2014年6月4日水曜日

第5章 第二次世界大戦後の国際関係
















(1)冷戦―「鉄のカーテン」の構築
ヤルタ会談
 1945年2月,ソ連領のクリミア半島のヤルタに3人の巨頭が集まって戦後の諸問題についての話し会いが行なわれた(ヤルタ会談)。 
3人とは,アメリカのフランクリン・ローズヴェルト,ソ連のスターリン,イギリスの
チャーチルである。この会談におけるローズヴェルトの最大の狙いは,ソ連の対日参戦の約束を取り付けることだった。当時のアメリカは日本の降伏までにまだ2年近くかかると予想しており,その間の人的・物的被害を考えるとソ連の対日参戦がどうしても必要だったのだ。スターリンの目指すものはドイツから賠償金を取ることと自国の安全保障であり,したがってヨーロッパとの間に緩衝地帯を設けることだった。特に問題となったのは,ドイツがソ連に侵入する通路にあたるポーランドの処遇であった。
 一方,チャーチルにとって心配だったのはギリシアだった。ギリシアは伝統的にイギリスの勢力圏にあったが,共産勢力が台頭して親英政権の維持が困難となっていた。そこでヤルタ会談の2ヵ月前にチャーチルとスターリンは密約を交わし,ポーランド・ブルガリア・ルーマニアについてはソ連の勢力圏に入れること,その代わりギリシアはイギリスの勢力圏に入れること,ハンガリー・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアについては未定ということで合意が成立していた。
 ただポーランドについては,ソ連との国境問題と新政権の問題が残っていた。第一次世界大戦後にソ連とポーランドの国境を定めるにあたってイギリスのカーゾンがカーゾン線なるものを提案して決定されたが,当時革命で混乱するソ連にポーランドが侵入してソ連領土を奪っていた。ソ連が要求した国境線はこのカーゾン線だったため,イギリスとしてはこれを拒否することができなかった。が,同時にポーランドもポツダム協定によって東プロイセンとシレジアをドイツから獲得した。シレジアとはオーデル川とその支流のナイセ川の東側地域で,このオーデル・ナイセ線をポーランドの西部国境とすることが暫定的に決まった(1990年,最終的に国境として決着)。また,当時ポーランドにソ連が支援するルブリン政権なるものが登場するが,ロンドンには国王派の亡命政権が存在しており,チャーチルは両政権の合同を提案し,一応近いうちに選挙を行なうということで妥結した。
 ドイツの賠償問題については,ソ連はなんとしても賠償をとる決意であったが,英米は第一次大戦で法外な賠償金をドイツに課したことが今度の戦争の原因になっていたため消極的で,結局この問題は継続協議となった。


チャーチルの「鉄のカーテン」演説

 戦後ソ連はこの一連の協定をある程度忠実に守っていたようだ。ギリシアではイギリスが共産党ゲリラを討伐しているのを見殺しにしたし,ユーゴスラヴィアではスターリンの崇拝者チトーが事実上独力で全土を解放してソ連の支持を求めてきたが,ソ連は国王派との連立政権を勧めた(そのためやがてチトーはソ連から離れていく)。またハンガリーでもさまざまな勢力の連立政権が成立していた。ただポーランドに関してだけは,国王派などを弾圧して強引にルブリン政権を樹立していった。そしてこのことが,前後の事情を知らないトルーマン米大統領に不信感を植えつけることになる。
 アメリカではローズヴェルトがヤルタ会談の2ヵ月後に死亡し,副大統領のトルーマンが大統領に昇格していたが,彼はヤルタ会談の内容について知らされていなかった。トルーマンの招待でチャーチルは大統領の出身地ミズーリ州のフルトンで,有名な「鉄のカーテン」演説(「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステに鉄のカーテンがおりている」)を行なった。この演説は「戦争を挑発している」として内外から批判を受けたが,トルーマンは大きな影響を受けたようだ。この前後からトルーマンの発言は徐々に強硬になっていく。
 そしてここにもう一人の人物が登場する。長年ソ連大使を務めたソ連専門家のケナンである。彼はマーシャル・プランの立案者の一人で,当時のアメリカの対ソ外交に重要な影響を与えていた。後に彼は有名な匿名の「X論文]を発表し,そこで初めて「封じ込め」という言葉を用いた。これは本来,ソ連の制度には根本的な欠陥があるので,西側が政治的・経済的優位性を高めて封じ込めればソ連に勝てるという非軍事的戦略を述べたものにすぎなかったが,やがてこの言葉が独り歩きし始め,もっぱら軍事的な意味で用いられるようになる。

