(1)中近東諸国の成立
ヨーロッパ列強の中近東進出
1990年イラク軍の突然のクウェート侵攻と,翌91年の湾岸戦争は,日本人にも大きな衝撃を与えた。従来中近東問題といえば,イスラエル対アラブ諸国,アメリカ対ソ連という図式でとらえがちだったが,それは第二次大戦後の中東戦争だけを見ているからで,今回の紛争はそのような図式では中東問題をとらえきれないことが明らかとなった。中東問題の理解のためには、どうしてもその歴史的経緯に触れなければならないのだ。
中東あるいは中近東とは英語ではMiddle
Eastで,完全にヨーロッパから見た地域名である。広義には,東はアフガニスタン,西はモロッコ,南はサウジアラビアとスーダンの一部を含むイスラーム世界を指す。
中東地域は,イラン以西の大部分が長い間オスマン帝国(トルコ)の支配下にあった。この地域はヨーロッパと東方世界を結ぶ接点にあったため,オスマン帝国が衰退した19世紀になるとヨーロッパの進出が本格的となり,やがてそれは第一次世界大戦の原因ともなっていくのである。
1869年スエズ運河の開通はこの地域の重要性をさらに高め,運河地帯を支配するエジプトは事実上イギリスの植民地となり,オスマン帝国も政治的・経済的に列強に従属させられ,イランもイギリスとロシアによって分割され,アフガニスタンはイギリスの保護国となった。
ユダヤ人のシオニズム運動
一方,中近東とはまったく関係のない地域で,一つの問題が発生していた。それはシオニズムである。ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗し,完全にヨーロッパ人に同化している人々も多く,彼らは自由主義が定着すればやがてユダヤ人問題もなくなると信じていた。
このような考えを無残に打ち砕いたのは、1894年にフランスで起こったドレフュス事件である。ユダヤ人将校ドレフュスが,無実であるにもかかわらずスパイ容疑で有罪になった事件だ。しかも当時ロシアでユダヤ人の激しい迫害が行なわれていた。それならユダヤ人の安全を守るにはユダヤ人自身の国家を作るしか方法がないではないかということから,ユダヤ人国家の建設をめざすシオニズム運動が発生した(シオンとはイェルサレムの雅名)。
指導者のヘルツェルは宗教色のない社会主義者で,当初は建国の場所についてはパレスチナにこだわらなくてもよいと考えていたが,宗教指導者たちの反対で,しだいにパレスチナに焦点を絞っていった。
こうしてユダヤ人たちのパレスチナ移住が始まったが,彼らの多くは東欧の社会主義シオニストで,やがて彼らがイスラエル独立から1977年まで一貫して政権を担当する労働党の基礎となるのである。
イギリスの二枚舌外交―パレスチナ問題の原点
第一次世界大戦は,中近東にとっても,ユダヤ人にとっても大きな転機となった。
まずアラブ人が各地でオスマン帝国からの独立運動を展開した。ムハンマドの血を引く名門ハーシム家のフサインは,ヒジャーズ地方(アラビア半島の紅海沿岸地域)の独立とハーシム家の勢力拡大を願い,当時シリアで起こっていたアラブ民族主義運動と結びついた。またフサインは1915年にカイロ駐在の英高等弁務官マクマホンと往復書簡をかわし,アラブはイギリスに協力してオスマン帝国に反乱を起こして,その代償としてイギリスがアラブ地域の独立を支持することで合意した(フサイン・マクマホン協定)。ただし,イギリスはフランスへの配慮を理由に,アラブ地域の範囲を曖昧なままにしておいた。
1916年,フサインはアラビア半島西岸にヒジャーズ王国の独立を宣言した。ところが, 1916年イギリスとフランスはトルコ領の分割を協議し,ロシアの同意のもとにサイクス・ピコ協定を締結した。
その内容は,イギリスがイラク・ヨルダンを,フランスがシリア・レバノンを支配し,パレスチナは国際管理とするというもので,明らかに前年のフサイン・マクマホン協定と矛盾している。
さらに1917年イギリスは,ユダヤ人の大金融業者ロスチャイルドヘの外相バルフォアの書簡で,パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを支持した。いわゆるバルフォア宣言である。イギリスがこのような宣言を出した理由は,ロスチャイルドからの資金援助を期待したこと,またアメリカと戦争から脱落しそうなロシアのユダヤ人の支持を得たかったためといわれる。そしてこの無責任なイギリスの態度こそが,後のパレスチナ問題の出発点となったのである。
レバノン問題の発生
この頃,イギリスが派遣した軍事顧問ロレンスがアラブ民族運動を支援して活躍していた。彼はもともと軍人ではなく,中近東に発掘に行っていた考古学者だったが,戦争が始まるとイギリス軍に入隊した。彼はかなり偏屈な人物だったようだが,語学が堪能で,アラブ人と砂漠を愛していた。フサインの三男ファイサルは1918年ロレンスの援助でダマスクスに入城し,ここにファイサルを首班とするアラブ政府が樹立された。
しかしフランスはこの政府の樹立に難色を示した。フランスは十字軍以来シリアに関心を抱き続け,特にレバノンのマロン派キリスト教徒と結んでこの地方に深く進出していたため,この地方をフランスの勢力圏と考えていた。
結局1920年サン・レモ会議で,シリア・レバノンはフランスの,イラク・パレスチナ・ヨルダンはイギリスの国際連盟委任統治領となったが,これは明らかに英仏による植民地の再分割だった。かくしてフランスはダマスクスを占領してファイサルを追放し,アラブ独立に情熱を燃やしたロレンスも失意のうちに帰国した。
