私は、初めてベトナム映画を、しかも二本続けて観ました。「青いパパイヤの香り」と「コウノトリの歌」という映画です。そして、見る前の予想に反して、その穏やかさに心を打たれました。
私が知っているベトナムの歴史は、2千年以上前からしばしば中国に侵略されたこと、19世紀にはフランスの植民地となったこと、さらに一時日本に支配されたこと、第二次世界大戦後にはインドシナ戦争とベトナム戦争という30年に及ぶ戦争が続いたことなど、殺伐とした歴史です。したがって、ベトナムについて私が勝手に作っていたイメージは、戦乱、恐怖、惨めさ、というものでした。もちろん、こうした現実が存在したことは間違いないと思いますが、しかし人の生活というものは、それだけではないのだということを、この二本の映画を通じて学びました。
「青いパパイヤの香り」
この映画の印象を一言で言えば、「穏やかさ」です。この映画が公開されたのは1993年、映画の舞台となったのは、1951年のサイゴンです。1951年といえば、ベトナムではインドシナ戦争の最中で、フランス人とベトナム人が激しく戦っていた時代です。私のベトナムについてのイメージからすれば、戦乱に明け暮れる毎日だった、ということになります。ところが、映画には戦争の影はまったく見られず、ただ時間が緩やかな川の流れのように、ゆったりと流れていきます。
一人の少女が、地方からサイゴンの富裕な家庭に奉公人としてやって来ます。そして言われたとおりの仕事を淡々とこなしながら、時間はゆったりと流れて行きます。「事件」らしい事は何も起きません。ただ、時々「だんな様」が家出をしますが、すぐ帰ってきます。また、その家の長男の友人に淡い恋心を抱き、10年の歳月が流れた後、この恋が実ることになります。
この穏やかさは、どこから生まれてくるのでしょうか。この映画の最後に、ようやく読み書きができるようになった彼女は、ある本の一部を朗読します。「たとえ水がうねり逆巻いても、桜の木はりんとたたずむ」と。この言葉は、たとえ戦争で世が乱れていても、じっと耐えていれば、やがて平穏が訪れるという意味でしょうか。しかし最後の方の画面のバックに、一瞬戦闘機の鋭い発着音が聞こえました。1961年といえば、まもなくベトナム戦争が本格化する時代です。
「コウノトリの歌」
1975年サイゴンが陥落して、ベトナム戦争はベトナムの勝利に終わり、それから25年たった2000年に、この映画は製作されました。その後のベトナムについて、われわれはアメリカの枯葉剤による奇形児の問題や最近の急激な経済成長についての報道に接しますが、戦争中や現在におけるベトナムの人々の心を知ることはありませんでした。
この映画は、戦争を経験した人々が現在と過去を往復する形で戦争を振り返っていますが、実に不思議な戦争映画です。そこには敵に対する憎しみも、民族統一への共感も、感情の爆発もありません。毎日のように残酷な出来事が淡々と、一見穏やかに通りすぎでいきます。そしてヘリコプターでベトナム兵を追い機関銃を乱射するアメリカ兵も、ヘリコプターに追われ逃げ惑うベトナム兵も、実は同じことを考えていました。早くこんなことを止めて、穏やかに暮らしたい、と。それでも残酷な出来事は次々と、かつ淡々と起き続け、それらは心の傷として深く刻み込まれていきます。
映画全体に見られるこの穏やかさは、一体何なのでしょうか。残酷さの裏返しなのか、魂を失った者の虚脱感なのか、穏やかさを求める心の叫びなのか、私には分かりません。この映画もまた、生き残ったベトナム兵の一人が、最後につぶやきます。「大勢の仲間が死んだのに、なぜ私は生き残っているのか」と。
いずれにしても、私はベトナム映画の虜になりそうです。
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