マーシャル・プラン―アメリカ覇権の確立
 1947年,イギリスが経済状態の悪化から,ギリシア・トルコヘの経済援助の肩代わりをアメリカに要請してきた。特にギリシアでは共産ゲリラの活動が活発になり,イギリスは苦境に陥っていた。これを受けてトルーマンは議会で,後にトルーマン・ドクトリンと呼ばれる有名な演説を行ない,全体主義的体制=ソ連に対決する姿勢を明確にした。世界を資本主義対共産主義として捉え,ソ連をアメリカのライバルとして示したのである。そして同時にその背後には,イギリスの肩代わりをすることによって、全世界におけるイギリスの覇権を肩代わりしていくという戦略が秘められていた。事実その後の冷戦の過程で,イギリスに代わってアメリカがグローバルな覇権を確立していくのである。
 一方,同年モスクワで米英ソ三国外相会談が開かれ,ドイツ問題について話し合われたが決着がつかず,アメリカはソ連が混乱する西欧諸国が自滅していくまで時間稼ぎをしているのではないか、と危機感を感じるようになった。事実、当時西欧諸国の経済状態は悪化し続け,イタリアやフランスでは共産党の影響が急速に増大していた。
 こうした中で米国務長官マーシャルは,ヨーロッパに対する包括的な援助計画「マーシャル・プラン」を発表し,その際ソ連が受け入れがたいような条件をつけ,ソ連をはずして東欧諸国も巻き込もうとした。この援助計画に対する西欧諸国の反応は素早く,ただちにパリでイギリス・フランスの首脳が会談し,ソ連モロトフ外相も参加したが,彼はこの援助がヨーロッパヘの内政干渉であると批判した。翌1948年パリでヨーロッパ復興会議が開催されたが,ソ連は参加せず,東欧諸国にも参加を希望する国がいくつかあったが,ソ連の圧力で断念し,マーシャル・プランの受け入れ機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が設立された。この会議は,戦後ヨーロッパにおいてソ連が参加しない最初の会議となり,その意味でマーシャル・プランはヨーロッパが東西に分裂する契機となった。
 マーシャル・プランがヨーロッパに及ぼした影響は,直接の援助より精神的効果の方が大きかったようだ。受け入れが決定されるとヨーロッパ経済は一気に活気づき,実際に援助が開始される以前に経済は復興に向かい始めていた。また,経済援助による需要とヨーロッパ経済の復興に伴う市場の拡大で需要が高まり,アメリカ経済の発展にも加速がついた。さらにヨーロッパにおけるドルの影響力は圧倒的となり,世界経済におけるアメリカの覇権は動かしがたいものとなっていった。

コメコンの結成とNATOの設立
 一方ソ連は,マーシャル・プランに対抗すべく1947年ポーランドで東欧およびフランス・イタリアの9カ国の共産党代表を集め,ヨーロッパ共産党の情報交換組織としてコミンフォルムを結成(ユーゴスラヴィアは1948年除名、1949年東ドイツが加盟),さらに1949年にはコメコン(東欧経済相互援助会議)を結成し,ここに明白に東西両ブロックが形成されることになった。ソ連はすでに1946年以降ハンガリーの共産化に着手していたが,この頃から東欧諸国全体を勢力圏に入れる決意をしたようだ。1948年にはチェコスロヴァキアで共産党にクーデターを行なわせ,チェコスロヴァキアもソ連の勢力圏に入いることになったが,もともと西欧民主主義の伝統の強いチェコスロヴァキアの共産化は欧米に強い衝撃を与え,ソ連に対する不信感はさらに高まっていった。
こうした中で,イギリス・フランスとベネルクス三国・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)は,共同の西欧防衛組織として1948年ブリュッセル条約を締結し,西欧連合を結成した。しかしアメリカの参加がなければ共同防衛は不可能であったので, 1949年アメリカは,先の国にイタリア・アイスランド・デンマーク・ノルウェー・ポルトガル・カナダを加えて、軍事同盟である北大条約機構(NATO)を設立した。
かくしてヨーロッパは,政治・経済・軍事のすべての面で束西両陣営に分裂することになり,その両陣営の頂点にアメリカとソ連が立つことになったのである。

