2014年6月25日水曜日

世界史をどのように捉えるか

この論文は、20053月に河合文化研究所の主催で、北京大学の教授たちを招いて行われた日中討論会で発表されたものです。この討論会は、京都大学名誉教授である故谷川道夫先生の主導で行われ、大変活発な意見交換が行われました。その後、20066月に河合文化研究所「研究論集」第2集でこの論文が掲載されました。なお、この論文の内容は、このブログの「グローバル・ヒストリー 第3章 グローバル・ヒストリーとは何か」に反映されています。
今読み返してと、あまりに抽象的で分かりにくい文章です。私自身がまだ内容を消化できていないような文章でした。

1.「世界史」は成立するか
 高等学校に「世界史」という教科があるが、そのような教科は成立するのだろうか。さらに「世界史」というのは学問として成立するのだろうか。高等学校で教えられている「世界史」は、5千年に及ぶ全人類の歴史についての断片的な知識の集積に過ぎないかのように思われる。それでは、「世界史」を体系的に語る方法はないのだろうか。

2.マルクス主義と文明史観
 19世紀以来歴史は各国別に研究される傾向が強く、世界史はそれら各国史の寄せ集めでしかなく、せいぜいそれらの国の相互関係が論じられる程度だった。これに対して、全人類の歴史を共通の基準で体系化する方法が模索されてきた。かつて世界史の教科書は、かなり曖昧ではあるが二つの観点で体系化されていたように思う。一つはマルクス主義であり、一つは文明史観である。
マルクスは、人類の歴史を生産様式の変化に基づいて、古代=奴隷制社会、中世=農奴制社会、近代=ブルジョワ社会ととらえた。彼の思想は日本にも大きな影響を与え、戦後マルクスのテーゼを日本の歴史に適用するため、一時不毛な論争が展開された。すなわち日本における古代・中世・近代はいつなのか、さらにアジアにおける古代・中世・近代はいつなのか、という論争である。そしてヨーロッパの近代化を典型的なモデルとして、アジア的な停滞とヨーロッパ的な進歩が常に対比されることになる。たしかにマルクスの理論が適合するなら、このような捕らえ方も世界史を共通の基準で体系化する一つの方法ではあるが、もともとヨーロッパの歴史を基盤に考え出されたマルクスの理論を、他の地域に適用するのは無理だった。したがってこの論争はしだいに下火となり消えていったが、今日でも世界史の教科書にはその影響が強く認められる。
文明史観は、国家の枠を超えて世界をいくつかの文明圏に分け、近代以前にはそれぞれの文明圏が独自の発展を遂げていき、その過程でそれぞれの文明圏の間にさまざまな交渉・交流が行われたとするもので、基本的には今日までの世界史の教科書の大きな枠組みは、この史観を基盤としている。具体的には四大文明の発生と、それに続くオリエント文明・地中海文明・インド文明・東アジア文明・西欧文明などである。このような文明史観は、すでに19世紀の哲学者ヘーゲルに見られ、20世紀にはシュペングラーやトインビーによって発展された。しかし文明史観も、見方によっては各国別歴史の枠を拡大しただけといえなくもない。これをもって、真の世界史といってよいであろうか。

3.近代世界システム
 最近の「世界史」では、近代世界システムという考え方を大幅に導入されている。この考え方は、アメリカの社会学者・歴史家ウォーラーステインの『近代世界システム』(1974)に依存している。
 ウォーラーステインは、特異な研究経歴をもった人物である。もともと社会学者として出発し、現代アフリカの研究を行っていたが、アフリカを研究するためには資本主義についての分析が不可欠と考えて経済学の研究に向かった。ところが資本主義を理解するためには、その起源を研究することが必要と考えて歴史家に転じたのである。まず最初に、「近代への序曲」の冒頭の部分を、多少長くなるが引用することにする。
 
 15世紀末から16世紀初頭にかけて、ここにいう「ヨーロッパ世界経済」が出現した。それは、帝国ではないが、大帝国と同じくらいの規模を有し、大帝国と共通の特質をいくつかもっていた。ただし、帝国とは別の、新たな何かなのである。それは一種の社会システムであり、この世界が従来まったく知らなかったものである。また、これこそは、近代世界システムの顕著な特質をなすものである。ここにいう「世界経済」とは、あくまで経済上の統一体であって、帝国や都市国家、国民国家などのような政治的統一体ではない。実際、この「世界経済」はその域内  その領域を確定するのは容易ではないが  に、まさにいくつもの帝国や都市国家、さらに成立の途上にある「国民国家」などを包含しているのである。それは、文字通りの「世界」システムなのである。もっとも、それが全世界を包含しているからというのではなくて、地上のいかなる法的に規定された政治単位をも凌駕しているという意味で、世界的なのである。それはまた、すぐれて「世界経済」である。というのは、このシステムを構成する各部分の基本的なつながりが経済的なものだからである。むろんそれは、文化的な紐帯によって多少は補完されてもいるし、後述するよう、窮極的には政治的な連帯や、ときには同盟関係によってさえ補完されてはいるのだが。(I.ウォーラーステイン「近代世界システム」川北稔訳、1981年岩波書店)
 
