2014年1月9日木曜日

第29章 アメリカ合衆国の外交





1.孤立主義の形成

2.モンロー・ドクトリンの拡大解釈

3.孤立主義の放棄
 

 
 
 

 
1.孤立主義の形成

 

        独立宣言発表
 アメリカ合衆国は、独立後、合衆国憲法を制定して、民主主義国家の形成という前例のない実験を開始しました。そのためヨーロッパの専制王朝の影響を受けることを嫌い、当初からヨーロッパ問題に関与することを避ける傾向がありました。さらに、ヨーロッパでフランス革命が起きると、国内でフランス革命を支持する人々と反対する人々との対立が生まれた。アメリカ合衆国のように誕生して間もない国にとって、ヨーロッパ情勢の影響を受けた意見の対立は、国家の分裂を引き起こす可能性もありました。こうしたこともあって、アメリカ合衆国の外交に孤立主義の伝統が形成され  
          ていったのです。
ワシントンを破壊するイギリス軍


さらに、ナポレオン戦争中に、ナポレオンがイギリス経済に打撃を与えるため大陸封鎖令を出しましたが、イギリスはこれに対抗して海上封鎖を行い、フランスに向かうアメリカ船を拿捕したため、1812年アメリカ合衆国はイギリスに宣戦布告しました(米英戦争)。アメリカは、イギリス領だったカナダに軍隊を進めましたが、イギリスと同盟したインディアンの抵抗に苦しめられ、さらにイギリス海軍が東部海岸を封鎖したため、アメリカの貿易は壊滅状態となってしまいました。1814年ナポレオンを倒したイギリスは、アメリカに兵力を送ることができるようになり、首都ワシントンを焼き払うに至りましたが、結局シャンプレーン湖の戦いでアメリカ海軍がイギリス海軍に勝利し、同年末に講和条約が締結されました。

 

米英戦争の結果、アメリカ合衆国はイギリスからの自立化を一層強め、経済的にも北部で工業が発達してきたため、経済的にも自立を強めていきました。ただし、南部では奴隷制による綿花栽培が急速に発展したため、南部はイギリスとの関係を強めて行くことになります。後に起きる南北戦争は、アメリカ合衆国とイギリスとの関係をめぐる争いでもあったのです。一方、米英戦争は、まだ州の寄せ集めでしかなかったアメリカ合衆国の人々に国民としての自覚をもたせることになり、ようやく合衆国は国家としてのまとまりをもつようになったのです。

    モンロー主義を説くモンロー大統領
米英戦争が終わってから10年もたたないうちに、新たな問題が起きました。当時中南米諸国が次々と独立を達成しつつありましたが、これにヨーロッパが干渉しようとしたのです。アメリカは、大陸に君主制の国が復活し、ヨーロッパによる植民地が拡大することを、自国の安全に対する脅威であると感じました。こうしたことを背景として、1823年にモンロー宣言が発せられます。モンロー宣言が主張していることは、ヨーロッパ諸国はもはやアメリカ大陸を植民地化できないことと、独立したラテンアメリカ諸国に内政干渉すべきでない、という2点でした。そして、アメリカ合衆国は、すでにあるヨーロッパの植民地やヨーロッパ諸国にアメリカが干渉しないこともつけくわえました。つまり相互不干渉主義であり、これがモンロー・ドクトリンと呼ばれるものです。

モンロー大統領は、ヨーロッパをアメリカ大陸から遠ざけることが、アメリカ大陸、なかでもアメリカ合衆国の利益をまもることだと主張したのです。

2.モンロー・ドクトリンの拡大解釈

その後モンロー・ドクトリンは重視されず、またそれが持ち出されるような事件も起きませんでした。ところが、19世紀末にアメリカ合衆国が本格的に海外進出を開始するようになると、モンロー・ドクトリンはアメリカ大陸における合衆国の政治的な優越性を主張するために用いられるようになりました。これを背景にモンロー・ドクトリンは、大西洋と太平洋をむすぶ中央アメリカの運河もアメリカが建設し、独占的に支配することができる、と解釈されるようになったのです。
 
   セオドア・ローズヴェルト大統領
さらに、1904年、セオドアローズヴェルト大統領はモンロー・ドクトリンに基づき、中南米諸国が国内的あるいは対外的に誤った行為をおかした場合には、アメリカ合衆国だけが介入できると主張し、これによってルーズベルト大統領はベネズエラの内政に干渉することになります。これは明らかにモンロー・ドクトリンの拡大解釈ですが、その後のアメリカ合衆国は、この解釈に基づいて中南米諸国に対する影響力を強めていくことになります。
 
 
 
 
 
 
 