ベリン封鎖と東西ドイツの分裂
ドイツは米英仏ソの四カ国で分割占領されており,首都ベルリンも同様に分割占領されていた。したがって西ドイツからベルリンヘ行くには,ソ連占領地域を通過せならず,鉄道・高速道路はソ連が管理していた。
ドイツ問題については1947年モスクワ外相会談で話しが行なわれたが,統一ドイツから賠償金を取りたいという意図からソ連が統一を主張したのに対し,再び強力なドイツが出現することを恐れるフランスが統一に激しく反対したこともあって決着がつかなかった。こうした中で、西側占領地域ではこれをマーシャル・プランの受入れ地域とするなど,着々と分離の動きが進められていたため,ソ連は不信感を高めていた。当時ドイツは物資の不足と激しいインフレに見舞われており,通貨改革が求められていた。そこで西側は一方的に西側占領地域だけで通貨改革を行なったので,これに対抗して東側でも通貨改革が行なわれた。通貨改革の効果は劇的で,信用できる通貨が出るまで隠匿されていた大量の商品が店先に並び始めた。問題はベルリンで,東ベルリンでは東のマルクを使えばよかったが,西ベルリンでは東西のマルクを認めねばならなかった。つまりベルリン内部では東西の通行が自由であり,西のマルクだけでは東ベルリンや周辺で買い物ができないからだ。
 こうした中で,   1948年6月28日ソ連はベルリンヘの高速道路と鉄道の修理のため西ドイツから西ベルリンヘの通行を停止すると通告してきた(ベルリン封鎖)。日常必需品のほとんどすべてを外部に依存しているベルリンにとって,これはまさに一大事である。このベルリン封鎖に対抗すべく,西ベルリン市民は,森を切り開いて飛行場を作り,西側による大空輪作戦が本格化した。結局,ほぼ1年後に封鎖は解除されたが,その間ベルリンに向かった大型輸送機は約30万機に及んだ。ただアメリカもソ連も直接戦争を避けたいという思いがあり,アメリカは高速道路を護送車つきで強行突破しようとはしなかったし,ソ連も占領地域の上空を飛ぶ輸送機を阻止しようとはしなかった。
 そして,   1949年5月,西にドイツ連邦共和国(選挙の結果ホイスが大統領,アデナウアーが首相に)が樹立され,同年10月には東にもドイツ民主共和国が樹立されて,ここに東西ドイツの分裂は決定的となった。

東西対立の激化
 1950年代になると,ヨーロッパにおける冷戦は膠着状態となって一定の安定状態が生まれ,むしろ舞台は第三世界へ移っていた。1949年中国が共産化,ヴェトナムではすでにフランスが共産主義と戦っており, 1950年には朝鮮戦争が勃発した。
 特に朝鮮戦争はアメリカのアジア政策を大きく転換させた。まず1951年に日本との間で共産圏を含まない形でサンフランシスコ講和条約を結び,つづいて日米安全保障条約を締結,また台湾への支持を表明,さらに米比相互防衛条約を締結した。こうして中国封じ込めを図るとともに,インドシナ戦争に苦しむフランスヘの援助を開始し,また同年太平洋安全保障条約(ANZUS,オーストラリア,ニュージーランド,アメリカ)を締結した。
 さらに1953年にアメリカで共和党のアイゼンハウアー大統領が登場すると,ダレス国務長官は「封じ込め政策」は不十分であるだけでなく「不道徳」でさえあると述べて「巻き返し政策]を提唱し,反共路線が強化された。さらに,核兵器に依存する大量報復戦略(ニュー・ルック戦略)を提唱して局地戦争を全面核戦争に転化する用意があると示唆した。当時のアメリカは世界中の共産主義運動はすべてソ連の陰謀であり,一国が共産化す ればドミノが倒れるようにつぎつぎと共産化すると考えていたのである。
 ヴェトナムからフランスが撤退するとアメリカがこれを肩代わりし,軍事・経済同盟である東南アジア集団防衛条約機構(SEATO)を結成、1954年には台湾と米華相互防衛条約を締結,また1955年にはバグダード条約機構(中東条約機構,   METO,アメリカ自身は参加せず)を結成した。
 こうして共産諸国の周辺に反共軍事体制が成立し,ヨ-ロッパで始まった米ソ冷戦と東西両陣営への分裂は全世界に拡大していったのである。
 一方ヨーロッパでも、1954年のパリ協定によって西ドイツの再軍備とNATO加盟が決定され,これに対抗してソ連も東欧諸国とともにワルシャワ条約機構を結成した(1955年)。
 このように東西対立が激化する中で,今や第三次世界大戦の危機が高まり,しかもそれは人類を絶滅させる核戦争に発展する可能性があったのである。
 しかしこの頃すでに「雪解け」への新しい動きが生まれつつあった。

