは顔が広いから色んなタイプの人と知り合ってるんだろうな。
 「ごめんね。あきらは今、休日出勤で、もうすぐ帰ってくると思うけど、どうしよう? よかったらあがってお茶でも飲んで待ちます?」
 いえ、ご遠慮なく、という返事をなんとなく期待していたが、彼女はこくりと小さく頷いて玄関へと入ってきた。それには少々、驚いたが、よく考えれはあきらの友人だ。下手すれば俺のほうが、最終的に、部外者な空気になるかもしれないのだし、まあ、普通か。
 少女は、猫のようなしなやかなしぐさで音も立てずに翔のあとを付いてきた。
 インテリアに無頓着なあきらの無彩色に気持ちばかり彩りを添えただけの味気ない居間に少女を通した。あまりにも少女には不釣合いなのに、なぜか不思議な感覚を覚える。
 「飲み物、れますね。何か飲みたいものあります?」
 「紅茶」
 この言葉をきいて、一瞬、凍り付いた。あきらは大の珈琲好きで、最新のコーヒーメーカーを値段にかわまず購入し、度々、珈琲専門店で、ブレンドを飲み、豆を買って帰り、気が向けば、豆を炒ったりして、一から複雑な行程をへてドリップコーヒーなるものを作って飲ませてくれてた。味の良し悪しは、翔には分からないので、お金も手間もかかっているのだから、美味しいと答えるのが善いことだと思っている。それに、珈琲は嫌いじゃないけど、好きでもない。でもあの独特の香り、胸を追い上げる珈排色をしためまいをつれてくる香りは好きじゃないけれど、いっそ全てにもやがかかって楽になれる。時々、トイレで戻してしまうこともあるけれど、胸につかえていた珈琲以外のものも一緒に捨てられてる気がするから、ほんの一瞬だけ、心が安らぐ。紅茶はどうなんだろう。姉たちは頻繁に飲んでたような気もするし、そうでもなかったような。
 そんなことを思いながら、キッチンの引き出し、収納缶、さんざんびっくり返して探して見つけ出しだのが、どこにでも置いてある、インスタントの紅茶。
 あの子に似合うものは見つからなかった。少しだけ不甲斐ない気持ちになり、本当に、あきらはあの子とどんな友人なのだろうか、と想像を巡らせた。
 「インスタントでごめんね」
申し訳なさそうにお菓子とスティックシュガーを2本添えた。
少女は、ありがとう、と柔らかく答えた。
そうして、ゆっくりと、味わうようにI口飲んでから、
「ここは清潔な匂いがするお家ですね」
「?」
 少女の台詞がよく分からなくて、うっかり彼女をじっくり見てしまった。色んな人に愛されて、純粋培養された女の子という印象。黒目勝ちな澄んだ瞳。ファッション雑誌から飛んで出てきたような可愛らしい女の子。
仕事柄、彼女のような服装をしている人をたくさん、見かけるけれど、目の前にいる少女は、何か不思議な空気を醸し出していた。
血色のいい赤い唇がカップに触れる吐息が聞こえる。カップを落とすときのしぐさ、指先の繊細さ、腰まである長い黒髪は、さらさらに絹糸のようでゆれるたびに光を反射して、綺麗なオーロラを作る。彼女は、あきらが手配したこの居間の殺風景さまでも、まるで自价のために用意された装置かのように、自分の一部に取り込み、魅せてみた。不自然な  ところがどこにも見当たらない、創りこまれたような少女に惚れ惚れした。ふと彼女の双眼が見つめ返してきて、戸惑った。
「えっと、ごめんなさい」
 今の自分の気持ちをなんと説明すればいいのかわからなくて、反射的に謝ってしまう。しかし、少女の瞳は、赤黒い部屋を見つめていた。
 もともと、あきらのドレスルームにしていたものだが、翔のために必要のないものは実家に送り返したり、知人に譲ったりして、この一室を貸してくれた。あきらは断捨離できてすっきりした! と言っていたけれど、ずいぷんと思い切ったことをさせちやったな。使わなくては申し訳なくて、翔は仕事を家に持ち帰ることがある時以外でも、何をするでもこの部屋でぼんやりして、カメラマンの写真集を眺めるのが好きだった。
 まるで暗い部屋で毛布をかぶり、さらに闇を集め、そこに自分の色を際限なく限界まで、でも端正に、発光させているような部屋。
