2014年1月10日金曜日

第12章 分裂するユーラシア





1.10世紀から12世紀のユーラシア

2.イスラーム世界のトルコ化

3.西欧世界の成立

4.海のネットワークの発展

付録.アフリカ大陸のネットワーク














1.10世紀から12世紀のユーラシア

 10世紀から12世紀にかけてのユーラシアは、東西の大帝国(東の唐帝国と西のアッバース帝国)が崩壊して再び分裂状態に陥りました。振り返って見ると、古代以来ユーラシアでは一定の周期で大帝国の成立と分裂が繰り返されています。この定期的に繰り返される分裂の原因さまざまであり、単純に断定することはできませんが、一つの要因は気候の変動にあります。周期的に訪れる寒冷化が経済を停滞させ、さらに内陸アジアの遊牧民の活動を活発化させ、ユーラシア全体に激震をもたらすことになります。また、経済的な要因も考えられます。例えば、商業が極度に発達すると、通貨としての金銀が不足し、経済全体を萎縮させます。いずれにせよ、これら様々な要因を背景として、この時代にさまざまな勢力の分立状態が、ユーラシアを覆うことになります。

トルキスタンの成立


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12世紀の東アジア
 今回も遊牧民の動きがきっかけとなりました。内陸アジアでは、9世紀に入ると天災が頻発し、それに起因する混乱の中でウイグル帝国が崩壊し、ウイグルはいくつかの群れに分かれて西方に移動しました。これをきっかけに内陸アジアは300年に及ぶ混乱状態に陥るとともに、内陸アジアのトルコ化が決定的となり、今日この地域は「トルコ人の土地」=トルキスタンと呼ばれています。一方中国では、10世紀初頭に唐帝国が滅亡し、その後五代十国の混乱時代を経て宋王朝が成立しますが、宋王朝は北方からの遊牧民の侵入に苦しめられ、12世紀には女真族の金によって華北を占領され、宋王朝の一族は江南に逃れて細々と生き残ることになりました。イスラーム世界でも、アッバース朝が衰退して多くの軍事政権が乱立し、西ヨーロッパでもようやく新しい勢力が形成されつつありましたが、この時代には外民族の侵入により多数の小規模な軍事政権が乱立する封建社会が形成されるようになりました。また、日本でも10世紀には平安時代が転換期を迎え、在地勢力が自立し、12世紀には平清盛のような武家が実権を握るようになります。

2.イスラーム世界のトルコ化

サーマーン朝



 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イスラーム世界のトルコ化


 9世紀後半に、中央アジアでサーマーン朝というイラン系の軍事政権がアッバース朝から自立し、中央アジアからイランにかけて大勢力に発展しました。この王朝は、当時西へ移動してきたトルコ人のイスラーム化を推進したため、トルキスタンのイスラーム化が進み、10世紀にはトルコ人最初のイスラーム国家とされるカラハン朝が成立しました。ここに、トルコ人とイスラーム教という、今日のトルキスタンの特色が形成されることになります。一方、サーマーン朝はトルコ人を拉致し、彼らを訓練して軍人奴隷=マムルークとして自ら用いたり、奴隷として売買して利益を得ていました。トルコ人マムルークは騎馬技術が巧みだったので、イスラーム世界で重用され、やがて高い地位を得て軍事政権として自立するものが出現しました。その代表的な例が、10世紀にアフガニスタンでサーマーン朝から自立したガズニ朝で、この王朝はインドへの侵入を繰り返して、インドのイスラーム化に大きな役割を果たしました。そして、結局サーマーン朝は、10世紀末にカラハン朝によって滅ぼされました。

こうした情勢の中で、トルコ人は豊かなイスラーム世界に憧れて集団でイスラーム世界に侵入し、各地に軍事政権を形成するようになりました。その代表的な例がセルジューク・トルコ族です。彼らはセルジューク朝を建国し、バグダードに入城してアッバース朝のカリフからスルタンの称号を与えられ、イスラーム世界の政治的実権を握りました。またセルジューク朝は軍人に封土を与えるイクター制を導入したため、地方で軍人が自立する封建的な社会が形成されていきました。

さらにセルジューク朝は小アジア(アナトリア)にも進出し、その結果、長くローマ帝国・ビザンツ帝国の支配下にあった小アジアのトルコ化・イスラーム化が決定的となりました。今日、小アジアを支配しているのはトルコ共和国ですが、この国はトルコ人・イスラーム教の国です。さらに、セルジューク朝の小アジア進出は、西ヨーロッパによる200年近くにおよぶ十字軍運動を誘発することになりました。十字軍運動は、聖地イェルサレムの奪回を掲げていますが、ようやく成長し始めた西ヨーロッパによる、交易ネットワークへの参入を意図するものでもありました。

