1.ヨーロッパ人の登場
2.アジアでのポルトガル
3.東アジアの海域世界
付録.陶磁器について
|
1.ヨーロッパ人の登場
イベリア半島の地形
大部分が山で、雨量少なく、南部は酷暑で セビリャで50度にたっすることもあります。 15世紀後半のスペイン
アラゴン王国とカスティリャ王国は長く対立していましたが、1479年にアラゴンのフェルディナントとカスティリャのイザベルが結婚してスペインが統一されました。アラゴンを地中海に面した国であるのに対し、カスティリャは大西洋に面した国であり、結局スペインはカスティリャ主導のもとで大西洋に向かっていきます。
15世紀のヨーロッパは危機的な状況にありましたが、この危機をいち早く脱しつつあったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインでした。イベリア半島は8世紀以来イスラーム教徒の支配下にありましたが、やがてキリスト教勢力によるレコンキスタが本格化し、12世紀にはポルトガルが独立王国となってレコンキスタを完了し、15世紀後半にはスペイン王国が成立しました。スペイン王国はまだレコンキスタが完了していませんでしたが、ポルトガルは国土が狭く、新たに領土を拡大する望みがなかったため、早くから大西洋やアフリカ西海岸に目を向けていました。一方、ヨーロッパは古くから多くの東方物産を輸入していましたが、これらの物産はイスラーム世界を経由する過程できわめて高額になります。とくに15世紀になると香辛料に対する需要が急速に高まったため、産地での直接買い付けへの要求が高まりましたが、西アジアでオスマン帝国が強大となったため、地中海・インド洋を結ぶ交易ルートの確保は不可能であるかに思われました。こうした中で、アフリカを迂回してインドに至るルートが模索されたのです。
エンリケ航海王子
「成すことへの渇望 」(エンリケの紋章)
アフリカ西海岸の探検
リスボンの「新発見の記念像」
1416年頃、ポルトガルの王子エンリケは、ポルトガル最北端のサグレスに「王子の村」を建設し、造船所、天体観測所などを建設したとされます。1419年からアフリカ西海岸の探検を開始しますが、この年は鄭和の第5回遠征隊がアデンやアフリカ西岸にまで至り、帰国した年です。その後エンリケの派遣した艦隊は何度も試行錯誤を重ねつつ、1460年にシエラレオネにまで到達し、その年にエンリケは66歳の生涯を閉じました。その7年前に、オスマン帝国軍によってコンスタンティノープルが陥落する一方、西ヨーロッパで百年戦争が終結し、ようやくイギリスやフランスが集権国家形成の第一歩を踏み出したのです。
15世紀後半のヨーロッパ
中世においては、イタリアにもたらされた東方物産は内陸ルートでフランドルに運ばれていましたが、百年戦争戦争などで治安が悪化したため、ジェノヴァは海上ルートを改革しました。その結果ジェノヴァ大西洋の航海に執着するようになり、やがてそこからコロンブスが登場することになります。
その後も探検事業は続けられ、エンリケの死の28年後、1488年にバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達しました。ところが、1492年にコロンブスがスペインの援助で大西洋を横断し、当時はインドである信じられていた西インド諸島に到達したのです。コロンブスはジェノヴァ出身の船乗りで、ポルトガルの探検事業に加わっていた人物でもあり、彼は最初ポルトガルに大西洋横断計画を持ち込んで断られていたのです。慌てたポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマの率いる艦隊を派遣し、1498年にカリカットに到達しました。鄭和の遠征隊が初めてカリカットに到達してから91年後のことです。そしてインド洋では、すでに明帝国の影響力は失われていましたが、無数の商人や船乗りが自由な活動を展開し、空前の交易活況の時代を迎えていました。
15世紀年表
| |
1405年
|
鄭和の第1回南海遠征→カリカット到達
|
1419年
|
ポルトガルのアフリカ西岸探検
|
1431年
|
鄭和の第7回南海遠征
|
1453年
|
コンスタンティノープル陥落
→オスマン帝国の地中海進出
百年戦争の終結
|
1460年
|
エンリケ航海王子死去
|
1488年
|
バルトロメウディアスの喜望峰到達
|
1492年
|
コロンブスの大西洋横断
|
1498年
|
ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到達
|
2.アジアでのポルトガル
喜望峰
ポルトガルは、ついにアジアへ至る直接航路を開拓しましたが、まもなくこの地域で活躍するムスリム商人に太刀打ちできないことを悟り、軍事力による交易の独占に向かうようになります。一方、地中海・紅海ルートに依存するヴェネツィアとマムルーク朝は、ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到達の知らせに驚愕し、「今までに最悪の知らせ」と受け取られました。そこでマムルーク朝はインド洋に艦隊を派遣したが、1509年ディウ沖の海戦に敗北してインド洋の制海権を失い、経済の大動脈を失ったマムルーク朝は、8年後の1517年にオスマン帝国によって滅ぼされることになります。そして、この頃からヴェネツィアもまた衰退に向かっていくことになります。
