2019年5月29日水曜日

映画「やがて来たる者へ」を観て


2009年にイタリアで制作された映画で、第二次世界大戦中に北イタリアで起きたマルザボットの虐殺事件を描いています。
 19399月にヒトラーの率いるドイツ軍がポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発します。ヒトラーにとってイタリアのムッソリーニはファシズムの先輩であり、ヒトラーはムッソリーニを尊敬していましたが、ムッソリーニは現実的な政治家であり、ヒトラーの誇大妄想的な理念に不信感を抱いており、当初は戦争に参加しませんでした。しかし19406月にドイツがフランスを制圧すると、国王や軍部も参戦支持に転じたため、イタリアはイギリスとフランスに宣戦布告します。さらにイタリアは北アフリカやバルカン半島に戦線を拡大しますが、準備不足と物資の不足のため、たちまち防戦一方となり、ドイツの援助を受けるようになり、イタリアはヒトラーの誇大妄想的な戦略に巻き込まれていきます。
 1943年に入って戦況が不利になると、7月に国王などによりムッソリーニは逮捕され、新たに成立したバドリオ政権は連合国と休戦交渉を開始します。9月には、バドリオ政権は連合国に無条件降伏すると同時に、ドイツに宣戦布告、ドイツ軍がイタリアに侵攻してムッソリーニを救出、ムッソリーニによるイタリア社会共和国の建国、これに対するパルチザンの蜂起など、まさにイタリアは混乱の頂点に達していました。映画は、こうした事態を背景とした194312月、北イタリアの都市ボローニャ近郊の小さな村マルザボットで、8歳の少女マルティーナを主人公として進行します。
 映画は、この8歳の少女の目線で描かれます。彼女は、彼女が日々目にする光景を、日記に次のように描写します。
私の家は農家です。小さな家族ですが、じき弟ができます。素敵な馬に乗る地主さんの土地で働いて、父さんは「作物を納めさせすぎだけど、地主だから」と言います。ときどきドイツ人がものを買いに来ます。言葉は通じません。なぜここに来たのでしょうか。なぜ自分の家で自分の子供たちと一緒に過ごさないのでしょうか。ドイツ人は武器でどこかにいる敵を撃ちます。連合軍と戦っているそうですが、見たことはありません。あと、反乱軍がいます。彼らを追い払うために戦うそうです。反乱軍も武器を持っています。私たちと同じ言葉を話し、服装も同じです。……それからファシストもやって来て、私たちの言葉を話します。怒鳴って、反乱軍は山賊だ、殺せと言います。それで私は皆、人を殺したいのだと知りました。理由は分かりません。
 彼女は、以前生後数か月の弟が自分の腕の中で死んでいった経験をしたため、それ以後口がきけなくなっていました。でも母が妊娠し、また新しい弟が生まれることを楽しみにしていました。そして19449月、弟が誕生した日に、虐殺事件が起きました。
 ところで、パルチザンとは非正規の軍事活動を行なう遊撃隊のことで、国によりゲリラとかレジスタンスとも呼ばれます。正規軍にとって、こうした非正規の遊撃隊は大変厄介です。彼らは正規軍に追われれば、村に逃げ込んで民間人になりすますため、民間人との区別がつかなくなります。そして正規軍が引き上げるとき、パルチザンがどこからともなく攻撃してきます。まさに正規軍にとってパルチザンは恐怖であり、パルチザンは民間人を人間の盾として正規軍と戦っているのです。こうした戦いが続くと正規軍は恐怖にかられ、パルチザンが逃げ込んだ村の人々を虐殺するといった事件がしばしば起きます。アフガニスタンなどでは、今もこうしたことがしばしば起きていることでしょう。
 19449月にドイツ軍がこの村に侵入して、虐殺を始めました。この村の住民ほとんどすべて、700人以上が虐殺され、マルティーナの両親も殺されました。マルティーナも殺されかけましたが、うんよく弾が外れて生き残り、彼女は生まれたばかりの弟を腕に抱えて脱出に成功します。その時突然、彼女は歌を歌い始めます。つまり弟を取り戻して、声を取り戻したわけです。それは悲惨な虐殺現場における、ただ一つの光明だったといえるでしょう。

