1.シルクロードとは何か
2.オアシス都市の成立と発展
3.キャラヴァン=隊商の活動
4.交易の民=ソグド人
5.交易離散共同体-アルメニア人
付録.現代のシルクロード
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1.シルクロードとは何か
ホータンの玉
現在の新疆ウイグル自治区にあるホータンは、古くから玉の産地として知られています。軟玉とも言われて、比較的加工しやすいため、精巧な細工が行われた装飾品や器具が作られました。
琥珀
琥珀は樹脂が固まって化石化したもので、北欧で多く産出します。写真は、樹脂が固まる過程で虫が付着し、そのまま化石化したものです。
「シルクロード」という言葉は、今から130年ほど前にドイツの地理学者リヒトフォーフェンが、あまり深い意味もなくつけた名称ですが、その後、この言葉はロマンチックなイメージをともなって一人歩きするようになりました。この名称が「絹が運ばれた道」というなら、オアシスの道だけではなく草原の道でも海の道でも絹は運ばれました。また、内陸アジアだけに限ってみても、この道は西から東へは「玉の道」「鉄の道」「仏教の道」でもあります。さらに内陸アジアには、草原の道から海の道を結ぶ南北の道が多数存在します。長安から四川・雲南を経てミャンマーに至る道、インドからチベットさらにモンゴルに至る道は、チベット仏教が伝わった道であり、西アジアから黒海を経てバルト海に至る道は、フェニキア商人の時代から琥珀の道でありました。そしてこれらの道は、単に商品を運ぶ道というだけではなく、「文化交流の道」でもあったのです。
2.オアシス都市国家の成立と発展
パミール高原
タクラマカン砂漠
ゴビ沙漠
一般に「シルクロード」と呼ばれている道は「オアシスの道」を指します。ユーラシア大陸のほぼ中央に世界の屋根と称されるパミール高原がそびえ、東から西へ、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、アラビア砂漠など、大きな砂漠が連続しています。とくにタクラマカン砂漠の周辺には崑崙山脈と天山山脈という5千メートル級の山脈が連なり、これらの山脈の万年雪から流れる雪解け水が伏流水となって砂漠に流れ込み、山麓と砂漠の接する場所に多数のオアシスを形成しました。すでに紀元前後にタリム盆地周辺だけでも50以上のオアシスがあったとされています。こうしたオアシス国家の人口規模は数万人が標準で、最大でも10万人を越えることはありませんでした。
タクラマカン砂漠のオアシス
カシュガルのバザール
一般にオアシスの中央部には、バザール、神殿・寺院を中心とする市街地があります。鍛冶屋、靴屋、大工などの職人も集まる産業の中心地です。周辺の農村地域では、市街地から得られる肥を利用して野菜や果物を栽培する農園が広がり、その外側に小麦などの農地が広がり、さらにその外側に黍などの比較的肥料を必要としない作物を栽培します。この地域を越えると極度に水の乏しい砂漠地帯が広がります。
3.キャラヴァン=隊商の活動
オアシスは、その地理的条件から一定以上に耕地面積を増やすことができないから、農業からはみ出した人々は特産物を作ったり、特殊な鉱物を掘ったりして、農業以外の産業に従事するようになりました。やがてそれを運んで隣のオアシスとの交易が始まる。しかし隣接するオアシスを往来するだけでもかなりの危険をともなっていました。砂漠や山岳地帯を通過し、また盗賊も出没しました。そこで商人たちは、旅行の安全のためや、物資を大量に輸送するためキャラヴァン=隊商を編成しました。キャラヴァンの規模は十数人から数百人に至るまで多様で、ラクダ(駱駝)やロバ(驢馬)などに荷物を運ばせました。
ヒトコブラクダ
フタコブラクダ
「砂漠の船」といわれるラクダは、サハラ砂漠からアラビア半島にかけて飼育されているヒトコブラクダと、ゴビ砂漠からアフガニスタンにかけての地域で飼育されているフタコブラクダがいます。ラクダは砂漠の生活に耐えるように耳の内側に毛が生え、まつげが長く、四肢も長く、鼻穴は自由に開閉できます。かたい植物が食べられる丈夫な舌と唇をもち、胃は4室に分かれて反芻してよく消化すます。アラブでは前3千年頃にはラクダを家畜化していました。アラブのヒトコブラクダは体温が40度になるまで汗をかかず、必要な水分は血液からではなく体組織から供給されるので、体重の40パーセントの水分を失っても生存でき、その直後に10分間に100リットル近い水を飲めます。これに対してフタコブラクダは寒さと荒れ地に強いため、内陸アジアの気候に適しています。一方、ロバ(驢馬)は粗食や悪条件に耐える性格があり、耐久力に強く、100キロもの荷を運ぶことができます。ロバはエジプトでは前4千年頃には家畜化されていました。一般に砂漠地帯ではラクダが用いられますが、湿潤な中国の雲南や四川ではロバが用いられました。