現在の東南アジア島嶼部
アチェ王国
アチェのモスク
アチェはインドネシアにおけるイスラーム教の聖地であり、今日でもメッカ巡礼の出発地でもあります。この間ポルトガルはカリカットを砲撃して破壊し、さらに1510年にはゴアを占領して、これをアジア貿易の拠点としました。また、1511年にはマラッカを占領して、そこからモルッカ諸島に進出し、香辛料貿易を独占しようとしました。当時マラッカ王国が国際交易センターの役割を果たしていたため、これを占領すればすべての交易を支配できると考えたからですが、事態はポルトガルの思惑通りには進みませんでした。この地域で活動するムスリム商人は、ポルトガルが支配するマラッカに対抗して、スマトラ島の北端にアチェ王国を建設し、そこからスマトラ島の西岸を南下し、スンダ海峡を通ってモルッカ諸島に向かうようになったのです。この地域の港市はすべて自由貿易港であり、交易を行う人々に便宜を図ることによって発展してきました。軍事力によって貿易を独占するというポルトガルの行動は、この地域の伝統とは異質なものであり、この地域の人々はそれに反発したのです。
広州・マカオ・香港
東西貿易の構造―近代以前
アジアのポルトガル
一方、ポルトガルの側にも構造的な問題がありました。古来、ヨーロッパとアジアとの交易は常にヨーロッパの輸入超過であり、アジアから多くの物産を購入するための対価としての商品が、ヨーロッパにはなかったのです。基本的には、ポルトガルがアジアの物産を購入する対価としては銀以外にはなく、一方的にヨーロッパから銀が流出することになります。それを打開するためにポルトガルがとった方法は、「域内貿易」への参入です。1557年にポルトガルは中国のマカオに居住権を獲得すると、これを拠点に中国と日本や東南アジアとの中継貿易を行うようになり、これによって得られた利益でアジアの物産を購入してヨーロッパにもたらしたのです。
しかしそれでも、ポルトガルの繁栄は、長くは続きませんでした。なによりもポルトガルは小国であり、当時のポルトガルの人口は100万人前後といわれています。多くの優秀な若者がアジアに出向き、そのうちのかなりの数の若者がアジアで死んでいきまた。この程度の人口の国家が、インド洋の制海権を握り、東南アジアの交易を軍事的に支配することは、不可能でした。こうした中で、1580年から1640年までの間、ポルトガルはスペインに併合され、その間にスペインから独立戦争を行っていたオランダが、アジアにおけるポルトガルの拠点を次々と奪っていったのです。
16世紀にはいると、東アジアの海域世界の情勢も大きく変化しつつありました。その最大の要因は、日本の動向にありました。日本では、16世の初めに朝鮮から銀の新しい精錬方法が導入され、大量の銀が生産されるようになり、その銀を用いて中国から大量の絹を輸入するようになるのですが、問題は日明貿易が事実上禁止されていたことです。
中国で元から明に交代する14世紀半ばから倭寇の活動が活発となっていました。倭寇は、日本人を中心としていましたが、古くから東シナ海で生きる武装商業集団で、14世紀半ばの東アジアの政治的混乱を背景に、明への朝貢船や朝鮮半島・中国南部の沿岸地帯を襲うようになりました。古今東西を問わず、海上に生きる商業集団は、同時に海賊集団でもあるのです。一方、1402年に永楽帝が皇帝に即位しますが、ほぼ同じ頃室町幕府の足利義満が南北朝の統一を達成し、彼が中国文化に憧れていたこともあって、真っ先に永楽帝の明に朝貢使節団を派遣しました。クーデタで権力を握った永楽帝は、この最初の朝貢使節団の派遣に大変喜び、日本に対し、倭寇の討伐を条件に勘合符を与え、朝貢という形ではありますが、日明貿易を許したのです。これをきっかけに倭寇の活動は終息に向かい、日明貿易が活発に行われるようになりました。
倭寇の活動足利義満
ところが、15世紀後半になると、日本は戦国時代を迎え、各地の勢力が大きな利益をもたらす勘合貿易の権利をめぐって対立し、1520年代に中国の港寧波で堺商人と結ぶ細川氏と、博多商人と結ぶ大内氏が武力衝突するという事件が起きました。これに激怒した明の政府は、日本船による中国の港への出入りを禁止してしまいました。そして、この1520年代は、日本で銀の生産が増大し、明との貿易が拡大しようとしていたときだったのです。たとえ明の政府が貿易を禁止しようとも、中国でも日本でも貿易への要求は抑えがたく、もはや密貿易に依存するしかありませんでした。この密貿易を行う人々の集団が後期倭寇と呼ばれるもので、それを構成する人々の大半が中国南部沿岸地帯の商人たちでした。その結果、中国に大量の日本銀が流れ込むとともに、中国周辺の海域は倭寇が自由に活動する舞台となったのです。