フランスはシリア(広義のシリアで,レバノンを含む)を4つに分割して統治したが,その内レバノン地域を本来のレバノンより大幅に領上を拡大した。それはフランスと友好関係にあるキリスト教徒自治区に港湾地域と穀物生産地域を追加したもので,その結果大レバノンは多数のイスラーム教徒を含むことになった。もともとレバノンは「文明の十字路」と呼ばれ,多くの民族・宗教が混在する地域だが,この大レバノン(現在のレバノンの国境と一致している)の成立によって,レバノンはまさに民族と宗教のモザイク国家となったのである。新たにレバノンに帰属させられた内陸部のイスラーム教徒は,レバノンよりシリアに対して強い帰属意識を持っていた。
さらにフランスは,レバノン議会での議席や行政官のポストをキリスト教徒に有利に配分し,フランスに有利な政権の維持を図った。ここに中近東でもっとも複雑なレバノン問題が発生したのである。シリアは,あいつぐ反乱に手を焼いたフランスが1932年にいったん独立を承認したが,第二次世界大戦直前に再び占領した。
シリア・レバノン両国は、1946年ともに正式に独立を達成する。
イラク・ヨルダン独立をめぐるイギリスの思惑
一方,シリアでのアラブ政府樹立に刺激されてイラクでも民族運動が高まり,それは委任統治を委ねられたイギリスに向けられた。民族運動によってイラクに反英的な政権が成立することを恐れたイギリスは、1920年ファイサルを国王に就任させ、1932年にイラクは正式に独立を達成した。
また,イギリスはヨルダン川から東の地域をファイサルの兄アブドゥッラーに与え,ここにトランス・ヨルダン王国(ヨルダン)を樹立させた(完全独立は1946年)。
イギリスのねらいは,地中海からパレスチナ・ヨルダン・イラク・クウェートを経てペルシア湾へ抜ける通路と,エジプトのスエズ運河を経て紅海へ抜ける通路の安全を確保すること,すなわちインド航路の確保にあったのである。
アラビア半島諸国の独立
アラビアでは,18世紀に純粋なイスラーム信仰を求めるワッハーブ派とサウード家が結び付いてワッハーブ王国が成立したが,19世紀初頭にいったん滅亡し,まもなく第二次ワッハーブ王国として復活した。しかしこれも19世紀末に滅亡し,一人の年若き王子がクウェートに亡命した。彼こそ後に伝説的英雄となるイブン・サウードである。彼は,やがて諸部族を統一して1924年ネジド王国を建設,ヒジャーズ王国も滅ぼし,1932年サウジアラビア王国を樹立した。
サウジアラビア王国は,ワッハーブ派の最高指導者としてのサウード家が支配する宗教国家であり,今でも宗教的にはきわめて厳格な国である。
一方,北イエメン(後イエメン・アラブ共和国)は1918年オスマン帝国の撤退とともに独立し,南イエメン(後イエメン人民民主共和国)は紅海の出口アデンを持つため、19世紀以来イギリスの植民地となっていたが,1967年ようやく独立し,社会主義国家となった(1990年,南北イエメンは統一)。アラブ首長国連邦は19世紀以来イギリスの保護下にあったが、1967年に独立した。これらの国はサウジアラビアのワッハーブ派に対して,シーア派が圧倒的に多い点で共通している。
クウェートの独立
クウェートは18世紀頃から開港都市として繁栄し,19世紀にペルシア湾への出口として着目したイギリスが進出するようになると,国際都市に変貌していった。 19世紀末にオスマン帝国と結んだドイツが,ペルシア湾への出口を求めてクウェートに進出してくると,クウェートはイギリスに援助を求め,その代償として,イギリス以外の国とは条約を結ばず,自国の領土を他国に譲らないことを約束した。クウェートがイギリスの保護を離れて正式に独立するのは1961年だが,イラクがクウェートの領有を主張している。
エジプトの独立
エジプトはイギリスの保護下に置かれていたが、1922年にー応王国として独立、 1936年に完全独立した。ただし,その際スーダンが分離され,イギリスのスエズ運河地帯の駐兵権が維持され,さらに軍事同盟によりイギリスに軍事基地を提供することが義務づけられた。
トルコ共和国の成立
オスマン帝国は第一次大戦の敗北で存亡の危機に立たされたが,ケマル・アタチュルクの指導により1923年トルコ共和国として再建され,脱宗教をはじめとする近代化を達成し,その精神は今日まで受け継がれている。ただし,領土はイスタンブール周辺とアナトリア半島に限定され,西アジアでの領土は英仏に分割されて,シリア・レバノン・パレスチナ・イラク・ヨルダンが生まれた。
イラン―パフレヴィー朝の創始
イランは,第一次大戦後ロシア革命の影響を受け,北部でいくつかの地方革命政府が樹立されたが,イギリスによって援助された中央政府軍によって倒された。その中央政府軍の士官だったのがレザー・ハーンである。
彼は1921年に無血クーデターを起こして実権を握り,1925年にパフレヴィー朝を創始し, 1935年には国名をペルシアからイランに変更した。彼は軍部独裁の下に,宗教指導者の反対を押えて近代化政策を推進した。しかし第二次大戦中は親ナチとみなされたため, 1941年イギリス・ソ連軍が侵入して彼は廃位され亡命した。
占領時代には政治的自由が許されたため,社会主義や民主主義,さらに宗教勢力も抑圧から解放され,反政府運動が展開。まさにパフレヴィー朝は滅亡の危機に瀕したのである。
アフガニスタンの独立
アフガニスタンは,インド防衛を至上命令とするイギリスが,ロシアの南下に対する緩衝地帯として保護国とした地域である。しかし住民の激しい抵抗にあい,3度におよぶアフガン戦争をへた後, 1919年に独立した。現在の国境線は,イギリスとロシアの間で定められたものである。結局,イギリスはアフガニスタンを完全に支配することはできなかったが,その轍を後にもう一度ソ連が踏むことになる。
ユダヤ人国家建設への動き
パレスチナは第一次世界大戦後イギリスの委任統治領となるが、その際イギリスはヨルダン川東部をヨルダンに与え,パレスチナの領土をヨルダン川西岸に限定した。これに対してユダヤ人の左派は同調したが,右派が反対し,それが後のイスラエルの右派政党リクードの起源となる。