2)「雪解け」と核の恐怖
フルシチョフの登場とスターリン批判
 1953年ソ連でスターリンが死んだ。そして2~3年間の内部での権力闘争をへて実権を握ったフルシチョフは,「平和共存政策」を打ち出してたのである。
 こうしたソ連の外交政策の転換は,スターリンの死の直後から,すでにそのシグナルが出始めていた。1953年には朝鮮休戦協定が締結され,1954年にはジュネーブ協定によってインドシナ戦争が終結,   1955年にはオースリアからソ連軍を撤退させ,オーストリア国家条約によりオーストリアは永世中立国となっていた。またNAT0に対抗してワルシャワ条約機構を結成したが,同時に西ドイツ(1955年)や日本(1956年)と国交を回復し,さらにジュネーブで米英仏ソ四国巨頭会談が開かれ(1955年),会談自体は具体的成果がなかったが,協調精神だけは生まれた。
 こうした中でフルシチョフはスターリン批判を行ない、同時に革命や戦争によらず平和的に社会主義への移行が可能であるとして,資本主義と社会主義の共存を提唱し、さらにコミンフォルムを解散した(1956年)。
 フルシチョフは経済が発達して資本主義諸国を追い越せば,軍事的対抗の必要はなくなると考えた。事実当時のソ連の経済発展は目覚ましく,また技術的にも原爆・水爆の実験に成功し, 1957年には大陸間弾道ミサイル(ICBM)も開発し,人工衛星スプートニク1号も打ち上げた。
 さらに1950年代後半にはソ連に有利な世界情勢が成立しつつあった。アジア・アフリカ・中南米の第三世界において,ヨーロッパ帝国主義から独立したか,あるいは独立のために戦っている多くの国々が反欧米的傾向を強く持っていたからだ。スターリンはソ連と直接関係のないこれらの運動に対して冷淡であったが,フルシチョフはソ連に密着する西側防衛線への対抗としてこれを利用しようとした。フルシチョフは1955年インドとビルマを訪問し,またアフリカのガーナ・ギニアがソ連に接近し,エジプトもソ連の援助を受け,キューバもソ連の援助を求めてきた。
 しかしソ連には喉元に突き剌さった骨ともいうべきやっかいな問題があった。
 ベルリン問題である。

