2015年1月1日木曜日

映画で仏教を観る

はじめに 

私には仏教の教えについて語る資格はありません。今までに、仏教やヒンドゥー教に関する多くの本を読みましたが、結局よく分かりませんでした。ただ、その中でも多少印象に残っているのは、ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」(1922年、岡田朝雄訳)と手塚治虫の「ブッダ」です。
 「シッダールタ」は、釈迦のシッダールタという名前を借りて、求道者が悟りの境地に至るまでの苦行や経験を描いています。シッダールタは、人生の様々な遍歴を経た後に、一本の河にたどり着きます。そこに一人の年老いた渡し守がおり、シッダールタはこの渡し守に聖者を見出し、彼とともに川を見つめながら暮らすようになります。
「彼は見た、この水は流れ流れ、たえまなく流れている、しかもいつもそこにある、そしていつも、終始同じものであり、しかもどの瞬間にも新しい!」「目標に向かって河はひたすら流れ、シッダールタはそれがあわただしく流れていくのを見た、自分と自分の肉親、そして彼がかつて会ったすべての人たちから成り立っているその河が流れていくのを。すべての波と水が、苦しみながら、目標に向かって、たくさんの目標に向かって急いで流れていった、滝に、湖に、急流に、海に向かって。そしてすべての目標に着いた、それからどの目標の後にも新しい目標が続いて現れた。そして水は蒸気となり、天に昇り、雨となって空から落ち、泉になり、小川になり、大河になって新たな目標を目指し、新たに流れていった。まだその声は苦悩に満ちて、目標を求める響きをもっていたが、ほかの声がそれに加わった。歓喜の声と苦悩の声、善良な声と邪悪な声、笑っている声と悲しんでいる声、何百もの声、何千もの声が重なった。」こうした経験を経て、シッダールタは悟りに到達していくことになります。この悟りを一言で言えば、「無常」ということになるのでしょうか。
手塚治虫の「ブッダ」は、アニメなので当然分かりやすく書かれていると同時に、何よりも漢字が少ないことが仏教を分かりやすくしています。日本の仏教は、中国から漢籍を通して入ってきましたので、固有名詞なども漢字で書かれており、このことが仏教を非常に分かりにくいものにしているように思います。例えば、釈迦とはインドの言葉で、ブッダの出身族シャカ(シャーキャ)族を漢字に当てはめたものであり、仏陀もインドの言葉で「悟りを開いた者」という意味のブッダを漢字で表記したものです。また釈迦牟尼とは、「釈迦族の聖者」という意味です。また南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏といいますが、「南無」とは「ナマス」を音訳したもので、「帰依する」という意味で、キリスト教でいえば「アーメン」といったところです。また、「イスラーム」というのも、同様な意味です。
なお、「インドの言葉」と言いましたが、仏典にはサンスクリット語系とパーリ語系があり、ここではサンスクリット語系の発音に従います。

釈迦

1961年の映画で、釈迦の誕生から入滅までを描いています。釈迦の生涯といっても、2500年も前のことですから、史実と伝承が入り混じっており、この映画では、事実とは思えない伝承が多く含まれています。
















釈迦に関わる重要な遺跡














ルンビニ ブッダが産湯を使ったとさ れる池 (ウイキペディア)