 映画では、最後に「この戦争で死んでいった多くの民間人に捧げる」というテロップがながされます。

2019年5月25日土曜日

映画でアイルランドの独立を観て

アイルランド独立の歴史について
 ここではアイルランドの歴史全体を振り返りません。アイルランドは17世紀半ば以降、イギリスの苛烈な植民地支配を受けてきました。実はイギリスにとっても、アイルランドは後に全世界に植民地をもつ大英帝国の最初の植民地であり、イギリスが植民地帝国を築く上での実験場ともなりました。アイルランドの歴史については、このブログの以下の項目も参照して下さい。
「アイルランド史入門」を読んで(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/09/blog-post_23.html)
映画でアメリカを観る(4) 遥かなる大地へ(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/02/blog-post_7html)
映画「ヴェロニカ・ゲリン」を観て(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2018/02/blog-post.html)

 20世紀に入ると、アイルランドでも独立運動が盛んとんなり、やがてデ・ヴァレラがその中心となりました。デ・ヴァレラは、1882年にアメリカで生まれ、数学者であり教育者であると同時に、20世紀にはアイルランド独立運動を指導し、独立後はアイルランド政府の多くの要職を担い、アイルランド国家の形成に不可欠の存在となります。しかし彼には致命的弱点があり、それは1916年にアイルランド独立を目指して起きたイースター蜂起で露呈されました。確かに彼は優れたリーダーシップを持っていましたが、行動において計画性がなく、絶体絶命の状況の中で弱気になる傾向があったようです。この欠点を補ったのが、マイケル・コリンズです。
マイケル・コリンズ

1996年制作の映画で、イギリス・アイルランド・アメリカの合作です。
 1916年のイースター蜂起は惨めに失敗し、多くの活動家が捕らえられ、処刑されました。この時デ・ヴァレラも逮捕されますが、彼はアメリカ国籍をもっていたため、処刑を免れました。そしてこの時、最大の指導力を発揮したのが、マイケル・コリンズでした。
 コリンズは1890年に8人兄弟の末っ子として生まれ、父の影響を受けてアイルランド人の自由に強い関心をもつようになりました。彼は長身で、堂々たる体格の青年に成長しました。二十歳ころに独立運動の組織に入り、1916年のイースター蜂起で非凡な才能をしめします。蜂起の失敗後、彼はアイルランド義勇軍を率いてゲリラ活動を展開し、デ・ヴァレラを脱獄させ、イギリスを散々苦しめます。彼はいつもスーツを着、ネクタイを締めて、自転車で駆け回って活動を指揮していました。1919年にイギリスが総攻撃を開始すると、コリンズはアイルランド義勇軍をアイルランド共和国軍と改名し、ゲリラ戦を仕掛けてイギリス軍を疲弊させます。これがアイルランド独立戦争です。
 1921年にイギリスが話し合いを提案し、コリンズがアイルランドの代表として会談に出席します。その結果イギリス・アイルランド条約が締結されますが、その内容はアイルランドに自治を与えるとともに、イギリス人が多く居住する北アイルランドを分離するというものでした。コリンズはこの条約が国内で批判されることを予測していましたが、まず一歩進むことが大切だとして、条約に署名し、1922年にアイルランド自由国を建国します。これに対してデ・ヴァレラら反対派はコリンズと決別し、内戦が勃発します。そして内戦のさ中に、コリンズはゲリラの襲撃により殺害されます。享年31歳でした。この映画の冒頭で、「彼の人生は、勝利と血と悲劇に満ちた時代そのものだった」と語られます。
 デ・ヴァレラはロンドンでの会談に自らは出席せず、コリンズを代表として出席させました。映画では、デ・ヴァレラはロンドン的での交渉結果を予想して、それをコリンズの責任にしようとした、と描かれています。その真偽は分かりませんが、その結果起きた内戦により多くの虐殺と無意味な破壊が行われ、アイルランドは疲弊してしまうことになります。

 映画では史実と異なる描写が多いとのことですが、私にはどの部分が異なるのか分かりませんでした。映画はコリンズを英雄として扱い、デ・ヴァレラを裏切り者として描いており、多分その部分に問題があるのだと思いますが、全体としては興味深く観ることができました。

