(1)ラテン・アメリカの悲惨
スペイン人の植民地支配
1992年はコロンブスの「新大陸発見」500周年にあたる。それ以前にはマヤ文明,アステカ文明,インカ文明などの古代文明が栄えていたが,これらの文明はスペイン人によってすべて破壊され,以後組織的なカトリックの布教とスペイン人の移住によりラテン・アメリカ世界が形成された。ラテン・アメリカに定住したスペイン人はクリオーリョと呼ばれ,アシエンダと呼ばれる広大な土地を所有して,インディオやインディオとスペイン人との混血であるメスティーソを支配した。
19世紀に多くの植民地が独立したが,その独立を担ったのはクリオーリョであり,したがって独立後も彼らは支配階級としての地位を維持し,そればかりか彼らの利害関係の対立から多数の国に分裂してしまった。言語・宗教・民族が基本的に同じであるにもかかわらず,またシモン・ボリバルによる統一への動きがあっかにもかかわらず,クリオーリョたちの地域主義が高まり,スペインの植民地統治の支配区分を基盤に分裂していったので
ある。
やがて,クリオーリョはイギリス・アメリカなどの外国資本と結びついてモノカルチュア(単一栽培)経済を推進し,インディオやメスティーソに対する搾取を強化していった。アシエンダと呼ばれる広大な土地で,地主は多くのインディオを農奴的に使役し,絶対的権力をふるった。ペオンと呼ばれる農民はわずかな賃金で働かされただけでなく,地主が生活必需品を農民に掛け売りしたため,実際に渡される現金はほとんどわずかで,しかも農民の無知につけこんで不必要なものまで買わせて借金を負わせ,子孫の代まで縛りつけていた。だから他の条件のよい仕事に移ることもできなかった。教会もまた大上地所有者としてインディオを搾取し,地主への反逆は神への裏切りであると教えたのである(なお,一般大衆と直接接する下級神父の中に,インディオに同情して解放運動を行なう人々も現われ,「解放の神学」を生み出していったことも忘れてはならない)。
このような支配体制を維持するため,ラテン・アメリカ諸国では軍事独裁政権が一般的となり,下層階級の反抗を抑圧し続け,欧米諸国もこのような独裁政権を支持して彼らの利益の擁護に努めてきたのである。
アメリカのカリブ海・中米への進出
19世紀末になるとアメリカは, 1889年第一回汎米会議を開いて汎米主義を提唱し,中南米への本格的進出を開始した。
まず,カリブ海・中米への進出が本格化してカリブ海は「アメリカの裏庭」と呼ばれるようになり,第二次大戦後には中南米全体におけるアメリカの影響力は圧倒的となった。 1947年には米州共同防衛条約(リオ協定)が締結されて共産主義に対する地域的安全保障体制が作られ, 1948年ボゴタ憲章に基づいて米州機構(OAS)が結成され,中南米はアメリカの軍事体制の中に組み込まれていった。
このような中で,大地主・独裁政権・アメリカ資本の癒着はますます強化され,中南米はアメリカ経済の繁栄を支える重要な地域となっていった。しかしそれはインディオなどの下層階級の自由と生活をさらに圧迫し,各地で反米闘争や革命が頻発したが,アメリカと結びついた独裁政権はこれらをことごとく弾圧した。アメリカは、かつてソ連が東欧諸国の動きに対して非常に過敏に反応していたのと同様の動きを、ラテン・アメリカ諸国に対してしてきた。そのことは1983年のグレナダ侵攻を見れば明らかである。グレナダはカリブ海に浮かぶ入口約10万の小さな島で,ここに親ソ政権が成立したのを嫌ったアメリカは,カリブ6カ国の軍隊とともに侵攻してこの政権をつぶしてしまった。アメリカは直接の軍事介入だけでなく、C I Aによる破壊工作などによっても,反米的とアメリカが見なす政権を打倒してきた。
バルガス・ペロンのポピュリスト体制