「ベルリンの壁」の構築
 東西ドイツの成立後,東ドイツから西ドイツヘの避難民が激増し, 194961年までの間に300万人以上が移ったといわれる。その理由は社会主義を嫌ったことと東西の生活の格差だが,このことは東ドイツの経済発展の大きな妨げとなるとともに,東側のメンツにもかかわることだった。1952年に東ドイツが西ドイツとの国境に有刺鉄線を張ったため直接移動することはできなくなったが、ベルリンは四力国の共同管理なので原則的に移動が自
であった。
 こうした事態を打開するためフルシチョフは1959年アメリカを訪問し,アイゼンハウアーとキヤンプ・デーヴィッドで会談を行った。会談は友好的雰囲気の中で行なわれ,気さくなフルシチョフはアメリカ人にも好感を持たれ,帰国にあたってフルシチョフは冷戦は終了したとまで言った。そしてすぐにアイゼンハウアーの答礼訪問が行なわれるはずだったが, 1960年にアメリカの偵察機がソ連上空で撃墜されるという事件が発生し,米ソ関係は再び悪化した。
 1961年,アメリカで民主党のケネディが大統領に就任すると,核兵器による大量報復戦略だけでなく、局地戦へも対応できる軍事力を保有すべきであるとする柔軟対応戦略を提唱し,好戦的な態度をしめした。しかしアイゼンハウアーに比べて反共色は薄かったので,フルシチョフはウィーン会談を行ない,そこでベルリンの現状を変更する意志があることを表明した。
 そして2ヵ月後の1961年8月,ベルリンの壁が構築される。その際ソ連はいかなる条件にも抵触しないように慎重に事を運んだ。壁はソ連占領地域で構築されたためアメリカは手を出すことができないが,アメリカ軍が東ベルリンでパトロールすることも自由であった。事実その後も双方の軍が毎日相手の占領地域をパトロールし続けたのである。結局アメリカは自重し,ソ連はこれによって喉元に剌さった骨を抜くことに成功した。

キューバ危機と部分的核実験停止条約の締結
 196062年にかけての3年間は危機の連続で,冷戦の再燃を思わせた。
 最大の危機は196210月に起こったキューバ危機である。ベルリンの璧の構築の際にはアメリカが譲歩したのに対し,今回はソ連が譲歩した。そしてソ連の譲歩が伝えられたとき,アメリカの関係者たちの誰一人として勝利の歓声をあげた者はいなかったという。なぜなら彼らは核戦争の危機に直面してしまったからだ。
 やがて米ソは、1963年部分的核実験停止条約を締結して,緊張緩和への道を歩み始めるのだが,その年にケネディは暗殺され,翌1964年にはフルシチョフが失脚することになる。その後ソ連ではブレジネフ,アメリカではジョンソンというあまり個性的でないリーダーが登場し,双方とも内政問題を重視したため,相対的な安定期に入った。
 ところで,フルシチョフの政策は,国際政治にもう一つの波紋を投げ掛けていた。すなわち世界共産主義勢力の分裂である。
 スターリン批判を契機として東欧諸国がソ連に反抗した際は、力で押え込むことに成功したが,中国との対立はその後の国際政治に決定的影響を与え,これが1970年代のデタント外交の前提条件となるのである。

米ソの核兵器開発競走
戦後の国際政治を左右する大きな要因に、軍事技術の飛躍的な発達がある。特に核兵器の登場は,従来の戦略概念を根底から変えていった。
 1939年,ローズヴェベルトは原爆開発のためのマンハッタン計画を開始し,オッペンハイマーが計画の責任者となり,イタリアから亡命していたフェルミが1942年初めて原子炉を作った。そして、1945年アメリカは原爆を,広島と長崎に投下した。したがってこの時点でアメリカはソ連に対して軍事的優位に立っており,しかもソ連が原爆を開発するには15年以上かかると考えていた。
 ところが1949年にソ連が原爆を開発し,これに対してアメリカは水爆を開発したが,ソ連も1952年に水爆の開発に成功した。
 核兵器の開発競争が拡大するなかでただちに問題となったのは,そのことが地球に及ぼす環境破壊の問題である。
 1950年には,ストックホルムで聞かれた世界平和擁護大会につづき,核兵器の禁止を訴えるストックホルム・アピールが出された。また1954年,日本の漁船第五福竜丸が,アメリカが太平洋で行なった核実験の死の灰をかふるという事件が発生し,これを契機に原水爆禁止運動が高まった。運動は市民レベルにまで広がり, 1955年には広島で原水爆禁止世界大会が開催された。さらに1955年には世界的に有名な哲学者ラッセルと物理学者アインシュタインが核兵器の反人間性を訴え、1957年には西ドイツの科学者たちが核兵器研究の拒否を宣言するゲッティンゲン宣言を発し,さらに同年カナダのパグウォッシュで科学者たちにより核兵器問題が討議された。
 しかし、もはや核兵器は政治的手段として独り歩きしており,しかも米ソの核戦略は新たな方向に展開しようとしていたのである。