ジミー、野を駆ける伝説
2014年に制作されたイギリス・アイルランド・フランスによる合作映画で、1930年代
アイルランドの活動家ジミー・グラルトンについて描かれています。
アイルランドは、1922年にアイルランド自由国が建国された後も内戦が続きますが、1930年代には事実上独立を達成します。私が知るアイルランドの歴史はここまでで、これでアイルランドはハッピー・エンドだと思っていたのですが、この映画を観て愕然としました。アイルランドの社会は、独立以前と何も変わっていなかったのです。独立以前にアイルランドがイギリスに対して抱えていた問題は三つありました。第一はイギリスから自治の獲得で、これはアイルランド自由国の樹立で一応解決に向かいました。第二はイギリスのプロテスタント支配に対するカトリックの反発で、これも自治権獲得でプロテスタント支配は終わりましたが、その後もカトリック教会による教区支配は続きました。第三は土地問題で、独立以前にはアイルランドのほとんどすべての農地をイギリスの不在地主が所有し、農民は貧困にあえいでいました。そしてこの問題が独立後どうなったのか、私は知りません。映画を観ると、イギリス人地主は去ったものの、結局富裕なアイルランド人がその土地を手に入れ、農民は相変わらず小作人として貧困に喘いでいたようです。
1920年代に、独立運動の活動家だったジミー・グラルトンは、故郷の村にホールを建設し、そこで村人の有志がダンス・パーティーを開いたり、絵画教室や音楽教室などを開いたりして、村人の精神生活を向上を図るようにしました。しかし精神問題はカトリック教会の管轄であり、人々の多くは敬虔なカトリック教徒ではありましたが、教育を含め、あらゆることがカトリック教会によって支配されていました。したがってホールの建設は管区教会の既得権を侵害するものですので、司祭はあらゆる手を使って妨害し、結局ジミーはアメリカに亡命することになりました。

1930年代にジミーは故郷に帰り、映画はこの時代のジミーの活動を描いています。彼は年老いた母と静かに暮らすつもりでしたが、人々から請われてホールを再建し、また地主に土地を追われた農民を助けたりして、再び当局や教会の反発を買います。ホールは焼かれ、再び警察に追われ、結局アメリカに帰ることになりました。このようなジミーの姿を観ていると、前に観たマイケル・コリンズの英雄物語が馬鹿馬鹿しく思えます。今日のアイルランドの民衆がどのような状況に置かれているのか知りませんが、相変わらず貧富の差は大きく、カトリック教会の影響力は強いようです。

2019年5月22日水曜日

映画「ジャングル・ブック」を観て

2016年にアメリカで制作された映画で、イギリスのラドヤード・キップリングの短編小説集『ジャングル・ブック』(189495)を映画化したもので、過去にも何度も映画化されました。内容は子供向けの話ですが、大人が観ても十分に楽しく、久しぶりに童心にかえりました。
キップリングは1865年にインドのボンベイでイギリス人夫婦の子として生まれ、幼いころは召使の現地人が話す現地語の物語を聞いて夢を見、両親とは英語で話していたそうです。5歳の時教育のためイギリスに送られ、188216歳の時にインドに帰りますが、イギリスでの生活は決して楽しいものではなかったようです。インドでは多くの名所を旅し、多くの人々と交流し、その過程で文章を書きたいという欲求が高まったそうです。彼は22歳ころから詩や小説を書き始めるとともに、世界各地を旅行しました。
こうした中で、「ジャングル・ブック」は誕生しました。それは熱帯ジャングルに棲む動物たちの物語で、人間の子であるモウグリが狼に育てられていました。インドでは、人間の子が狼や猿によって育てられたという話が、しばしばあるそうです。一方、人間に恨みをもつ虎シア・カーンが、モウグリを殺そうとしますが、多くの動物に助けられて何度も危機を脱します。この過程でモウグリは、ジャングルで暮らすべきか、人間社会で暮らすべきか悩みます。原作では、結局モウグリは人間社会に戻り、人間の女性と結婚することになるそうですが、映画ではモウグリはジャングルで生きていくことになります。
 原作者のキップリングについては、人種差別・蔑視思想の持ち主でもあったと言われることもあり、また「ジャングル・ブック」は大英帝国の申し子と言われることもありますが、主人公はインド人の少年であり、動物の側にも人間の側にも帰属できずに悩む少年の孤独も描かれており、その後のこの種の小説に大きな影響を与えたのも確かでしょう。事実、1907年にキップリングは、史上最年少の41歳でノーベル文学賞を受賞しました。

