(1)西ヨーロッパ―EC統合への道
ヨーロッパの黄昏
20世紀に入ってヨーロッパが行なった二度の世界大戦は,ヨーロッパの自殺ともいうべきものであり,第二次世界大戦が終わったときヨーロッパの没落は決定的となっていた。戦争で国内経済が崩壊し,アメリカの援助なしには立ち行かない状態になったばかりか,冷戦によりヨーロッパは東西に二分されてしまった。
そればかりでなく,植民地の独立運動が激化し,長年植民地支配に安住してきたヨーロッパ帝国主義の屋台骨を揺り動かしつつあった。しかもこの点に関してはアメリカはヨーロッパにまったく同情を示さず,逆にヨーロッパが後退した後に入り込もうと狙っていた。まもなくイギリスはインド・パレスチナを失い,フランスもインドシナを失った。そして1956年イギリスとフランス軍はナセルのスエズ運河国有化宣言に対してエジプトに侵入するという暴挙を犯し,惨めな失敗に終わった。
このスエズ戦争は植民地独立という潮流に逆らう最後のあがきだったが,その失敗によりヨーロッパ植民地帝国の崩壊は決定的となり,さらに国際政治におけるヨーロッパの発言力も著しく低下していった。
こうした中で, 1950年代後半にはヨーロッパ再建のために植民地からの撤退とヨーロッパ統合の道が模索されることになる。
フランス―第五共和制の成立
フランスは第二次大戦中ドイツの占領下にあったが,1943年ロンドンにおいて,レジスタンスの闘士ミッテランとロンドンでレジスタンスを指揮するド・ゴールが会見した。このときから両者は,戦後のフランス政治を左右する宿命のライバルとなっていく。
1944年,パリが解放されて,ド・ゴールが臨時政府主席となったが,立法権優位を主張する議会と,執行権の優位を主張するド・ゴールとが対立し,結局ド・ゴールは辞任した。
1946年第四共和制が発足し,総選挙では共産党が第一党となり,社会党とキリスト教系の人民共和派との三党連立政権が成立した。しかしインドシナ戦争と冷戦の激化のため共産党が閣僚から排除され,政府はアメリカへの依存を強めていった。
このころミッテランは小会派から立候補し,またド・ゴールはフランス人民連合を組織し,勢力を伸ばしていった。このような多党分裂の中で政権は不安定であり,1950年代半ばにはインドシナ戦争に敗北。その影響でテュニジア・アルジェリア・モロッコの独立運動が激化し,テュニジア・モロッコの独立は承認したが,アルジェリア独立には国内に反対が多く,第四共和制は危機に陥った。
1958年アルジェリアの現地軍がクーデターを起こすと,ド・ゴールが解決に乗り出し,その結果第四共和制はわずか11年で崩壊し第五共和制が成立した。
ド・ゴール(1959年の選挙で大統領に)の政治は「ノン]の政治だといわれている。フランスの参加しなかったヤルタ体制を拒否し,米ソ世界支配を受け入れず,フランスの地位の低下を認めなかった。彼のめざすものはフランスの栄光と威信の回復だった。しかし現実には米ソに対抗できる力がないため,第三勢力の支持を獲得し,核兵器を保有してアメリカの核の傘から脱し,ヨーロッパの統合によって米ソに匹敵する力を持とうとした。そして,第三勢力の支持を得るためアルジェリアの独立を承認し(1962年),さらに植民地をつぎつぎと手放していった。そして,核兵器の開発(1960年),NATOの軍事機構からの脱退(1966年),中国の承認(1964年)などによって米ソ支配に楔を打ち込んだ。さらに西ドイツの首相アデナウアーと会見してドイツと和解,パリ・ボン枢軸を強化し,西ドイツをフランス強化策に引き込もうとした。
こうした型破りのド・ゴール外交は,国際政治に大きな波紋を投げかけ,世界の多極化への道を切り開くことになる。
西ドイツ―奇跡の経済復興と再軍備
ー方西ドイツでは,1949年のボン基本法に基づきドイツ連邦共和国が成立したが,主権は占領諸国にあった。またベルリンは法的には占領状態にあり,西ベルリンは西ドイツであって西ドイツではないという奇妙な状態におかれ続ける。
西ドイツ建国後の選挙では,ベルリン問題が災いして共産党は弱体で,キリスト教民主同盟とキリスト教社会同盟の姉妹党が勝利し,キリスト教民主同盟のアデナウアーが初代首相となった。西ドイツはアデナウアーの権威主義的指導の下に奇跡の経済復興を果たし,西側との関係を強め、1954年のパリ協定によって、1955年には主権を回復,再軍備とNATO加盟を実現した。アデナウアーは,西側との協力により経済的・軍事的圧力を強めるという力の政策を推進し,これと並行してフランスとの関係を強化し,ヨーロッパ統合を推進していった。
ヨーロッパ共同体(EC)の結成
ヨーロッパ統合に中心的な役割を果たした人物が三人いる。それはフランスの経済学者ジャン・モネ,フランスの外相シューマン,ドイツのアデナウアーである。三人とも独仏の国境地域の出身で,普仏戦争以来の独仏の対立に翻弄された人々であった。モネの考えは,つねに独仏の争いの的だった鉄鋼・石炭を国家の枠から外し国際化するというものだった。
ヨーロッパ統合の背景には,ヨーロッパの小国家分立という体制は安全保障においても問題があり、同時に凋落するヨーロッパ諸国が一つにまとまって米ソに匹敵する発言力を回復したいという野心があった。さらに植民地を失い続けるヨーロッパ諸国が経済的に再生するには、各国に分割されている市場を統合して大市場を作る必要があった。
また,フランスは元来ドイツに対して強い警戒心を抱いてきたが,もともと西ドイツはフランスと社会構造が似ており,さらに普仏戦争以来の戦争はプロイセンが引き起こしたものであり,そのプロイセンを切り離した西ドイツとならば共同歩調をとることが可能であった。