大陸間弾道ミサイルの開発とその後
 核戦略で問題となってきたのは核兵器の輸送方法,すなわちどうやって敵の上空まで持っていくかである。爆撃機は航続距離・速度に問題があるのと,途中で撃墜される危険がある。この問題が特に深刻だったのはソ連で,アメリカはソ連周辺の同盟国から爆撃機でソ連に核兵器を投下できるが,ソ連はアメリカを直接攻撃できないという弱みがあった。そこで開発されたのが、長距離ミサイルつまり大陸間弾道ミサイル(ICBM)である。このICBMの開発競争に関してはソ連が先手をとった(1957年)。その後米ソはICBMの開発・配備に全力を役人することになるのだが,もし一方がICBMの発射ボタンを先に押した場合,他方はこれを防ぐ方法がない。そこで原子力潜水艦に核兵器を積んで海中深く移動し続けるなどという戦略が生まれてきた。こうすれば先制攻撃をかけるということは,同時に自らの滅亡を意味することになり,したがって先制攻撃のボタンを押すことができないというもので,それはまさに恐怖の均衡であった。
 そこで米ソの間で核兵器の制限を行なう道が模索され,1963年にはホワイトハウスとクレムリンを結ぶ米ソ首脳の直接の通信回線であるホットラインが設置され,同年には米英ソの間で核実験を地下に限定するという部分的核実験停止条約が締結された。さらに1968年の国連総会で核拡散防止条約が採択され,現在核を保有していない国が新たに核を保有することを禁じたが,米ソによる核支配の固定化に反対したフランス,中国は拒否した。
 しかし,核戦争防止のためのいかなる条約,いかなる安全装置があろうとも,核戦争が起きる可能性が100パーセントなくなるということはなく,これを排除するには,核兵器そのものを排除する以外に方法がない。
 こうした事態への危機意識はしだいに高まり,それは国際政治にも大きな影響を与えていくことになる。

3)冷戦の終結
ニクソン大統領のデタント外交
 1960年代後半には,アメリカはヴェトナム戦争の泥沼に入り込んで苦しみ,さらにフランスのド・ゴール大統領の反米的政策やECの成立などにより,西側におけるアメリカの影響力は相対的に後退した。ソ連も中ソ対立が泥沼化し,チェコ事件など東欧の反抗も招き、さらにこの時期には第三世界での革命運動もほとんど成功せず,むしろ右派クーデターが起きてソ連離れする地域もあった。そのため米ソの影響力は相対的に後退し,世界の多極化は一層進行した。
 こうした中で、1970年代にアメリカでニクソン大統領が登場すると,キッシンジャー特別袖佐官(後に国務長官)の下にデタント外交が展開されることになる。デタントは「弛める]という意味のフランス語で,「緊張緩和」と訳される。
 ニクソンの課題は,サイゴン政府を温存しつつヴェトナムから撤退すること,ソ連の軍事力増強に歯止めをかけること,アメリカ経済を再建することにあった。こうした課題を背景にした1971年のキッシンジャー訪中は,国際的な勢力バランスに決定的な影響を与え,これによってアメリカはソ運に対する中国カードという切り札を獲得した。経済的には、アメリカ軍が行なってきた同盟国の防衛を現地の軍隊に肩代わりさせる方向に向け,財政的負担を減らした。またソ連に対しては西欧・日本といった経済大国や中国の圧力により,さらに米ソ貿易の拡大といったことを背景に,アメリカに有利な軍縮交渉に引き入れようとした。こうして戦略兵器制限交渉(SALTI)が開始され, 1972年に合意に達した。
 こうして,米ソの直接攻撃を抑制しようとする交渉が行なわれたが,ヨーロッパに大量に設置された中距離ミサイルの配備によってヨーロッパが戦場になる可能性は強まった。
 さらに,すべてを連繋させるニクソンの綱渡り的外交は,結局失敗に終わった。ソ連や中国はつねにアメリカの誘導に乗るわけではなかったし,サイゴン政権の崩壊と国内でのウォーターゲート事件によって,ニクソン大統領は失脚したのである。