ウォーラーステインがこの文章で述べていることは、要するに次のようなことである。
近代以前にも多くの世界システムが存在した。歴史上世界システムには二つの形態が存在した。すなわち「世界帝国」と「世界経済」である。古くは、一つの地域あるいは一つの民族が国を形成し、そこに孤立的な地域経済=国民経済が形成されたが、やがて特定の国によって統一され、「世界帝国」が形成される。世界帝国は内部にさまざまな文化をもった国・地域が含まれるが、それらが政治的に統一され、その政治的に統一された範囲と経済的一体性をもつ範囲とがほぼ一致する。このような世界帝国としては、たとえば中国やエジプト・ローマなどの帝国が典型的な例である。このような世界帝国は政治的支配をともなうため、巨大な官僚機構を必要とし、そのためにコストが大きくなりすぎるため長続きしない。それに対して「世界経済」は、経済的一体性を保ちつつ、政治権力の統合がなされなかったことに大きな特色がある。ここでは、政治的支配の必要がないため、そのためのコストを世界経済の発展にまわすことができる。事実世界帝国は、近代になってすべて世界経済に飲み込まれていったのに対し、世界経済はやがて地球全体を覆い、今日に至るまで発展を続けている。ここでいう「世界経済」とは、もちろん「ヨーロッパ世界経済」のことであり、それはウォーラーステインのいう「近代世界システム」のことであり、それはまた資本主義的世界経済のことでもある。要するに彼は、この「近代世界システム」という概念を、すべての上にくる概念として用いることによって、特に行き詰まっていたマルクス主義の理論的な問題を解決しようとしたのである。
彼によれば、「近代世界システム」は、「長期の16世紀(1450-1640年)」に成立した。それは、ヨーロッパ各国で発達した国民経済がやがて世界化して形成されるのではなく、はじめから世界経済の形をとって「ヨーロッパ世界経済の成立とともに誕生する」のである。そこで資本主義の定義が問題となる。従来の見解では、自由な労働力を基礎とする資本・賃金労働者の関係が資本主義的生産様式の基盤であり、これを前提に、たとえば植民地時代の中南米は賃金労働を基礎にしていないから封建社会であるとか、合衆国南部の奴隷制は非資本主義的経営である、といった議論が展開され、日本を含めたアジア・アフリカの社会についても同様の議論が展開された。このような議論の背景には、マルクスと同様に国民経済を前提にした理論を普遍化させようとする意図があるのだが、ウォーラーステインはこのような考え方を拒否した。
彼によれば自立的なシステムは世界システムのみであって、国民経済はそれに従属するシステムでしかなく、したがって時代区分も従来のような国民経済を前提とした区分ではなく、世界システムを前提としたものでなければならない。たとえば合衆国南部の奴隷制プランテーションは、ヨーロッパ世界経済の一部として機能しているのだから、資本主義的なものであるはずである。つまり彼が主張する資本主義的な世界経済とは、「市場向け生産のために成立した世界的分業体制」なのである。そこにおいては、生産様式が奴隷制であろと農奴制であろうと賃金労働者であろうと、また農業が中心であろうと工業が中心であろうと、そんなこととは関係なく、その生産が世界的な分業体制に組み込まれていれば、それは資本主義の枠内にあるということである。
そして近代世界システムにあっては、世界は3つの構成要素からなる。つまり中核・半辺境・辺境であり、世界経済は中核が半辺境・辺境を従属させる壮大な分業体制である。もちろんこのような分業体制が全世界を覆うようになるのは、19世紀をまたねばならず、16世紀にはまだヨーロッパとその一部で形成していたにすぎない。
以上のようなウォーラーステインの主張については、賛否両論を含めてさまざまな反響を呼んだ。中でも彼の議論がヨーロッパ中心的であるという批判が多かったが、この批判の一つとして注目すべきは、アメリカの社会学者・歴史家であるアブー・ルゴドの『ヨーロッパ覇権以前―もうひとつの世界システム』(1988年、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹訳、2001年、岩波書店)である。