こうした背景から,シューマンはボン政府との接近を試み, 1951年仏・西独・ベネルクス三国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)・伊の6カ国でヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の結成が調印され,モネが初代委員長となった。これを基礎に1957年には,ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の結成を調印し,さらに1967年には3機関を統一してヨーロッパ共同体(EC)を結成した。
イギリスは,EECの結成に際して,参加を誘われたが,主権の委譲や英連邦との関係からこれを拒否し,1959年独自にヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成した。
こうして,EC諸国は1960年代に高度成長時代を迎える。植民地を失えばヨーロッパは衰退するといわれていたが,事実は逆だった。植民地維持のための経費負担から解放され,目をヨーロッパ市場に向けることによって経済発展を可能にしたのである。特に植民地に関しては、政治的に独立しても経済的に従属させておき,経済的利益だけを吸収するという構造が作り出された。
イギリス―「ゆりかごから墓場まで」
一方イギリスは,第二次世界大戦後には一応米ソに並ぶ三大国の地位を守っていたが,その後それを維持することはできなかった。戦後イギリスでは労働党と保守党がしばしば政権を交替し,両党とも基本政策においてほとんど変わらなかったが,戦後イギリス政治の決定的な転機となったニ度の選挙がある。一つは1945年の労働党政権の成立であり,もう一つは1979年のサッチャー保守党政権の成立であった。
アトリー労働党政権は経済の再建をめざす一方,企業の国有化と社会福祉政策を推進し,「ゆりかごから墓場まで」といわれる福祉社会が形成された。対外的にはアメリカ依存を強め,またインド・パレスチナなどの植民地からも手を引いた。
その後1951年からチャーチル,イーデン,マクミランといった保守党政権が成立したが,労働党の福祉と国有化という基本政策は継承され,これが戦後の両党の了解事項となっていた。また,植民地に関してもスエズ戦争での敗北以後,脱植民地をめざすようになった。
だがイギリスは低迷を続け、EECに対抗してEFTAを結成したが、EECが経済発展に向かったのに対してイギリス経済はますます悪化した。そのため二度にわたってEECへの加盟を申請したが,ド・ゴールの強硬な反対にあって承認されなかった。ド・ゴールの目指すものは,フランス優位を前提としたパリ・ボン枢軸を武器としたフランスの強化にあり,イギリスの参加はこの構想を打ち壊すことになるからだ。
1964年の選挙で勝利したウィルソン労働党政権は,1967年ポンドの切り下げで経済危機を脱しようとしたが効果なく, 1970年再び保守党が勝利し, 1973年ヒース政権の下でECへの加盟を果たした。その後ウィルソン,キャラハンと労働党政権が続くが, 1973年の第四次中東戦争による石油危機を契機にEC自体が危機の時代を迎えることになる。
フランス―ド・ゴール時代の終焉
1960年代末から70年代はヨーロッパに左翼が台頭した時代である。
フランスでは,ド・ゴールの権威主義的支配に対する反発が高まっていた。ド・ゴールは対外的には華々しい外交政策を展開したが,国内問題を無視していたため,さまざまな問題が累積されていた。1968年5月,学園闘争を契機として,パリで学生・労働者などによるデモ・ゼネストなどの大規模な反体制運動が起こった(五月危機)。
こうした国内の不安を背景に、1969年ド・ゴールは退陣する。その後ポンピドー,次いでジスカールデスタンがド・ゴールの後継者として政権を担当したが,石油危機により経済危機が深まり、1981年には社会党のミッテランが共産党の支持を受けて大統領に選出された。
なお、1970年代にフランス・イタリア・スペインで台頭した共産党をユーロコミュニズムというが,それはモスクワの指示を離れ,議会制民主主義のルールを承認するという共産主義の現代化の試みであり,一時は政権獲得の可能性さえ生まれたが, 1980年代ヨーロッパの保守化傾向が進む中で急速に衰退していく。
西ドイツ―ブラント首相の東方外交
一方西ドイツでは. 1963年アデナウアーの蔵相だったエアハルトが首相になるが,60年代後半から経済危機が深まり,そのため社会民主党の勢力が増大した。1966年から69年までキリスト教民主同盟のキージンガーを首相とする社会民主党などとの連立政権が成立するが、1969年にブラントを首相とする社会民主党政権が成立した(第3党の自由民主党との連立政権)。
ブラントは,西側との同盟を強化することによって東ドイツを併合しようとするアデナウアーの力の政治に対して,東側の大国との新しい関係を開かねばならないと考えた(東方外交)。ソ連・東欧諸国との和解外交である。 1970年ソ連との間で武力不行使協定を締結,さらに西独・ポーランド条約によりオーデル・ナイセ川を国境とすることを確認、1972年両ドイツ基本条約により東西ドイツ相互が国家の承認を行ない,翌73年東西ドイツが国連に加盟することが承認された。これらは問題の根本的解決とはいえなかったが,戦後最大の問題であるドイツ問題に一応の安定をもたらし,緊張緩和に大きな役割を果たすことになった。
サッチャーの登場と保守主義の高まり
1980年代はヨーロッパ全体に保守化の傾向が強まった。フランスではミッテラン社会党政権が成立したが,共産党は後退した。
ミッテランは企業の国有化を進めたが,これは左翼的な意味での国有化というより,フランス産業を保護するという愛国的意味が強く,ド・ゴールの政策に近いものがあった。特に兵器産業の保護と紛争地域への兵器の輸出は,しばしば問題を引き起こすことがある。対外的には第三勢力を支持する傾向を持つとともに,その反ソ主義はド・ゴールより強く,アメリカからの自立性も維持している。またミッテランは,ECの政治統合にも熱心で,パリ・ボン枢軸の強化に努めている。ド・ゴールの宿命のライバルといわれたミッテランも,その政治スタイルはド・ゴールと酷似しており,最近では国民の支持が激減しているが,彼に代わりうるカリスマ性を持った人物も当面出現していない。