第二次世界大戦前後に,このような支配体制を克服しようとする一つの試みが行なわれた。それはブラジルのバルガスやアルゼンチンのペロンによって代表されるポピュリスト体制と呼ばれるもので,地主に対抗してブルジョワと労働者が同盟を結び,その結果生まれた独裁体制である。
バルガスは世界恐慌によりブラジル経済が破綻する中で、1930年労働者の支持を受けて大統領になり,労働者の地位の向上を図るとともに,経済の自立化を進めたが,第二次大戦後の民主主義要求の高まりの中で辞任した(その後大統領に返り咲いたが軍部などの圧力で自殺)。
ペロンも労働者の熱狂的支持を背景に1946年に大統領となり,労働者・婦人保護の法律をつぎつぎと成立させていったが、1955年軍の蜂起で失脚した。亡命していたペロンは1973年奇跡的に政権に復帰したが,翌年死亡した。
アメリカ中南米政策の破綻
第二次世界大戦後,アメリカの中南米政策に最大の打撃を与えたのはキューバ革命であり,この事件はアメリカに中南米政策の見直しを迫った。
ケネディ大統領は,中南米のアメリカ離れと社会主義化の傾向は、これらの国における貧困と社会矛盾にあることを認識し,「進歩のための同盟」を結成して各国に改革と近代化を迫った。ドミニカ共和国でアメリカの支援の下に31年間にわたって独裁政治を維持してきたトルヒーリョ大統領が1961年に暗殺されたが,独裁こそ革命の温床だとするアメリカがかかわったとされている。
しかしこの同盟は,改革のための資金援助が行なわれなかったため,結果として改革なき工業化のみの近代化に終わり,二つの結果を生み出した。
一つは,革命運動を抑圧するため各地で軍事クーデターによる独裁政権が成立し,アメリカも親米的でありさえすれば独裁政権を支持する方向に転じた。1964年にはブラジルで軍事クーデターが起き,結局ドミニカも内戦状態に陥ったうえアメリカ軍が上陸した。中南米の軍隊は,キューバを除けば,対外戦争用というより国内の治安維持のために存在しており,民衆運動はすべて軍隊に封殺されていくことになる。チリで1970年に平和的に成立したアジェンデ社会主義政権も, 1973年のクーデターにより打倒され(アジェンデは死亡),ピノチェト独裁政権が成立した。この際にもアメリカが関与していたとされる。
いま一つは,無理な工業化が石油危機による先進国経済の停滞を原因にした輸出の鈍化等によって行きづまり,財政破綻を生み出したことだ。
しかし, 1980年代になると,軍政はその人権抑圧で国際非難を浴び,経済政策の失敗とあいまって民政への移行が進んだ。
1988年,チリではピノチェト政権の存続を問う国民投票が行なわれたが,過半数が「ノー」を投じた。また,1989年ブラジルでも29年ぶりに大統領選挙が行なわれた。しかしこれら文民政権は軍部の圧力とクーデターの恐怖に脅え,さらに崩壊した経済の再建に有効な手段もなく立ち往生させられているのである。
1989年12月,アメリカはパナマのノリエガ独裁政権打倒のためパナマに侵攻,翌年1月ノリエガを逮捕して身柄をアメリカに拘束した。さらに, 1990年には,ペルーに日系のフジモリ大統領が誕生した。
これらは,前述のような背景を知らなければ理解できない。前者は独裁政権を支持し続けたアメリカの政策の破綻であり,後者は独立以来の社会矛盾を放置し続けたことに対する民衆の不満の結果なのである。
(2)キューバ革命―カストロの挑戦
キューバの独立
19世紀前半に中南米のほとんどの国が独立する中で,キューバは独立せずスペインの植民地としてとどまった。その理由は砂糖生産で経済的に繁栄していたため,クリオーリョが独立を望まなかったことと,イギリスの攻撃に備えて強力な軍隊が置かれていたからである。しかし,スペイン本国がヨーロッパの国際紛争に巻き込まれないように,植民地への物資輸送を中立国に委ねたため,しだいにアメリカが進出するようになった。アメリカもキューバを市場としてますます必要とするようになり,両者の関係は一層緊密になった。