4. ヨーロッパ覇権以前-もう一つの世界システム
 問題の出発点は、16世紀に「近代世界システム」が成立したとするなら、そのルーツを検証せねばならないということだ。その際、検証の対象となるのは、時代的には1250年から1350年頃にかけての時代で、この時代に国際的な商業経済は著しい発展を遂げ、北西ヨーロッパから中国に至るルートが張り巡らされ、世界システムが成立したのである。そして、このシステムが崩壊した後に「近代世界システム」が成立するのだが、13世紀のシステムが西洋に受け継がれる歴史的必然性はない、というのが彼女の主張である。
 従来、ヨーロッパの内的な優位性がヨーロッパの勝利をもたらしたと主張されてきたが、13世紀の段階で多く点でヨーロッパはアジアと比べて遅れており、特にヨーロッパ人の優位の証とされる自由放任についても、アジアでも一定の自由があり、逆にヨーロッパでもそれ程自由ではなかった。しかし、16世紀以降ヨーロッパが東洋を追い越していったことは事実であるが、その理由はヨーロッパの優越性にあるのではなく、東洋が時として算を乱したことがあるからだ。第一に、13世紀にチンギス・ハンによって統一された大陸貿易ルートは、まもなく後継者たちによって分断され、一方アラブ人治下のアジアはティムールによる掠奪から立ち直ることができなかった。第二に、14世紀半ばに流行した黒死病は、世界交易の海上ルート上にあるほとんどの都市を殺戮し、その結果世界中に流動的な状況が生まれた。そして、それは急激な変化を生み出し、それがヨーロッパにチャンスを与えることになったのである。
 東洋の没落が西洋の勃興に先行したことは決定的に重要である。ヨーロッパの征服を容易にしたのは、先行するこのシステムの退化にあった。したがって西洋の勃興を、ヨーロッパ社会の内的特質に求めることは誤りであり、矛盾する二つの力が働いていたのである。第一に、13世紀までに発達した通商路は、ヨーロッパによって制され、ヨーロッパはシステムを新たに構築する必要はなかった。基礎となる土台は、ヨーロッパがまだ周縁だった13世紀には、すでに存在していたからだ。この意味で、西欧の勃興は先行の世界経済を再構成することによって促進されたといってよい。
 16世紀に発生した近代世界システムには、これと全く異なる特徴を備えた13世紀システムが存在したように、13世紀システムも同じく先駆者をもっていた。およそ2000年前にごく初期の世界システムが存在し、それは13世紀世界システムに参加するほとんどの地域を含んでいた。地理的にはそれは13世紀のそれとよく似ていたが、政治的には帝国的な構造を持ち、経済的には各部分がうまく統合されているとはいえなかった。西方のローマ帝国と東方の漢帝国が絶頂期に達し、またインド経済が発展期を迎えたとき、東南アジアを通り中国に至る国際交易ルートがいくつかの結節点を経由して機能していた。13世紀に再び完成する回路を再構成するには、これに当時機能していた中央アジア経由のシルクロードを付け加えればよかった。
 しかし初期のシステムについては、異なった構造に注意せねばならない。つまりシステムの両端には帝国が存在し、相互の関係は著しく制限され、また間接的であった。しかも一度大帝国が衰えれば、複数の断片的な地域はこのシステムを維持することができなかった。ローマ帝国が滅亡し、漢の統一が失われると、このシステムも崩壊し、それが再構成されるのはイスラム世界の興隆と東方への拡張後のことである。13世紀世界システムに結実するのは、この再組織化なのである。
 以上のように、アブー・ルゴドは、ウォーラーステインの近代世界システムを承認した上で、その前提となる13世紀世界システムを提唱した。それはヨーロッパを中心としたウォーラーステイン説への反論であり、近代以前の世界システムを提示したという点では、大変興味深いが、ウォーラーステインの近代世界システムとは基本的に論点が異なっているように思われる。ウォーラーステインの主張の中心は労働管理の方法と世界的分業体制にあるが、アブー・ルゴドの主張する「世界システム」は通商上の一体化あるように思われる。しかし、この彼女の主張によって、ウォーラーステインが提示した「近代世界システム」の考え方が、近代以前にも適用しうる道を開いたように思われる。