 まず、ブッダはいつどこで生まれたのか。生誕時期については諸説あり、最も古いものは紀元前7世紀、最も新しいものは紀元前5世紀で、150年ほどの差があります。生まれた場所はネパールとインドの国境付近にあるルンビニで、シャカ族の王子として生まれました。名はガウタマシッダールタです。釈迦は生まれるとすぐに立ち上がり、「天上天下唯我独尊(全世界で私が一番尊い)」と言ったとされ、映画でもこの場面が出てきますが、もちろん伝承にすぎません。
シッダールタは、16歳前後に、母方の従妹とされるヤショーダラーと結婚します。この結婚に関して一つのエピソードがあり、それは映画でも描かれています。ヤショーダラーの婿選びに際して、候補者が競技で争うことになり、シッダールタが勝って彼女を妻とします。この時シッダールタが戦った相手が従兄のデーヴァダッタ(提婆達多―ダイバダッタ)で、彼は後にブッダの弟子となって出家しますが、やがてブッダに逆らって無間地獄に落ちたとされます。映画ではデーヴァダッタはシッダールタの生涯の敵として描かれ、二人の対立が映画の主要なテーマとなっています。
 その後シッダールタは物思いに耽ることが多くなり、29歳の時に出家します。彼は多くの仙人や苦行者に教えを求めますが、納得できる答えを得られず、自ら苦行することになります。苦行とは、身体を痛めつける事によって自らの精神を高めようとするもので、当時インドでは悟りを開くための道として広く行われていました。こうした苦行は、キリスト教やイスラーム教でも行われ、脳科学によれば一定以上の苦痛を受けるとエンドルフィンという物質が作用して幸福感をもたらすそうですが、ここではそうした生物学的な説明は止めておきましょう。
 シッダールタの苦行中、煩悩の化身であるマーラ(魔羅)が、シッダールタが悟りを開くのを阻止するため、さまざまな妨害を行いますが、シッダールタはこれを退けます。なお、シッダールタがマーラを降伏させたことを降魔(ごうま)と呼び、悪魔祓いという意味で用いられることがあります。また、インドで古くから信仰されていたインドラ神が、マーラと戦うシッダールタを助けます。そのためインドラ神は仏教の守護神となり、中国や日本では帝釈天(たいしゃくてん)と呼ばれます。映画「男はつらいよ」の前振りに「帝釈天の産湯につかり……」というのがありますが、これは葛飾区柴又の帝釈天のことです。

ブッダガヤの大菩提寺 (ウイキペディア)




















シッダールタは6年にわたり生死の境をさまよう程の激しい苦行を続けましたが、苦行では悟りを得ることが出来ないと考え、修行を中断して沐浴をします。立っているのがやっとだったシッダールタに、近隣の娘スジャータが乳かゆを飲ませ、心身ともに回復したシッダールタは、ガヤー村の大きなピッパラ (後に菩提樹と呼ばれるようになる)の下に座し、悟りを開いたとのことです。35歳の時だったそうです。後にこの村は、ガヤーにブッダの名をつけて、ブッダガヤと呼ばれるようになります。なお、今日スジャータ村という地名が残っており、またコーヒー・フレッシュの「スジャータ」は彼女の名に因んだものです(「褐色の恋人スジャータ」)

サ-ルナート 鹿が多くいたことから鹿野苑とも称される(ウイキペディア)



















 悟りを開いた後、ブッダはサールナート(鹿野苑―ろくやおん)で説教をはじめ、ガンジス川中流域を中心に伝道活動を行います。その活動は45年に及ぶため、イエスやムハンマドと比べて格段に長期間に及びます。映画では、鬼子母神や盲目の王子などのエピソード、デーヴァダッタとの対立などが描かれます。これらは古くらインドで語られた物語が仏教に取り入れられたものと思われます。そして、最後の伝道の旅の途中で、クシナガラで入滅します。80歳でした。ブッダの入滅を「涅槃(ねはん)に入る」といいますが、涅槃とはニルヴァーナの音訳で、煩悩の火を吹き消した状態を意味するのだそうです。
 ブッダの死後遺体は火葬されましたが、ブッダに帰依していた八大国の王たちが、遺骨の仏舎利を得ようとして争ったため、結局舎利は八分されて、それぞれが持ち帰りました。また、ブッダは自分の教えを文字として書き残さなかったため、ブッダの教えの散逸や異説が生じることを防ぐため、500人の高位の弟子たちが集まって結集をおこないます。結集とは、本来「ともに歌うこと」を意味するそうで、弟子たちが釈迦の言葉を朗誦することを意味します。つまり、弟子たちは自分たちの記憶に従ってブッダの言葉を思い出し、確認し合って記録した分けです。その際に非常に重要な役割をはたしたのが、アーナンダ(阿難陀)という人物です。
 アーナンダは、この映画では目立たない存在でしたが、ブッダの入滅までの25年間、常にブッダの側にあって身の回りの世話をしてきた人物です。彼はデーヴァダッタの弟といわれ、デーヴァダッタとともにブッダの弟子となったとされます。兄がブッダに逆らったのに対し、アーナンダはブッダの教えをよく守って修行しました。ただ彼はかなりハンサムだったようで、女難が多く、またなかなか心を制御できなかったようで、ブッダの入滅の時になっても、いまだに悟りを開くことができず、ブッダの入滅前後には泣きじゃくって手が付けられなかったそうです。とはいえ、彼はブッダの最も近い所で25年間も仕え、ブッダの言葉を最も多く聴き、暗記していたとされます。そのため結集に際しては、アーナンダの果たした役割が非常に大きく、漢訳経典の冒頭にある「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味ですが、この「我」とは多くがアーナンダであるとされます。