中南米諸国と合衆国
中南米諸国では、クリオーリョと呼ばれる白人地主がインディオを農奴として使役し、輸出用の作物を栽培していました。こうしたクリオーリョ支配に対して、しばしばインディオの反乱が起きたため、中南米諸国の多くで軍事独裁政権が続いていました。そしてアメリカ合衆国は、こうした軍事独裁政権を支援して、中南米諸国を経済的に従属化させていきます。19世紀末の中南米諸国では、なおイギリスが強い影響力をもっていましたが、第二次世界大戦が終わった時には、アメリカ合衆国が圧倒的な影響力をもつようになり、今やアメリカ合衆国は中南米諸国を経済的に支配するようになりました。それは、もはやアメリカ合衆国を中心とした一つのシステムであり、パックス・アメリカーナは、このシステムを中心に形成されていったのです。

3.孤立主義の放棄

       ウィルソン大統領
 
 19世紀にアメリカ合衆国が孤立主義を維持することができた理由の一つは、19世紀のヨーロッパにおいては、イギリスによる勢力均衡が維持され、1世紀におよぶ平和が維持されていたからです。しかし20世紀に入って、イギリスの優位が動揺し、しかも第一次世界大戦が始まってヨーロッパが混乱状態に陥ると、もはやアメリカ合衆国は孤立主義を維持することが困難となり始めました。こうした中で、1917年にアメリカは連合国側で参戦することを決定し、連合国の勝利を決定づけることになった。参戦にあたって、ウィルソン大統領が議会に参戦決議を求めたとき、彼が提示した参戦理由は、「世界を民主主義のために安全にする」というものだった。

 アメリカ合衆国は移民の国であり、とくに19世紀後半に多様な移民が大量に流れ込んで、民族と宗教のモザイク国家となっていましたから、建国の精神である「自由と民主主義」を守ることが、国家のアイデンティティとなっていました。そして、ウィルソンは、これを参戦目的として掲げたのです。ウィルソンは、参戦以前から中南米諸国にアメリカ的な民主主義を押しつける傾向があり、それが拒否されると軍事力を用いることも辞しませんでした。こうしたウィルソンの理念が第一次世界大戦に持ち込まれ、その後もアメリカ合衆国は、この理念を掲げて多くの戦争を行ったのです。そして、このような外交政策は、「宣教師外交」ともいわれています。

 戦争末期の1918年に、ウィルソンは「十四カ条の平和原則」を提示し、自由主義的な新国際秩序の建設を呼びかけました。そして、終戦後みずからパリ講和会議を指導し,念願の国際連盟規約を成立させました。それは、伝統的な孤立主義外交からの決別の意思を表明したものです。しかし、ウィルソンの政策は,結局議会の承認を得られず,アメリカは国際連盟に参加せず、再び孤立主義の伝統が復活しました。しかも、1930年代の国際政治の混乱はアメリカ人の孤立主義の感情を強め,ヨーロッパで起きたさまざまな事件にも、積極的に関与することはありませんでした。
  フランクリン・ローズヴェルト大統領
 ところが、第二次世界大戦が勃発し、フランスがドイツに占領されると、アメリカ人は孤立主義が平和をもたらさなかったと悟り,孤立主義を放棄しました。19418月にはフランクリンローズヴェルト大統領が、イギリスの首相チャーチルと会談して大西洋憲章を発表します。この憲章において両者は、この戦いがファシズムに対する民主主義の戦いであることを確認したのです。そして、この年の12月に日本が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が勃発することになります。


 
 
 
 
 
 
 
     トルーマン大統領
 アメリカ合衆国は、戦後世界がアメリカの指導を受け入れると考えていましたが、まもなくそのような世界秩序が形成されないことを知りました。アメリカは、その原因がソ連の拡張主義にあると考え、ソ連と国際共産主義に対する「封じ込め政策」を推進します。1947年トルーマン大統領は、議会での演説で「合衆国の外交政策の主要目的の一つは,われわれ自身および他の諸国民が圧政に脅かされることなく生活を営むことができる状態の創造にある」と述べ,社会主義を全体主義ととらえて、その拡大を阻止する決意を表明しました。

 この演説は、共産主義の拡大を阻止するため、ギリシアなどを援助することを表明したもので、これによってアメリカ合衆国は、東地中海の小国の問題にまで介入することを表明したのです。以後、アメリカ合衆国は、自由主義陣営の盟主として、世界のあらゆる地域に介入することになります。それは、「パックス・ブリタニカ」の終焉と、「パックス・アメリカーナ」の到来を世界に宣言したものでした。