5.「近世」について
 こうした研究動向を背景に様々な議論が展開され、近年「海のネットワーク」やそれと関連した「東南アジア史」の研究が盛んに行われるようになった。そうした研究の中で大変注目されたのが、オーストラリアの歴史家アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』(1989年、平野秀秋・田中優子訳、2002年、法政大学出版局)である。リードはウォーラーステインの強い影響を受けて東南アジアの研究を行い、15世紀から17世紀末までを「交易の時代」と呼んで、この時代の東南アジアの全体像を描き出した。彼の研究は、東南アジアという範囲を越えて、この時代の世界全体の動向に共通する特色を見出し、この時代全体を「近世」という言葉で説明しようとする動向が生まれた。そうした研究の中で私が大変注目したのは、山下範久『世界システム論で読む日本』(2003年、講談社)と岸本美緒『東アジアの「近世」』(1998、山川出版)である。
 山下は日本史を専門としつつ、アメリカに留学して直接ウォーラーステインに師事したという異色の人物で、彼の著作は実証性には欠けるものの、大胆な構想を打ち出している。すなわち、「近代世界システムに空間的外部が存在したのは、15世紀後半から19世紀初めで、いわゆる近世である。これまで近世という概念は、地域別に個々の基準で、中世と近代の過渡期と位置づけられるのみで、自立的な性格を与えられてこなかった。しかし、近代世界システムの空間的外部に注目するなら、むしろグローバルな文脈の中で一つの時代としての近世という考え方が浮上する」ということである。
 そして彼は具体的に次のように説明する。同じ16世紀後半に一つのヨーロッパ帝国の構想は潰えたが、同じ時期にヨーロッパの外では、その後も生命を保つ諸帝国の支配が固まりつつあった。北ユーラシアではイヴァン4世(雷帝)が全ロシアの皇帝を称した。西アジアではスレイマン1世の統治が完成した。南アジアではムガル帝国にアクバルが現われた。東アジアでは、明清交替期にあたっており、北虜南倭を含む動乱の時代で、その意味でヨーロッパ同様世界=帝国の構築は不確かだった。朝鮮、ヴェトナム、琉球、日本も含めた中国周辺の諸王朝が、明清交替に際して、王朝の不連続にもかかわらず、中華的な地域秩序自体の変更を求めず、その結果清帝国はその秩序の持続性の重心としての役割を果たした。したがって、16世紀後半の時代は、大勢としては世界=帝国の確立期である。この時代にはヨーロッパも含めた五つの近世帝国のパラレルな形成期であったと、見ることもできる。
そして、このような近世帝国が生まれた背景を次のように説明する。長期の16世紀後半の特徴は、リスクに対する態度の変化である。急成長する経済社会の背景に、様々な可能性を試行錯誤するような交通の拡大の時代は終わり、交通の回路の制度化が進んだ。それはリスクの高いルートと低いルートの選択であり、またそれを通じての権力による増収圧力の強化だった。例えば近世ヨーロッパの重商主義政策も、清が再度実施した海禁政策も、日本の鎖国政策も、基本的には交通・交易の権力による管理の強化という点で一致しており、この転換の同時性には構造的な意味がある。そしてこのような管理の強化は、一つの重大な帰結をもたらした。それは、地域の求心性の形成である。交通の管理化によって空間的創造力の固定化が生じ、地域的な規模での中心に投影された普遍性を分有する範囲で「世界」が完結してしまったのである。
岸本もまた、「近世」について次のように説明する。「今日、「近世」とは、日本史やヨーロッパ史でいわれる近世とほぼ重なる16世紀から18世紀までの間を指すものとして用いられるが、それはヨーロッパとの類似性によってではなく、さまざまな個性をもつ諸地域が相互に影響を与え合いながら、16世紀から18世紀というこの時代の経済変動のリズムを共有していたという認識に基づいている。この時代の東アジアの歴史を巨視的な観点から眺めてみると、16世紀の急速な商品経済の活発化、社会の流動化の中で、従来の秩序が崩れていく混乱状況の中から新しい国家が生まれ、17世紀から18世紀にかけて新しい秩序が作り上げられていく、一サイクルの動きが認められる。17世紀初頭に成立した日本の徳川政権や中国清朝政権は、そうした中で同時代的に生まれてきたものであり、またより広い観点で見るなら、ヨーロッパの絶対王政も、同じリズムの中で捉えることができるだろう。」
ここに至って、ウォーラーステインの「近代世界システム」は大幅に相対化されることになった。19世紀にヨーロッパが世界を制覇したということは間違いないことであろうが、少なくともそれ以前にはいくつかの「帝国」の一つでしかなかったし、この段階でもなおヨーロッパが世界を制覇する保障はなかったのである。

6.最後に
 「世界史」をどのように捉えるかについて、いくつかの議論を検証してきたが、なお「世界史」の全体像を捉えるには程遠い。しかし、ウォーラーステインの「近代世界システム」から始まって、最近の「近世帝国」についての研究などを通じて、方向性だけは次第に明らかになりつつあるように思われる。また、最近ではヨーロッパ史の研究でも、従来近代の象徴とされてきた産業革命や市民革命の位置づけが相対化される傾向があり、ヨーロッパ史像も大きく変わりつつあるように思われる。
さらに最近「帝国」につていの研究が盛んに行われ、「世界史」を捉えるキーワードの一つと目されている。すなわち、政治的単位としての「帝国」から、19世紀末の帝国主義の「帝国」に至るまで幅広く「帝国」を検証し、それを通じて「世界史」を再構築しようという試みである。こうした研究によって新しい世界史像が再構築されるには、なお相当の時間が必要であり、その過程でまったく新しい視点が生まれてくるかもしれない。いずれにしても、新しい「世界史」の構築は、ようやくスタートラインに立ったばかりである。


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