「武士」とは何かという問題については議論がきわめて多く、とうてい私の手におえる問題ではないので、ここでは深入りしません。ただ、武器をもって戦うというだけでは武士とは言えず、それでは野盗ややくざも武士になってしまいます。また律令制のもとでも、軍事を専門とする武官は存在していますが、これも武士とはいいません。武士は、10世紀頃から19世紀半ばまで存在した特定の集団のことを指します。この頃、ヨーロッパでも騎士階級が形成されますが、騎士階級は近世に入ると滅びていきます。それに対して、日本では、武士は明治維新まで存続することになります。
武士が形成される背景は多様ですが、その一つとして、臣籍降下というものがあります。天皇の一族は、代を重ねるにつれて人数が増えていき、それらは一応皇族ということになります。すでに律令制のもとでも一定の基準に従って臣籍降下が行われましたが、それでも皇族が増え続けます。そうした中で、桓武天皇時代に100人以上の臣籍降下が行われます。そして桓武天皇の直系の皇子に「平」の姓が与えられ、これが桓武平氏として武家の棟梁に発展していきます。なお、「平」の意味については、桓武天皇の建てた平安京に由来するのではないかとされています。一方、9世紀の前半に嵯峨天皇や清和天皇が臣籍降下の際に源氏の姓を与え、特に清和天皇の時代に生まれた清和源氏も、武家の棟梁の一つに成長していきます。なお、源氏という姓は、皇室と祖(源流)を同じくするという名誉の意味をこめて与えられました。いずれにせよ、こうした人々は、都にいても出世の見込みがなく、生活も苦しかったため、坂東など地方に移って土地の開墾を行うようになり、それが武士団の形成につながります。
さらに武士が形成されるために幾つかの背景がありますが、ここでは二点だけ触れておきます。それは軍事制度の改革と奥州との関係です。律令制のもとでは、軍事制度は個別人身支配の原則に基づき中央によって統括されていましたが、9世紀に入ると律令制が弛緩して個別人身支配が困難となり、軍事制度の維持も困難となります。このことは、日本がモデルとした中国の唐でも同じで、すでに8世紀の玄宗皇帝の時代に府兵制から募兵制に転換し、さらに各地に節度使を任命して彼らに軍事力を依存するようになります。日本でも、9世紀末頃から軍事力を地方に委ねるようになり、これと結びついて武士階級が形成せれます。
一方、奥州で9世紀初頭に鎮圧されたアテルイの乱の後、朝廷は俘囚と呼ばれていた蝦夷の人々の軍事力に注目します。彼らは騎馬戦術に長けていたため、朝廷は国内の治安維持のために彼らを利用したのです。そして彼らを通じて高度な騎馬戦術が、新たに形成されつつあった武士に伝えられます。奥州に隣接する坂東がその影響を最も強く受けたことは言うまでもないことです。こうして、騎馬戦術に習熟した武士団が形成され、それが地方に流れていた平氏や源氏を棟梁として武士団を形成することになります。一方、俘囚の軍事集団も、11世紀には奥州藤原家を生み出し、その後の歴史に大きな役割を果たすことになります。
ところで、日本における中世とは何時から何時までなのでしょうか。一般的には、12世紀における平氏政権の成立から16世紀末の安土桃山時代までとされ、10世紀から12世紀までを王朝国家という概念でとらえます。10世紀には律令制の維持は困難となっており、朝廷は地方に統治の権限を委ねていきます。その結果今まで人に対し行われていた課税は、土地に対する課税に変更されます。中国でも8世紀末に、土地に対する課税を原則とする両税法が実施されますので、こうなることは律令制の運命だったといえるでしょう。その後中国では唐王朝が滅び、日本でも地方に対する王朝の支配力は大幅に後退しますが、天皇を中心とする支配秩序は一応維持されます。このような体制が王朝国家体制と呼ばれるもので、この間に地方で武士の力が急速に増大していきます。
風と雲と虹と
