2014年1月11日土曜日

映画で中国史を観る

 中国史に関する映画は、最近ずいぶん公開されるようになりましたが、それでも『三国志』のような知名度の高いものや、アクション風の映画が多く、まだ映画で中国史を学ぶには不十分です。ところが、中国の連続テレビ・ドラマで中国の「正史」に基づいた歴史を扱っているものがかなりあり、レンタルのDVDで観ることができます。
 「正史」とは、前漢の司馬遷『史記』に始まり、やがて国家によって編纂されるようになった歴史書のことで、新しい王朝が生まれると、その王朝のもとで前の王朝の歴史が編纂されます。そして前漢以来ほとんどの王朝について「正史」が存在します。「正史」は国家によって編纂されるため、編集が意図的になる可能性があり、その内容のすべてをそのまま信用することはできませんが、膨大な史実を体系的に、しかも2000年以上にわたって記述し続けており、他の世界には例がありません。
 
私が観たものを中国の時代順に列挙すると、次のようになります(ただしすべてが「正史」に基づいたものではありません)
「封神演義」(殷末期、2006年制作、全38)
「復讐の春秋(臥薪嘗胆)(春秋時代末期、2007年制作、全41)
「大秦帝国」(戦国時代、2006年制作、全51)
「漢武大帝」(前漢時代、2003年、全58)
「北魏馮太后」(魏晋南北朝時代、2006年制作、全42)
「皇帝李世民」(唐時代、2006年制作、全50)
「大明帝国 朱元璋」(明時代、2006年、全46)
「大明王朝~嘉靖帝と海瑞」(明時代、2006年制作、全46)
「大清風雲」(清時代、2005年制作、全42)
 よくこれ程たくさん観たものだと我ながら感心しますが、DVD1週間100円で借りられる時代で、しかも1枚のDVD45分程度のストーリーが3~4話入っていますので、かなり安く観ることができます。これから、これらの映画を紹介しようと思いますが、何しろ膨大な量なので記憶が曖昧になっています。したがって、私の印象に残った部分だけをお話ししたいと思います。

「封神演義」

 このドラマは正史ではなく、明代に書かれた怪奇小説をもとにしており、殷代末期を舞台としています。殷の最後の君主紂(ちゅう)(おう)は、頭脳明晰、腕力があり、美男子だったとされますが、妲(だっ)()という女性に溺れ、彼女の言うがまゝに残虐な政治を行い、日夜酒宴に興じたとされます。肉を吊るして林とし、酒で池を満たしたことから、「酒池肉林」という言葉が生まれました。これに対して周の武王が反乱を起こし、紂王を倒して周王朝を樹立します。周は儒学をおこした孔子が理想とした王朝ですので、周が倒した殷の紂王は悪人としての烙印を押されることになりますが、実際には必ずしもそうではなかったようです。正史は、前の王朝を倒した新しい王朝のもとで編纂されますから、現王朝を正統化するためにも、前王朝の最後の君主は悪党として描かれる傾向があります。
 このドラマでは、悪女妲己が妖怪の化身とされ、さまざまな仙人たちが双方に味方して、妖術を駆使して闘うという話で、紂王と周の対立が仙人界の対立として描かれています。内容的には空中戦や妖怪が登場する子供向きの話ですが、そこに見られる中国の民間信仰に関心があったため、早送りしながら観ました。この小説は日本の曲亭馬琴「南総里見八犬伝」にも影響を与え、また日本でアニメ化されて評判になりました。


 時代考証という点から見ると、この時代にはまだ鉄器がありませんので、刀や武具が青銅でできており、いかにも重そうでした。文字も甲骨文字に近く、竹簡も分厚くて重そうでした。ただ、軍人たちが馬に乗っていましたが、この時代にはまだ騎馬技術はありませんでした。しかし、この小説は3千年以上後の明代に書かれたものなので、仕方がないと思います。








「復讐の春秋(臥薪嘗胆(がしんしょうたん))

 このドラマは、日本でも臥薪嘗胆という諺で知られる物語です。時代は春秋時代末期、長江以南に呉と越という国があり、越には勾践(こうせん)、呉には夫差(ふさ)という君主がいました。