 ブッダの入滅後、仏教は大いに栄え、在来のバラモン教を凌ぐほどでしたが、千年後には相当廃れており、逆にこの頃から東南アジアや中国・日本で仏教が栄えるようになります。仏教が廃れたというより、ヒンドゥー教に吸収され、ブッダはヒンドゥー教の神の一人となってしまいます。そのため仏教遺跡も荒廃し、戦後タイやスリランカや日本などの仏教国の協力で遺跡が再建されました。仏教遺跡の中でも日本では祇園精舎が有名ですが、これはブッタや弟子たちの安息所として建設されたものです。これを建設したのは、コーサラ国のジェータ太子(祇陀太子)と、「身寄りのない者に施しをする」富裕な商人(給孤独者)を合わせて、漢語で「祇樹給孤独園精舎」と呼ばれ、それが「祇園精舎」となりました。「平家物語」に「祇園精舎の鐘の聲……」とありますが、発掘の結果、祇園精舎には鐘楼がなかったことが判明したため、2004年に日本のある団体が鐘楼を寄贈したそうです。

 この映画は、総じてつまらない映画でした。巨額の資金をかけ、興業的には成功しましたが、内容的には得るものが何もない映画でした。


空海

1984年制作の映画で、空海死去1250年を記念して制作されました。ただし、真言宗の肝いりで制作された映画ですので、空海がかなり偶像化されていることを考慮に入れて観る必要があります。

 ところで、ブッダは神々の存在を否定しませんでしたが、彼の思想そのものは神々の存在を前提としていませんでした。しかしブッダが死んでから500年程すると、インド土着の神々や如来・菩薩という存在が多数付け加わるようになります。またこれとは別に、言語では表現できない「仏の覚り」自体を伝えるという、極めて神秘主義的な密教が生まれます。このように変容した仏教は、中国や日本に伝わる過程でさらに変容を重ねていきます。
 一方、日本に仏教が伝わったのは6世紀頃とされ、すでに聖徳太子の十七条憲法で、仏教理念に基づく国家形成が試みられました。その後国分寺や東大寺など多くの寺院が建立され、仏教は鎮護国家の役割を担うようになります。また、平城京では多くの仏僧が経典の研究に励んでいましたが、それは学問研究に限られており、民衆に仏教を布教することはほとんどありませんでした。こうした中で、平城京では仏僧の勢力が強大となり、道鏡のように政治に介入することもありました。そこで、桓武天皇は、784年に長岡京に遷都し、さらに794年に平安京に遷都します。平安時代の始まりです。そして空海が登場するのは、この頃です。
 空海は四国の讃岐で生まれ、幼名を佐伯眞魚(さえき まお)といいました。彼は784年、14歳の時に平城京に上京し、勉学に専念します。映画は、ここから始まります。なお、四国八十八カ所というのは、空海に縁のある寺院のことです。同じころ、空海より少し年上の最澄が平城京で学んでおり、やがて二人は奈良仏教に対抗する上で重要な役割をはたすことになります。ところが空海は、793年、19歳の時に突然姿を消します。従来の勉学に飽き足らなかったからだとされますが、いずれにせよ、その後かなり長期間にわたって空海の消息ははっきりしません。この間各地を旅し、激しい修行を行い、しだいに密教に魅かれていったようです。彼は大自然と人間の在り様を追求していたようで、自らに「空」と「海」という壮大な名をつけました。