カーター政権の外交政策
 1970年代後半にアメリカでカーター政権が成立したが,彼はキッシンジャー流の力の均衡政策を拒否し,人権外交を打ち出した。彼はいかに親米的であろうとも人権を抑圧する独裁政権を支持しないという方針で,援助を武器に道徳を守らせようとした。確かにニカラグアの革命政権には当初柔軟な態度を示したし,南アフリカのアパルトヘイトにも強い態度を示した。しかし,一方でソ連の人権抑圧を批判しておきながら,他方ではフィリピンやイランなどの独裁政権を支持するという一貫性のない外交政策はやがて破綻していった。イランでの革命とソ連のアフガニスタン侵攻を契機に,カーターもまた力の均新政策に戻っていったのである。

保守主義の復活と第二次冷戦
 1980年代に入ると,東西対立は再び厳しさを増し,そのためこの時代は第二次冷戦ともいわれている。
 1981年アメリカで共和党のレーガン大統領が登場すると,古典的な冷戦観に基づき,ソ連と対決すべく軍事力の大幅な増強が開始された。当時は世界的に保守主義の復活の傾向が高まっており,イギリスではサッチャー政権,西ドイツではコール政権,日本でも中曽根政権などが成立していた。このように保守主義が台頭した背景には,第三世界において先進資本主義諸国を脅かすような革命がつぎつぎと起こったことがあった。中米ニカラグアでの革命,インドシナでのアメリカの敗北,アフガニスタンヘのソ連の侵攻,イラン革命,エチオピア革命,アンゴラ・モザンビークでの左翼政権の成立など,西側の後退とアメリカの弱さを見せ付ける事件がつぎつぎと起こっていた。西側は,これらはすべてソ連の拡張主義の結果であると主張し,しかもソ連は近年急速に軍事力を増強しているとして,ソ連と共産主義の脅威を強調した。
 まず軍事的には,従来の抑止戦略を捨て,核戦争に勝利するという攻撃的な戦略が打ち出された。具体的には,ソ連の弱点である最先端技術を駆使して命中精度の高いミサイルを開発しようというものである。さらに,上空に軍事衛星を打ち上げ,ソ連がミサイルを発射した場合,レーザー光線で撃墜するという戦略防衛構想(SDI)が計画された。
 しかし,このころヨーロッパでは,中距離ミサイルの配備が強い反対運動を受けるようになっていた。米ソ核戦争が起こったとき,ヨーロッパが戦場になるからだ。
 また,第三勢力への介入に関しては,直接の軍事介入,右翼政権への支援強化,革命政権に対するCIAなどの工作などがさかんに行なわれた。
 しかしこれらの政策はいたるところで障害に行き当たった。例えば,イスラエルと南アフリカの過激な行動を後押ししたため,逆に周辺地域で反米的動きが高まり,また台湾に肩入れしすぎて中国の反発を買い,中ソの接近を許して貴重な中国カードを失った。
 一方,ソ連もアメリカに対抗して軍事予算の増強を開始した。
 こうして80年代半ばには第二次冷戦は本格化するかに思われたが,ここでソ連が突如大変身をとげ,新しい国際政治のイニシアチブをとるようになるのである。

ゴルバチョフの登場
 1985年ソ連でゴルバチョフが登場すると,彼は「新思考外交」を推進して米ソ接近が進んだ。
 そして, 1987年には中距離核戦力(INF)全廃条約が調印される。古来軍縮とは兵器の削減であって,一つの兵器体系そのものを廃止するということはなかったという点で、この条約は画期的であった。さらに軍縮で最大の問題となるのは,査察の必要だが,軍事施設はつねに最高機密に属するため査察が容易ではない。しかし米ソともにこれを受け入れたのである。
 この条約を契機に米ソの接近に弾みがつき,ブッシュ大統領時代になると,東欧でのソ連離れの進行やベルリンの壁の崩壊などもあって, 1989年マルタ島での米ソ首脳会談で冷戦の終結宣言が行なわれるにいたった。

 もちろんこれで国際政治に安定が訪れるわけではなく,過去の冷戦の遺産である朝鮮問題・インドシナ問題・中東問題など多くの問題が存在している。湾岸戦争で見られたように,従来通りヨーロッパ的国際秩序の観念を第三世界に強制しようとするなら,今後この種の紛争はさらに頻繁に起こってくるであろう。また,ソ連邦の崩壊により,アメリカ的世界秩序を作り出そうとするなら,これもまた新たな紛争を引き起こすことになるであろう。



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