2014年1月11日土曜日

ムンバイ


  以前にインド映画「ボンベイ」について紹介しましたが、ボンベイとは英語表記で、現地ではムンバイと呼ばれています。ムンバイといえば20081126日にイスラーム教徒によるテロが起きた都市ですが、映画「ボンベイ」でもイスラーム教徒とヒンドゥー教徒との衝突がテーマとなっていました。そこで、今回はテロを題材とした2本のインド映画を紹介することで、テロリズムについて考えてみたいと思います。2本の映画とは、「デュルセDil Se~心から」(1998)と「ザ・テロリスト 少女戦士マッリ」(1999)です。
 ところで、日本はアメリカを中心とするテロとの戦いの一翼を担っていますが、一体テロとは何なんでしょうか。「テロリズム」とは、フランス語のテロル=恐怖を語源とし、ウィキペディアによれば、「一般に恐怖心を引き起こすことにより、特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力行為、またはその手段をさす」と記されています。しかし、テロと戦争との境はあいまいです。戦争における都市に対する無差別爆撃=戦略爆撃は、明らかに上の説明に適合しています。また、1991年の9.11同時多発テロでは、犯人グループはアメリカとの戦争であると主張したし、アメリカのブッシュ大統領も「これは戦争である」と宣言しました。したがって何でも安易にテロと決めつけてしまうことは出来ませんが、だからといって民間人を巻き込んだ大量殺戮は許されることではありません。
 













 ムンバイでのテロ事件では、日本人が巻き込まれたため、日本でも大きく報道されましたが、実はこの数年インドではテロが激増しています。2008年に入ってからでも、今回の事件を含めて6回起きており、1030日に起きたアッサムの事件では65人が死亡しています。インドのテロ事件ではイスラーム教徒による事件が最も多いようですが、その他にもシク教徒やタミル人によるテロ事件もあります。
 
イスラーム教徒によるテロ事件としては、パンジャーブ地方のカシミールの帰属をめぐる対立が原因となっています。1947年にインドが独立する際、イスラーム教徒の多いパンジャーブ西部がパキスタンとして独立しました。そのとき、ヒンドゥー教の過激派がマハトマ・ガンディーを暗殺し、その後カシミール地方の帰属をめぐって、インドとパキスタンは3度戦争を行い、現在も対立が続いています。ここで紹介する映画「デュルセDil Se~心より」は、このカシミールの分離運動を背景としています。もっとも最近のテロ事件は、インドの国内矛盾に対する少数派イスラーム教徒による事件が多いとのことです。一方、インド側のパンジャーブにはシク教徒が多く、彼らはインドからの自治を求めています。インディラ・ガンディー首相(ネルー首相の娘)が、彼らの分離運動を弾圧したため、1984年に彼女はシク教徒によって暗殺されました。また、インディラ・ガンディー首相の息子ラジブ・ガンディー前首相は、スリランカでのタミル人の分離運動に介入したため、1991年にタミル人のテロリストによって暗殺されました。


「デュルセDil Se~心から」は、国営ラジオ放送の記者だった主人公アマルが、たまたま知り合った一人の女性に恋をし、その女性がテロリストだったという話です。映画では、インド各地のさまざまな美しい風景が映し出されるとともに、家族全員を政府軍に殺された一人の少女メグナがテロリストになっていく過程を描いています。そして最後に、メグナは体に爆弾を装着して政府要人に対する自爆テロを決行しようとしますが、その直前に、アマルと抱き合って自爆することになります。その瞬間のメグナの苦しみの表情は、表現のしようがありません。家族を殺されたトラウマ、テロを実行できない良心の呵責、そしてアマルへの愛が込められているように思われました。この映画は、想像を絶する悲劇的な結末ではありますが、監督は、テロの実行を阻止することによって、テロの連鎖が断ち切られることを願ったのでしょう。





 「ザ・テロリスト 少女戦士マッリ」は、実際に起きたラジブ・ガンディー前首相の暗殺を背景としています。日本語版のサブタイトル「少女戦士マッリ」というは日本のアニメのタイトルのようです。主人公のマッリは19歳なので、もう「少女」とはいえないでしょう。
 ところで、スリランカのタミル系反政府組織は、村々から強制的に子供を連れ出し、徹底的な訓練をほどこしてゲリラ戦士にしていたようです。マッリもそうしたゲリラ戦士でした。彼女は、眉一つ動かさずに人を殺すことができる筋金入りの戦士で、要人に対する自爆テロを志願します。しかし、決行の日まで数日間待機していたある村で、彼女は初めてゲリラ以外の人と接し、その結果、彼女の中に人間らしい心が芽生えます。そして、決行の時、彼女は爆弾のボタンを押すことが出来ませんでした。テロは失敗したのです。しかし事実は違います。女性テロリストは前首相(ラジブ・ガンディー)に花輪をかけた直後にボタンを押し、前首相の肉体は粉々に飛び散って遺体がなくなってしまいます。この映画でも、監督は、マッリがボタンを押さないことによって、テロの連鎖が断ち切られることを願ったのでしょう。


前に紹介した映画「ボンベイ」でも、ヒンドゥー教の夫とイスラーム教徒の妻は、宗教対立の混乱を逃れて、最後は平和を取り戻しますが、これも監督の願望だと思われます。しかし、現実にはテロや宗教対立はますます激しくなっているようです。インドのテロは、一体いつになったら終わるのでしょうか。古代以来、インドは多様な世界でした。そしてその多様性を克服することが、インド人の知恵だったように思われます。近代以降のインドでは、すべての宗教の相違を克服しようとしたラーマクリシュナやヴィベカーナンダ、前に紹介したマルハシ、非暴力・不服従を推進したマハトマ・ガンディー、不可触民に対する差別と闘ったアンドーベカルなど、すぐれた思想家が生まれますが、今のところ、矛盾と敵対はますます大きくなっているように思われます。


 また、「えび ケーララの悲恋物語」(シヴァンシャンカラ・ピッライ 1956年 林良久訳 新宿書房 1988)というインドの小説があります。この小説は、イスラーム教徒の商人の息子とヒンドゥー教徒の漁師の娘の恋をテーマとしており、結局この恋は成就されず、2人は抱き合って海に身を投げて死ぬという物語です。この小説は宗教対立だけをテーマとしたものではありませんが、村の因習と宗教的偏見を背景とした恋物語です。小さな村のなかにも、さまざまな対立が存在しており、これを克服しない限り、インドの抱える矛盾は克服されないのではないかと思います。









 



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