 カメラ機材はそこそこ充実してる。そうは言っても、良質なものを上げたらキリがない。翔にとってしっくりくる機材が手に入れば十分な城になる。
 「ここは、いわゆる暗室。写真を加工したり、現像したり、うん、僕の仕事場」
 心の中でつっかえるように、翔は説明した。
 少女は、翔の瞳が美しいほど光る哀しみの揺らめきを、見逃さなかった。少女は部屋へ少し頭を覗かせて言った。
 「見ていってもいい?」 
 「散らかってるけど、全然いいよ」
 ファッション雑誌の仕事といえば、聞こえはいいが、その過程にあるほとんどのものは、煌めいてなんてない。実際に、こうやって雑誌というものが出来上がっていく過程を見られると、後ろ暗いような心もとない気持ちになる。パソコンディスプレイにはたくさんのモデル達。実際に、掲載されるのは、ほんの数枚。それにだって膨大な人数と時間をかけているのに、そのほとんどは削除することになるだろうし、その残った数枚だって、次号が発売される頃には忘れさられる。
 「あんまり楽しい場所じゃないでしょ。ごめんね」
 翔は情けない気分で少女をこの部屋から促そうとしたが、少女は何故か、色素の濃い色で、肌を暗く照らしながら、一枚の写真に見入っていた。
 「これ、もらっていってもいい」
 そう言って、少女が手にしていたのは、いつだったかあの日に撮った夕焼けの一枚だった。
 「ああ、全然、かまわないよ。そんなのでいいの」
 少女はこくりと頷き、レースのカバンに閉まった。
 夕焼けの写真。そういえば、撮ったな。忘れてた。だって事務所に入ってからはほとんどモデルの撮影ばっかりだったし、風景画なんてどれくらいぶりだろう。適当に押さえてみただけの写真だし、別にいいんだけど、翔はもともと風景を撮ることが好きたったのだ。
 小学生くらいのころ、某大手サイトで実況動画と称して、作品をたくさん紹介していた。姉のおさがりのデジカメは安く、バッテリーだって短かっかし、画質もよくなかった。それでも自分の見たい景色を何枚も工夫してスライドショーにしたり丁寧にたくさん撮り続けた。専門書を買って少しずつ、時には失敗しながら技術を覚えて、自分なりに作った写頁は、ささやかだけれど、特別な作品だったし、ありかたいことに動向再生数は徐々に増え、大学に入ってからは課題や人間関係やバイトに忙しくて、ツイッターで作品をマメにアップするようになった。これも嬉しく、フォロワー数は四〇〇人を、超えた。翔が何気ない風景に、何気ないコメントを添えくれる。芸能人のような華やかなもてなしはないけれど、ひとりひとりの関心がとても有難かった。
 ファッション雑誌の仕事をあきらの伝手で紹介してもらった時、人物をほとんど撮ったことのなかった翔は、場違いな感じがしたし、今まで、自分なりに独学で培ってきた技術に対するプライドみたいなものもあって反発心も抱いたけれど、プロの現揚、圧倒するような空気や、姿勢、先輩とのつながり、見たこともないテクニックや感性は、学ぶことが多く、刺激になり、とてもワクワクしていた。
 それなのに、いつのまにか、慣れることに慣れきって、子供のころのように、自分の作品を無謀にも全世界に発信する気持ちは、臆してしまつている。自分の見たい景色を撮ったのだって、あの少女にあげた夕焼けくらいか。ほんとうにどれくらいぶりだろう。

 居間に辿り着いたあきらは硬直していた。何故だかさっぱり分からないが、私の家に、翔とりさがお茶をのみながら、お菓子を食べながら、一緒にいる。
 まって、まって。整理ができない。どういうことなんだ。私はどういうリアクションをとればいい? 恋人と、たいして親しくもなんともないりさが一緒、私はこの状況をどんな顔で受け止めたらいいのだろうか。
「あきら、おかえりなさい」
 ふいに翔の、のんびりした声が聞こえた。
「だ、ただいま」
 とは言ってみたものの、続きが出てこない。とりあえず、りさ、あなたは何故ここにいるの?