16世紀後半になると、事態は大きく転換する。きっかけとなったのは、まずポルトガルが1557年にマカオの居住権をえて日明貿易の仲介に乗り出したこと、さらに明が国内の圧力に屈して1567年に海禁政策を緩和し、これによって中国の商人が東南アジアとの貿易に乗り出したことです。その結果倭寇の活動は、急速に衰退していきまはた。また日本でもようやく戦国時代が終息に向かい、織田信長や豊臣秀吉は対外貿易を重視したため、多くの日本人が海外に進出していきました。ただし、日本の船は相変わらず中国の港に入ることができなかったので、日本の商人たちは東南アジアにやって来る中国商人と交易するようになります。これを「出会い貿易」といいます。こうして東アジアから東南アジアにかけての海域世界での交易は空前の活況を呈するのですが、これにさらに新しい要素が加わることになりました。すなわちスペインの登場です。
ヴィクトリア号(復元)
マゼラン一行の航路
アカプルコ航路
アカプルコ湾
マニラの城郭都市
コロンブスが「発見」したのはインドではありませんでしたが、16世紀半ばになると「新大陸」では大量の銀が生産されるようになり、その一部が太平洋を越えて中国に流れ込むようになったのです。すでに1521年にスペインのマゼランが太平洋を横断してフィリピンに到達していたのですが、この航路はメキシコへ戻る際に潮流が逆になるため、使用することが困難であるとされていました。ところが、やがてフィリピンから潮流に乗って北上し、日本で黒潮と呼ばれ潮流に乗ると、北米大陸の西岸に到達することが判明し、これによって太平洋航路が実用化することになったのです。そうした中で、1571年にスペインがフィリピンにマニラを建設し、太平洋を航海して直接メキシコの銀をマニラにもたらすようになりました。こうしてメキシコ銀が中国に大量に流れ込むことになったのです。この貿易は、出発点のメキシコの港の名称から「アカプルコ貿易」、あるいは使用される船の形式から「ガレオン貿易」と呼ばれています。
当時、ヨーロッパの国としては、ポルトガル以外には中国で直接貿易することが認められていなかったため、当初スペインはマニラに到来する中国商人と交易を行っていました。ところが、1580年にスペインがポルトガルを併合したため、メキシコ銀がマニラとマカオを経由して中国に流れ込むことになりました。今や、世界に流通する銀のかなりの部分が中国に流れ込む構造が形成されていったのです。
16C東アジア・東南アジア海域世界
当時の中国は、世界中の人々が求める陶磁器と絹という、当時としては、いわばハイテク商品の独占的な生産地だったため、世界中の人々が銀を対価としてこれらの商品を買い求めた。その結果、中国の国内産業が発展し、それがまた周辺の交易を発展させることになる。まさに当時の中国は、世界経済の中心的な存在だったのである。
付録.陶磁器について
唐三彩
陶器は古くから製作され、すでに西アジアで彩文土器や中国の彩陶・黒陶、日本の縄文土器などが知られていまする。陶器は特に中国で発達し、1974年、秦の始皇帝陵から発見された素焼きの兵馬俑の数々は、それを証明していまする。ここには、8000体以上におよぶ等身大の兵士と馬による皇帝の軍団が、当時の軍隊の隊列そのままの形でうめられていたのです。さらに、唐代には釉薬(ゆうやく)が発達し、さまざまな色の釉薬を用いた唐三彩が作られました。
白磁 五彩
マイセン磁器
しかし陶器は脆く、かつ重い。とくに唐三彩は、焼成温度が低いから、釉薬の毒が溶ける危険性があって、実用的ではありませんでした。これに対して、宋代から大量に製作されるようになった陶磁器は、カオリン(江西省の高嶺=カオリンに由来する名称)と呼ばれる土が使用され、1200度以上の高温で、薄く固く焼くことができましたから、陶器に比べれば軽くて実用的です。中国の陶磁器は世界中で珍重され、絹とともに中国の最大の輸出品となりまし。ヨーロッパでは16世紀に陶磁器の作製を試みたが成功せず、ようやく18世紀にドイツのドレスデンで製作に成功し、さらにヨーロッパ独自の技術を加えて発展し、ドレスデン近郊のマイセンは磁器の生産地として発展しました。
≪映画≫
1492 コロンブス
1992年、コロンブスのアメリカ到達500周年を記念して、スペインで制作されました。
1492年は、アメリカ大陸というヨーロッパ人にとっての未知の世界を手に入れたという意味で運命の年であり、同時にヨーロッパ人の侵略を受けた現地人にとっても運命の年でした。アポカリプト
2006年、アメリカの映画です。
古代マヤ文明を背景とした映画で、全編マヤ語で語られるという珍しい映画です。ヨーロッパ人が到来する直前のマヤを描いています。全編にわたって残酷なサバイバル場面が展開されますが、これはヴェトナム戦争での残虐性を再現しているとのことです。大明王朝
2006年の中国連続テレビドラマで、全46回。
16世紀の半ばに、中国が世界経済の渦に巻き込まれていく様子が描かれると同時に、倭寇との戦いも見ものです。
0 件のコメント:
コメントを投稿