1976年のNHK大河ドラマで、平将門と藤原純友の反乱を描いています。原作は海音寺潮五郎で、将門を加藤剛が、純友を緒方拳が演じていますが、この二人は大河ドラマの常連です。ドラマでは、将門は生真面目な直情型、純友はしたたかな野心家として描かれています。タイトルの「風と雲と虹と」は、坂東の風と雲、それに将門が希望という虹をかけた、といった意味だと思います。
将門が生きた時代は、社会が根底から変わりつつある時代でした。律令制が崩れ、土地を失った人々は各地を放浪し、地方豪族が割拠し、朝廷の力は弱まり、国司もあってなきがごとき状態でした。地方豪族は山賊や海賊と化して中央への貢物を強奪し、さらに土地を巡って絶えず争っていました。当時は領地が錯綜し、朝廷の土地、貴族の土地、豪族の土地が入り乱れていました。中央では、藤原家が権勢を誇っていましたが、菅原道真が異例の昇進を遂げて右大臣となり、朝廷権力の強化を図ります。しかしこれを嫌う藤原氏と対立し、901年彼は大宰府に左遷され、903年に死にます。道真の死後、都では天変地異が続き、宮殿に雷が落ちたこともあって、これらは道真の祟りと考えられるようになります。道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちたということから、天満宮を建てて道真を祭り、道真を火雷天神と同一視する信仰が生まれます。やがて将門が火雷天神を旗印に掲げた背景は、ここにあります。
将門は、9世紀の末か10世紀の初めに、利根川の中流で、今日の千葉県と茨城県の境あたりで生まれます。彼の祖父は桓武天皇を曽祖父とする平高望で、父良将は鎮守府将軍として奥州に赴任しますので、将門は坂東でも屈指の家柄に生まれたといえるでしょう。ドラマでは、将門は父とともに奥州に行きますが、真偽は不明です。いずれにしても、15~16歳の頃将門は、官位を得るために京に上り、藤原家の有力者の家人となります。彼は京に12年滞在しましたが、最下位に近い官位しか得られず、当時の腐敗した統治機構に馴染めず、坂東に帰郷します。この在京中に将門は藤原純友と友人となり、比叡山でこの腐敗した政権を倒すことを誓い合ったとされますが、これは、たまたま二人が同じ時期に東西で反乱を起こしたことから生まれた伝説にすぎないと思われます。ただ、二人が顔見知りであった可能性は十分にあります。
将門については「将門記(しょうもんき)」という史料があり、かなり詳しいことが分かっていますが、純友についてはほとんど分かっていません。純友は、京で官位を得るための活動をしていましたが、都での出世は果たせず、伊予の国(愛媛県)の地方官として赴任します。初めは海賊討伐を委ねられましたが、やがて彼自身が海賊となり、瀬戸内海を通って九州から運ばれてくる貢物を掠奪し、事実上瀬戸内海の制海権を握ってしまいます。ドラマでは、純友が坂東の将門に呼応して腐敗した朝廷の打倒を目指したことになっていますが、真偽の程は不明です。いずれにしても、純友が将門と同じ時期に反乱を起こしたにも関わらず、純友の方が知名度が低いのは、将門には「将門記」があるからです。
この二人の反乱は、承平・天慶の乱と呼ばれています。当時は律令制が崩壊し、一方には土地を捨てて放浪する人々がおり、もう一方には土地を集積して豪族となる人々がいました。そして当時の豪族たちの領地は複雑に入り組んでおり、絶えず豪族たちの間で土地を巡る争いが繰り返されていました。将門も、935年頃から親族間でしばしば戦闘を行い、彼は相当に強かったようで、時には十倍の敵に勝利したこともあったとされています。ここまでは、豪族間の私闘であったため、朝廷も介入しませんでした。しかしこの頃から、朝廷は国府の権限を強化し、国府に地方の統治を委ねるようになってきたため、国府と豪族との軋轢が各地で起こるようになってきました。こうした中で、将門は常陸の府中を襲撃し、坂東八カ国の盟主となります。これは坂東の独立を意味し、まぎれもなく反逆です。同じころ、瀬戸内海では純友が西国を次々と襲撃します。これにより朝廷は危機に陥り、とりあえず将門への追討軍の派遣を決定しますが、朝廷には将門を討つ力はありませんでした。