西ドイツでは, 1982年キリスト教民主同盟のコール政権が誕生し,新保守主義の一つとされる。そして1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年には一気に東西ドイツの統合が達成されたのだが,その統一の仕方はアデナウアー流の力の統一という傾向が強く,西ドイツによる東ドイツの征服という感がある。
イギリスでは、1979年に保守党のサッチャー政権が成立し,イギリス政治は大きな転換期を迎えることになった。すなわち保守党・労働党を問わず,社会福祉が最大のテーマだったが,サッチャーは「創意と自助」をスローガンとして掲げ,減税・公共投資の削減・社会福祉国家からの全面的転換を図り,対外的にも強硬な反ソ路線をとった。しかしその後のインフレと失業の高まりから,サッチャー政権の支持率は大きく低下したが、1982年のフォークランド紛争での強硬な態度により支持が一気に高まり,景気もその後回復に向かった。要するにサッチャー主義とは,イギリス病といわれた戦後の停滞状況を打破するため,個々人の活力とかつてのイギリス人の誇りを呼び覚まそうとするもので,その政策は勤勉な中間層の支持を得たのである。
しかし80年代後半の経済の停滞と米ソの接近の中で政策が行きづまり、1990年に辞任した。後任はメージャーである。
EC統合への道
かつて強固な国家主義を生み出したヨーロッパは,今や統合に向かいつつある。それは単に政治的側面だけでなく,人々の心の中で国境の壁が稀薄化しつつあるのである。政治的にも,今やECには12カ国(フランス・ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・イギリス・アイルランド・デンマーク・ギリシャ・スペイン・ポルトガル)が参加しており, 1992年にはEC市場統合が予定されている。また、1991年にはECとEFTAによる共通市場・ヨーロッパ経済領域(EEA)の1993年の創設が合意された。ヨーロッパ諸国はどの国にも内部に少数派の分離志向があり,それが国家主義によって隠蔽されてきたが,今後逆にそれが強調され,共通の歴史的・文化的アイデンティティを持った多くの勢力がー定の自立化を進め,全体で緩い連邦を構成していくことも充分に考えられるだろう。かつてヨーロッパが生み出した国家主義が,まさにそのヨーロッパで崩壊しようとしているのである。
スペイン―フランコの独裁とその後
スペインでは, 1936年に始まった内戦が, 1939年反政府側の勝利に終わり,以後1975年までフランコの独裁政権が統いた。スペインには伝統的に地方分離主義とそれを抑えようとする集権主義の対立があり,フランコの独裁は分離主義に対する集権主義の現われと見ることもできる。第二次世界大戦には参戦しなかったが,同じファシズム国家としてドイツとは友好関係にあったため,戦後欧米からボイコットされ国際的に孤立した。しかし冷戦の進行する中でスペインの戦略的位置が注目され,徐々に西欧世界に復帰し,経済も復興していった。しかし反フランコの運動は激化し,国内での運動は苛酷な弾圧を受けたが,国外での運動は高まるばかりだった。
そうした中で1975年フランコが死に,後継者として指名を受けていたブルボン家のカルロスが国王に即位した。彼の下で民主化が促進され,さらにカタルーニャやバスクなどの地方自治が承認され,また1982年の総選挙ではゴンザレス社会労働党政権が成立した。 1986年にはポルトガルとともにECへの加盟が認められ、1992年にはバルセロナでオリンピックが開催される。
イタリアの経済発展
イタリアはムッソリーニの下で第二次世界大戦に参戦したが,敗戦が明白となるなかで1943年ムッソリーニが失脚してバドリオ政権が成立し,その下で連合軍に無条件伏した。 1946年に国民投票により王制が廃止され,共和制となった(デ・ガスペリ内閣)。
イタリアでは共産党勢力が強く,特にグラムシやトリアッティといったすぐれた指導者の下に独自の思を育んでいた。
しかし冷戦の本格化とともに共産党勢力の排除が進み,キリスト教民主党が第一党,共産党が第二党,社会党が第三党という勢力分布が定着した。
1983年にはキリスト教民主党・社会党・共和党などよる連立政権(首相は社会党のクラクシ)が成立して、戦後最長の政権となり,この間イタリアの奇跡と呼ばれるほどの経済成長を達成し,イギリスを抜いて西ドイツ・フランスに次ぐ経済大国となった。
一方, 1973年には共産党はユーロコミュニズム路線を明確にしたが,80年代になると低落を続け, 1990年には西欧型社会民主主義路線への転換を決議した。
ギリシアとキプロス紛争
第二次世界大戦中,ドイツに征服されていたギリシアでは, 1946年イギリスに亡命していた国王が帰国すると国内の対立が激化した。しかしアメリカの軍事援助により国王側が勝利し, 1952年にはNATOに加盟して西側陣営の一員となった。その後国内では大土地所有の進展と外国資本の支配が進み,社会的不平等が拡大して国民の不満が高まった。
こうした中で1967年にクーデターが起きて軍事独裁政権が成立し、1973年には王制も廃止された。しかし1974年に独裁政権が崩壊して民主化が進み, 1981年にはECに加盟した。同年ギリシアで初めて成立したパパンドレウ左翼政権は社会的不平等の撤廃を試みたが成果を上げられず, 1989年には再び保守政権が復活した。
