2018年9月30日日曜日

小説(7) 青い桜


私、は、どこから、はじまる、の、でしょう、か?

 コーヒーのような黒き熱い液体に、バニラを落としてみた。コーヒーとオレンジは意外なほど親密なのに、麦茶とバニラの絡み得ない具合はどうしたものか。これについて考えていたら日が暮れてしまった。意味なき理。理から零れ射す光のような不条理。どんな曇りなき春も春は春であると言えるその瞬間。春は、あたしのいったいどこに着床し、芽吹いてゆくのか。

欲情はあらゆる箇所に飛散し這いずり回り一転して、収斂する。その一連の騒ぎは、吐き気の促しのようなもので、奔流のようにだだもれる感覚、繰り返す吐き気。嘔吐、嘔吐、嘔吐、嘔吐。そのなかで、意味の網にかけられたものだけが、死骸のように、ただただ、美しい。
 昆虫採集と物語を綴ることは似ている、かもしれない。
 言葉のかけらがはらはら舞うから、あたしはそれを捕まえるためにほとんど必死になるのだけれど。本当の言葉は、絶対に捕まえられない。捉えどころのない完璧さでいつの日もあたしの手のうちをするするりと逃れ出てゆく。あたしは遺された抜け殼のような言葉の断片を大事に丁寧に拾い上げ、文字の中に閉じ込める。本はさながら標本のようだ。
 死んで生まれ出る、磔にされた昆虫の美しさ。
 美しき死骸から立ち上がる、生。
 体も心も死に絶え、生まれる。違う顏で、違う立場で、違う場所で、眠りに覚める。この私に。この生に。何度でも。

 言葉の切っ先で疵口を抉り出すのは、およそ快楽とはかけ離れた所作である。快楽とも苦痛とも言えない領域で、あたしはためらいもなく勢うがまま、傷つけた。あらゆる角度と時間と場所で。
 あたしは本当に傷つきたいのだ。ズタズタに引き裂かれてしまいたいのだ。うしろを振り返ればもう後はないぞと追い詰められていたいのだ。地面と虚空との境界線ギリギリにいることを、どこかで愉しんでいる自分がいる。ちらと眼下を覗いてみれば、深淵がこちらを覗き込んでくる。恐怖に、皮膚の内側が撫であげられたのは、それが、自身を映す鏡であると気がついたからだ。
 ああ、通りすがりのそこのあなた。どうかあたしの願いを聞き入れてくれないか。ナニ簡単だ。そのくちびるで、その指先で、なにより優しいしぐさで、しかしどんな慈悲も込めずに、突き堕としてくれればいい。
 自壊してゆく意識の中で、射抜くように光る闇が、
 その吸引力と、消耗美で、強烈に自我を溶かしながら、溶かされながら、自身を省みることもできず、太陽の如き不動さにトロトロと欺かれ流れ出す、色彩の乱舞。その内実は穢れた涙の結晶。宇宙の混沌に果て、北白の無垢さで舞い戻り、幾度も幾度も癒えぬ疵をあたえ、気がつく暇もあたえられることなく、死にきれるはずもなく。永劫に彷徨うのだ。絶望にも似た清らかさで。

 これまでのあたしや人生を否定したくない、と少しでも思った自分を殺してやりたい。その程度のつまらない妄信のためなら特に「私」でなくても良いからだ。否定も肯定もいらない。間違えるな。
 間断なく囁きかけられる、絶対零度の旋律。
 ―私のために善き死者になれ。
 
才能とは、ある種の、決定的な、欠落である。

 永遠の楽園。あたしはその下で眠る骨と土である。
 あたしを形作ってゆく秘儀。
 全ての無彩色。
 そして散らばってゆく空を埋める蝶々の縺れ合い絡み合いの流れをいくつも見送ってゆくの。
 極彩色の虚構。
 モノクロの祝祭。
 