3.西欧世界の成立

クローヴィスの改宗  フランスのランス                   シャルルマーニュ  アーヘン大聖堂





















8世紀のフランク王国
 西ローマ帝国の滅亡後、西方世界では多くのゲルマン諸国家が乱立していましたが、5世紀末にそれらの中からフランク王国が頭角をあらわしました。フランク王国のクローヴィスはローマ・カトリックに改宗し、後の西欧世界形成の出発点となりますが、当時の情勢はなお流動的でした。西欧世界の形成に決定的な影響を与えたのは、イスラーム勢力の進出でした。フランク王国の人々は、イスラーム勢力と直接衝突することによって初めて、自らがイスラーム勢力とは異なる独自の勢力であることを自覚したのです。このことを象徴する事件が、800年ローマ教皇によるシャルルマーニュ(カール大帝)の戴冠でした。これをきっかけに、ローマ帝国・カトリック・ゲルマン人を構成要素とする、独自の西欧キリスト教世界が形成されていくことになります。

ノルマン人の侵入
 しかし9世紀後半になると、ノルマン人やマジャール人などの外民族の侵入により、西欧世界は再び混乱状態に陥りました。その過程で10世紀末にはフランク王国は消滅し、徐々に今日のフランス・ドイツ・イタリアといった国々の原型が形成されてきますが、なお国王の力は弱く、外民族の侵入を阻止する力を持たなかったので、地方勢力が自らを守るために武装し、無数の軍事勢力=封建領主が乱立することになりました。しかし、11世紀になると、外民族の侵入も一段落し、農業上の技術革新による生産力の向上もあって、西欧世界は無秩序な状態のままで、一応の安定状態に入りました。その結果、西ローマ帝国の滅亡後、停滞傾向にあった商業や都市が再び発展し始めました。

 フランク王国時代にあっても、地域間の交易は広く行われていましたが、遠隔地交易は容易ではありませんでした。当時の西ヨーロッパは森で覆われており、森では狼や山賊が出没し、これらの危害から商人を守ってくれるような権力は存在しませんでた。整備された道はほとんどなく、川には橋も架かっておらず、宿泊施設もほとんどなく、このようなインフラを整備する権力も存在しませんでした。さらに、政治的分裂も商業にとって不利でした。無数に存在する封建領主の領地を通過する度に通行税を徴収されたため、商業上のコストが増大しただけでなく、封建領主が山賊まがいの行為をすることも珍しくありませんでした。こうした厳しい条件のもとにあっても、遠隔地交易は徐々に発展し、商業の拠点となる都市もまた発展していきました。

 当時各地に都市が勃興しますが、その大部分は人口500人から5000人程度の都市でした。商人たちは、自らの手で都市を守るために周りに城壁を築いて、きわめて閉鎖的な空間を作り出していきました。都市内部では、道路が舗装されておらず、ブタなどの家畜が走り回り、給排水施設も不十分だったので汚物が道路に垂れ流されるなど、居住環境は劣悪でした。そうした中にあって、商人たちは、自らを農民とも騎士とも異なる市民としての意識をもつようになり、ここにきわめて自立性の高い都市の「市民」という閉鎖的な社会階層が形成されることになります。イスラーム世界の都市にあっては、あらゆる人々が自由に都市に出入りし活動できるため、「市民」という閉鎖的な階層が形成されることは、決してなかったのです。いずれにせよ、商業と都市の発展は、豊かな東方への憧れを強め、それが11世紀末に始まった十字軍運動とうい形で現れたのです。そしてこの十字軍運動によって、西欧に形成されつつあった交易ネットワークがイスラームの交易ネットワークの西の端にリンクされることになるのです。

4.海のネットワークの発展



 
 

ダウ船
イスラーム圏の伝統的な木造帆船で、大きな三角帆を持ち、釘を一切使わず紐やタールで組み立てることが特徴です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
紅海ルート
 ユーラシア大陸の政治的分裂は、交易活動の障害となっていました。西ヨーロッパの場合と同様、多くの政治権力の分立は、関税という商業コストが増えると同時に、商人たちの安全も保障されませんでした。こうした中で、当時、航海技術や造船技術が発展したこともあって、海上交易への依存が高まっていきまし。インド洋では、古くからダウ船と呼ばれる独特の船を用いた航海が盛んに行われていました。そして、アッバース朝時代には、バグダードを起点としてペルシア湾を経てインド洋に至る航路が発展していましたが、10世紀にアッバース朝が衰退すると、紅海を経てインド洋に至る航路が発展するようになりました。この航路はエジプトのカイロに至る航路であるため、今やインド洋の交易ネットワークと地中海世界とがリンクするようになり、このことが西欧世界の東方に対する関心を高めたのです。そして、このカイロを中心に13世紀に成立した王朝が、トルコ系のマムルーク朝です。

この頃、東南アジアでも新しい変化が生まれつつありました。6世紀頃になると、マラッカ海峡の風の規則性が発見され、マラッカ海峡を船で通過することが可能となったのです。その結果、マラッカ海峡の沿岸に中継地として多数の港市が生まれ、7世紀にはこうした港市の連合国家として、スマトラ島を中心にシュリーヴィジャヤ王国が成立し、東西交易の要衝として長く繁栄しました。その結果、多数のムスリム商人が東南アジアに到来し、東南アジアで交易を行うとともに、マラッカ海峡を経由して直接中国にまで達し、中国の海港都市広州には、多数のムスリム商人が居住していました。