この間ユダヤ人移民は増え続けた。彼らはトルコ人地主から土地を買い,今まで土地を耕していたアラブ人農民を追い出し,彼らを低賃金の雇用労働者として働かせた。ユダヤ人に資金を与えて送り出したのは西欧人であり,したがってユダヤ人は西欧植民地主義の先兵の役割を担わされた。その結果ユダヤ人とアラブ人との対立が激化していく。
一方,シオニズムの側にも変化が起きつつあった。ヘルツェルがどちらかといえば博愛的な難民救済路線であったのに対し,ワイズマンは実践シオニズムを主張し,さらにベングリオンはユダヤ人国家建国の強硬路線を推進した。そしてベングリオンこそシオニスト労働党の指導者としてイスラエルの初代首相となる人物である。
1930年代になるとユダヤ人移住が困難となってきた。イギリスが,ユダヤ人とアラブ人の対立が中近東諸国の対立に発展するのを嫌い,ユダヤ人の移民を制限するようになってきたからだ。折りしもドイツではヒトラー政権の下でニュールンベルク法が制定され,本格的なユダヤ人迫害が始まっていた時である。ユダヤ人は危機に陥ったが,欧米諸国は彼らに冷淡だった。ドイツはユダヤ人迫害の非難をそらすためユダヤ人の移住を許可し,1939年1000人近いユダヤ人を乗せたセントルイス号がドイツからキューバに向かった。 しかしキューバは上陸を拒否し,アメリカも拒否したため,セントルイス号は受け入れ先を求めて放浪したあげく,イギリス・フランス・ベルギーが受け入れた。ただしフランスとベルギーはまもなくドイツに占領されることになる。そしてまさにこの1939年にイギリスはユダヤ人のパレスチナ移住を大幅に制限し,ドイツはユダヤ人問題の「最終的解決(ユダヤ人抹殺)」に向かっていくことになる。
中近東の悲劇
こうして人為的に国境が画定され,現在の中近東の諸国家が成立した。しかし本来この地域には国境などなく,多様な民族と宗教が混在していた。しかもそれらの民族・宗教は何よりも彼ら白身の宗教法を重視しており,それは国家の法に優越するものだった。またこの地域には遊牧民族が多いが,彼らは国境など関係なく自由に移動したから,国境線を引くことは彼らの存在そのものを否定することになる。オスマン帝国はこのような多様な民族・宗教に自治を認めて支配していたが,これがこの地域における唯一の現実的支配方法だった。だが,ヨーロッパ的な近代国家と国境の概念は,そのような曖昧な統治を許すものではなかった。そして今日隣国の領土の一部が自国のものであると主張していない国は一つも存在しないほどなのである。
そしてこの複雑な地域にユダヤ人問題が追加され,さらにこれに石油問題も加わった。すでにヨーロッパ諸国が進出していた中東石油に,第一次大戦後アメリカが参入し,やがてセブン・シスターズ(ビッグ・セブン)と呼ばれる国際石油資本が中東石油を支配するようになり,中東は戦略上もっとも重要な地域となっていった。
そして第二大大戦後これに冷戦が影を落とすようになる。
(2)中東戦争―米ソ角逐の場
イスラエル共和国の成立とパレスチナ戦争
第二次大戦後,多くのユダヤ人難民が移住を求めてパレスチナに向かったが,イギリスはパレスチナヘの入国を認めず,彼らをキプロスに抑留した。これに対してユダヤ人過激派ベギン(後のイスラエル首相)が指導する秘密機関イルグンがイギリスに対するテロ活動を強化したため, 1947年イギリスはパレスチナの委任統治の放棄を決意し,パレスチナ問題を国際連合に委託した。
国連はパレスチナ問題特別委員会を設置し,委員会はパレスチナ分割案を提示した。この決議案はパレスチナをアラブ人地区とユダヤ人地区とに分割し,イェルサレムを国連の管理下に置くというもので,具体的にはパレスチナ全人口の約3分の1のユダヤ入に60パーセント弱の土地を与えるというものであった。分割内容自体にも問題があったが,それ以前に分割ということそのものにも問題があったといえる。国連でも分割案に対する反対が強かったため,アメリカは猛烈な多数派工作を行なった。例えば,国連総会でフィリピン代表は激しい反対演説を行なったが,その直後にアメリカの圧力に屈した本国政府の指示に従って賛成票を投じたのである。
アメリカがこれほどまでにイスラエル建国を援助した理由は,イギリスの影響力の強い中東にアメリカの足場を築き,アメリカ系の石油資本を守ろうとしたことと,圧倒的な資金力を持つ国内のユダヤ機関の圧力によるものである。今日でもユダヤ機関のロビー活動はアメリカで非常に強力であり,アメリカのイスラエル政策を左右する大きな要因となっている。
なお,この当時,ソ連もイスラエルの建国に賛成していたことにも注意しておかねばならない。ソ連は中東地域での安全保障の手掛かりを求めていたのである。
分割案が可決されると,ベングリオンが率いるユダヤ人軍事組織はただちに軍事行動を開始し,各地でアラブ人との衝突が発生した。パレスチナは事実上戦乱状態に陥る。このような状態の中で,無力状態になったイギリス軍は,国連決議による1948年撤退期限の3ヵ月も前に撤退したが,イギリス撤退の直後にイスラエルは独立を宣言し,ここにイスラエル国が成立した(1948年)。
これに対してただちにアラブ連盟(1945年結成,エジプト・イラク・シリア・レバノン・サウジアラビア・ヨルダン・北イエメン)諸国はパレスチナに進入し,ここにパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発した。兵力では圧倒的にアラブ側が優勢だったが,イスラエル側がこの時のために周到に準備し,国家の存亡をかけて戦ったのに対し,アラブ諸国は戦争準備が整っておらず,各国の思惑もばらばらで結束できなかった。