幾度も押し寄せてくる、宿るというにはいささか立派すぎる。
 通り過ぎるというには、あまりに不親切であるがゆえに、適当かな。
 この言葉の襲来から、神の気配から、意味の氾濫から、
 囚われたいのか、逃れたいのか、どちらであるべきなのか、わからない。わ
からない。わからない。
 それでも絡みつく魅惑の糸があたしを惹きつける、無償の愛にほだされる。愛? 間違えた。無償の呪い、ね。そういうのが強すぎるなら、こう言ってもいいわ。私、私、私、言葉でないものの支配。種。この肉体とともに植えつけられた、自由と言う名の、桎梏。
 引きちぎれそう。なのに、引きちぎれない。
 あたしの一切を掌握するアレにどうして気がついてくれないの? 知らぬ間に近付いてくる、ひどく親切なしぐさであたしの細胞のすみずみまで行き、渡り、脳神経を懐柔し意識と記憶の錯綜の渦に連れ去る、そしてある日、忽然と姿を消すの。
 残された惨劇を余すことなく映し出すための瞳だけを残して。
 また、ガラスの割れるような悲鳴が共鳴する。心に張り巡らされた鏡面に乱反射して、絶え間なく、響き渡る。内側だけで。永遠に。
 そうしてもがき苦しむあたしは、さぞ華やかでしょう。散らかした花びらをかき集めて、美しい狂気の蜜を吸った言葉を透過する、その機械だものネ。
 あたしの心と肉体は凹凸レンズのようなもので、そう呼ぶには大胆すぎるし熟考の跡もないけれど、似たようなものな気がする。あれもこれもそれも、供物。あたしの愛しい血で穢れた物語を、捧げるわ。いっさいがっさい持っていきなさい。臓物を散らかし骨の髄まで吸い尽くしぞんぶんに欲望を満たしたのちに、残ったものは捨て置くといい。そしたら醜さで綺麗に光るから、透明さで輝く本然のあたしになるから。
 そのための生ならば、跪いてあなたの足先にくちづける。それが決断できたとき、ようやくあたしは、あたしへと果ててゆける。
理想は優雅に花開くのに、
掴むには遠すぎて、
だけど、瞳に映すには、近すぎて。
茫然自失のその刹那。
これが、あたしの本質と、悟る。
これからどうするべきか、とかじゃ全然、ない。
これが全部。
これが、ぜんぶ。

くるくる様変わり巡る万華鏡。
覗いていたのはあたしじゃなかった。
燦然ときらめく極彩色の痛み。
覗いていたのは、あたしだった。

 あたしは春の花の切れ端を、さらりと撫で上げ、感触ソレのみに襲われながら、あわよくば、残された破片を眺め、分析に、顕微にかけてやりたい、しかしそれは、極めて文学的な所作で、破片にどこまでも溶け込む意識と同調し、分裂と識閾を彷徨い、そして戻ってきた明朝。あたしの本番。本当のあたしだったのか何一つ立証する余地もないと証明される。理念も、思想も、慰みも、過去も、未来も、粉々に遥か彼方へ舞い散った。けれど。
 あの春の宵の如き、言葉なく映える香りには、今はまだ、遠きかな。この体が朽ち果てたとき、手折った桜の贖罪を与えられるのであれば、知りたい、あなたの内に外に散らかしながら包括する、そのなんであるかを。あたしの胸のうちをすくう、色彩と無とのはざまのゆらぎ、について。
 どうか。
極めて音楽的な、絵画的な優秀さで、言葉でありたい。
賞賛なんて欲しくない。そんなもの無害な善人にでもくれてやればいい。
手に入れたいのは、宇宙大の僥倖。
無体は承知。でも。
それ以外に、存在する理由など、ない
少なくとも「私」においては。

 あたしの胸には深々と剣が刺さっている。
 引き抜けば、それはそれは美しい赤が景色を彩るでしょう。それを本当は見たいくせに。望んでいるくせに。躊躇っている理由は何? 自己愛? 人間欲?両方? どちらでもない? それとも単に勇気がないだけ?
 あたしは死ぬ。完璧に。そして生まれ出る何かがある。滅するそこに花が咲く。例えそれがどんな姿であっても。染み付いた血液の味わいで、狂おしく咲けばいい。

全力であがけ。

 それでもときおり、生を、死を、希ってしまう瞬間がある。あたしはいったい何に対して何を希っていることになるのか。わからぬまま。
 この深すぎる孤独を、静寂を、優しく大事に抱いて、途方にくれているのだ。悲しいでもなく、切ないでもなく、あるいは、両方で。
 できることなら、詩を詠むように、歌をうたうように、舞い踊るように、何もかも全てを笑い飛ばしてしまいたい。
 それならいっそのこと
 宝石のごとく
 際限なく
 きらめきをまき散らしながら

*ひたすら何かを探し求めているようです。

















(この写真は、この文章の内容とは関係ありません。)

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