 当時呉は大国で、小国越への侵略を狙っていました。越の勾践は有能な人物で、呉の侵略を撃退し、逆に呉に侵略しようとして敗北します。勾践は捕えられ、妻とともに呉の奴隷とされてしまいます。勾践はこの屈辱に必死に耐え、やがて解放されたのち、呉への復讐を心に誓います。彼は奴隷時代の屈辱を忘れないために、薪の上で眠り、苦い肝を嘗めて時期の到来を待ちます。これが臥薪嘗胆です。一方、呉の夫差は領土を拡大し、しだいに自分の力に慢心し、ついに越に滅ぼされてしまいます。
 このドラマは司馬遷の『史記』などをもとに、いろいろ脚色されて大変面白い内容となっています。また、同時にわれわれが日常的に使う諺には、中国の歴史と関わっているものが多いことが分かります。例えば呉越同舟という諺がありますが、これは呉と越のように憎み合っているものでも、同じ船に乗って強風に吹かれれば協力する、という意味です。
 また、画面のバックに映し出される装飾品に、長江文明の影響が感じられ、華北とは異なる南方文明の特色が出ており、大変興味深く感じました。


「大秦帝国」

 このドラマは、戦国時代の弱小国家秦が強国に成長していく過程を描いています。常に周辺諸国からの侵略に苦しんでいた秦に、孝(こう)(こう)という大変聡明な君主が登場します。彼は、まず全国から有能な人材を集めるのですが、その中に商鞅(しょうおう)という人物がいました。
 彼は法によって国家の秩序を作り出すことが大切だと考えていました。今日では当然のことですが、君主や有力者の恣意によって物事が決定される当時にあっては、革新的な考え方でした。しかし民に法を守らせるためには、まず国が法を守ることを示さねばなりません。そこで商鞅は、民にこの大木を丘まで運んだ者には黄金を与えると約束します。初めは誰も商鞅の言うことを信用しませんでしたが、一人の青年が実行して黄金をもらいます。こうして民は法をまもることの意義を理解していきます。
 しかし法を守るということは容易なことではありません。商鞅は君主の身内であっても、容赦なく法を適用していきます。この人だけは助けて欲しいという要望は常にあるでしょう。その度に孝公と商鞅は激しく議論し、時には孝公が商鞅を罵ることもありました。こうしたことを重ねるうちに、少しずつ法への信頼が高まって秩序が生まれ、同じ法を守る秦人としての自覚が生まれてきます。
 しかし同時に商鞅は多くの恨みを買うことになります。そして孝公が死んだ後、商鞅に恨みをもつ人々が商鞅を陥れ、結局彼は彼が作った法によって残酷な処刑を受けることになります。こうして商鞅は死にましたが、商鞅が作った法は残り、やがてそれによって秦は強国となり、100年ほど後に始皇帝が中国史上初めて全国を統一することになるのです。以後法による統治は、ハンムラビ法典より1500年ほど遅れて、中国の基本原則となっていきますが、しかし法をどこまで厳格に実行するのかという問題は残りました。人間性を無視したあまりに厳格な法の執行は人々の恨みを買うからです。それを補ったのが、徳による統治を唱える儒教です。あるいは、法が儒教を補ったというべきかもしれません。いずれにせよ、徳知主義と法治主義は、その後の中国の統治原理として重要な役割を果たすようになります。
 このドラマは、商鞅と孝公の関係を詳細に描いており、大変面白いものです。幾分綺麗ごとの感がありますが、私にとっては大変参考になりました。