結局1949年国連の仲介で休戦協定が締結されたが,この間イスラエルはイェルサレムを占領するとともに,1947年の分割案でパレスチナ人に割り当てられた多くの土地を占領した。その結果、100万ものパレスチナ人が土地を追われてパレスチナ難民となり,ヨルダンやレバノンやシリアに流れ込んだ。ユダヤ人はアラブ人の資産を接収し,ユダヤ人による入植を開始した。
また,この時,ヨルダンもかねてから狙っていたヨルダン川西岸を占領,エジプトもガザ地区を占領する。つまりパレスチナは3分割されてしまったわけだ。
バグダード条約機構の設立
戦後アラブ諸国にアラブ民族主義と反欧米意識が高まり、このような中でソ連は政策を変更し、1950年代になるとアラブの立場を支持するようになり,アラブ諸国に好感をもって迎えられるようになった。
一方アメリカはソ連の脅威に対抗するため,そして中東で勝ち取った石油利権を守るため,ソ連と国境を接してソ連の脅威を感じているトルコ・イラク・イラン・パキスタンにイギリスを加えて, 1955年バグダード条約機(METO)を設立する。しかし,アメリカ自身はこの条約に参加しなかった。アメリカは条約機構の中核にエジプトを置きたかったが,その説得に失敗したため,エジプトとの友好を維持するためだ。そのためMETOはイギリスの利益を擁護する条約としての傾向を強くすることになった。
いずれにせよ,この条約に対する他のアラブ諸国の反発は激しく,それらの国は急速にソ連に接近していく。
アラブ民族主義の高揚とスエズ戦争
1950年代におけるアラブ民族主義の高まりの中心となったのはエジプトである。エジプトは独立したとはいえ,ムハンマド・アリー朝の継続にすぎず,またイギリスの影がなお強く残っており,独立を担ったワフド党もイギリスの御用政党となってしまっていた。国内では大土地所有による綿花モノカルテュア経済が支配し,国民は貧困にあえいでいた。
このような中で,自由将校団が,軍部の内部で密かに革命計画を進めていたが、1952年反英暴動で無政府状態におちいると,クーデターを決行してファールーク国王を追放,共和国の樹立を宣言した。当初ナギブが指導者だったが,穏健な改革をめざすナギブとナセルが対立し,1954年ナセルがナギブを排除して実権を握った。
ナセルは,国内的には農地改革と産業振興に努め,対外的にはイギリス軍の撤兵や,非同盟中立を掲げてアジア・アフリカ会議に参加するなど華々しい活動を展開した。
さらにバグダード条約加盟を拒否した報復として,アスワン・ハイ・ダム建設資金融資の約束をイギリス・アメリカに撤回されると、1956年スエズ運河の国有化を宣言した。イギリスとフランスはこれを自国の権益に対する挑戦ととらえ,アラブ世界に包囲されて孤立するイスラエルとともにエジプトに侵入し,スエズ戦争(第二次中東戦争)が勃発した。イスラエルの船舶はもともとスエズ運河の通過を拒否されていたから,スエズ運河の国有化はイスラエルにとって直接関係はなかったが,イスラエルにとっては安全保障上エジプトがイギリスの影響下におかれていることが望ましかったのである。
戦況はイギリス・フランス・イスラエル側の一方的攻勢の内に推移したが,この一方的侵入に対する国際非難が高まり,アメリカさえも三国を非難するにいたったため、三国は撤退に同意した。
この戦争を契機に中近東における英仏の影響力は大幅に後退し,代わって米ソの影響力が増大していく。一方、エジプトは戦闘そのものには敗北を続けていたが,最終的には勝利をおさめ,その結果エジプトとナセルはアラブの盟主としてアラブ民族主義の中心的存在となっていった。
アラブ統一への動きとその崩壊
アラブ民族主義の高揚はアラブ統合の構想を生み出たが,この構想には2つの対立する流れがあった。
一つはシリアで生まれたバース党をめぐる動きである。バースとは復興運動を意味し,従来の外国支配からの開放のみをめざす民族運動と異なり,社会主義的改革とアラブの統一をめざす運動で,急速に各国に拡大していた。
もう一つは,ヨルダンとイラクを支配するハーシム家の,レバノン・シリア・パレスチナをもその支配下に統一しようとする野心の動きだ。このハーシム家の勢力増大に対しては,エジプトとサウード家のサウジアラビアが警戒心を抱いていた。
このような中にあって,シリアはエジプトとの統合を求めてきた。エジプトはシリアとの統合には消極的だったが,シリアで共産党の脅威が高まっていたため同意した。こうして1958年エジプト・シリアによるアラブ連合共和国が発足したが,シリアは完全にエジプトの支配下に置かれる結果となった。シリアでは政治的自由が失われ,シリア経済はエジプト経済に吸収された。そのため1961年にシリアで軍事クーデターが起きてエジプトから離反し,アラブ連合共和国は3年で崩壊した。
一方,イラクでは戦後石油が発見されたが,一部の有力者に富が集中し,またバグダード条約機構の中心国としてアラブ諸国の中で孤立していた(アラブ連合共和国に対抗するため、1958年ヨルダンとアラブ連邦を結成)。
これに対してカーセムを中心とする将校団が1958年クーデターを起こし,その結果イラクでのハーシム家王朝とアラブ連邦は崩壊し,ハーシム家の支配はヨルダンだけになる。
1960年代にはイラクとシリアにアラブ統一を掲げるバース党政権が成立した。ここにアラブ統一ヘの道が開かれるかに思われたが,イラクとシリアとのバース党の間で対立が発生し,さらにユーフラテス川の水利権をめぐる問題もあって,やがて両者の関係は犬猿の仲となっていく。
冷戦が中近東に落とした影
1958年は,アラブ民族主義が大きな高まりを見せた年であり,アラブ諸国に反欧米的雰囲気がいっそう強まった。イラクの革命政権はバグダード条約機構を脱退してバグダード条約機構は崩壊,レバノンとヨルダンでは暴動が発生し,さらにアラブ10カ国が国連に反イスラエルの決議案を提出した。