ギリシアにおける大きな問題にキプロス紛争がある。キプロスはオスマン帝国の支配下にあったが, 1878年以降イギリスの植民地となり, 1960年に独立した。しかし内部で多数派のギリシア系住民と少数派のトルコ系住民との対立が発生し,特にマカリオス大統領がギリシア系優遇策を実施したため, 1963年には内戦状態になったが,国連軍の派遣で休戦した。1974年ギリシアの軍事政権と対立していたマカリオスがギリシアの支援するクーデターで失脚すると,トルコは島の北半分を占領してトルコ系住民の政府を発足させた(北キプロス・トルコ共和国)。こうした中で国連平和維持軍が駐屯し,話し会いが続けられているが,問題は解決していない。
(2)ソ連―スターリンからゴルバチョフヘ
スターリンの恐怖政治
1917年ロシア革命により,マルクス主義を信奉する最初初の国家が成立した。
しかし革命政府は最初から,内乱や列強の干渉に苦しめられたため、穀物の強制徴発などを含む戦時共産主義を実施したが,農民の不満が強く,経済も荒廃したため,1921年から資本主義の原理を一定程度認める新経済政策策=ネップを開始した。
1924年にレーニンが死ぬと,権力闘争が展開され,やがてスターリンが独裁権力を掌握し,彼のもとで恐怖政治が行なわれていく。
第二次世界大戦が終わったとき,ソ連はアメリカにつぐ超大国になっていた。領上は拡大し,軍事力はアメリカにつぐ巨大なものとなっていた。だがソ連は極端なまでに軍事力に偏った大国であった。戦争によりソ連は2000万人の死者を出し,さらにドイツ軍の占領地域は荒廃し,経済は崩壊状態だった。
戦後敗戦国から奪った機械や賠償金により経済は急速に回復に向かったが,それは相変わらず農民を犠牲にして工業の発展に重心をおくものであり,しかも冷戦の開始により軍需部門の生産が優先されて民需は後回しにされた。
この間スターリンの狭疑心はさらに強まり,スターリンヘの個人崇拝と思想統制はさらに強化された。
一方,当時ソ連社会も大きく変わりつつあった。社会主義体制のおかげで教育は広範囲に普及し,さらに工業化にともない都市中間層が形成されつつあった。このような社会においては,もはやスターリンの支配方式は通用しなくなりつつあり,極度の不満と緊張状態が発生していた。
フルシチョフ時代
1953年,スターリンが死んだ。しかし,ソ連には後継者決定のための正規のルールが存在しなかった。レーニンは現職で死に,その後スターリンは激しい権力闘争によって権力を獲得し,彼も現職で死んだからだ。スターリンの死の直前にはマレンコフが後継者の筆頭と考えられており,事実彼が閣僚会議議長(首相),政治局と書記局の筆頭メンバーに選ばれたが,ベリヤ・モロトフ・カガノヴィチ・ブルガーニンを副首相として集団指導体制がとられた。
しかしまもなくフルシチョフが第一書記に選ばれて書記局の実権を握った。ソ連では党が実権を握っており,したがって党の執行機関である書記局の筆頭が最高実力者となる。スターリンは書記長だったが,フルシチョフは独裁のイメージを避けるため第一書記と名乗った(ブレジネフ時代に書記長に戻される)。その後激しい権力闘争の後、1958年にフルシチョフが首相も兼任して最終的に実権を確立するが,ベリヤを除けばいかなる流血の粛正もなく権力交替が進んだことは注目すべき事実である。なぜなら,ソ連では権力地位は終身であり,それを手放すときは処刑あるいは暗殺以外にはなかったからである。
フルシチョフの権力がほぼ確立した1956年に,彼は衝撃的なスターリン批判を行なった。そして過去に失脚した人々の名誉回復と政治犯の釈放が行なわれ,言論活動にも一定の自由が与えられた。その自由には多くの制約があったが,ソ連社会にようやく明るさが取り戻された。エレンブルクが小説『雪解け』の中で当時の雰囲気を描き出している。
フルシチョフは社会主義の優越性を信じており,従来の抑制さえ取り除けば,資本主義を追い越すことができると考えていた。具体的には従来の中央集権的な経済統制を緩和し,地方に一定の自主性を持たせるようにした。また消費財の供給に心を配って国民生活にも配慮し,さらに従来無視されてきた農業開発にも努力した。1957年には人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し,農業生産高も記録的な伸びを見せ,アメリカを訪問してアイゼンハウアーと友好的に会談した。
しかし60年代になると工業生産の伸び率が停滞し,農業は無理な増産計画のため破滅的な打撃を受け,国際関係においてもキューバから撤退を余儀なくされるなど,失敗の連続だった。
1964年フルシチョフが黒海沿岸の保養地で休暇中に,中央委員会幹部会はコスイギンやブレジネフを中心にフルシチョフの解任を決定したが,彼もまた処刑も暗殺もされることはなかった。
フルシチョフは,ある意味では今日のゴルバチョフのペレストロイカの先駆だったといえるかもしれない。もちろん言論の自由には制限があったし,中央集権的な計画経済そのものを否定しようとしたわけでもなく,さらに彼の改革は周到な準備が欠けていたため,ことごとく失敗に終わった。しかし彼は,現実に存在する問題に現実的に対処しようとし,スターリン時代の体制に風穴を開けることに成功した。
彼の失脚後,改革は一時後退するが,現在のゴルバチョフを筆頭とする改革派の人々の多くは,このフルシチョフ時代に育った人々なのである。
ソヴイエト連邦の解体
フルシチョフの失脚後,ブレジネフが書記長に,コスイギンが首相となったが,当初ベテラン政治家だったコスイギンの活躍が目立ち,特に1965年には利潤導入方式による経済改革を実施した。
しかし70年代になると,ブレジネフが党組織や政治局を自派の人物で固めて実権を確立していった。金脈が大きな意味を持つ資本主義社会と異なり,金銭の特つ重要性が相対的に低い社会主義国家においては人脈が大きな役割を果たす。そして彼は人事のブレジネフといわれるほど巧みに人脈を築き上げていった。また彼はスターリン時代に育った典型的な官僚で,フルシチョフのいくぶん場あたり的な改革に不満を抱いていた。したがって,この時代にはスターリン批判は中止され,思想統制も強化され,さらに分権化された組織を再び集権化に戻した。