ここで、二人の人物が将門の前に立ちはだかります。一人は将門の従兄である平貞盛であり、もう一人は下野の豪族である藤原秀郷(ひでさと)です。秀郷は、俵藤太(たわらのとうた)とも呼ばれ、若いころ役人に刃向って流罪とされ、さらに大百足を退治多という豪傑伝説をもつ人物ですが、当時は下野の豪族として坂東でも一目おかれる存在でした。この二人が連合して大軍を率いて将門に挑んだのですが、さすがに将門は強く、二人は敗北寸前まで追い詰められます。ところが、激しい戦闘のさ中に、突如流れ矢が将門のこめかみを貫き、将門は死亡します。あっけない最後でした。あたかも神が朝廷の存続を望んだのではないかと思われるような幕切れでした。結局坂東の独立は2か月で崩壊し、坂東を平定した朝廷は純友の討伐に専念できるようになりました。純友はなお2年間戦い続けますが、41年に捕らえられ獄死します。
この戦いを通じて、後の武士の形成につながる幾つかの要素が形成されました。その一つは武士の名門が生まれたことです。平貞盛は、将門を討った功績として高い官位を与えられ、後には鎮守府将軍や陸奥の国司にまでなって武家の名門に成長します。そして貞盛の子孫の一人が伊勢に移り住んで伊勢平氏が生まれ、そこから平清盛が生まれることになります。一方、藤原秀郷も、将門討伐の功により高い官位を与えられて下野守となり、武士の名門の一つ藤原氏の祖となります。こうした名門の下に武芸に優れた人々が集まって武士団が形成され、後の武家社会の基盤が形成されていくことになります。
もう一つの要素は八幡神信仰です。将門は火雷天神を旗印に掲げるとともに、939年に上野で八幡大菩薩により「新皇」となることを許されたと言われます。八幡神は、もともと北九州の豪族の守護神だったそうですが、やがて大和朝廷の守護神ともなり、神仏習合により八幡大菩薩となります。承平天慶の乱では、朝廷も石清水八幡宮でその平定を祈願し、平定後に国家鎮護の神としての崇敬が高まります。さらに武士も八幡大菩薩を崇拝するようになり、清和源氏はこれを氏神とします。源義家は石清水八幡宮で元服して八幡太郎義家と名乗り、源頼朝も鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とします。こうした八幡神信仰は、アマテラスを祖とする王朝の神話体系とは異なるものであり、武家を王朝秩序から解放するものでした。
このように、承平天慶の乱を通じて武士の萌芽ともいうべきものが形成されてきます。特に「将門記」が、将門の死後かなり早い段階で書かれたと思われるため、将門はその後の武士のあるべき姿を示したといえます。その後さまざまな伝承が語り継がれ、彼は伝説となり、さらに神となって神田明神などに祀られます。それは、将門の首は京に運ばれますが、何者かに持ち去られ、神田明神の近くに埋められたという伝説に基づくものです。人々は、大きな災害が起きると将門の祟りとして、将門に祟りの鎮守を祈願するようになりました。
将門の死後650年程たって、徳川家康が坂東に江戸城を築き、今日の関東の繁栄の基礎を築きますが、当時の坂東は辺境の地であり、開拓の最前線であり、自主独立の気風の強い地域でした。このような気風は、これより100数十年後に奥州藤原氏にも受け継がれ、さらに250年程の後の鎌倉幕府に受け継がれていきます。
平清盛
2012年のNHK大河ドラマで、最初の武家政権を樹立した平清盛の生涯を描いたものですが、過去最低の視聴率で、かつ兵庫県知事が、衣裳が汚いので観光イメージが悪くなると言って、話題となりました。視聴率が低かった理由はよく分かりませんが、私には興味深い場面が幾つかあって、それなりに面白く観ることができました。