キャラバン
トルコのキャラバンサライ
キャラヴァンにはそのオアシスの地元の商人も参加することはありましたが、基本的には外来の商人であり、支配圏の外から到来するものでした。オアシスには中東地域でキャラヴァン・サライと呼ばれる隊商宿があり、支配者が建てたものなら無料で泊まることもできました。隊商宿には中庭があり、その周りを小部屋に区切られた二階建ての建物があり、中庭にはラクダをいれることができまし。商人たちが部屋を借りる場合、同郷・同宗教の人が共同で借りることが多かく、また、オアシスには支配者が娼婦宿を設けることもあり、さながらオアシスは砂漠に浮かぶ港町のようでした。キャラヴァンが扱う商品は、オアシス周辺で商う行商人とは違って贅沢品を中心としました。例えば、奴隷や高級絹織物、金・銀などの貴金属、香料や薬材などです。
4.交易の民=ソグド人
タリム盆地周辺ではキャラヴァン交易に従事する商人の大半は、オアシス国家の外からきた商人で、イスラーム化以前においては、それはソグド人でした。アラル海に流れ込むシル川とアム川という二本の川の間の地域はソグディアナと呼ばれ、サマルカンドをはじめとする比較的規模の大きなオアシス国家が古くから栄えていました。ここに住む人々はソグド人と呼ばれ、イラン系の民族で、アラム文字に由来するソグド文字を用いていました。ソグド人がいつ頃からどのような理由で国際商人になっていったのかはっきりしませんが、交通の要衝という立地条件が理由の一つであろうし、少なくとも紀元前後頃にはタリム盆地周辺でキャラヴァンによる商業活動を行っていました。
サマルカンドの下町
当時の遠隔地交易は、特定のキャラヴァンが特定の商品を、はるばるソグディアナから中国まで直接輸送するというようなケースはほとんどありません。シルクロード交易によって広域に商品が流通していても、その多くは近距離間で成立する交易を積み重ねた結果です。そして彼らの交易において重要な役割を果たしたのは、各地に定住する同族の存在で、彼らの交易はこうした同族との取引を基礎としていました。かなり古い時代から、ソグド人は各地のオアシス国家に集落をつくり、定住するようになっていました。彼らの集落はオアシス・ルートから中国にまで及び、規模の大きなものでは敦煌の約300戸1400人の集落があったとされています。また唐の長安にはソグド人の居留区が設けられていました。こうした人々を「交易離散共同体」と呼びますが、彼らは単によそ者であるだけではなく、その地方に根付き、その地の支配者により顧問などの高官に迎えられることも、しばしばありました。こうしたことを通じて、ソグド人は内陸アジアの政治にも大きな影響を及ぼすことになるのです。
ラクダに乗るソグド人(唐三彩)
一方、各地を移動して交易を行うソグド商人にとって、同族の集落は交易に関する情報収集の場であり、その地での交易活動の安全のためにも不可欠な存在でした。彼らは、交易拠点に定住する同族たちと、さまざまなかたちで商品を売買・融通・運搬し、資金の貸借も行っていました。こうしたソグド人たちの日常を示す一通の手紙が残っている。「ソグド人の手紙」と呼ばれるもので、差出人はナナイ・バンダクといい、中国本土と敦煌との中間あたりのオアシスに住んでいた「交易離散共同体」の一員です。受取人はソグディアナのサマルカンドにいるナナイ・ズバールとその息子バルザックで、おそらく発信人の事業上のパートナーと思われます。時代は、4世紀初め、ユーラシア大陸全体が騒然としていた時代です。
手紙の前半では、冒頭の挨拶とともに商売上の仲間や召使いの消息を伝え、さらに中国内地についての情報を伝えていますが、当時の中国は五胡十六国時代に入る直前で混乱状態にあり、内地との交易を維持することがいかに困難であるかを訴えています。そして手紙の後半部分で、ナナイ・バンダクがサマルカンドに残してきた資金について、ナナイ・ズバールにその適切な運用と管理を依頼し、できれば信頼できる人に託して利殖を図ってほしいことを依頼しています。そして、ナナイ・バンダクがサマルカンドに残してきた息子の将来の生活・養育費としたい意向を伝えています。息子とともにサマルカンドに残してきた父親が死亡し、息子が孤児同然になったようで、手紙は遠く東方世界で交易活動を行うナナイ・バンダクが、故郷に残してきた息子を案じて書かれたものでした。そして、この手紙が敦煌で発見されたということは、この手紙は結局故郷に届かなかったということです。