 映画は、CGがとても美しく、大人が観ても十分楽しめる内容でした。

2019年5月18日土曜日

映画「沈黙(サイレンス)」を観て



 2016年にアメリカで制作された映画で、日本の遠藤周作の原作(1961)に基づき、17世紀半ばにおける長崎でのキリシタン弾圧を描いています。「沈黙」はすでに日本では1971年に制作され、確かに私もこの映画を観たのですが、何しろ半世紀も前ですので、あまり覚えていいません。なおこの時代のキリシタン弾圧については、このブログの「映画「天草四郎時貞」を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/07/blog-post_23.html)を参照して下さい。
映画は、ポルトガルのイエズス会宣教師ロドリゴらが、日本での布教中に消息を断った恩師フェレイラを探すため日本へやってくるところから始まります。その後いろいろあって、ロドリゴは役人に捕らえられ、大きな決断を迫られることになります。実はこの頃日本でもキリシタンへの対応に変化がありました。この少し前に島原の乱が起きており、為政者たちの中にあまりにも激しい弾圧が逆効果になっていることに気づく人々が出てきました。その結果彼らは、宣教師を棄教させ、彼らを信徒たちの棄教に利用するようになります。そしてこのことがロドリゴの運命に決定的な影響を及ぼすことになります。
宣教師を棄教させる際、彼らを直接拷問するのではなく、彼らの目の前で信徒を拷問し、宣教師が改宗すれば拷問を止めて命を助けると言います。拷問を受ける人々の苦しみ、それを見せられる宣教師の苦しみ、自分の意志で彼らを苦しみから解放させることができるという自責の念、その中でロドリゴは「なぜ神は沈黙しているのか」と問いかけますが、答えは返ってきません。さらにロドリゴは、彼が尊敬していたフェレイラが棄教し、沢野忠庵という日本人名を名乗っていることを知ります。
一方、この映画にはもう一人の主人公がいました。それはキチジローという男で、彼は棄教と懺悔を繰り返し、何度も仲間やロドリゴを裏切りました。しかしある時ロドリゴはもだえ苦しむキチジローの姿に神の姿を見ます。神もまた苦しんでいたのです。こうした経験を経て、やがてロドリゴは棄教し、転びバテレンとして生涯を過ごすことになります。なお、キチジローは遠藤周作自身をモデルとしたものだそうです。
個人的には、宣教師たちの神への絶対的な信仰は、独りよがりのように思われ、むしろ私には役人たちの主張の方が説得力があります。 日本では宣教師は、純粋に神の言葉を伝えようとする殉教者として登場しますが、その同じ宣教師たちが、中南米では力ずくで先住民にキリスト教を強制する迫害者として振る舞い、同じ頃ヨーロッパではキリスト教徒同士が血で血を洗う戦いを繰り返していました。そこには、他者を決して認めない、当時のヨーロッパ人の偏狭さが認めらせれるように思います。こうしたことを通じて、結局ヨーロッパでは、信仰そのものが希薄になっていきます。日本がキリスト教の受容を拒否したのは、当然の結末だったと言えるのではないでしょうか。
 映画は大変よくできていたと思います。いままで私が観た映画のうち、外国人が日本を舞台として撮った映画は、どうしても不自然な点が目立つのですが、この映画ではほとんど不自然さはなく、かなり丁寧に制作されているように思われます。

2019年5月15日水曜日

中国映画「オペレーション・メコン」を観て


2016 中国=香港により制作された映画で、2011年にメコン川で起きた中国船・タイ船の襲撃事件の顛末を描いています。













「メコン川はチベット高原に源流を発し、中国の雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境、タイ・ラオス国境、カンボジア・ベトナムをおよそ4200キロにわたって流れ、南シナ海に抜ける。典型的な国際河川の一つで、数多くの支流がある。」(ウイキペディア)その上流部分は中国領内にあり、中国はここで多くのダムを建設しているため、メコン川は深刻な汚染と生態系の破壊にさらされています。ただ、この映画で問題となっているのは、このことではなく、黄金の三角地帯(トライアングル)の問題です。