武家の萌芽については平将門のところで触れ、そこで平氏が武家の棟梁として登場してくることについて触れましたが、まだ源氏は登場していません。9世紀の末の清和天皇による臣籍降下により清和源氏が誕生し、その中から河内源氏が形成されます。平氏が坂東に基盤を築きつつあった頃、源氏は畿内を中心に基盤を築いていました。源氏が台頭するきっかけとなったのは、1028年に坂東で起こった平忠常の乱を源頼信が鎮圧したことから始まります。これにより河内源氏の名声が高まるとともに、これを機に坂東の平氏の多くが源頼信に臣従したため、河内源氏は坂東に大きな基盤を持つことになりました。さらに頼信の子頼義とその子義家の時代に、1051年から1087年にかけて、坂東武士を用いて前九年の戦いと後三年の戦いで奥州の阿部氏を滅ぼし、源氏の勢力は一層高まります。とくに義家は八幡太郎義家として知られ、英雄視されます。しかしまもなく源氏は、内紛と不祥事が続いて衰退し、清盛が生まれたころには、源氏は平氏にはかなり差をつけられていました。
一方平氏は、平貞盛が基盤としていた坂東で河内源氏が進出してきたため、貞盛の子孫は伊勢国に下り、源氏と同様朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族となっていきますが、常に河内源氏の風下に立つ立場でした。そうした中で、伊勢平氏は西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成するようになります。源氏も平氏も摂関家に仕えていたのですが、院政が始まると白河法皇は勢力を持ちすぎた源氏より平氏を重用するようになります。その結果、清盛の父忠盛の時代には、源氏と平氏の立場は逆転し、忠盛は異例の出世をとげていくとともに、日宋貿易を行って富を蓄積していきます。これが清盛が生まれた時の平氏の状況であり、平氏の繁栄は決して清盛一代で築かれたものではありませんでした。
同じころ、河内源氏の棟梁源為義の長男源義朝は、父とは異なった道を歩み始めていました。彼は少年時代に東国に下向し、さまざまな苦労の後に、20代前半には東国における武士団を統率する地位を確立します。都に帰った義朝は、熱田大宮司の娘である由良御前を妻に迎え、妻の実家の後ろ盾で鳥羽院に接近し、31歳で下野守に任じられます。河内源氏が受領に任じられるのは50年ぶりのことであり、これによって義朝は父の為義の地位を越えることになります。しかし河内源氏が代々摂関家との関係が強かったのに対し、義朝が院との関係を強化したため、親子で対立することになり、やがてこのことが悲劇を生むこととなりました。
話は逸れますが、中国でも皇帝の後継者を確保するために多くの皇子を生む必要があり、その結果皇位継承をめぐって兄弟間での抗争が起きる可能性が高くなります。そのため、皇位継承の順位には一定のルールが定められ、そのルールに従って、本人が幼少であろうと無能であろうと皇位を継承することになります。そうなると政務を別の者が担当する必要が生まれます。中国の王朝は長くても300年程度でしたが、日本の天皇家は世界でも例外的に長く続きましたので、政務を代行する安定的なシステムが必要となってきます。その結果、10世紀以来摂関家が政務を独占するというシステムが形成されました。しかしこのシステムも、200年近く続くと機能不全に陥ってきます。そこで登場するのが院政です。
天皇がまだ余力のある内に引退して実権を握り続けるということは、過去にも何度か例がありますが、それらは一時的なもので、院政を本格的に実行したのは白河法皇・鳥羽上皇・後白河法皇です。白河法皇は、いずれも若年で即位した三代の天皇、堀川天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の時代に、1086年から1129年に死去するまで、43年間も院政をしきます。白河法皇が死んだ後、鳥羽上皇が実権を握り、崇徳天皇の退位後、近衛天皇の時代にも実権を握り続けます。1155年近衛天皇が17歳で死去、後白河天皇が即位すると、かねてより鳥羽上皇と対立していた崇徳上皇が反乱を起こし、結局崇徳上皇は配流されることになります。これが保元の乱です。後白河天皇の即位を巡るやり取りも、奇々怪々な物語ですが、後白河天皇は1158年に二条天皇に譲位し、自らは上皇となります。以後、後白河上皇は、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇時代に上皇=法皇の座にあり、六条天皇に至っては生後7か月で即位し、3歳で退位するという有様です。そして、この後白河法皇の時代と、平家全盛の時代とが重なります。