このような中でアメリカは,すでにスエズ戦争後の1957年にアイゼンハウアー・ドクトリン(中東教書)を発して中東防衛の決意を示し,共産主義と戦う国には援助を行なうことを表明していた。さらに1959年には,バグダード条約機構の崩壊をうけて,イギリス・トルコ・イラン・パキスタンからなる中央条約機構(CENTO)が結成され,反共体制が強化される。
1960年代になると,ナセル主義の高まりとバース党勢力の拡大により,アラブ諸国における社会主義への傾斜が一層強まり,ソ連もエジプトなどに積極的に軍事援助を行なうようになった。こうして中近東は米ソ角逐の場としての色彩を明白に帯びるようになる。
第三次中東戦争
このような中で,一層孤立感を深めたイスラエルは,1967年スエズ戦争の英雄ダヤンが国防相に就任すると,エジプト・シリア・ヨルダンに先制攻撃を開始し,ここに第三次中東戦争が勃発する。
戦争はわずか6日でイスラエルの圧勝に終わり,イスラエルはヨルダン川西岸・シリアのゴラン高原・ガザ地区・シナイ半島を占領した。その結果イスラエルは新たに広大な領土を支配するとともに,内部に大量のアラブ人を包み込むことになり,アラブ人のゲリラ活動の激化という新たな問題を抱え込むことになった。
パレスチナ解放運動
第三次中東戦争でのアラブ諸国の一方的な敗北は,アラブ諸国に大きな屈辱感を与え,それとともにパレスチナ解放運動がアラブ民族主義運動の中心的課題となっていった。
従来周辺諸国は,建て前上パレスチナの解放を叫んではいたが,それはパレスチナ人のためというより,あわよくばパレスチナの土地を自国の領土に併合しようとする下心による場合が多かった。そのためパレスチナ人の間に,結局アラブ諸国はパレスチナ人のために何もしてくれないという不満が高まってきた。そこでアラブ諸国は1964年パレスチナ解放機構(PLO)を創設したが,その目的はパレスチナの民族運動を肯定するというより,パレスチナ人の不満を放出させることにあった。しかもPLOはアラブ連盟に付属する機構として,アラブ連盟の監督下におかれていた。
一方,戦闘的なパレスチナ人は,ファタハ(征服)という武装グループを結成し、1965年には最初のゲリラ闘争を実行した。
第三次中東戦争でエジプト・シリア・ヨルダンが敗北し,アラブ諸国にパレスチナ解放の力がないことが明らかになると,パレスチナ人は独力で祖国解放闘争を行なうことを決意する。 1968年ファタハはヨルダン領内に攻め込んだイスラエル軍を撃退することに成功し,アラブ世界においてファタハの名声は一気に高まった。
1968年アラブ諸国もやむなくファタハのPLOへの加盟を認めると,ファタハは一挙に代議員の過半数を占め,1969年にはファタハのアラファトがPLOの議長に就任した。こうして事実上ファタハが実権を握ったPLOは,パレスチナ解放という明快な民族主義路線を打ち出し,イデオロギー論争を避けて左右両陣営を包含していった。
さらにPLOは,アラブ各国で働いているパレスチナ人から居住先の政府の代行によって徴税し,それをパレスチナ民族基金として財政基盤とした。基金は軍事力の維持のためだけでなく,パレスチナ難民のための社会福祉にも使用され,PLOは事実上独立国家と変わらない機能を持つにいたる。こうしてパレスチナ解放への動きが本格的に開始されたのである。
第四次中東戦争と石油危機
一方,第三次中東戦争での敗北は,エジプトとナセルの威信を著しく傷つけた。国内でも,ナセルによる事実上の独裁体制と社会主義的経済体制の行きづまりに対する不満が高まっていた。
そのような中で1970年ナセルが死亡した。それはエジプトとアラブ世界における一つの時代の終焉を意味した。社会主義・アラブの統一・反欧米という1960年代のアラブの風潮は急速に後退していくことになるのである。
ナセルの死後大統領となったサダトは,ソ道軍事顧問団を追放したが,エジプトでの足場を失うことを恐れたソ連は,その後も極秘に大量の武器を供給し続けた。
第三次中東戦争の終結後,国連安全保障理事会は,アラブ占領地からのイスラエルの撤退を要求する決議242号を採択したが,イスラエルはこれを無視したため,スエズ運河をはさんでエジプトとイスラエルとの間は極度に緊張した。
このような中でサダトは,アラブ諸国の援助の約束を取り付けた上で, 1973年10月シリアとともにイスラエルに先制攻撃を開始し,ここに第四次中東戦争が勃発した。
当時イスラエルは,エジプトの攻撃に関して信じられないほど楽観的な情勢判断をしており,完全に不意をつかれた。しかし態勢を立て直すと,戦局はたちまちイスラエル側の優勢に転換した。
だが,その時アラブ石油輸出国機構(OAPEC,1968年サウジアラビア・クウェート・リビアで結成)は石油戦略を発動し,消費国への石油供給制限を武器に国際世論を味方につけ,戦争をアラブ側に有利に導こうと企てた。
1960年イラクを中心にサウジアラビア・イラン・クウェート・ベネズエラの5カ国で石油輸出国機構(OPEC)が結成されていたが,第三次中東戦争の際反イスラエルで結束できず,石油戦略を有効に発動できなかったため,反イスラエルのアラブ諸国だけでアラブ石油輸出国機構が結成され,第四次中東戦争ではあらかじめ石油戦略が決定されていたのだ。
この石油戦略はアラブの石油に依存する先進国に大きな衝撃を与え,石油危機と呼ばれる事態が発生した。そのため先進国は積極的にイスラエルを支持できなくなり,こうした情勢を背景にアラブ諸国は停戦を受け入れた。
この戦争には,「米ソの代理戦争」,「近代兵器の実験場」,「消耗戦争]などさまざまな代名詞が与えられている。米ソのあらゆる近代兵器が投入され,もっとも激烈な戦闘が行なわれたシナイ半島は,両軍の戦車と航空機の瓦礫の山と化し,イスラエルはこの戦争で1年半分の国家予算を使いつくしたとさえいわれている。