 密教について、私にはほとんど分かりませんが、その中心はブッダではなく大日如来であり、ここから一切のものが生じるということです。それは具体的な姿をもつものではなく、宇宙の根源というべきものです。そして、悟りを開いた釈迦如来や薬師如来や阿弥陀如来などがおり、さらに悟りに至る途上にある菩薩たちがいます。私の勝手な考えですが、こうした体系は在地の宗教と融合するのに好都合のように思われます。在地の神々を新たな如来や菩薩に加えたり、あるいはそれらの化身として位置づけることができるからです。日本では、日本古来の神々が「権現」「明神」という形で仏の化身とされていきます。
また、真言密教は即身成仏、つまり生きている内に悟りを開くことができる道を示しました。それは真言密教の理論を理解し、一定の作法に従って真言=仏の言葉を唱えることです。こうした宗教の在り方は、従来の国家と寺院のためだけの宗教に対して、民衆にも仏教への道を開くことになりました。
私の密教についての理解はかなり浅く、また間違っているかもしれませんが、これ以上述べると、さらにボロが出る可能性があるため、この辺で止めておきます。
この間に、空海は留学生として唐に渡ります。この時、後に天台宗を創始する最澄も一緒でした。本来留学生は20年間中国に留まることが義務付けられていましたが、彼は2年で密教の奥義を極め、多くの書物や絵画などを携えて帰国します。その中には、密教だけでなく、土木技術や絵画などが含まれており、当時世界最高の文化である唐の文化をまるごと日本にもたらしたと言えます。
帰国後、彼は東寺を与えられて真言宗を開き、さらに訓練場として高野山を与えられます。一方最澄は比叡山を与えられて天台宗を開きます。この二つの宗派が、奈良仏教に対して日本の新しい仏教の在り方を創り出していくことになります。空海は大日如来を本尊とする理論を展開するのに対し、最澄は、釈迦の教えを伝える法華経を基礎に仏教を体系化し、釈迦如来を本尊とします。映画では、最澄は穏やかで秀才肌の学僧として、空海は激しく行動する風雲児として描かれていました。そして、最澄の天台宗は、後にそこから多くの宗派が生まれますが、真言宗は今日に至るまで空海の宗派であり、空海はそれ程強烈な個性を持っていたのだと思います。
映画では、空海が自分の死の日時を予告し、多くの僧侶の読経の中で、予告通りに死んでいきます。それは、あたかもブッダの死のように描かれていました。そして高野山では、今でも空海が生きていると信じる人々がいるということです。