 あきらは無意識に、お姫様のような風体のりさを射るように睨んだ。
 「あなた、どうしてここにいるの?」
 ようやく出せた低い、精一杯の冷静な声。
 りさが答えようと、小さな囗をあけた、そのとき続きを翔が引き受けた。
 「ローカル新聞を持ってきてくれたんだよ。えーと、何さんだっけ」
 「春子さん」
 「そうそう、春子さんに頼まれて、あきらが欲しがってたんでしょ、わざわざ届けてくれたんだよ」
 聞いているうちに頭の中が熱くなってきた。確かに、私は、春子さんのお店が載ってる記事を見せて欲しいとい言ったが、それは、出来ればという意味だし、そんな事は春子さんだって分かってる、それよりも何故、りさを介して渡すのか。春子さんからのりさの信頼は熱いと言うことか。それともりさの独断か。
 だいいち、新聞を渡すだけなら、家に上がる必要なんて、どこにもないじやない。だって私とあなたは友達でもなんでもないんだから。ずうずうしく人の家に上がり込んで、あげく、人の恋人とまったり団らんできる神経が分からない。
 あきらは手のひらで拳をつくるように握る。やっぱりこの女。
 「りさ、春子さんには受け取ったって連絡入れておくから」
 もう、帰っていいよ、というふうに玄関に手招きした。そんなに強くしたつもりはなかったのだけれど、思いのほか苛立ちを孕んだ大きな声で言ってしまっていたみたいだ。
 りさは翔にふわりと笑ったあと、なんの文句も言わず、玄関から出ていった。翔は心もとなさげな表情をしている。
 あきらの怒りは収まっていなというか、混乱している。一息つきたい。
 あきらはコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
 「帰しちゃっていいの? 友達なんじゃないの、あきらのことずっと待ってたのに」
  友達なんかじゃない、とは、まさか言えず、口を濁した。それでも何か言わずにはいられなかった。
 「翔も、翔よね。誰かも分からない相手を勝手に、招き入れるなんてうっかりしすぎよ!」
 「ごめんなさい」
  こんなことが言いたいんじゃない。翔を責めたいわけじゃない。
  翔は、どうして怒鳴られてるのか理解できなくて俯いている。
  胸がズキリと傷んだ。でも。
  りさとはもう会わないで欲しい。本心だが、翔にはきっと私がりさに嫉妬して、不安に思ってるだろうなと感じて、いつもみたいに優しく慰めてくれるだけだ。でも、嫉妬も不安もそれも間違いじゃない。度重なる、家出。翔の頑ななまでの心の壁。それを受け入れているつもりでいたけれど、本当は受け入れていく度に、不安も肥大していく。どうして、私に、もっと頼ってくれないの? どうして、私を信頼してると思わせてくれないの? そんなに私じゃ安心できないの。泣きたい気持ちをぐっと抑さえて熱い珈琲を流し込む。
 居間にあった紅茶やお菓子の類は乱雑に、所定の位置に戻した。
 なんだこれは。ままごとか。
 りさのことをお人形さんみたい、と言ったのは賞賛の言葉なんかじゃない。りさは怖い。意味が分からない。機械と言っても足りない。幽霊と言っても足りない。何の匂いもしない、漂う、名付けようのない何か。
 あきらは珈琲を継ぎ足し、翔の分も淹れた。
 「さっきは大きな声を出してごめんなさい、悪かったわ」
 「ううん。僕も軽率だったし、仕事で疲れてるのに、嫌な気分にさせちゃってごめんね」
翔の優しさに、癒される。やっぱり翔のことが大好きだ。
りさであろうと、他の女であろうと、かまわなければいいんだ。だって、翔を一番に理解しようとして、愛しているのは私だから。翔への愛情なら誰にも負けない。どんなことが起こっても、翔への愛情を貫いてみせる。翔を、守って見せる。









(この写真と文章とは、関係ありません。)








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