「漢武大帝」


 
このドラマは、司馬遷の『史記』をもとに制作されたものです。まず、ドラマは年老いた武帝と、『史記』を完成させた司馬遷との対話から始まります。
かつて司馬遷は武帝の怒りをかって宮刑に処せられますが、その後も武帝は司馬遷を登用し続けました。その間に司馬遷は、中国の伝説の君主の時代から武帝に至るまでの膨大な歴史書『史記』を完成させます。『史記』は反骨精神に満ちた作品で、専制君主である武帝に対しても厳しい批判をおこなっています。 
 さて、最初の場面ですが、当時はまだ紙がなかったので、竹を薄く切った竹簡に文字が書かれていました。そして『史記』が書かれた膨大な竹簡が山積みされている前で、武帝は司馬遷に言います。「そなたの『史記』を読んだ。腹の虫が治まらぬ。あまりの怒りに寿命が1年縮んだ。家臣たちは焼き捨てろと言っている。だが必要ない。そのままでよい。すでに起きたことは自分には変えられないのだ」(一部省略)。ここから54年に及ぶ武帝の治世が58話を通して語られ、最後にこの同じ場面でドラマは終わります。
 上に掲げた一連の中国正史のドラマを見ると、共通する三つの問題があるように思われます。一つは王朝創設期における一族功臣の問題です。彼らは王朝創設に大きな功績を残しましたので、当然さまざまな特権や褒賞=土地が与えられます。しかし皇帝権力を強化し国に秩序を作り上げていく過程で、一族功臣が大きな障害となります。長期安定政権を維持するためには、この一族功臣にどのよう対処するかが鍵となります。このドラマでは、最初10話ぐらいまでは武帝は登場せず、父帝の時代の一族功臣との戦いが延々と語られ、武帝が即位してからも、彼はこの問題に腐心します。
 第二の問題は、後継者の決定に際して、長子を選ぶのか才能のある皇子を選ぶのかという問題です。幼児死亡率の高い時代にあっては、少しでも多くの後継者候補を生んでおく必要がありますが、このことが逆に紛争の種にもなるわけです。長子を後継者に選べば序列上は問題ないのですが、彼が無能であった場合国が乱れる可能性があります。逆に能力によって選ばれた場合、その正統性を巡って対立が起きる可能性があります。武帝は能力によって選ばれましたが、彼を皇帝に押した祖母に頭があがらず、長い間自分の政策を実行できませんでした。
 第三の問題は、北方遊牧民との関係です。圧倒的に強力な軍事力をもつ北方遊牧民に対し、贈り物を送ったり、皇女を嫁がせたり、時には軍事的に脅したり、あらゆる方法を駆使して対処しなければなりませんでした。その外交的な駆け引きを見ていると、今日の中国のしたたかな外交政策の背景を理解できるような気がします。武帝にとっても、当時匈奴と呼ばれた北方遊牧民を軍事的に制圧することが悲願であり、それを達成するために多くの犠牲を払うことになります。
 その他にも多くの興味深いエピソードがありますが、ここでは張騫に関してだけ述べておきたいと思います。当時西方からさまざまな新奇な物資が中国に伝えられ、西方世界についての断片的な噂話はありましたが、どれも曖昧なものでした。そこで武帝は西方に使節を派遣しようと思い、使節を公募しますが、誰も応じるものがいませんでした。ところが応募者は最も身近なところから現れました。武帝の少年時代の学友であり、常に武帝の側近として仕えていた張騫でした。彼は100人余りの部下とともに出発、まもなく匈奴に捕えられるが脱走、目的地の大月氏に到着し、帰国途中で再び匈奴に捕えられるが脱走、ようやく帰国します。13年の歳月をかけ、帰国できたのはわずかに2名でした。武帝は張騫がすでに死んだものと思っていたのですが、その張騫がボロをまとって帰国します。二人の再開の場面は感動的でした。そして何よりも、張騫の旅は人類史上稀にみる壮挙でした。今から2千年以上前に、あの広大な西域を旅し、初めて西域の全体像を捉えたからです。

「北魏馮太后(ふうたいこう)