朝廷がこのような状態ですから、武士が反発するのは当然です。武士が宮廷で力をもつようになったのは、白河上皇による北面武士の創設でした。北面武士とは、上皇の身辺警護を目的として院御所の北側に置かれたため、このように呼ばれます。北面武士に採用されたのは軍事貴族で、かれらはそれぞれが武士団を抱えていたため、全体としては相当の軍事力となり、院政の支柱の一つとなります。源氏の棟梁も平氏の棟梁も北面武士の一員であり、その地位を通じて朝廷の権力闘争に深く関わることになり、やがてそこから清盛が台頭することになります。なお、清盛が北面武士となった頃、佐藤義清(のりきよ)という同年代の同僚がいました。彼は文武に優れ、とくに歌に関してはずば抜けた才能をもっていました。彼は23歳で出家し、後に西行と名を改め、全国を放浪し、多くの歌を残しました。彼が後世に与えた影響は、見方によっては清盛を凌ぐほどのものでした。
1156年の保元の乱と1160年の平治の乱により、もはや武士の力なしには何事もなしえない状態となり、摂関家の没落は決定的となり、院政も動揺していきます。その後、後白河法皇と清盛とのシーソーゲームが繰り返されますが、それよりもこのドラマを通じて私自身が妙味深く感じた点にいくつか触れておきたいと思います。北面武士時代の西行は大変興味深いものでしたが、彼についてはすでに触れました。また、「玉葉」を著した九条兼実も登場します。彼は摂関家の出であり、高い役職を歴任し、また宮廷作法に精通した一流の知識人でもありました。そして何によりも彼は、40年間にわたって「玉葉」と名付けられた日記を書き続けます。それは丁度平家の盛衰の時期にあたり、この時代を知る上で貴重な資料となっています。もちろん平家の盛衰については、「保元物語」「平治物語」「平家物語」など多くの資料が残っていますが、これらはいずれも「物語」であり、脚色された部分が含まれます。したがって、「玉葉」は、これらの資料を保管する上で欠かせない資料となっています。ドラマでは、兼実は武家が権力を握ることに強い反発を見せていましたが、それでも常に一歩引いて観察しているように思われました。
また乙前(おとまえ)という女性が登場します。彼女は、傀儡子(くぐつ)と呼ばれる芸人で、美濃国青墓宿(現在の岐阜県大垣市)で今様(いまよう)を歌っていたとされ、彼女の歌の上手さはかなり有名だったようです。今様とは、まさに文字通り流行歌ですが、平安中期頃から民衆に広がっていた歌です。そして、後白河法皇が今様狂いと言われる程今様を愛好し、すでに引退していた乙前を京に呼んで自ら弟子入りします。そして民衆に伝えられた今様を文字として書き残しましたが、その多くは失われました。法皇がこれほど今様に熱心だったので、宮廷でも盛んに今様が歌われ、公卿たちにも広まりました。従来、宮廷文化と民衆文化は隔絶していましたが、この時代には今様という民衆文化が宮廷文化に影響を与えるようになっていたのです。鎌倉時代以降田楽や猿楽が人気を博し、今様自体は衰退していきますが、民衆が口ずさむ調べとして生き続け、今日の日本の唱歌や童謡にもその影響が認められるとのことです。ドラマでは、しばしば今様が歌われ、その旋律が当時のものと同じかどうかは知りませんが、何か懐かしい歌を聴いているように感じました。