親鸞 白い道

1987年制作で、三国連太郎原作の三国連太郎の拘りの映画です。親鸞の後半生を描いた映画で、「白い道」とは浄土への道という意味ですが、内容的にはかなり分かりにくい映画となっています。
天台宗や真言宗は、仏教を民衆にも開きましたが、実際には貴族に保護された貴族仏教となっていました。一方この時代に、政治・社会の混乱を背景に末法思想が普及します。末法思想とは、人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代=末法が来るというもので、根拠はよく分かりませんが、1052年が末法元年だといわれました。キリスト教にも千年王国思想があり、1000年にはいよいよ最後の審判かと言われましたが、結局何も起きませんでした。いずれにしても、末法の時代が来れば救われようがありません。そこで登場したのが、阿弥陀如来です。
阿弥陀とは、インドの言葉では「アミターユス」 といい、それを「阿弥陀」と音写したもので、無明の現世をあまねく照らす光の仏にして、空間と時間の制約を受けない仏であることを示し、西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ如来だそうです。阿弥陀如来は、衆生救済のために修行し、仏となって現在も極楽浄土で説法をしているのだそうです。そして浄土とは西方のはるか彼方にあり、清浄で清涼な世界であり、人々は煩悩に満ちた世俗の世界を離れて、ここで成仏するために修行をします。そして今や、この阿弥陀如来と浄土が救済の切り札となった分けです。
現実に、政治においては摂関政治から院政へと移行し、地方においては武士が台頭して混乱し、寺院は僧兵が無法を働くといった時代でした。すでに、11世紀に宇治に阿弥陀如来を本尊とする平等院が建立され、12世紀には奥州藤原氏が平泉に阿弥陀堂を建立するなど、西方浄土への期待が高まっていました。しかし、学問的能力を必要とした天台宗にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする真言宗にしても、貧しい民衆には手の届かない存在でした。こうした中で、平安末期に法然の浄土宗が登場します。
法然は比叡山延暦寺で修行し、そこでの生活にあきたらず、「悟り」の仏教ではなく、「救い」の仏教を求め、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説くようになります。この極めて簡便な信仰形態が武士や庶民に受け入れられますが、既存の宗派や国家によって厳しく弾圧されました。そしてこれに親鸞が合流することになります。親鸞は京の名門に生まれたとされ、9歳で出家して20年近く延暦寺で学びましたが、悟りに達することができず、1201年に法然に弟子入りします。
1207年に親鸞は越後に配流となります。そしてこの時彼は、肉食妻帯を実行していました。彼の考えは、すべての人がありのままで救われるのが本当の仏教であり、人は色と欲から生まれた者であり、色と欲を断ち切らねば救済はないとするなら、誰も救われないことになる、ということのようです。そして1214年、42歳の親鸞は妻子を連れて東国への布教に旅立ち、映画はここから始まります。
この間の政治情勢は、激動していました。1185年に平氏が滅び、1185年に源頼朝が征夷大将軍に任官、1204年に源実朝が暗殺、1221年に承久の乱で朝廷が鎌倉幕府に屈服します。人心は乱れ、さらに飢饉や疫病が頻発する中で、親鸞はどん底生活をしながら信仰を追い求めて行きます。映画は、こうした中での親鸞の内面の葛藤を描き出しています。
 親鸞には新しい宗派を立てる意志はなかったようですが、師である法然の教えを実践し深めていく中で、結果的に法然とは異なる道を見出したようです。彼は、念仏を極楽行の道具にしてはならず、大切なのは心で、自分の罪深さを自覚し、ひたすら仏の慈悲にすがらざるを得ない人にこそ、むしろ真実の救済が開かれていると主張します。自力の作善をなしうる「善人」が救済されるのであるならば、生業として殺生などを営まざるをえないような「悪人」が救われないことがあろうか。
これは河原の石ころのような底辺の生活をし、自分の子供も含めて虫けらのように人が死んでいく日常の経験の中から生まれた結論だったように思います。彼は在来の宗教が身に着けるあらゆる既成概念を削ぎ落とし、人が救われる道を探し求めていったように思います。浄土に向かう道の途中に一本の細い「白い道」があり、その道を通るにはあらゆる妨害がありますが、ひたすら信じて進めば浄土に行けるというのが、この映画のテーマなのではないかと思います。
 実はこの映画には、三国連太郎自身も出演しています。それは宝来という密偵で、貴族に金をもらって親鸞などの動向を探っていました。彼は常に覆面と白い化粧をしているため、はじめは三国が演じていることが分かりませんでした。しかし最後に覆面がとられ、額には「犬」という刺青がされていました。彼は穢多(えた)と呼ばれる「穢(けが)れた民」、つまり被差別民だったのです。親鸞は、このような人々こそ救われねばならないこと、人間は罪深い人間のありのままの姿で救済されねばならないことを、確信したのではないでしょうか。
 1262年、親鸞は90歳で没しました。みずからの生涯をかえりみて、罪業深き一生であった、と語ったそうです。そして彼の死から12年後の1274年にモンゴル軍が侵攻してきます。