 黄金の三角地帯とは、タイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯で、かつてここは世界最大の麻薬密造地帯でした。今日では、経済発展や取締り強化により減少傾向にあるそうですが、それでもアフガニスタン・パキスタン・イラン国境付近の「黄金の三日月地帯」と並ぶ密造地帯だそうです。黄金の三角地帯で初めて麻薬の密造を大規模に行うようになったのは、実は中国人でした。第二次世界大戦後、中国では国民党と共産党との内戦が行われ、1949年に敗北した国民党は台湾に逃れますが、同じく国民党の残党の一部が南下して三角地帯を占領し、そこで現地人を使って麻薬を密造し、世界中に麻薬を密売して国民党の資金源としました。台湾がこの地方から手を引いた後も、この地方では中国系やミャンマー系などの軍閥が活動し、この地方は国家権力の入り込めない半ば無法地帯となっていました。
事件は、こうしたことを背景として起きます。2011105日、この地域のメコン川を航行中の中国船が何者かに襲われ、乗組員13名全員が惨殺されました。メコン川は中国を含む周辺国にとって交易の大動脈ですので、このようなことは容認できません。中国はカンボジアやタイとも協力して特殊部隊を潜入させ、20127月に主犯格を含む6人を逮捕、11月にその内の4人を処刑して、事件は終わります。
映画では、密林に潜入した特殊部隊が主犯格を逮捕し、連れ出す過程が描かれ、全編アクション場面の連続です。私はアクション場面にはあまり興味はありませんが、いくつか興味ある場面がありました。一つはメコン川上流の壮大な密林地帯が何度も映し出されたことです。実際にメコン川上流で撮影されたかどうかは知りませんが、この地域はメコン川の本流に多くの支流が流れ込んで水郷地帯を形成しており、きっとこんな風景なのでしょう。もう一つは、麻薬密造地域の現場です。密造を拒否した住民は罰として手足を切り落とされ、さらに麻薬を与えられた子供は、陶酔状態で人を射殺し、自らの頭に銃口を向けて引き金を引いたりします。このようなことが実際に行われていたのかどうかは分かりませんが、まったく法が及ばない犯罪者集団に支配された地域ですから、こうしたことがあっても不思議ではないでしょう。

映画では、中国の特殊部隊は6人が首謀者を連れ出し、中国の治安当局の実力を示しましたが、この地域にはやがて新しいボスが入り込み、結局この地域の実情は何も変わりませんでした。

2019年5月11日土曜日

映画「草原の実験」を観て















2014年にロシアで制作された映画で、英語版のタイトルは“The Test”です。この映画は、100分近くありますが、台詞もナレーションも説明の字幕もまったくなく、美しい写真のような映像だけで、すべてが伝えられます。

舞台となったのはカザフスタンで、カザフスタンについては、このブログの映画「ダイダロス 希望の大地」を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/09/blog-post_30.html)を参照して下さい。カザフスタンの国土の面積は世界の第9位ですが、国土の大部分は乾燥したステップ地帯です。そのステップにある一軒家に、ある父娘が住んでいました。父は毎日トラックに乗って、どこかに仕事に生きます。娘の年齢は不詳ですが、彼女を演じた女優は、当時14歳だったようです。彼女は毎日家事をこなし、父親の面倒を見るという、単調ですが穏やかな生活が続いていました。彼女はほとんど家を出たことがなく、家の周りの草原地帯しか知らず、その向こうに何があるのかも知りませんでした。そんな彼女に二人の少年が恋をし、彼女を巡って争っていました。そしてそのような生活は、一瞬にして消えました。
カザフスタンは、19世紀にはロシア領となり、1917年のロシア革命以後ソ連邦に編入され、1949年にカザフスタンの北東部のセミパラチンスクに、ソ連は核実験場建設しました。建設にあたって、この地区には居住者はいないという虚偽の報告がなされ、1949年から1989年までの40年間に、この地域で456回もの核実験が行われました。そして映画では、楽しそうにあやとりをして遊んでいた少年と少女の目の前で巨大なキノコ雲が発生し、次の瞬間にすべてが吹き飛ばされ、焼き尽くされました。

人間が造り出した悪魔の兵器である原爆のキノコ雲は、美しくさえありました。そして実験が終わった後には、大地は何にもなかったかのように、毎日美しい夕日に照らされます。広島や長崎で多くの犠牲者がでたにも関わらず、何もなかったかのように、日々が進んでいくのと同じです。