エジプト・イスラエル平和条約の締結
この戦争はさまざまな教訓を残した。イスラエルにとっては,もはやアラブ諸国に対して圧倒的な軍事的優位を維持することは不可能であることが明らかとなった。またアラブ諸国にとっても,イスラエルを軍事的に制圧することは不可能であることが明らかになった。同時にアラブ諸国は,この戦争で第三次中東戦争での惨敗に対して面目をほどこしたし,従来先進国に牛耳られていた石油の生産と価格決定においてイニシアチブを握ることができるようになった。
こうした事実を背景に,サダトは中東和平の仲介をソ連にではなくアメリカに委ね,以後中東外交はソ連を締め出してアメリカが独占することになる。
1977年サダトはイスラエルを訪問し,翌1978年アメリカ大統領の避暑地キャンプ・デーヴィッドにおいてカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相とサダトとの間で和平会談が行なわれ, 1979年エジプト・イスラエル平和条約が締結された。これによってシナイ半島の返還が実現したが,パレスチナ情勢には何の変化もなかった。また,アラブ強硬派はエジプトを激しく非難し,サダトは内外からの非難を受けて1981年に暗殺された。
しかし,石油価格の値上げにより富裕化したアラブ諸国の中で反共・親米派の影響力が強まり,パレスチナ問題の外交による解決の方向が強まっていった。これに対してパレスチナ解放人民戦線などの過激派はゲリラ闘争の強化と,ハイジャックなどによる国際世論の喚起を試みるが,かえって孤立化していくことになる。
そしてパレスチナ問題で一時的に結束したかに見えたアラブ諸国はしだいに対立を深め,中東情勢はまったく新しい局面を迎えることになる。
(3)アラブの対立とパレスチナ問題
“モザイク国家"レバノン
第四次中東戦争とエジプト・イスラエル平和条約締結の後,中近東では全体として穏健化と親米化の傾向が拡大し,パレスチナ解放は当面困難な状況となった。そのような中で中近東での紛争の焦点はレバノンに移っていった。
レバノンの原住民はフエニキア人で,ローマ時代に大部分の住民がキリスト教徒となったが,7世紀にイスラーム教が進出し,以後レバノンは宗教的対立の場となった。
その頃マロン派と呼ばれるキリスト教集団が形成され,十字軍に協力して以来親西欧的となり,以後イスラーム教徒に弾圧されるが,19世紀にフランスの介入で山岳地帯にキリスト教徒自治区が形成される。
1920年レバノンはフランスの委任統治領となり,大レバノンが形成され,キリスト教優位の政治構造が作り出されたことは前述のとおりだ。具体的には、1932年の国勢調査に基づく国会議員の宗派別の比率をキリスト教徒6,イスラーム教徒5とし,大統領をマロン派,首相をイスラーム教スンニ派,議長をイスラーム教シーア派とした。
キリスト教・イスラーム教といっても,それぞれがいくつもの宗派に分かれており,それぞれの宗派は国家よりも自己の属する宗派の宗教法に忠実であり,まさにレバノンはモザイク国家なのである。
レバノン内戦
レバノンの抱える問題は二つある。
一つは,人口増加率の高いイスラーム教徒人口が,戦後キリスト教徒人口を上回ったにもかかわらず,議会と行政職の宗派別配分がそのまま維持され,親西欧的なキリスト教徒支配が続いていることである。これに対して1958年近隣のアラブ民族主義高揚の影響を受けたイスラーム教徒の暴動が発生したが,アメリカ軍が介入して鎮圧された。
もう一つの問題は,大量のパレスチナ難民が流入したことだ。最初の難民が流入したのはイスラエルが建国された1948年で,当初レバノンは問題がこれほど長引くとは予測していなかったため,難民を好意的に受け入れていた。さらに,難民の中にはすぐれたオ能と高い教育を持つ人も多く,彼らはレバノンの発展に貢献したし,またキャンプの難民も低賃金労働者として発展に貢献してきた。
ところがパレスチナ・ゲリラの活動が活発となり,特に1970年のヨルダン内戦でアンマンを追放されたパレスチナ解放機構(PLO)が,中東問題に不干渉主義をとるレバノンのベイルートに本部を移すと,キリスト教勢力や政府との対立が激化し始めた。
PLOはレバノンからイスラエルヘのゲリラ活動を展開するとともに,レバノン南部を事実上支配下におき,レバノンのイスラーム教徒左派と連携して政府勢力と対立し、 1975年には内戦が始まった。そこでキリスト教勢力はシリアに介入を求め、1976年シリアはベイルートに侵攻した。同年カイロで開かれたアラブ首脳会議で停戦となったが,同時にシリア中心のアラブ平和維持軍のレバノン駐留も決定された。
このような中で,イスラエルが1982年レバノンに侵入してPLOを攻撃,その結果PLOはレバノンからの撤退を強いられた。さらにはキリスト教の極右派によるベイルートのパレスチナ難民の大量虐殺という悲劇もおきた。イスラエル軍は1985年に撤退したが,南部にはイスラエルと連携するキリスト教系の軍隊が存在している。
レバノン紛争は現在も継続しており,アラブ連盟が中心となって和解工作を行なっているが,いまだに解決にいたっていない。
ヨルダン―パレスチナ難民問題
レバノン同様ヨルダンもパレスチナ難民の問題を抱えている。ヨルダンは周囲をシリア・イラク・サウジアラビアに囲まれ,国土の大半が砂漠で資源もほとんどないが,そのおかれた位置の戦略的重要性を巧みに利用して,アメリカなどからの経済援助で成り立っている。国王を支持するベドゥイン軍団は少数派で,人口の大半をパレスチナ人が占め,彼らは国王支配に反対している。対外的にはアメリカとアラブ諸国との均衡を維持する外交を展開しているが、1990~91年のイラクのクウェート侵攻とアメリカのイラク侵攻といった事態が発生すると,パレスチナ人を中心にイラク支持の声が高まり,均衡を維持するのが困難であることが明らかとなった。