この手紙は、当時のソグド人の交易活動について多くのことを我々に語りかけており、その資料的な価値は計り知れません。しかし同時に、このような一人一人の商人の一つ一つの交易の積み重ねが、交易ネットワーク形成の基礎に存在していたということを、この手紙は我々に教えてくれます。そしてまもなく、ユーラシア大陸で遊牧民族の活動が本格化すると、ソグド人は遊牧民族と提携してユーラシア交易ネットワークを本格的に構築していくことになります。ところが、イスラーム勢力が本格的に内陸アジアに進出してきた10世紀頃、ソグド人は突如歴史から姿を消し、彼らの言葉も文字も忘れ去られていきました。しかし、この間にソグド人が内陸アジアと東西交流に果たした役割の重要性は計り知れません。
5.交易離散共同体-アルメニア人
アルメニアの首都エレバン
背後に見える山派、京訳聖書のノアの方舟が漂着したとされるアララト山(現在はトルコ領)。大半が山岳地帯で、耕地が少なく、
人口の3分の以上が都市に居住しています。
河川が網の目のように流れていても黒海やカスピ海をつないでいます。
交易離散共同体を形成した人々は歴史上に多数いますが、なかでもアルメニア人が有名です。日本ではアルメニア人についてあまり知られていませんが、今日アルメニア人の人口は600万人ほどで、そのうち半数は故郷のアルメニアに、残りの半数は世界各地に居住しています。民族系統はインドヨーロッパ語族に属し、独自のアルファベットを用いています。4世紀初め、ローマ帝国よりも早くキリスト教を受容し、アルメニア正教として今日まで信仰が維持されています。
アルメニアは地中海沿岸と東方方面への陸上交通の要衝にあり、海岸線はありませんが、黒海・地中海・カスピ海の接点にあります。その立地条件を利用して、アルメニア人は古くから交易を営みましたが、その立地条件故に多くの国や民族の支配を受け、1991年にロシアから独立するまで、自ら独立国家を築いた期間はわずかです。しかしアルメニア人の交易活動は広範囲に及び、地中海・西アジア・西欧・東欧、さらにシルクロードを通じて中国とも交易を行いました。この交易活動の過程で、多くのアルメニア人が交易地に定住して共同体を形成し、アルメニア人の交易ネットワークを形成していきました。アルメニア人は、ソグド人のように交易先で重要な影響を及ぼすことはありませんでしたが、ソグド人よりも広範囲に、そして遙かに長期間にわたって、商業活動とそのネットワークを維持し続けたのです。
付録.現代のシルクロード
現在ユーラシア大陸を横断する鉄道は二本あります。ひとつは19世紀初頭に建設されたシベリア鉄道であり、もう一つは1990年に完成された鉄道で、中国の江蘇省を発し、カザフスタンでカザフスタン鉄道と結合し、オランダのロッテルダムに至る1万キロの鉄道で、この鉄道は中国西部開拓の切り札と位置づけられています。中国西部とは、かつてシルクロードが通っていた西域、現在の新疆ウイグル自治区が含まれます。西部地区は過酷な自然条件もあって開発が遅れ、東部地区との経済格差が重大な政治問題に発展しました。
新疆鉄道
ウルムチ
そうした中で、この地区は天然資源が豊富なこともあって、近年大々的な開発が行われていまい。しかし、開発の利益を受けているのは、主として東部地域の人々であり、また伝統的な生活形態や自然破壊についても憂慮されていまい。さらにこの地区ではイスラーム教徒による分離運動もあり、今後新疆ウイグル自治区がどのようになってゆくのか、大変不透明な状態です。
≪映画≫
敦煌
1988年製作、日中合作
井上靖小説の映画化したもので、主人公が都で西夏文字と呼ばれる不思議な文字を発見し、それに魅せられて西方に向かいます。敦煌石窟で大量の文書が発見されていますが、その文書がなぜここに保管されたのこという、歴史的な背景を推測するものです。
映画の最初に登場する河西回廊の場面は見ものです。時代は宋代です。
ヘブン・アンド・アース 天地英雄
2003年中国の映画で、日本の中井貴一が出演しています。唐の時代に一人の日本人がシルクロードをさ迷います。沙漠のキャラバンや砂嵐が見所です。
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