2019年5月8日水曜日

映画「戦場に舞う羽根」を観て

2002年のアメリカとイギリスによる合作映画で、19世紀末、大英帝国が全盛期だった頃の若いイギリスの兵士たちを描いています。原作は20世紀初頭に書かれましたが、以後何度も映画化され、今回は実に七度目の映画化だそうです。なお、映画の舞台は、スーダンで起きたマフディー教徒の乱で、この反乱で一時イギリス軍は全滅し、将軍のゴードンが戦死します。この事件については、「映画でアフリカを観て(3) カーツーム」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/04/3.html)を参照して下さい。
映画は、イギリス軍の若い三人の将校たちの友情の物語です。彼らは固い友情で結ばれ、女王陛下のために世界中どこへでも行って戦おうと決意していました。そして、ついにスーダンへの派兵が決定されたのですが、主人公のハリーが突然除隊してしまいます。ハリーに何が起きたのか分かりませんでしたが、友人絶ちはハリーに臆病者を意味する白い羽根を送り、さらに彼の恋人も彼に白い羽根を送りました。その結果彼は友人と恋人を失ってしまいます。この時代のイギリスは世界の4分の1を支配して繁栄を謳歌し、女王陛下のために命を投げうって戦うことが当然とされた時代でしたから、友人や恋人たちの行為は当然だったといえます。
実は、ハリー自身が、自分がなぜこのような決断をしたのか、よく分かっていませんでした。もちろん、戦争が現実のものとなって恐怖感が強まったということもあったでしょう。しかし、ハリーにはそれよりもっと素朴な疑問がありました。それは、「女王陛下と不毛の砂漠に何の関係があるのか」ということです。それは、今日から見れば当然の疑問ですが、大英帝国全盛の当時にあっては、許されない疑問でした。彼は、自分は一体何者なのか、自分は何をすべきなのかを悩み抜きます。彼は、まず自分が臆病者でないことを証明する必要がありました。そのために彼は単身でスーダンに渡り、危機に陥っていた友人たちを救い出し、彼らに白い羽根を返し、恋人にも返します。

大英帝国は全盛期を迎えていたとはいえ、多くの矛盾を抱え、すでに衰退への道を歩みだしていました。やがて多くの人々が、ハリーが抱いたのと同じ疑問を抱くことになるでしょう。

2019年5月4日土曜日

中国映画「海神」を観て

2017年に制作された中国・香港の合作映画で、倭寇を討伐した明の名将・戚継光(せきけいこう)の活躍を描いと歴史アクション映画で、原題は「蕩寇風雲」です。 映画の舞台となった時代は、字幕に嘉靖35年とあるので、1556年頃ということです。この時代については、「映画で中国史を観る 「大明王朝-1566-嘉靖帝(かせいてい)と海瑞(かいずい)」」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/blog-post_4967.html)を参照して下さい。
 13世紀以来活発化した倭寇の活動は、1404年の勘合貿易の開始により終息しますが、16世紀になると再び活発化します。その理由の一つは、中国で経済が発展し貿易への需要が高まったのに対し、明王朝は海禁政策を強化したからです。したがってこの時代の海賊は、中国人を中心とした密貿易集団でしたが、その背景に松浦(まつら)党という日本の戦国武将がいたようです。松浦党は瀬戸内水軍の流れを汲み、映画によれば、彼らの活動の目的はもはや単なる略奪ではなく、中国で得た富で戦国武将としての地位を確立することだったようです。私はこうした事情をよく知りませんが、この映画はこれをかなり詳しく描いており、大変は興味深いものでした。
 戚継光は勇敢な軍人だったたけでなく、敵を研究し有効に戦うためのさまざまな工夫をします。例えばよく切れる日本刀に対抗して竹やりの集団を配置したり、泥沼を移動するためにスキー靴のようなものを考案したり、火縄銃に対抗して三眼と呼ばれる銃を使用したりして、僅かな兵力で倭寇の大軍を翻弄します。その結果松浦党の軍師は、二度とこんな野心は起こすなと言って君主を帰国させ、自らは死に臨んでいったそうです。結局、天下を統一した豊臣秀吉が海賊禁止令を発布したため、倭寇は消滅していくことになります。