ジャンク船
船体中央を支える構造材である竜骨が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られていることによって、喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れていました。宋代以降大きく発達し、河川や沿岸を航行する小型のものから、4501300総トン程度で耐波性に優れた大型の外洋航行用のものまで多様な用途の船舶が造られました。
 








磁器
陶器の欠点は重くて脆いことですが、磁器はカオリンという土を用いて高温で焼成すると、薄く堅くすることができます。中国では古くから磁器が製作されていましたが、宋以降大量に生産されるようになり、世界中から珍重されるようになりました。やがて朝鮮に製法が伝わり、16世紀末に豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮の職人を多数拉致して日本で磁器の生産を行わせました。これが伊万里焼などを生み出します。ヨーロッパで磁器が本格的に生産されるようになるのは、18世紀にはいってからです。
 








   その中国でも、大きな変化が起こりつつありました。中国は伝統的に中国人が交易のため直接海外に行くことを規制しており、海上交易は原則的には朝貢という形で行われていました。ところが、宋王朝の時代、とくに南宋時代には北を女真族の金に支配され、華北という経済的基盤を失ったこともあって、商人たちの自由な海上交易を黙認するようになりました。この頃中国では、イスラーム教徒の造船技術の影響もあって、造船技術が飛躍的に向上していました。こうした中で、ジャンク船と呼ばれる中国独特の船を用いて、多数の商人が東南アジアに向かうようになりました。その結果、中国南部の沿岸に杭州・泉州・広州などの海港都市が繁栄し、東シナ海・南シナ海・東南アジアを結ぶ交易ネットワークが形成され、ムスリム商人の交易ネットワークとリンクされることになりました。さらに、当時中国で、従来の陶器とは異なり、軽く、かたく、美しい磁器が生産されるようになり、世界中で珍重されるようらになったため、多数の磁器が中国の港から輸出され、中国の海域ネットワークは磁器などを生産する内陸部とも深く結びついていきました。

大輪田泊(おおわだのとまり)
 さらにこの頃日本では、12世紀に平清盛が神戸を拠点とする瀬戸内海航路を整備し、自由な交易を認めたため、中国との活発な交易が行われるようになり、日本もまた海域ネットワークの東の端にリンクされるようになりました。このように多数の海域ネットワークがしだいに一つに結びついていき、交易の重心が徐々に陸上から海上へと移行し始めるのです。







付録.アフリカ大陸のネットワーク

 ムスリム商人はインド洋に向かうさい、しばしば東アフリカ沿岸を中継地としたため、この地域に、モガディショ・マリンディ・キルワなど多数の港市が建設されるようになりました。そして、これら港市に内陸から奴隷や金などの商品が集められたため、港市を介して東アフリカ内陸部もイスラーム交易ネットワークと結びついていきました。


 さらに西アフリカのニジェール川流域は、金を豊富に産出していましが、塩が不足していたため、ムスリム商人はサハラ砂漠をラクダの隊商で縦断し、サハラ砂漠の岩塩をニジェール川流域にもたらして金を獲得しました。これを塩・金交換貿易あるいはサハラ縦断貿易といいます。この交易を通じて、8世紀頃からニジェール川流域でガーナ王国が繁栄し、その後イスラーム教が浸透して、13世紀にはマリ王国というイスラーム国家が建設されました。マリ王国の商業都市トンブクトゥは、サハラ縦断貿易の終点として繁栄し、かくして西アフリカもイスラーム交易ネットワークと結びついていきました。一方、ニジェール川流域からもたらされた大量の金は、イスラーム世界やヨーロッパの経済にも大きな影響を与えたのです。


≪映画≫

バイキング 


1958年 アメリカ合衆国
8世紀から10世紀にかけて北欧のノルマン人が各地に移動します。彼らは船を巧みに操り、時には海賊行為も働いたため、ヨーロッパの人々は彼らをバイキングと呼んで恐れました。彼らはイギリスにも攻め込み、当時多くの国に分裂していたイギリスの歴史にも大きな影響を与えます。この映画では、ヨーロッパ中を恐れさせた当時のバイキングの船を見ることができます。












キングダム・オブ・ヘブン
11世紀末に始まった十字軍運動は聖地占領し、そこにキリスト教徒によるイェルサレム王国を立て、これを「天の王国」と呼びます。しかし、やがてこの王国は腐敗し、醜い権力闘争を展開するようになり、イスラーム教徒によって奪還されます。
映画では、ヨーロッパでも騎士中の騎士として知られたサラディンが登場してきます。









船乗りシンドバッドの冒険


1946年 アメリカ
「アラビアンナイト」の物語の1つで、富を求めて世界の海を旅するという話です。シンドバッドはアラビア語で「インドの風」を意味し、インド洋航路の交易網を舞台に活躍したイスラーム商人の群像を象徴する人物です。大型のダウ船と生き生きとした当時のイスラーム商人を見ることができます。






















0 件のコメント:

コメントを投稿