19世紀後半から独立闘争が始まると,その政治的・経済的混乱の中でアメリカ資本が進出した。 19世紀末スペインによる独立運動弾圧を契機にアメリカが介入し,1898年米西戦争が始まった。戦争の結果キューバの独立は達成されたが,それは名ばかりで, 1902年までアメリカの軍紋下におかれ, 1902年内政干渉を認めたプラット修正条項を盛り込んだ憲法により,事実上アメリカの保護国となった。
その後のキューバにはアメリカ資本が怒濤のごとく押し寄せ,砂糖きび農場や製糖工場のほとんどがアメリカ資本によって支配されるようになった。さらにアメリカ資本は発電・輸送・その他の製造業にいたるまで独占し,また広大な土地を独占して砂糖きび以外の農業が発展する可能性を奪った。こうしてキューバはアメリカの砂糖工場と化したのであり,アメリカとの全面的対決を覚悟しない限りモノカルチュア経済体制を克服することは不可能となっていった。
1934年アメリカはプラット修正条項を撤廃したためキューバは完全な独立国となり, 1940年バチスタが大統領となった。第二次世界大戦後キューバはインフレと労働争議に苦しめられ,人々はクーデターによって再び大統領となったバチスタに期待した。確かに彼の時代にキューバは世界一の砂糖生産国となり,比較的高い生低水準を享受したが,大多数の農民は上地を待たず,労働者の労働条件も改善されなかった。そして,バチスタはアメリカ資本と結びついて腐敗していった。
キューバ危機と社会主義宣言
この頃からカストロを中心とする革命運動が本格化する。カストロは大地主の息子で,妻はバチスタ政権の高官の娘だったが,早くから革命運動に参加し, 1953年に兵舎を襲撃して逮捕された後,メキシコに亡命。その後彼はキューバに戻りゲリラ戦を展開し,しだいに支持者を増やしていった。
カストロの行動は特にアメリカの同情をひき,ついに政府もバチスタに武器を売ることを中止した。その結果1959年バチスタは亡命し,カストロら反乱軍は農民・労働者の熱狂的声援の下にハバナに入城した。カストロ32歳のときである。彼は軍人が政治に関与すべきでないと考えて新政権には参加しなかった。ところが新政権は社会改革を実行しようとしないため,すぐにカストロが首相に就任し,以後急テンポで改革が実施されていくことになる。
本来カストロは共産主義者ではなく,アメリカにはつねに親近感を持ち,アメリカとは友好関係を維持することを望んでいた。彼の行なった社会改革も社会主義というより,社会正義を実行したという程度のもので,アメリカも最初はその成り行きを見守っていた。
しかし農地改革法が布告され,アメリカ企業が重大な被害を被る可能性が生まれると,さまざまな圧力を加えるようになった。1960年には医薬品と食糧を除くすべての交易を禁止する経済封鎖を実施した。このような中でソ連首脳が突如キューバを訪問し,砂糖買い付けと経済援助を約束した。1960年アメリカ資本の没収と国有化が行なわれ, 1961年にはケネディ政権はキューバに反革命軍を上陸させハバナ侵攻を企てたが失敗した。
1961年カストロは社会主義宣言を行ない,以後キューバは農地改革を本格的に実施し,主要企業を国有化して計画経済を実施していく。
威信を傷付けられたアメリカは1962年米州機構からキューバを除名し,中南米諸国もキューバと断交した。キューバ革命に刺激されて各地で革命の動きが高まったが,アメリカの反乱鎮圧によって次々と失敗していった。
これに対してカストロの友人だったゲバラは大陸革命を提唱し,国際的ゲリラ軍の提唱を呼びかけた。それは一国だけの革命ではアメリカにつぶされてしまうという危機感から生まれたものだった。彼はボリビアにゲリラの根拠地をおき,各地でゲリラ闘争を展開しようとしたが,結局ボリビア共産党とも対立して1967年戦死した。