 魏晋南北朝時代の中国は、北方遊牧民の侵入などで混乱していましたが、やがて同じ北方遊牧民の一つ鮮卑族が北魏を建国し、華北を統一することになります。このドラマは、北魏建国当初に三代にわたって皇帝を背後から支えた女性=馮太后の物語です。彼女は宮廷の下女でしたが、やがて皇太子に認められ皇后となります。ところが北魏には厄介な掟がありました。つまり皇太子を生んだ女性は殺されるということです。これは、皇帝の母親が政治に口を出し、政治が乱れるのを防ぐために作られた掟なのですが、それにしても残酷な掟です。
 彼女が皇太子妃となった当時、北魏発展の基礎を築いた太武帝が皇帝でしたが、彼が暗殺されたため、彼女の夫が13歳で成文帝として即位し、彼女も皇后となるわけです。彼女は大変聡明な女性だったようで、夫をよく補佐し、仏教を保護し、現在も残る大同の雲崗石窟寺院の開削にも協力します。幸か不幸か彼女は皇太子を生めず、別の妃が出産し、規則に従って殺されました。馮太后は、この子を自分の子として育て、成文帝が死ぬと、この子が12歳で献文帝として即位します。しかし献文帝は在位6年で馮太后により廃位・殺害され、成文帝の孫が6歳で孝文帝として即位しますが、当然馮太后が実権を握り続けることになります。
 彼女の足跡を見ると、皇帝を補佐したすぐれた女性というべきか、政治を操った悪女というべきか、よく分かりません。はっきり言って、清朝末期の西太后による睡蓮政治(すだれの奥から政治を行うこと)と似ていなくもありません。もちろん映画では彼女は優しく有能な女性として描かれており、事実有能な女性だったようです。孝文帝は後世すぐれた皇帝として名を残しますが、彼が行った最大の政策である均田制の実施は、事実上馮太后が行った政策です。当時孝文帝は、まだ幼少であり、政治の実権は馮太后が握っていたからです。
 このドラマを貫くもう一つの大きなテーマがあります。それは宮廷における鮮卑人と漢人との対立です。北魏は遊牧民である鮮卑人が中国を支配している国ですが、賢明な君主であるなら、高度な文明をもつ中国を支配するには漢人の協力が必要であると考えるのは当然で、漢人を政治の中枢に登用します。しかし鮮卑人にとっては、自分たちが命をかけて奪った中国を漢人に奪い返されたように感じます。その結果鮮卑人は、ことあるごとに漢人官僚と対立します。実は、馮太后の父も漢人の高官で、鮮卑人の恨みを買って殺されたのでした。その後宮廷での実力を確立した彼女は、北魏の漢化政策を進めていきますが、その一環として行われたのが均田制の実施でした。さらに彼女は、皇太子を生んだ妃を殺すという悪習を廃止します。そしてこの漢化政策は孝文帝のもとで結実することになります。しかし同時に鮮卑人の反発が高まり、そのために北魏は分裂することになります。
馮太后についての評価はともかく、彼女は父を殺されて下女にまで落とされ、やがて皇后となり、皇太子を生まなかったがゆえに生き残り、宮廷の権力闘争を生き抜きました。その意味で、彼女の人生は波乱にとんだ人生だったと言えるでしょう。

「皇帝李世民」


  李世民は唐の第2代皇帝で、唐王朝の繁栄の基盤を築いた人物です。彼はあまり酒も飲まない生真面目な人物だったようですが、軍事においても政務においても、きわめて有能でした。すでに兄が皇帝の後継者として決まっていましたが、やがて李世民は兄と対立するようになると、軍隊を動かして兄を殺害し、皇帝となります。彼の行動は冷酷なものでしたが、唐王朝にとってはすぐれた人材を得たと言えるでしょう。
 彼は日夜政務に励みます。気になることがあるとメモをして壁に貼りまくり、さらに重臣たちの言葉に真摯に耳を傾けます。魏徴という重臣がいました。彼は李世民の兄に仕えていた人物ですが、兄の殺害後李世民によって登用されました。彼は、自分は皇帝に仕えているのではなく、国家に仕えているのだという信念に基づき、原理原則論に基づいて李世民に対して言いたい放題でした。時には李世民が腹を立て、外に飛び出し、剣を振りまして大声で叫び、再び宮廷に戻り、魏徴に対して自分が間違っていたのでもう一度言ってくれと頼みます。毎日がこうしたことの繰り返しですが、少しずつ唐王朝の基盤が形成されていきます。そこで生み出された国家のあり方は、東アジア世界の国家のモデルとなり、日本にも大きな影響を与えたことは、よく知られていることです。なお、李世民が活躍していた7世紀の前半期、日本では大化の改新の時代にあたり、そこで目指された政治は、まさに当時李世民たちが試行錯誤を繰り返して生み出しつつあった政治だったのです。
 彼の行動の中で、私の印象に残っている一つのエピソードがあります。宮廷における皇帝や重臣の言動はすべて記録され、保管されます。中国人は、あらゆるものを記録する記録魔のようです。あるとき、李世民が記録官に自分の記録を見せるように要請しましたが、記録官は拒否しました。もし皇帝が見た場合、書き直しを要求する可能性があり、それでは事実が曲げられてしまうからです。皇帝の言動についての評価は後世に委ねるべきだからです。事実をこれだけ忠実に後世に残そうという態度は驚くべきことで、他の世界では見られないことのように思います。もちろん、李世民は専制君主ですから、強制的に記録を提出させることはできたでしょう。しかし彼はそれをしませんでした。これこそ、司馬遷の『史記』を認めた武帝の態度と同じです。起きたことは変更できないし、批判は後世に任せるしかない、ということです。こうして中国では、何千年もの間に膨大な資料が蓄積されていったのです。
 もう一つのエピソードは、王羲之の書に関するものです。王羲之は魏晋南北朝時代の書家で、彼が書いた「蘭亭序」は幻の作品と言われており、この作品の写本はあるのですが、直筆が見つかりませんでした。李世民は部下に命じてこれを手に入れようとし、部下はそれを手に入れるために恩ある人を騙し、その後責任をとって出家します。たかが「書」をこれ程までして手に入れようとする意図が、私には分かりませんでした。しかし、この直筆を見た李世民は、これこそ来たるべき国家の文字だとして感動します。この場面を観て、少しだけ意味が分かったような気がします。今日われわれは、文字を単なる記号として捉える傾向がありますが、漢字にはそれぞれ意味があり、長い歴史の中で育まれてきた文字です。漢字とは、中国人の思考そのものではないかと思います。その文字をどのように書くかは、中国の文明や国家のあり方そのものを表しているのではないかと思います。中国人は、自分たちが発明した漢字に、それ程大きな誇りをもっていたのだと思います。なお、唐に留学した空海は王羲之の書体をマスターして日本に持ち帰り、これが日本の書体のモデルとなりました。