軍事的にも必要十分という考えから,アメリカに対等以上の軍事力を保有することによってデタントを推進するという考えに後退した。
とはいえ彼の時代は、ロシア革命以来久々に訪れた安定の時代だった。政治犯は大幅に減少したし,血の粛正はもはや過去のものとなり,市民生活も向上した。こうして70年代来から80年代初頭にかけてブレジネフは権力の絶頂に達した。国家元首である最高会議幹部会議長を兼任し,
1982年にはコスイギンに代わって首相も兼任した。
しかしこの間,工業生産も農業生産もますます停滞していった。工業では消費財が相変わらず不足し,農業では穀物を西側から購入せねばならなかった。品質の悪い工業製品は国際競争力を失い,国際収支も悪化の一途をたどった。このような事態に至った最大の原因は,スターリン以来の政治が経済に優先するシステム,極度に中央集権的な計画経済,そしてブレジネフ時代の安定に伴う停滞にあることは明らかだった。このような極端な計画経済は,無駄が多いこと,業績の評価を数量で示すため質が悪化すること,さらに硬直化した官僚体制は技術革新をさまたげること,などさまざまな弊害を生み出していた。
他方国外では,欧米や日本の経済成長が著しく,また新興工業国も高度成長を達成し,中国でさえも経済改革により一定の成果をあげていた。さらに先進資本主義国では保守政権が成立して反ソ・キャンペーンを展開していた。
今やソ連においても抜本的な改革が必要なことは明らかとなっていた。
1982年ブレジネフが死んだ後,アンドロポフが書記長となったが、1984年に死亡した。ついでチェルネンコが書記長となったが,彼はアンドロポフより高齢ですでに72歳であり、1985年に死亡した。
二代続けて書記長が短命に終わったため,次期書記長には若手を起用しなければ社会の安定を望めず,国家的威信にも傷をつけることになる。こうしてゴルバチョフが書記長に選ばれた。彼は当時54歳,モスクワ大学出身で,レーニンを除けばロシア革命以来高等教育を受けた最初の指導者だった。
ゴルバチョフは新路線をつぎつぎと打ち出していった。まず「ペレストロイカ(改革)」を提唱し,改革派知識人の提言を大胆に採用するとともに,改革派の人物を積極的に登用した。また,チェルノブイリ原発事故を契機に「グラスノスチ(公開性)」を提唱し,それ以来あらゆる問題がメディアで取り上げられるようになった。また「新思考外交」を打ち出し,アイスランドのレイキャビクで米ソ首脳会談を行なった。要するにこれらの方針の狙いは,政治的には中央集権的な官僚制と党支配を打破するとともに,国民に多くの情報を提供して国家と民衆との信頼関係を回復し,さらに冷戦体制を打破してソ連を国際的な相互依存システムに組み込むことにあった。
また,ソ連には従来指導者の交替ルールが存在しなかったが,大統領制を導入し,党の支配を弱めようとした。
しかしこれらの政策は多くのリスクをともなった。まず保守派が巻き返し,また多くの改革派の指導者が保守派との均衡を考慮するゴルバチョフから去った。さらに,かつてフルシチョフのスターリン批判が東欧の自由化とソ連離れを促したように,ペレストロイカは長年抑えつけられていた民族的不満を一気に噴き出させた。
1991年8月,クーデターとゴルバチョフ失脚のニュースが全世界を駆け抜けた。クーデターは数日にして失敗に終わり,その後のソ連の動向は目まぐるしく,共産党支配は崩壊し,ソヴィエト連邦は事実上解体,さらにクーデターを終息させたロシア共和国エリツィン大統領の比重が高まった。
(3)東ヨーロッパ―民主化への動き
東ヨーロッパ社会主義国の成立
東欧という言葉が一つの歴史的概念として用いられるようになったのは第一次世界大戦後で,その理由は長い間ドイツ・ロシア・オーストリア・ハンガリー・オスマン帝国に支配されてきたこの地域に,戦後多くの国が誕生したからである。さらに第二次世界大戦後この地域のほとんどの国がソ連圏に属する社会主義国家となり,ここに政治的概念としての「東欧」が形成されることになる。
第一次世界大戦後のパリ講和会議で,戦勝国はドイツの同盟国であるハプスブルク帝国を解体し,新生社会主義国家ソ連との間に緩衝国を作るとともに,それらの国にドイツに対抗する役割を担わせることにした。しかしこの地域にはさまざまな民族が交錯し,しかも一つの民族が他の地域に飛び地のように存在していることも珍しくないため,最初から各国の国境をめぐる対立が噴出した。そして今日東欧諸国の中で,国境問題を抱えていない国は一つもないのである。
第二次世界大戦が終わった1945年から3年以内に東欧のすべての国が社会主義化した。その過程はソ連の介入の仕方によって異なるが,全休の傾向としては,まず外見上民主主義を残した人民民主主義と呼ばれる政治体制が成立し,次に反対勢力が追放されて共産党の独裁が成立すると,今度は共産党内部での粛正が行なわれ,小スターリンと呼ばれるソ連に忠実な独裁政権が成立するというパターンだ。そしてその後ソ連をひき写したような社会主義体制が成立するのである。これら東欧諸国の急激な上地改革と計画経済による重工業重視の政策は,社会の平等化と遅れた工業の発展を促すのに一定の役割を果たしたことは事実である。しかしそれは下から必然的に行なわれた改革ではなかったため,国民の不満が強く、しかもソ連と同様に計画経済の歪みがいたるところに表われてきた。
1953年のスターリンの死と1956年のスターリン批判は,そのような不満を一気に爆発させる。
ポーランドーゴムウカ政権
ポーランドでは, 1956年ポズナニで労働者の暴動が起きると,チトー主義者として逮捕されていたゴムウカが復活したが,フルシチョフがワルシャワに飛び,さらにソ連軍も動き始めた。ソ連にとってポーランドは安全保障上重要な国であり,社会主義諸国の統一を崩さないという条件のもとでソ連はゴムウカの選出を了承するとともに,対等のソ連・ポーランド関係を樹立した。その後ポーランドでは,ゴムウカが消費財の供給など民衆向きの政策を行なったが,彼は本質的に古いタイプの共産主義者だったため,根本的な政治・経済改革は行なわれず,外交的にもソ連に追随してソ連のもっとも信頼できる同盟者のー人となっていったが,経済停滞の長期化とともに民衆の不満が高まっていく。