 ≪映画≫


パトリオット 
2000年 アメリカ
アメリカ独立戦争を舞台とした映画です。主人公は、フレンチインディアン戦争の英雄でしたが、新たな戦争には乗り気ではありませんでした。しかし息子の戦死をきっかけに、戦場に赴くことになります。独立戦争では、必ずしも独立賛成派が多数だったわけではないのです。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
風と共に去りぬ 
1939年 アメリカ
これは、マーガレット・ミッチェルの小説を映画化したもので、大変有名な映画です。舞台となっているのは、まだ奴隷制が行われていたアメリカ合衆国南部ジョージア州(ジョージア州はキング牧師の出身地で、公民権法運動の発祥地でもあります)、時代は南北戦争が起こった1860年代です。南北戦争という激動の時代を背景に、主人公スカーレット・オハラの屈折した愛が描かれています。
 南北戦争を境にして、アメリカ合衆国は国民国家としての統合を果たしていくと同時に、急速な工業化が進み、アメリカ社会は大きく変わっていきます。


 
ジェシー・ジェームズの暗殺
2007年 アメリカ
19世紀末期のアメリカ合衆国、とくに西部は無法状態に近く、アウトローが横行していました。ジェシー・ジェームズは強盗団のボスでしたが、不思議に国民的人気のある人物でした。彼は最後に賞金目当てで射殺されますが、この映画は暗殺に至る経過を描いています。この映画を通じて、この時代のアメリカ社会の一面を見ることができます。
 なお、ウイキペディアによれば、ジェシー・ジェームズが世界で初めて銀行強盗に成功した213(1866)は、「銀行強盗の日」となっているそうです。アメリカって、変な国ですね。



 
 
 
 
ニューオリンズ
  
1947年 アメリカ
 ニューオリンズはミシシッピー川の河口に位置し、かつては奴隷貿易で繁栄したため、アフリカ系文化の影響を受け、20世紀初め頃にこの都市でジャズが盛んになりました。当時この町で、ジャズの王様といわれたルイ・アームストロングも活躍しています。この映画は、この時代のニューオリンズを描いたものです。しかし1920年代に、風紀を乱すという理由で歓楽街が閉鎖されたため、多くのジャズ演奏家がシカゴへ移動します。ミシシッピー川を蒸気船で遡るとミシガン湖のほとりのシカゴに結びついているからです。こうしてジャズの中心はニューオリンズからシカゴへと移ります。
 この映画には、ルイ・アームストロング自身が出演しており、アームストロングなどの演奏家たちが蒸気船でニューオリンズを去っていく場面で終わります。



 
 
怒りの葡萄  
1940年 アメリカ
 これは、スタインベックの小説を映画化したもので、1930年代のアメリカ西部のオクラホマを舞台としています。この時代のオクラホでは、未熟な農業技術による土地の荒廃、農業機械や大資本の進出、さらに世界恐慌による打撃などにより、多くの農民が土地を失いました。彼らは、新しい土地を求めてさらに西へと移動し、カリフォルニアに向かいますが、そこにも土地はありませんでした。この映画は、当時のこうした農民の悲惨な生活を描いています。なお、タイトルにある「葡萄」は聖書に由来するようで、実りと収穫の神としてのイエスを表しているそうです。また、オクラホマからの脱出は、聖書の出エジプトを暗示しているとのことです。
 ところで、舞台となったオクラホマは、いろいろと因縁のある土地です。1830年代にジャクソン大統領がインディアン強制移住法を制定し、当時ジョージア州に住んでいたチェロキー族というインディアンをオクラホマに強制移住させました。ところが、19世紀末に政府は、新たに土地を求める人々のためにオクラホマを解放したのです。そのため土地の獲得を夢見る人々がオクラホマに殺到します。前に述べた「遥かなる大地」の主人公もこうした人々の一人です。そして今度は、大資本家に土地を奪われたオクラホマの農民たちは、オクラホマを去っていくことになるのです。



ザ・ホワイトハウス 
1999年-2006年 アメリカ
1999年から始まったアメリカ合衆国の連続テレビ・ドラマです。本来このドラマにタイトルは、大統領執務室のある建物の名称から「ザ・ウエスト・ウイング」となっていますが、日本では分かりにくいので、「ザ・ホワイト・ハウス」というタイトルになったのでしょう。このドラマは、大統領とこれを補佐するスタッフたちの日常の活動を描いていますが、何しろアメリカ大統領の日常活動ですから、日々世界を動かすような決断をすることになります。この意味で、このドラマは大変スリリングです。
第一シリーズでは当選直後の政策運営に苦労し、最後は大統領暗殺未遂事件が起きたところで終わります。第二シリーズでは大統領の隠された病気が問題となり、最後は再選問題を決断する直前で終わります。第三シリーズは、大統領の病気や再選問題が主要なテーマとなり、最後は何と大統領の娘がテロリストに誘拐されたところで終わります。ドラマは第七シリーズまでありますが、私が観たのはここまでです。
 このドラマは、アメリカ合衆国の大統領制度や選挙制度のあり方を理解するのに、大変役立ちました。



 


0 件のコメント:

コメントを投稿