イスラエル―リクード政権の成立
イスラエルでは第四次中東戦争後初めて右派リクードが政権を握った(ベギン政権)。労働党が武力行使については限定すべきとするのに対して,リクードは武力行使によってのみ民族再興が可能であるとする。したがってリクード政権が成立すると,軍事的にはレバノン侵攻などの強硬路線をとり,国内的には国際世論の非難を無視してゴラン高原・ヨルダン川西岸など占領地域へのユダヤ入の入植を進めた。第四次中東戦争で圧倒的な軍事的優位は崩壊したものの,なお中東では最大の軍事力を保有する。
また, 1989年にソ連がユダヤ人の移民を許可したこと,さらにイスラエルの要請でアメリカがソ連系ユダヤ人の移住を制限したことにより,ソ連から大量のユダヤ人がイスラエルに移民するようになり,イスラエル人の士気を高めているが,アラブ諸国の警戒心もまた強まっている。
このように戦争に明け暮れたイスラエルの経済は,どのようにして成り立っているのか。イスラエル経済を支える最大のものは,アメリカからの援助と,アメリカ在住ユダヤ人からの援助である。産業ではダイヤモンド産業が栄えているが,最近では軍需産業も発展し,兵器を輸出している。特にヴェトナム戦争以降アメリカで発展途上国,独裁政権への援助が見直されるようになると,イスラエルがアメリカの代理として武器を供与する傾向が強くなった。
アラファトのパレスチナ国家樹立宣言
レバノンを追われたパレスチナ解放機構(PLO)は,エジプトの支持するアラファト派とシリアの支持する反アラファト派に分裂した。
1988年PLOのアラファト議長はパレスチナ国家樹立を宣言し,さらに国連総会でアラファトはパレスチナの暫定的国際管理とパレスチナとイスラエルとの共存を提唱した。この現実的提案は多くの国々の支持を得たが(パレスチナ国家の承認), 1947年の国連分割決議を基礎とするこの提案をイスラエルが受け入れるはずがなく,アメリカも反対している(日本も承認していない)。
しかし新しい状況も生まれつつある。それはインティファーダと呼ばれるイスラエル占領地区(ガザ地区・ヨルダン川西岸など)でのパレスチナ人の一斉蜂起である。この運動は、1987年以降各地で起き始め,従来のゲリラ闘争とは異なって,武器の使用をひかえて石ころやパテンコ、さらにはゼネストなどによってイスラエルの差別政策に抵抗するものである。その担い手は,第一次中東戦争以降パレスチナで生まれた若者たちで,占頷下で育った世代である。
イラン―パーレビー国王と宗教界の対立
イランでは,第二次大戦後アメリカの積極的援助によってパーレビー国王(シャー)の権力が徐々に回復し,戦争中勢力を伸ばしたツデー(人民)党(共産党)は後退した。
しかし1950年代に入ると民族運動が高揚し,国民戦線と呼ばれる連合グループを背景にモサデグが首相になると,彼はイギリスのアングロ・イラニアン石油会社を国有化し,シャーおよびアメリカと直接対立した。モサデグは共産主義者ではなかったし,イギリス系石油会社を国有化してアメリカの援助を得ようとしたが, 1952年にアメリカで共和党のアイゼンハウアーが大統領になり,ダレスが国務長官になると,強力な反共政策がとられるようになり,ソ連と国境を接するイランの左翼化が警戒されるようになった。
こうした中でモサデグが国王から大権を奪おうとすると, 1953年国王支持派によるクーデターが起きてモサデグは失脚した。このクーデターはアメリカのCIAが介入しており,これによってアメリカは最大の利益を得た。すなわち,第一次世界大戦直後,アメリカは中東に石油利権をまったく持っていなかったが,その後のサウジアラビアの石油利権の獲得,さらにこのクーデターによって中東石油の半分を超える利権を確保したのである。こうして中東石油におけるアメリカの圧倒的優位が確立した。
その後シャーは弱体だった王権の強化に努め,国内改革を推進していった。特に1960年代,ケネディ米大統領が,キューバ革命の反省から親欧米的政権の維持のためには独裁体制の改革が不可欠という認識を持つようになると,イランにも改革を要求してきた。これを受けて1963年シャーは白色革命を宣言し,農地改革・婦人参政権などの一連の改革を実施し,それとともに脱宗教化による近代化を推進した。ただし議会は骨抜きにされ,独裁体制はさらに強化されていった。
農地改革は大土地所有者に打撃を与えたが,これは大土地所有制を基盤とする宗教界に打撃を与えることを目的としていた。大土地所有者と宗教界は国王の専制支配にとって最大の障害だったのである。碓かにこれによって多くの小農民が生まれたが,やがて政府は彼らの土地を取り上げて公社化し,農民を農業労働者に転化し,農民を政府の直接支配下に置くようになった。
一方,石油危機後の石油価格の高騰で大量のオイル・マネーが流入するようになると,欧米の多国籍企業が進出し,宗教界と密接につながったイランの伝統的なバザール商人が大きな打撃を受けた。しかも政府高官は腐敗堕落した。
このような中で,宗教界は白色革命に最初から疑念を抱いており,その後のシャーの一連の政策に不満をつのらせていた。本来イスラーム世界では,宗教界に世俗権力は直接介入しないし,特に最高指導者に関しては国王といえども逮捕する権限を持たない。しかしシャーは最初から宗教界と対決する決意を持っており,すでに1963年に最高指導者ホメイニを国外追放していた。
イラン革命
こうして1970年代になると国内のさまざまな不満が,宗教界の反シャー闘争と結びついていった。当時パリに亡命していたホメイニは,イランに向けてつぎつぎと指令を発し,民衆はそれに応えて反シャー・デモを繰り返した。こうして運動が頂点に達し, 1979年パーレビー国王が亡命すると,ホメイニが帰国してイラン革命が達成された。そして国民投票によりイスラーム共和国というイスラーム原理の強い国家体制が圧倒的多数で支持された。