このドラマを観るに当たって、私が最も関心を抱いていたのは海上貿易についてでした。平家は瀬戸内海を支配し、日宋貿易を盛んに行いました。その象徴的な事績が、海の守り神としての厳島神社の造営と神戸での大輪田泊の建設です。平清盛が生きた12世紀の世界では、海上貿易が急速に発展しつつありました。当時、中国では宋に女真族の金が侵入して華北を占領すると、1127年に南部に南宋が樹立されました。南宋は、華北を失ったのみならず、シルクロードとも遮断され、外国貿易も困難となりました。中国の王朝は一般的に海外貿易には消極的でしたが、こうした背景の下で経済を発展させるために、南宋時代には民間の海外貿易を認められました。その結果、当時造船技術が飛躍的に向上したこともあって、海上貿易が非常に活発化しました。それと同時に、この時代には東南アジア・インド・中近東の貿易も活発化し、さらに西の端でヨーロッパが十字軍運動という形で、この動きに結びついていました。日本が直接貿易を行ったのは南宋でしたが、こうした世界の大きな変動の中で、大輪田泊は海のネットワークの東の端に位置していたわけです。こうした中で、水軍と呼ばれる海の武装勢力が形成されてきますが、この水軍については、別の所で触れたいと思います。
清盛は、平家の滅亡を目前にして死にます。つまり彼の生涯をかけた事業は挫折した分けです。しかし清盛は、古代から中世への転換になくてはならない人でした。朝廷に武士の実力を見せつけ、もはや武士なしには何事もなしえないことを天下に示しました。鎌倉幕府の成立は、清盛の業績なしにはありえなかったでしょう。また、清盛が日本を海のネットワークに結びつけた業績も大きいでしょう。さらに彼は大量の宋銭を輸入し、日本に貨幣経済を普及させました。そのおかげで、中国では銅が不足し、代わりに紙幣が発行されるほどでした。しかし、清盛は朝廷の権力闘争の枠組みから離れることができず、結局真の武家社会を作り出すことに失敗したのだと思います。
新・平家物語
1972年のNHK大河ドラマで、吉川英治原作です。大河ドラマ第10作目を記念して豪華キャストをそろえ、当時話題となった作品です。しかし私が観たのは総集編で、物語の荒筋しかかわからず、しかも40年以上前の作品だったので、あまり興味を引くものがありませんでした。
両者には、当然のことながら、色々な違いがあります。例えば、「新・平家物語」では、天皇家について語るナレーションで敬語を使っていましたが、「平清盛」では「天皇家」という言葉を使わず、「王家」という言葉を使っていました。また、保元の乱を起こし、平治の乱で死んだ信西について、「新・平家物語」では権力の亡者のように扱っていましたが、「平清盛」では情熱的な改革者として扱っていました。どちらが正しいのかは、私には分かりません。福原遷都について、「新・平家物語」では、源氏の台頭を前に福原に逃げたと言っていましたが、これには海のネットワークという視点が欠けており、福原遷都こそが清盛の悲願だったというべきでしょう。
鶴姫伝奇
この映画は、1993年に日本テレビ系列で放映されたもので、「興亡・瀬戸内水軍」というサブタイトルがついています。このドラマの時代は16世紀なので、源平合戦より300年以上後のことになりますが、このドラマを通じて、水軍について述べてみたいと思います。
世界中どこにでも、山に生きる人々がいるのと同様に、海に生きる人々がいます。彼らは、漁をし、交易をし、時には海賊ともなります。ヨーロッパのヴァイキングや日本の倭寇はそうした人々です。そうした人々がやがて氏族を形成し、時には権力と結びついていくこともあります。日本における水軍の形成は、武士の成立と並行して進行していきます。10世紀に地方豪族が武装して武士となっていくように、海賊も武装し、時には地方豪族が海賊化することもあります。10世紀には、藤原純友が瀬戸内海の海賊を糾合して反乱を起こしました。12世紀には、平清盛も海賊を取り込んで、瀬戸内海の制海権を握ったとされています。真偽の程は不明ですが、清盛たちが海賊討伐を命じられた時、密かに海賊を匿ったとされます。平家の水軍に対抗して、源氏は熊野水軍の援助を受けて戦い、屋島の戦いや壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。いずれにしても、瀬戸内海は古代国家の背骨のようなもので、水運の大動脈でしたから、これを掌握した者が国家の命運を左右する力を持ちえたわけです。