ハンガリー―ハンガリー暴動とカーダールの改革
小スターリンと呼ばれたラーコシが支配していたハンガリーでは、1953年にイムレ・ナジが首相となり,「新路線」と呼ばれる一連の緩和政策を実施したが、1955年にナジは罷免されてラーコシが再び指導権を確立した。こうした中で、1956年ブダペストで暴動が発生すると,政府はソ連軍の出動を要請し,ソ連軍と民衆の間で激しい戦闘が展開された。そこで政府はナジを復帰させたが,事態を収拾することはできず,結局ソ連軍が全土を制圧した。
このハンガリー暴動後首相となったカーダールは、ソ連を剌激しない範囲でゆっくりと経済・政治改革を実施していった。その結果東欧の中では比較的自由で豊かな社会を作り出すことに成功し,今日ハンガリー・モデルとして東欧諸国の模範とされるようになった。
チェコスロヴァキア―「プラハの春」の挫折
チェコスロヴァキアは1946年の総選挙で第一党になった共産党を中心とする連立政権が成立していたが,マーシャル・プランの受け入れをめぐって共産党と他の政党の対立が激化し、1948年共産党による単独支配が成立した(テェコ・クーデター)。
第二次大戦後,チェコスロヴァキアを「東西のかけ橋」としようとしたベネシュ大統領の試みは、ここに挫折する。
以後,ゴッドヴァルト,ついでノヴォトニーの独裁が続いていたが,経済が順調だったこともあって国民に支持されており,スターリン批判の影響を直接受けることが少なかった。
ただチェコスロヴァキアはチェコ人とスロヴァキア人の対立という民族問題を抱えており,事実上チェコがスロヴァキアを支配していたため,スロヴァキア人の不満が高まっていた。またもともと民主主義の伝統が強い国だったため,独裁支配に対する不満も高まった。
こうした中で1968年スロヴァキア出身のドプチェクが第一書記に就任し,「人間の顔をした社会主義」をスローガンとする民主化路線を打ち出し,それは毎年行なわれる音楽祭の名から「プラハの春」と呼ばれた。当初ソ連は新政策を承認していたが,その後文化人がソ連の干渉に警告を発するような急進的な「二千語宣言」を発すると,8月ワルシャワ条約軍の戦車が侵入し,全土は一瞬にして制圧された。
その後ドプチェクは失脚してフサーク政権が成立し,再び68年以前の状態に戻った。
ソ連がチェコスロヴァキアに軍事介入した理由は,社会主義陣営の結束のために主権のー定の制限もありうるという「ブレジネフ・ドクトリン」によるものであり,その意味でソ連にはチェコスロヴァキアが社会主義から逸脱していると映ったのであろう。東欧諸国の中でも,アルバニア・ユーゴスラヴィア・ルーマニアはソ連に反抗しているが,ソ連は軍事介入をしなかった。その背景には,これらの国はソ道の安全保障上それほど重要でな
いということもあるが,同時にこれらの国と統治者は筋金入りの共産主義者であり,アルバニアとルーマニアに至っては,それぞれホジャ,チャウシェスクといったソ連以上のスターリン主義者が支配していたからである。
東欧諸国の経済停滞とソ連離れ
チェコ事件以降,東欧諸国で体制の引き締めが強化され,70年代にはブレジネフ・ドクトリンに基づいて各国とも改革は制約された。
しかしこの時期は同時に,ソ連・東欧ともに経済停滞が進行した時代だった。ソ連と同様に重工業重視は消費財不足を招き,さらに中央集権的な計画経済は技術の停滞を招き,そのため東欧の工業製品は国際競争力を失っていった。それでもコメコン内部では品質の悪い商品の販売も可能であり,さらにソ連から国際価格よりはるかに安いエネルギー資源を提供されていたためなんとか維持できたが,やがて東欧はソ連のお荷物になり始めた。ソ連としては石油を国際価格で西側に販売し,その見返りに西側の商品や機械を購入したほうが有利だったため,石油価格をしだいに国際価格に近付けていったのだ。その結果東欧経済はますます苦しくなり,経済改革の必要を迫られるようになるが,そのためには政治改革が不可避となりつつあった。そうした中で各国はさまざまな形で改革の模索を行なうが,1985年ゴルバチョフが登場してペレストロイカを推進するようになると,改革はー気に加速化し,それとともにソ連離れも急速に進んでいった。
激動の東欧民主化と東西ドイツの統一
ハンガリーは比較的順調に経済改革が進み,80年代には市場原理の導入や複数政党制も導入されて民主化が進んだ。
ポーランドでは, 1970年に食肉値上げを契機にグダニスクなどでデモが起きると,ゴムウカに代わってギエレク政権が成立した。ギエレクは外国資本を積極的に導入し,その結果ポーランド経済は奇跡的な発展を見せたが,累積債務が拡大して再び経済危機に陥った。
こうした中で, 1980年グダニスクの造船所で起こったストを契機に,自主管理労組「連帯」が結成され,造船所の電気工だったワレサが委員長となった。「連帯」はわずか1年のうちに950万人の組合員を数えるようになったが, 1981年ヤルゼルスキ政権が成立すると戒厳令が布告され,「連帯」は非合法となった。
しかし1989年に「連帯」は再び合法化され,大統領制度の導入と複数政党による選挙が実施され,選挙では「連帯」が圧勝するとともに, 1990年にはワレサが大統領に当選した。しかし「連帯」はかつてほど国民の支持を受けておらず,また経済危機も脱却できていない。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)では1946年共産党と社会民主党が合同して社会主義統一党が結成され,そのもとで社会主義的な改革が進められたが,西ドイツヘの人材流出やソ連への賠償支払いのため経済再建は容易に進まなかった。しかし1961年にベルリンの壁を構築することによって国民経済を確立することに成功し,60年代後半にはウルブレヒト政権のもとで「ドイツの奇跡」と呼ばれるほどの経済成長を示し,社会主義の優等生とまで言われるようになった。しかし政治的には強権支配が続き、また他の東欧諸国と同様に西側との技術格差が拡大するようになった。