日蓮

1979年制作の映画で、日蓮宗=法華宗の祖日蓮の生涯を描いたものです。この映画は、1981年の日蓮聖人第七百遠忌記念として制作されたもので、日蓮宗も制作に関わっているため、当然日蓮を偶像視する傾向があることは、考慮しておく必要があります。
日蓮は、1245年に比叡山で学び、その後各地の寺院で遊学し、この間に一切経(大蔵経)を読破したとされます。1254年、33歳の時に鎌倉で辻説法を始めます。この頃鎌倉幕府の政権は執権のもとに確立し、鎌倉でも浄土宗や禅が普及していましたが、同時に地震や飢饉・疫病が相次ぎ、民衆は塗炭の苦しみにありました。
 こうした中で日蓮が説いたのは、法華経への回帰でした。仏典には色々な種類がありますが、中でも法華経は釈迦の教えを伝える最も重要な法典の一つです。法華経とは、「正しい教えである白い蓮の花の経典」の漢訳で、本来「妙法蓮華経」でしたが、やがて「妙」と「蓮」が省略されて「法華経」となりました。法華経の内容については、私には述べる力量がありませんが、すでに聖徳太子が法華経を鎮護国家の理念とし、天台宗を興した最澄は法華経を最も重視したし、同じく天台宗出身の法然や親鸞、後で述べる道元も法華経を学んで成長しました。そしてその法華経を最も重視したのが日蓮です。
当時は天台宗でさえ、密教の経典である大日経を重視する者が多く、また浄土宗にも妥協的になりつつありました。これに対して日蓮は、当時を末法の世であることを自覚した上で、浄土宗や禅宗を批判し、法華経への信仰を訴えました。この意味において彼は復古主義者でしたが、同時に彼は難しい経文を学ぶのではなく、ただ法華経に帰依するという「南無妙法蓮華経」の七文字を唱えればよいという簡便性を打ち出しました。この意味では、彼は浄土宗と同じ手法を用いたわけです。
 日蓮は激しい弾圧を受けましたが、まったくひるむことなく、1260年に幕府に対して「立正安国論」を提出し、浄土宗などの邪宗を廃して法華経を信じなければ、災害や政治的混乱、さらに外国からの侵入によって国は亡びるだろう、と主張します。そして「外国からの侵入」が問題となります。1268年モンゴル帝国から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となり、日蓮の予言が当たったかに思われました。この予言は本当に予言として述べられたのか、それとも末法の世におけるさまざまな禍の一つとして述べられたのでしょうか。映画では日蓮自身が、自分は予言者ではない、来るべきものが来ただけだ、と言っていますので、後者と考えるべきかと思います。
日蓮は、当時の現実の世相、鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異の続発などを前に、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなしたようです。モンゴル軍の襲来はこれらの禍の一つとみなされたのだと思います。 日蓮にとっては、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一の教えであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまうと思われました。
日蓮の行動は、他の宗派と異なり政治性が強く、かつ極めて闘争的でした。彼は仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張します。政治の主体を天皇としたうえで、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむると考え、宗教上での天皇の権威を一切みとめず、権力におもねることも決してありませんでした。その行動は規制の宗派を打ち破ろうとする闘争的なもので、私の個人的な感想ですが、16世紀にヨーロッパで宗教改革の火ぶたを切って落としたルターのそれに似ているように感じました。今日でも、日蓮宗系の宗派は、政治問題に関わることが多いようです。
日蓮の教えには「旧仏教」的な要素が多くふくまれ、「われ日本の柱とならん」と述べて、法華信仰に依拠しなければ国が滅ぶと鎌倉幕府に迫ったのも、天台宗の鎮護国家の思想を受け継いでいるからだと思われます。こうした日蓮の思想は、しばしば国家主義的と考えられがちで、このブログの「映画でヒトラーを観て」
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014_02_01_archive.htmlで述べた北一輝も日蓮宗の熱烈な信者でした。しかし日蓮の過激な発言は、当時の悲惨な状況を前にして、末法から人々を救わねばならないという切羽詰まった思いから出たものではないかと思います。
日蓮は、信者から与えられた甲斐の身延山に久遠寺を立てて晩年を過ごします。この間にも法華宗は増え続けると同時に、弾圧も続けられていました。1282年に、日蓮は弟子たちに見守られながら、法華経を広めるように言いつつ、逝去しました。61歳でした。

今日日本の総人口は13千万弱であり、その内8千5百万人ほどが仏教徒とされます。私には信仰心がありませんが、それでも葬式は仏式で行っており、85百万の仏教徒の多くは、私のような仏教徒であろうと思います。そして、多くの宗派の内、浄土真宗と日蓮宗が大きな割合を占めています。つまり念仏において、「南無阿弥陀仏」と唱えるか、「南無妙本蓮華教」と唱える人が多いということです。私は、父母の葬式を近所の寺院にお願いしましたが、この寺院は曹洞宗で、次に述べる道元が起こした禅宗の一派です。
いずれにしても、今日の仏教の多くは鎌倉時代に生まれたものであり、鎌倉時代は、日本の宗教史上画期的な時代でした。

