2020年12月12日土曜日

「東海道・中山道」を読んで

 新田時也編著 2019年 静岡新聞社

東海道と中山道は、江戸時代に、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈であり、多くの旅人がこれらの街道を通って東西に移動しました。本書は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や安藤広重の浮世絵などを通して、当時の街道の様子を分かりやすく述べています。ただ、私は、東海道に関する本はすでに何冊も読んでおり、私が読みたかったのは中山道についてだったのですが、本書では中山道についてわすがかしか扱われていませんでした。

中山道は、坂道や足元の悪い道が多く、さらに冬は寒いのですが、東海道も大きな河川の河口近くを通るため、これを渡るのがやっかいでした。私は、中山道というのは、今日の中央自動車道に沿った道だと思っていたのですが、日本橋から北上して埼玉に入り、碓氷峠を越えて長野に入り、ここから先はほぼ現在の中央自動車道に沿っています。ただ、中央自動車道は名古屋に向かいますが、中山道は恵那あたりから関ヶ原に向かい、京・大坂に向かいます。なお、当時東海道は、桑名から鈴鹿山脈を越え草津に至っていました(現在の第二名阪)

 中仙道を通った最も大きな行列は、1861年皇和宮の降嫁で、25日間に及ぶ長旅となりました。当初一行は東海道を通る予定でしたが、神奈川宿周辺で異人との小競り合いがあり、中山道を通ることになったのですが、嫁入り道具は東海道を通ることになりました。中山道の行列は空前の長さで、先頭から最後尾の通過まで、4日要した宿もあったそうです。この大規模道中に要した人足は、延べ6070万人だったとされます。

本書には、しばしば興味深いエピソードが述べられており、ここでその一つを紹介します。当時、「上方」が「上」であるので、上方ら江戸に向かうことを「下る」といっていました。特に上方でも「剣菱酒造」の清酒は良質で有名でした。このように良質の清酒は上方から「下る」ものなので、「下り酒」と呼ばれていました。質の悪いもの、粗悪な商品は江戸に下ることもなく、現代では「下らないもの」の語源となっています。


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