「大明帝国 朱元璋」

 朱元璋は1328年頃貧農の子として生まれました。八番目の子であるため重八と名付けられたとされ、家族は貧しさのため飢え死にしたとされています。幼い重八は寺に預けられますが、ほとんど乞食僧として各地を放浪していたようです。中国では漢の劉邦が農民から身を起こして天下を統一しますが、彼は農民とはいっても豊かな農民だったようです。日本でも豊臣秀吉が農民から身を起こしますが、彼は農民というより下級の地侍だったようです。これ程貧しい農民から身をお越し、天下を統一した例は歴史上でもほとんどないのではないでしょうか。
 1351年に元による過酷な支配に対して反乱が起き、重八もこれに参加し、この頃から朱元璋と名乗るようになります。まもなく朱元璋は反乱軍の有力者の養女である馬氏と結婚し、これをきっかけに頭角を現します。朱元璋が22~23歳の頃だと思われます。馬氏は後に皇后となる女性で、朱元璋は最後まで彼女を大切にしたとされています。それから17年後の1368年に朱元璋は明王朝を建設し、さらに30年間皇帝として在位します。まさに波乱万丈の人生でした。
 ところで、中国にはたくさんの王朝が興亡し、その度に、初代の皇帝は永遠に繁栄する王朝の建設を目指すわけですが、長くても300年程度で、明も同じです。もっとも、中国の長い歴史から見れば、300年は短く感じますが、日本の徳川幕府も300年弱ですので、300年という期間は決して短いとは言えません。しかし中国は歴史を重んじる国であり、過去の王朝の失敗例や成功例についての豊富な知識が蓄積されています。それにも関わらず永遠に続く王朝を建設でないのは、何故なのでしょうか。これは私の考えですが、王朝とは社会の枠組みのようなもので、新しい社会の要請によって新しい王朝が生まれ、その後社会が変化していくと、その王朝は社会の要請に対応できなくなっていくのだと思います。中国の思想は、王朝の交替を「天意」によるもと考えますが、「天意」とは実は「民意」であり、専制君主を支えるものは「民」なのだということです。
 朱元璋も永遠に続く王朝を目指し、時代の要請に対応した政策を次々と実行していきます。しかし朱元璋はなお不安でした。例によって、一族功臣の問題や官僚の裏切りなどとともに、後継者が頼りなかったからです。彼は長子を後継者に指名しますが、息子は父の厳しい要求に耐えられず自殺し、今度は孫を後継者にしますが、まだ幼かったのです。明王朝が永遠に栄えるためには、危険の芽を事前に摘み取っておく必要があります。彼は一族功臣や官僚を次々と粛清し、全国に一種のスパイ組織のような監視体制を作り上げていきます。まさに恐怖政治です。全国で3万人以上の人々が殺されたと言われています。その結果有能な人材は退けられ、イエス・マンのみが生き残ります。そのため政権が弱体化し、後継者は朱元璋の第何番目かの息子である永楽帝のクーデタによって倒されることになります。
 その後いろいろありましたが、明王朝は300年近く続きます。その意味では、朱元璋の事業は大成功だったと言えるでしょう。しかし、その間に中国の社会は大きく変動していきます。内部的には、商工業が飛躍的に発展し、庶民が大きな力をもつようになります。中国の周辺では、北方民族、倭寇、ヨーロッパ人などが、中国の富を狙って活発に活動するようになります。まさに、東アジア世界は沸騰状態にあり、大きな転換期を迎えつつありました。それが、次の映画の時代背景となります。