キューバ危機の発生
こうしたキューバ革命の過程で,国際政治に大きな影響を与えた事件が勃発した。1962年のキューバ危機である。
キューバの戦略的位置に着目したソ連は,キューバとの間で結んだ武器援助協定によりキューバにミサイル基地の建設を開始した。空中偵察によってこれを察知したアメリカは基地撤去を要求し,キューバを海上封鎖した。
ソ連は,通常海上戦力ではアメリカに太刀打ちできず,核戦争を覚惜しないかぎり海上封鎖に対抗できないため,結局基地撤去を発表し,アメリカもキューバ不侵攻を約束した。この間わずか1週間だったが,米ソの対立は頂点に達し,核戦争の危機さえはらんでいた。
これを契機に米ソの接近が強まり,
1963年には部分的核実験停止条約が締結されるなど,平和共存への道が模索されることになる。一方,核戦力においてはソ連に依存せざるをえない中国にとってソ連の全面撤退は,ソ連が必ずしも頼りにならないことを明らかにするものだった。その結果, 1964年には中国も核実験を行ない,世界の多極化は一層進んでいった。
(3)中央アメリカの悲劇
中央アメリカ連邦の分裂
中米諸国は,1821年メキシコ独立の際メキシコとの合併を決定した。しかしメキシコでイトゥルビデ将軍の独裁化が進行したため,これを嫌い1823年中央アメリカ連邦として独立した。人口の大半がメスティーソとクリオーリョで,一握りの富裕なクリオーリョが支配しており,やがて彼ら支配層間の利害対立が表面化して,1838年にコスタリカ・ニカラグア・ホンジュラス・エルサルバドル・グアテマラの5カ国に分裂した。
これらの国では19世紀後半にコーヒーのモノカルチュア経済が成立し,さらに20世紀に入るとアメリカの「バナナ資本」が進出。そのためこれらの国々の政権は民衆的基盤を欠いた独裁政権や外国資本のための政権となっていった。この地域に進出しているアメリカのフルーツ会社の実力は現地政府を凌ぐほどで,時にはアメリカ政府を動かして政府を打倒してしまうことさえあった。これに対して革命運動がしばしば起きたが,アメリカの介入によってことごとくつぶされてしまった。
ニカラグア―サンディニスタ民族解放戦線の結成
ニカラグアでは,20世紀初頭,アメリカの内政干渉と軍事占領が続いた。サンディーノを指導者とする解放軍がゲリラ戦を展開し,アメリカ軍の支援を受けた保守党と撤退を求める自由党の内戦が統いていた。
1930年代になると解放軍の優勢が決定的となり,アメリカが善隣外交に転換したこともあって, 1932年大統領選挙が行なわれ,自由党のサカサが大統領となった。その後サンディーノは奥地に撤収して農業開発に従事していたが, 1934年国家警備隊のソモサに殺された。やがてサカサも追放され, 1936年ソモサが大統領となると,彼はその政治権力を利用して富を蓄積した。
1950年代になると綿花やコーヒーの輸出が増加したためプランテーション経営が普及し,農民は土地から追い出された。
1956年にソモサが暗殺されたが息子がそのまま権力を引き継いだため,反ソモサ運動が活発となった。サンディーノの死後も彼の率いた解放軍が活動を続けていたが,1961年この解放軍を中心にサンディニスタ民族解放戦線が結成される。このような中で1972年に起こったマナグア大地震の際の援助金の着服は,ソモサに対する国民の怒りを頂点にまで高めた。これに対してアメリカ国内でもソモサ支援に対する批判が高まり,折りから人権外交を展開していたカーター大統領もソモサを見放した。危機に陥ったソモサは大量虐殺を繰り返し,全土は戦場と化し, 1979年ソモサはついに亡命した。
新政権はアメリカと対立する意志はなく,アメリカもカーター大統領が中米の現状変革は不可避であるという認識のもとに,革命政権に柔軟な姿勢をとった。