禅 ZEN

2009年に制作された映画で、曹洞宗の祖道元の半生を描いたものです。
日本の禅は、鈴木大拙の紹介により世界的に有名となりましたが、もともとブッダ以来僧侶は座禅を組んで修行するのが常でした。したがって禅とは、サンスクリット語の「ディヤーナ」の音訳です。これとは別にインドには古くからヨーガと呼ばれる修行法がありますが、ヨーガとは「馬にくびきをかける」という意味で、馬を御するように心身を制御するという意味だそうです。密教の空海もヨーガを行法として取り入れており、禅宗も何らかの影響を受けていると思われます。
坐禅を組んで精神統一をはかり、みずからの力で悟りをえようとする禅の教えは、すでに56世紀の達磨(だるま)に始まるとされ、唐代には、後に日本に伝えられる臨済宗や曹洞宗が生まれていました。宋代になると禅は盛んになり、1127年に北宋がモンゴル帝国に滅ぼされると、南宋で禅が盛んとなり、日本との往来も頻繁になります。空海の時代には、遣唐使船が4隻航海すれば2隻は沈没する時代でしたが、道元の時代には船で渡航することは、それ程危険ではなくなっており、南宋との間で頻繁に往来がなされていました。この時代には、南宋に渡来する多くの僧がいたと同時に、南宋から渡来する僧も多く、この時代は「渡来僧の世紀」とさえ言われています。
 天台宗で学んだ栄西は、堕落した日本の天台宗を立て直すため宋に渡り、1202年に臨済宗を興し、ようやく日本に本格的に禅が伝えられます。栄西は文化人としても優れ、廃れていた喫茶の風習を復興したりするなど、日本の文化の形成に大きな役割を果たします。銀閣寺で代表される室町時代の東山文化は、幽玄、わび・さびなど禅宗の影響を受けています。彼もまた天台宗の弾圧を受けたため鎌倉に行き、北条政子建立の寿福寺の住職となるとともに、京に建仁寺を建て、禅の普及に努めます。そしてこの建仁寺で、道元が修行をします。
 道元は天台宗で学んだ後、建仁寺で修行し、1223年に南宋に渡ります。南宋では各地の寺を転々としたのち、曹洞宗の寺院で修行し、1227年に帰国します。しかし京では比叡山の弾圧を受け、1244年に越後に永平寺を建立し、これが今日に至るまで曹洞宗の総本山となります。1248年に北条時頼により鎌倉に招かれ、半年間の滞在ではありましたが、これが関東での禅宗隆盛の出発点となります。そして1253年に、享年54歳で没します。そして翌年、33歳の日蓮が、鎌倉で辻説法を始めます。親鸞や日蓮に比べて、道元の一生は比較的穏やかに見えますが、それは彼が政治にも宗派闘争にも加わることなく、ひたすら禅の修行に努めたからだと思われます。

禅とは何かということについて、私に答えられるはずがありません。そもそも禅僧自身が、こうした議論を嫌います。禅とは、言葉で伝えるものではないからです。ただ道元が、親鸞や日蓮と異なっている点は、親鸞や日蓮が念仏を唱えて救済を得る他力本願だったのに対し、禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことであり、それに気づけば生きて成仏できるという自力救済だったという点です。こうした自力救済の考え方は、何事も自分で解決せねばならない武士にとって、受け入れやすい思想だったと思います。
 道元が最も重視したのは、只管打坐(しかんたざ―ひたすら坐禅すること)で、あらゆる既成の概念や身に着いた垢を削ぎ落とし、過去の執着をすべて捨て、悟りたいと願うことも止め、そうすることで自己の仏性を見出すということです。「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」という道元の有名な歌は、当たり前のことをあるがままに受け入れる、ということだろうと思います。

 道元が悟りを開くきっかけとなったのは、中国で寺を巡り歩いている時に出会った一人の老僧でした。この老僧は寺の炊事係で、他の僧たちが修行に励んでいる間に、ひたすら雑用に励んでいました。道元が老僧に、そんな雑用をして何の役に立つのですかと尋ねると、老僧は、あなたは書籍に記してあることの本当の意味が分かっていないと言って笑いました。その時道元は、坐禅や勉学にくらべて炊事などの日常的な雑務は低級で無意味と考えていた自分に気づきました。
前に述べたヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が、年老いた川の渡し守から真理を学んだように、道元もまた一介の炊事係りの僧から真理を学びました。渡し守が、一生河の流れを見つめて悟りを開いたように、年老いた炊事係りも淡々と当たり前のように雑用をしながら、悟りを開いたのです。道元の言葉に、「修証一如(しゅしょういちにょ―これから修行して無我になるのではない。いま、すでに無我だからこそ修行することができるのだ)」という言葉がありますが、「これからがんばって無我になるために修行をする」といような気持ちは執着であり、それではとうてい無我になれない、ということだと思います。
孤高の思想家である道元自身には、一つの宗派をおこす意思はなかったとされますが、永平寺につどった道元の弟子たちは教団化に努め、今日に至る曹洞宗を開きました。

かなり掘り下げの浅い文章になってしまいましたが、これ以上掘り下げると無知をさらに曝け出すことになりますので、表面的なことしか書けませんでした。世界史を学ぶ者が個別的な問題に触れることができるのは、所詮この程度だということがよく分かりました。

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