 戚継光は武勇に優れていると同時、大変な恐妻家だったそうです。彼は夫人に妾を持たぬことを約束させられていましたが、密かに妾を二人もち、それぞれに子供までもうけていました。怒った夫人が妾も子供も殺そうとしましたが、戚継光は夫人の弟に夫人を説得させ、妾も子供も生き延びました。映画ではこの場面はありませんでしたが、倭寇との決戦の時、夫人は武装して女性軍団を率いて戦います。こうした事実があったかどうか、私は知りませんが、映画での戚継光という人物は英雄豪傑というより、少しとぼけたところのある憎めないやつ、という感じの人物でした。

2019年5月1日水曜日

中国映画「運命の子」を観て

2010年に中国映画で制作された映画で、春秋時代の晋を舞台としています。春秋時代とは、周が東遷した前770年に始まり、東周の大国晋が三つに分裂した前5世紀までのおよそ320年間を指し、「春秋」というのは、この時代の末期に登場した孔子の著書とされる「春秋」に由来します。春秋時代については、このブログでも何度も扱っていますので、そちらも参照して下さい。
8章 中華帝国の成立 https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/8.html
  復讐の春秋(臥薪嘗胆(がしんしょうたん)) 
 映画で中国の思想家を観て https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/08/blog-post_23.html

   恕の人―孔子伝、孫子≪兵法≫大伝
 春秋時代には、周の統治原理である封建制度が弛緩し、諸侯が力を持つようになり、周王の存在は有名無実化し、政治的には無秩序状態になります。それでも一応東周の王は存在し、諸侯は東周の王を奉じて実権を握ります。安易な比較は許されませんが、日本における鎌倉から江戸時代に、武家が天皇を奉じて実権を握りますが、その実権を握った武家の本拠地が、鎌倉だったり、室町だったり、江戸だったりするわけです。春秋時代の晋は、そうした諸侯のうち最も有力な諸侯の一つでした。
 晋は、前7世紀後半に強力となって覇者となりますが、前6世紀に楚に敗れて覇権を奪われ、その責任を巡って内紛が勃発します。そして事件は前583年に起きます。それまで宮廷では趙氏が実権を握っていましたが、屠岸賈(とがんか)がクーデタを起こし、趙一族300人を皆殺ししました。ところが、その直後に趙氏の跡継ぎの妻が男子を出産し、その子を医師に託して自らは自害します。ちょうど同じ日に、医師の妻が男子を出産し、いろいろあって、結局医師の妻子は殺され、医師は預かった子を自分の子として育てることになります。映画の前半は、このような嬰児のすり替えがスリリングに描かれています。このすり替え事件は、中国ではよく知られた話だそうです。
 後半は、後に趙武と名乗ることになる少年の成長過程が描かれ、やがて成人すると彼の素性が明かされます。彼は趙氏を再興し、屠岸賈を殺し、朝廷でも実権を取り戻します。映画はここで終わりますが、その後、彼は周辺諸国と和睦し、かつての晋の覇権を取り戻し、世に名宰相と称えられます。しかし、彼の後には、晋内部で有力な家系が対立し、結局前403年に晋は三つの国に分裂して滅亡します。
 映画で語られた趙武の物語は、司馬遷の『史記』に語られており、中国では大変よく知られた物語で、京劇の演目にもなっているそうです。映画は、大変面白く観ることができたのですが、映画の画面に、いかにも春秋時代と分かるようなものが欲しかったと思います。例えばこの時代の文字である篆書とか、青銅器とか、宗教儀式などです。私などは、この映画の時代が500年後の漢代だと言われて、気が付かなかったでしょう。一方、映画ではしばしば飲食店で食事をする場面がありますが、貨幣経済がほとんど存在しないこの時代に、飲食店などあったのでしょうか。飲食店では、どのようにして支払いをするのでしょうか。
 この映画は多分、そうした細かな時代考証を無視して、時代を超えた英雄物語を描いているのだと思います。ただ、この映画の主人公は趙武というより、趙武をわが子とすり替え、趙武を育てた医師だったように思います。映画では彼は,趙武を育て、趙武に一族への復讐をさせることで、殺された妻子への復讐を果たそうとしていたようです。この映画は、時代を超えた人間の情を描いているように思われます。