瀬戸内海とは、関門海峡など狭い海峡=瀬戸の内側にある海で、3000以上の島々があり、古来、畿内と九州を結ぶ航路として栄えました。瀬戸内海には、外洋から入る海流が少ないため、海流はほとんどありませんが、潮の干満が大きく、その落差は4メートルにも達するため、それにより複雑な潮流が生み出されます。その代表的な例は鳴門の渦潮です。また島が接近した狭い所では、潮流は川の水のように早く流れます。したがって瀬戸内海は決して航海しやすい海とは言えません。
瀬戸内海は10の海域に分けられますが、中でも航行上やっかいなのは、多くの島が並ぶ地域で、岡山県と香川県の間にある備讃(びさん)瀬戸と、広島県と徳島県の間にある安芸灘は、今日でも難所として知られています。2014年に自衛隊の艦船と漁船が衝突したのは、この安芸灘です。西から東に向かって安芸灘に入る手前に、風待ちのための多くの寄港地が存在し、厳島神社は海の神として、航行の安全を祈願する場所となっているわけです。こうした海域は、海賊の活動の舞台であり、そうした海賊がやがて水軍に発展していきます。
鎌倉時代になると、安芸灘を中心に村上水軍が活躍するようになります。村上水軍は、伯方島(はかたじま)と大島の間にある、周囲720メートルの能島(のしま)を拠点とします。このあたりの海域は帆船時代には重要な航路となっており、また潮流がきわめて速いため、村上水軍は水先案内人を務めたり、関を設けて通行料を徴収したりしていました。村上水軍はこの島に城を築いていましたが、この島には水がないため、船で水を運んでいたとされ、現在では無人島となっています。
このドラマの舞台は、村上水軍が勢力をもつ安芸灘にある大三島(おおみしま)です。この島は、大山祇(おおやまづみ)神社がある「神の島」として知られています。大山祇神社は、厳島神社とともに、海の守り神として、また戦の神として、この地方の人々の信仰を集めていました。源氏・平家をなど多くの武将が武具を奉納しため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているとのことです。
このドラマの主人公の鶴姫は、この神社の大宮司である大祝(おおほうり)家の娘として生まれました。大祝家は神職として、この海域世界に大きな影響力をもっていましたが、戦国時代に周防(山口県)の大内氏が、瀬戸内海を支配するため、この地域に何度も侵攻してきました。1541年の侵攻では撃退したものの、陣代が戦死したため、16歳の鶴姫が陣代として戦いました。1543年の侵攻では鶴姫の恋人が戦死しますが、鶴姫の指揮の下で大内軍の撃退に成功します。その後の鶴姫の消息については、はっきりしません。ドラマでは、彼女は戦いで戦死したことになっていますが、恋人の後を追って入水したともいわれています。いずれにしても、この物語の全体が伝説に覆われており、どこまでが事実なのかよく分かりません。今日、大山祇神社に女性用と思われる胴丸(鎧)が保存されており、これが鶴姫のものだと伝えられていますが、真偽の程は不明です。逆に、この鎧が鶴姫伝説を生み出したのかもしれません。なお、この神社には、義経が奉納したとされる鎧も残されています。
結局、その後この地域は大内氏の勢力下に入りますが、1555年に毛利氏が村上水軍の援助で厳島の戦いで大内氏を討ち、以後村上水軍は毛利氏の傘下に入ります。一方、織田信長は、熊野水軍の流れを汲む志摩の九鬼水軍を取り込んで対抗し、さらに1588年に豊臣秀吉が刀刈令とともに海上賊船禁止令を出し、軍事勢力としての水軍の時代は終わることになります。
この頃、ヨーロッパでは海賊の全盛時代でした。国家が海軍をもたなかった時代に、海賊は国家と協力して戦いました。アルマダ海戦でのドレイクがその典型です。彼らは、多くの島が点在するカリブ海に拠点を置き、敵であるスペインの船を襲って財宝を奪いました。そのため海賊は、国家を代表する勢力としての誇りをもち、また民衆にも大変人気がありました。しかし18世紀に入って国家が海軍をもつようになると、海賊のような無法者は邪魔になり、海賊討伐が行われるようになります。「パイレーツ・オブ・カリビアン」の舞台はそのような時代でした。