しかしレーガン政権は中米危機を東西対立の中でとらえ,力による解決の方針を打ち出した。CIAを通して反政府ゲリラ(コントラ)を援助し,その結果ニカラグアは再び内戦状態に陥り,追いつめられた解放戦線側では共産主義者が台頭し、ソ連に接近していった。
今や内戦は地域紛争から東西両陣営の対立に発展していったため,危機を感じた周辺諸国が地域自決の平和解決のための調停に乗り出し、1991年総選挙が実施された。長い内戦による経済混乱に苦しめられた国民は反政府勢力を支持し,解放戦線側は政権を離れた。しかしまもなく新政権内部の対立が表面化し,ニカラグアの情勢はなお流動的である。
パナマ運河―アメリカの中南米戦略基地
パナマ運河はすでに19世紀末に,スエズ運河を建設したレセップスが開削を開始していたが,さまざまな困難に直面して挫折し,その後アメリカが運河建設に乗り出した。パナマ地帯は当時コロンビア領だったので,アメリカは運河の排他的支配を目的とした租借条約をコロンビア政府との間で締結しようとしたが失敗した。
そこでアメリカは当時パナマで起こっていた独立運動を援助し、1903年独立したパナマとの間でアメリカにきわめて有利な租借条約を締結した。こうして1914年パナマ運河が開通するが,この運河はアメリカの戦略上きわめて重要な意味を持つため,軍部に運河会社を経営させた。運河地帯は幅16キロメートルの帯状の土地で,アメリカ軍が駐屯し,軍隊はパナマ国内で行動することも認められており,事実上パナマ政府の権限が及ばないアメリカの植民地となっている。したがってこの地域はアメリカのラテン・アメリカに対する戦略的な要であり,キューバ革命後には反ゲリラ訓練所や米州警察学校が設置され,中南米におけるゲリラ対策の拠点とされた。
1960~70年代にかけて,ここで訓練を受けた多くの軍人が中南米諸国の独裁政権の指導者となり,国内の保守勢力とアメリカの利益擁護のために活躍した。1991年米軍によって逮捕されたノリエガ将軍はこの警察学校の卒業生であり, C I Aと結びついて中南米での破壊工作に重要な役割を果たしてきた人物だった。しかし,彼はしだいにアメリカのコントロールからはみだしはじめ,しかも独裁と腐敗に対する内外の批判が強まったため,結局アメリカは軍隊を投入して逮捕に踏み切ったのである。
一方,パナマ国民の間では早くから運河地帯返還の要求が高まり, 1977年運河条約を改訂して1999年末に返還されることが決定されている。
ホンジュラス・エルサルバドル・グアテマラ
ホンジュラスは典型的な「バナナ共和国]で,しかも周辺諸国との国境紛争や内政干渉に苦しめられ,一部の白人が政治を私物化し,軍事クーデターが繰り返された。
エルサルバドルでは左翼ゲリラ組織と,アメリカの軍事援助を受けた政府軍との内戦が続いている。
グアテマラも親米が基本だが,政府は不安定であり,左翼ゲリラ組織の活動も継続している。
フォークランド紛争
中南米におけるアメリカの影響力はなお圧倒的であるが,同時に多くの矛盾が発生してきている。
1982年フォークランド諸島(イギリス領)の帰属をめぐってアルゼンチンとイギリスが武力衝突した際(フォークランド紛争),アメリカがイギリスを支持したのに対し,米州機構はアルゼンチンを支持し,またアメリカのパナマ侵攻に際しても反対を表明した。
また,メキシコ国境から大量に流れ込む不法入国者の問題や麻薬の流入問題にもアメリカは悩まされている。
しかも,中南米を覆う経済危機と累積債務の問題は,アメリカに直接跳ね返る危険性もある。
これらラテン・アメリカ諸国の諸問題は,アメリカと中南米との関係を見直し,新しい関係を構築する必要性を示しているように思われる。
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