そして、1989年11月9日ベルリンの壁は崩壊、1990年10月3日に東西ドイツは41年ぶりに統一される。
チェコスロヴァキアでも,
1989年「壁」の崩壊の影響を受けて大規模なデモが発生し,反体制組織「市民フォーラム」が結成された。その結果ヤケシュ書記長・フサーク大統領は辞任し,共産党と在野勢力の連合政権が成立し,ドプチェクも復活した。こうして民主化は短期間のうちに進行し,経済の民営化も進められているが,国内には民族問題を抱えている。
ブルガリアでは1954年以来権力を握ってきたジフコフが1989年に突然辞任し,急速に民主化が進められ, 1990年には自由選挙も行なわれたが,トルコ系民族の問題など国内に多くの問題を抱えている。
ルーマニアでも民主化運動が拡大し,結局1989年12月チャウシェスクが銃殺されて民主化が動き出したが,ここでも民族問題などの国内問題を抱えている。
ユーゴスラヴィアは早くからソ連型の中央集権体制を放棄し,チトーのもとで独白の自主管理社会主義を建設してきたが, 1989年に市場経済への移行を開始した。
しかし民族紛争の勃発により,経済改革はふっ飛んでしまった。ユーゴスラヴィアは「南スラブの国」という意味で,さまざまな民族,6つの共和国(セルビア・クロアチア・スロヴェニア・ボスニア・ヘルツェゴビナ・マケドニア・モンテネグロ)からなる連邦国家で,各共和国内での改革の過程で民族対立が噴出してきた。特に比較的産業が発達し政治的にも急進的なクロアチア・スロヴェニアと保守的なセルビアとの対立が表面化し,前者が独立を要求して内戦にまで発展している。
アルバニアでは,ホジャ独裁体制のもとで, 1960年にはスターリン批判に反対してソ連と断交,その後中国に接近するが,中国のアメリカ接近とともに断交,さらに1967年には世界で初めて宗教を禁止するなど独自の道を歩いてきたが,東欧諸国の激変の影響を受けて,国内で民主化要求が高まっている。
バルト三国の独立
1991年8月ソ連でのクーデター未遂事件を契機にバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の独立が承認された。
バルト三国の独立要求の背景には、1939年の独ソ秘密協定によりバルト三国がソ連に占領されたという過去の経緯があり,この占領状態からの脱却という人々の悲願があった。
ところで西側諸国がソ連の他の共和国の独立問題やユーゴスラヴィアの民族問題以上にバルト三国の独立に関心を寄せたが,その背景にはバルト三国では戦後一貫して工業の発展が目覚ましく,西側諸国は早くからこの地域に注目していたという事実がある。
(4)アメリカ―超大国の繁栄とかげり
「アメリカの時代」の到来
第二次世界大戦によるヨーロッパの衰退はアメリカのチャンスだった。1944年ブレトン・ウツズでの世界経済会議は,アメリカによる戦後の自由主義経済の制覇を可能にした。 1947年のマーシャル・プランはヨーロッパという広大な市場を生み出し,アメリカ経済の繁栄にさらに弾みをつけた。またヨーロッパが後退を強いられた植民地にアメリカが進出し,ソ連に支持された革命を阻止するという名目で,アジア・アフリカでの防衛を肩代わりしていった。こうしてアメリカはソ連に対抗して国際秩序を維持する役割を自ら担い,世界のあらゆる問題に関与していくことになる。
このことはアメリカの国内政治にも大きな影響を与えた。
従来アメリカは外からの軍事的脅威がほとんどなかったため,平時にはあまり軍備の必要がなかったが,冷戦の深まる中で平時にも強大な軍事力を保有するようになった。その結果,軍部の発言力が大きくなるとともに,軍事産業がアメリカ経済の重要部分を占めるようになり,軍産複合体が形成されていった。
トルーマン時代―「赤狩り」の開始
ローズヴェルトの死後大統領となった民主党のトルーマン(在任1945~53)は,ニューディール政策を継承し「フェアディール政策」を掲げて国内政策に積極的に取り組もうとしたが,民主党内の保守派が共和党と結んで抵抗したため,全体に政策は中途半端に終わり,この間に労働争議を制限するタフト・ハートレ一法が大統領の拒否権を乗り越えて成立した。
またこの頃から国内に反共ムードが高まり,いわゆる「赤狩り」が開始された。当時アメリカの共産党は壊滅状態にあったため,実際には有名な俳優や文化人などリベラル左派が標的にされた。1949年に中国が共産化したことと、ソ連が原爆実験に成功したことは「赤狩り」に拍車をかけた。このころ,上院のマッカーシー議員が,衝撃的な「赤狩り」を開始して名声を高め,アメリカは反共ヒステリー状態に陥っていった。
アイゼンハウアー時代―黒人運動の高まり
ニューディール以来の巨額な公共支出は国民の多くに利益をもたらし,郊外に住宅を持つ中流階級が多数出現した。ここに,保守的な共和党への支持が次第に拡大していった。
1952年共和党のアイゼンハウアー(在任1953~61)が大統領に当選し,20年ぶりに共和党政権が復活した。ただしアイゼンハウアーの当選は共和党の勝利というより,アイゼンハウアーの個人的人気によるところが大きく,またニューディール政策も事実上継続された。と同時に,企業の自由を尊重することが経済の発展のために大切だと考え,社会福祉政策の支出もできるだけ抑えようとした。
50年代にアメリカ社会を揺さぶり始めたのが人種問題である。南部の大農場で機械化が進行すると,職を失った黒人たちが北部の大都市に移住するようになり,かつて白人が住んでいた都市に居住するようになった(スラム街)。産業構造の転換とともに,彼らの失業率は異常に高まり,相変わらず根強い人種差別が行なわれていた。