「大明王朝-1566-嘉靖帝(かせいてい)と海瑞(かいずい)


 今まで見てきたドラマの中で最もよくできていると感じたのが、このドラマです。このドラマは、1566年という1年に焦点を当て、そこに至る背景を様々な角度から描き出しています。では、1566年とはどういう年なのでしょうか。この年は明の転換点となった年でした。明は建国当初から対外貿易には厳しい規制を行ってきたのですが、翌年の1567年にこの規制を緩和し、その結果中国は世界貿易の渦の中に巻き込まれていきます。その背景となったのが、この1566年に起きた様々な出来事です。
 当時中国は財政難に喘いでいました。そうした中で西洋商人から大量の絹の買い付けの依頼があり、これによって財政難を打開しようとしたのですが、問題は絹の生産が追い付かないということでした。そこで浙江省の水田を蚕の餌となる桑の畑にかえようという案がもちあがりました。これはとてつもない利権に結ぶつくものだったため、様々な人たちがこれに群がり、明朝宮廷の腐敗が浮き彫りにされます。農民たちも突然上からの命令で桑畑を作ることになり、あちこちで不穏な動きが高まります。さらに北方遊牧民の圧力や倭寇の侵略が加わり、大混乱に陥っていきます。それが1566年という年です。
 では、サブタイトルとなっている嘉靖帝と海瑞とは、どのような人物なのでしょうか。実は私はどちらも知りませんでした。嘉靖帝は在位が1521年から1566年までですので、実に45年間在位したことになりますが、目立った功績はほとんどありません。彼は政治にあまり関心がなく、道教にのめり込み、奇行が多かったとされています。ただこのドラマでは、政治状況に精通し、絶妙のバランス感覚で決定を下す皇帝として描かれています。この時代は中国社会が大きく転換し始めた時代で、古い社会と新しい社会とのバランスを維持することが大切だったのかもしれません。彼は、余計なことをしないことが最良の策と考えていたようです。
 海瑞は下級役人で、出世に対する野心はまったくなく、ただ母に孝養を尽くすことだけを考えていましたが、不正に対しては徹底的に立ち向かい、かなり有能な役人として知られていたようです。その彼が、当時の桑畑への転換に関わる不正を正すべく抜擢されたわけです。彼は単に理想主義者というだけではなく、それを実行する能力と行動力を兼ね備えていたようです。彼は巧みに高官の不正を暴き、道教にのめり込む嘉靖帝に対して厳しい批判を行い、一時投獄されたりもします。
 
ドラマは、この二人の人物を交互に登場させるとともに、さまざまな人々の思惑が交錯する当時の社会を描き出しており、なかなか見ごたえのあるものとなっています。なお海瑞は、嘉靖帝が仙薬を飲んで死亡したため釈放され、その後も役人としての生涯を全うします。彼の人柄と能力については誰もが認めるところでしたが、相手を選ばず直言するため、人から疎まれる傾向にあり、あまり出世することはできませんでした。ただ、彼の名については「明史」に記載があるとのことです。
 かなり短い期間しか扱っていないこのドラマでは、さすがに私が知っている人物はわずかしか登場しませんでした。後に改革を行う張居正が登場しますが、それよりも興味深かったのは李時珍(りじちん)です。彼は全52巻からなる薬物学の本『本草綱目』を著し、世界の医学の歴史に燦然と輝く偉大な学者でした。彼は宮廷医師となりますが、道教の怪しげな仙薬を飲む嘉靖帝に対し、もっと合理的な治療をすべきだと批判して宮廷を追放されます。ドラマでは、事実かどうか知りませんが、海瑞と意気投合し、貧しい農民の治療に当たります。李時珍は、決して単なる学者ではなく、すぐれた臨床医師でもあったようです。





























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