その後のイランではシーア派のイスラーム原理に基づく政治が行なわれ,近代化=脱宗教という図式に逆行する復古主義が支配した。また反共産主義,反帝国主義,イラン民族主義を掲げ,アメリカ大使館員を1年以上にわたって人質とするなど,国際的に孤立化した。また社会・経済も革命以前とほとんど変わらず,いくぶん民主主義化が進行したとはいえ,国民は耐乏生活を強いられた。
特に1980年から88年まで行なわれたイラン・イラク戦争は,イラン社会に大きな亀裂を残すことになった。
イラン・イラク戦争の勃発
イラン・イラク戦争は,直接的にはシャトル・アラブ川の国境線をめぐる対立である。イラクは前々からペルシア湾へ抜ける通路の確保を望んでいたが,従来アメリカの援助を受けたイランの軍事力が勝っていたため,行動を起こすことができなかった。
またイラクでは脱宗教の傾向を持つバース党のフセインが独裁政治を行なっていたため,イラン革命の波及を恐れたこともある。
このような中で1989年にホメイニが死ぬと,ラフサンジャニ大統領の下で穏健化路線に転換し,国際社会への復帰と経済の再建に努めている。
湾岸戦争と中東問題解決への道
1990年8月2日イラクがクウェートに侵攻し,クウェートの併合を宣言した。侵攻の直接的な理由は,クウェートがOPECで定められた石油割当て枠を守らず増産したため原油価格が下落したということだが,その背景には長期におよぶイラン・イラク戦争による国家財政の窮乏,ペルシア湾への人口をふさぐクウェートヘの野心といったことがある。
イラクのフセイン大統領は,アメリカに対してアメリカの弱点をつくプロパガンダをつぎつぎと展開した。
まず第一に,クウェートの侵攻を中東問題とリンクさせ,パレスチナを不当に占領するイスラエルを支援しているアメリカにイラクを非難できるのか,と訴えた。
第二に,フセインはクウェートに民主主義を樹立するとして,暗にアメリカの政策を批判した。アメリカはペルシア湾岸に存在する王制8カ国(イラン・クウェート・ヨルダン・サウジアラビア・バーレーン・カタール・アラブ首長国連邦・オマーン)と提携し,それらの王制を維持することによってペルシア湾の安定を維持しようとしてきた。従来イランとサウジアラビアがその中核をなしており,これらの国にアメリカ製の武器を大量に売り込んで石油代金の回収を図っていた。やがてイランが革命によって反米的となったため,他の地域への挺入れはさらに強化され,これらの国はアメリカとの結び付きによって君主制を維持していた。
フセインのこれらの主張はアラブ民衆の琴線に触れるものであり,アラブ諸国の中には利害関係からイラクのクウェート侵攻を支持する国もあり,多国籍軍に軍隊を派遣した国々の民衆も必ずしも政府に同調してはいなかった。
アメリカはこのような民衆感情に困惑し,親米諸国を総動員して世論作りに奔走した。またフセインを打倒するためイラクのクルド人を支援してみたが,クルド独立運動問題を抱える同盟国トルコの反対により中途半端に終わった。さらにイラクによるミサイル攻撃に対して報復を叫ぶイスラエルの説得にも苦労した。そのうえ最後には,かつての宿敵イランに仲介を委ねる場面まで発生した。
結局戦争はアメリカの圧勝に終わったが,フセイン政権はなお健在であり,支援しかけたクルド人やシーア派の運動も鎮圧され,クウェートに民主主義の生まれる気配もない。
一方,これを契機に,パレスチナ問題を含む中東問題全般の解決を目指して、1991年中東和平会議が米ソの協調のもとで開かれたが,問題の解決は容易ではない。
少数民族問題と宗教問題
中東をめぐる問題でもう一つおさえておかねばいけないのがいくつかの国境にまたがる少数民族の問題だ。
アルメニア人はソ連・イラン・イラク・トルコ・レバノンなどに散在し,インド・ヨーロッパ系でアルメニア正教と呼ばれるキリスト散を信奉する。第一次大戦中トルコで150万人のアルメニア人が虐殺されたといわれる。
アゼルバイジャン人はトルコ系でイランとソ連にまたがって居住している。両民族は近年ソ連領内でも自立化の動きを強めて,紛争が起こっている。
クルド人はイラン・イラク・トルコ・シリア・ソ連にまたがって居住し、1988年イラン・イラク戦争の直後にイラクは毒ガスを使ってクルド人を虐殺したといわれる。
このように多様な民族が入り乱れ,それらが自治ないしは独立を要求しているため,しばしば社会不安を引き起こしている。パレスチナ問題も含め人為的な国境が今日の中東紛争の最大の原因となっているといえるのだ。
さらに,こうした民族問題に宗教問題が加わって中東問題を複雑化している。
例えば,キリスト教といってもエジプトのコプト派,レバノンのマロン派,さらにカトリックやギリシャ正教などがあり,イスラーム教にはイランを中心としたシーア派,サウジアラビアのワッハーブ派などがあり,イランにはゾロアスター教徒もいる。イラクはスンニ派をとっているが,国内にはシーア派のほうが多く,イラン・イラク戦争の際にも,イラクはシーア派を通じての革命の波及を恐れたといわれている。
ソ連のアフガニスタン侵攻
中東をめぐる問題には,その他にアフガニスタンヘのソ連軍の出兵と撤退といった問題がある。
アフガニスタンは1973年のクーデターで共和制に移行していたが, 1978年の軍事クーデターを契機に内戦がおこった。1979年にはソ連軍の侵攻にともなうクーデターが発生し,親ソ政権が成立,政府・ソ連軍に対するゲリラ活動が激化した。
ソ連は1989年に完全撤退したが,内戦は今も続いている。
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