こうした中で1954年連邦最高裁が人種隔離が違憲であるという画期的な判決を下すと,黒人運動は一気に高まった。そして黒人運動の指導者として注目を集めだのがキング牧師である。
ケネディ時代―ニューフロンティア政策
1960年の大統領選挙で民主党のケネディ(在任1961~63)が当選した。彼の在任中の大きな事件としては1962年のキューバ危機, 1963年の部分的核実験停止条約などがある。国内的には,都市問題・教育問題・貧困問題・人種問題を解決するためニューフロンティア政策を掲げたが,民主党の保守派が共和党と結んで議会での通過を阻止した。
人種問題に関しては,1963年奴隷解放宣言百周年を記念して、キング牧師を中心に大規模なワシントン行進が行なわれ,これを契機にケネディは人種隔離を違法とする公民権法を提出したが,議会の抵抗にあい,テキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。暗殺の真相については今も不明である。
ジョンソン時代―ヴェトナム戦争の泥沼化
ケネディの暗殺で大統領に昇格したジョンソン(在任1963~69)は,ケネディの死後直ちに公民権法を通過させ,さらに議会の保守連合を解体に追い込んで,つぎつぎと進歩的な法案を通過させていった。彼は「偉大な社会」をスローガンに掲げ,革新的な社会福祉政策を実行した。またこの時代には連邦最高裁が相次いで革新的な判決を行ない,人権の擁護や言論の自由などが確立した。まさにこの時代は,アメリカ史上まれにみる革新の時代だったのである。しかもジョンソンにとって幸運だったのは,政策を支える財政基盤を提供する国内経済が順調に伸びつづけていたことだ。
しかし後は外交政策で挫折した。ヴェトナム戦争はアメリカの経済的繁栄にかげりを与え,アメリカ社会に大きな亀裂を残すことになった。若い兵士たちは,この大義なき戦いで精神を荒廃させた。さらに反戦の学生運動も高まり,マイノリティ・グループの運動も過激化していった。
ニクソン時代―デタント外交の展開
アメリカが深刻な危機に直面したとき, 1968年の選挙で「法と秩序」を掲げた共和党のニクソン(在任1969~74)が大統領に当選した。ニクソンが伝統的な封じ込め政策を捨ててデタント外交を展開したことは前述のとおりだ。
経済的には, 1970年代にインフレと高い失業率が並行するスタグフレーションの状態になったため,予算均衡主義を捨てて景気刺激のための赤字予算を組み,ドル危機をのりきるため1971年金ドル兌換を停止し(ニクソン・ショック), 1973年には外国為替相場を変動為替相場制に移行させた。
しかし1972年の大統領選挙の際に,ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党本部に盗聴装置が仕掛けられるという事件が起き(ウォーターゲート事件),やがてその事件に大統領が深くかかわっていたことが明らかになると, 1974年ニクソンはアメリカ大統領史上初めて辞任することになった。
カーター時代―アメリカ経済の凋落
ニクソンに代わって副大統領のフォード(在任1974~77年)が昇格したが,選挙の洗社を受けない弱体な大統領で, 1976年の選挙では民主党のカーター(在任1977~81年)が大統領に当選した。
しかし彼が大統領に就任した年に国際収支は細大の赤字となり,国際的にもイラン革命,第二次石油危機,ソ連のアフガニスタン侵攻といった解決困難な事件が相次ぎ, 1980年の大統領選挙で敗北した。彼が唯一達成した事柄は,エジプト・イスラエル平和条約の締結だけであったともいえる。
当時のアメリカは意気消沈していた。ヴェトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件,さらにイラン人質奪回作戦の失敗によりその威信は著しく傷付き,経済的後退はさらに深刻だった。石油危機により国民は燃費効率のよい日本車に乗るようになり,そのため自動車産業は苦境に陥り,他の関連産業も巻き込んでアメリカ経済に打撃を与えた。また石油価格の上昇と福祉政策による高賃金が商品価格に上乗せされ,アメリカ商品は国際的競争力を失った。そのためヴェトナム戦争の出費以来始まったインフレが進行し,経済成長率は一層落ち込み,財政赤字も累積していった。アメリカ経済はEC諸国や日本に急速に追い上げられつつあった。アメリカのライバルはソ連ではなく,実は同盟国の西側諸国であったのである。
こうした中で国民,特に中流階級の白人は一層保守化していき, 1980年の総選挙で共和党のレーガン(在任1981~89)が勝利した。
レーガン時代―第二次冷戦と平和外交への転換
レーガンは強いアメリカの復活をめざし,いわば冷戦を復活させることでアメリカの威信を回復しようとした。また,社会福祉予算の削減と企業減税による投資の促進,国防予算の大幅拡大と財政赤字の解消を約束した。彼の経済政策はレーガノミックスと呼ばれる。さらに対外的には,中南米への介入,グレナダ侵攻,レバノンヘの上陸,リビア空襲など強硬策をつぎつぎと断行した。
しかし,財政赤字はますます累積し, 1985年には世界最大の債務国に転落し,企業減税により累積された資本は金融市場に投資されて経済の再建には役立たなかった。さらにイランゲート事件と呼ばれる政治的スキャンダルも発覚して,レーガンは危機に陥った。
こうした中でレーガンは,突如その外交政策を180度転換して,ゴルバチョフの軍縮提案に乗り,戦後の冷戦構造を打ち砕く平和外交を展開し始めたのである。こうしてレーガンは栄光の内に, 1989年大統領任期を終了した。アイゼンハウアー以来8年の任期を全うした大統領は彼だけであった。
1989年からはレーガン政権の副大統領だったブッシュが大統領の任にあり,外交的には多くの成果をあげたが,国内経済の停滞を打破することはできていない。
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