草燃える
1979年のNHK大河ドラマで、永井路子原作です。ドラマは鎌倉幕府の成立を描いたもので、源頼朝を石坂浩二が、北条政子を岩下志麻が演じていますが、この二人もNHK大河ドラマの常連です。私が観たのは総集編ですので、当然のことながら、荒筋しか観ることがでず、できれば具体的な政策の決定過程を観たいと思いました。というのは、頼朝は、明白なビジョンをもって政策を推進したというより、坂東という最も身近な現実に対応することによって、少しずつ全体像を構築していったように思われるからです。身近な現実とは、武士同士の領地をめぐる争いであり、この争いを調停し、領地を安堵し、鎌倉を中心に武士たちをまとめあげることでした。その過程で、守護や地頭という、鎌倉幕府の権力の基盤が形成されていくのだと思います。「草燃える」というタイトルは、多分、名もなき坂東の武士たちの決起を意味しているのだと思います。そして、それこそが、古代世界を最終的に終わらせたものだったと思います。
頼朝は、妻の北条政子や弟の義経の評価が高いのに比べると、あまり人気がありません。特に判官(はんがん/ほうがん)贔屓で人気の高い義経を死に至らしめたことから、陰湿な性格として描かれることが多いようです。頼朝は13歳で伊豆に流され、33歳の時挙兵するまで20年間伊豆で暮らします。この時期の頼朝について、「平清盛」では、北条政子が無気力な頼朝を叱咤激励して、やる気をだせたことになっていますが、これは脚本家が女性であるため、このような描き方をしたのかもしれません。「草燃える」では、頼朝は女たらしで、結構女性関係が多かったことになっています。いずれにしても、挙兵以前の頼朝については、ほとんど分かっていませんので、どのように描くかは作者の自由です。ただ、頼朝は、かつての乳母や母の実家である熱田神宮から仕送りを受けていたため、生活に困窮しているということはなかったようです。
頼朝は、武士をある程度まとめることに成功しました。彼は幕府権力の支柱ともいうべき御家人たちを知り抜いており、一人一人の顔つきや性格を描写できる程だったとされています。つまり、彼は人心掌握術に長けていたようです。しかし彼の死後、御家人間の争いや謀反などが相次ぎ、しかも頼朝の血統は三代で絶えてしまいます。このドラマでは、こうした紛争の多くが北条家による画策であるとしていますが、真偽の程は分かりません。もともと、鎌倉幕府についての根本史料である「吾妻鏡」は、北条政権のもとで書かれたものであるため、北条氏に都合のよい書き方がされていますが、今日における北条氏に対する批判は、「吾妻鏡」に対する反論ではないかとも思われます。北条氏は、出自さえもはっきりしない、いわばどこの馬の骨か分からないような家柄でしたので、最初からそれ程遠大な野望をもって行動していたとは、私には思えないのですが、これは素人判断にすぎません。
中世という時代は、日本史でもヨーロッパ史でも、非常に分かりにくい時代だと思います。しばしば日本の中世がヨーロッパの中世と比較されることがありますが、もともと日本の中世史観は、ヨーロッパの中世史との比較の上で生まれてきたものですので、当然のことではあります。何事につけ、安易な比較は誤解と歪曲を生みますので、慎まねばなりませんが、ここでは私は、素人として安易な比較を行って見たいと思います。これはあくまで私見、というより個人的な感想文でしかありません。
日本で武士が形成されつつあった10世紀頃、ヨーロッパでも騎士階級が成立し、どちらも絶え間なく土地を巡って争っていました。混乱の程度からいえば、ヨーロッパの方がひどかったと思います。ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅びてから500年近くたっており、法秩序はあってなきがごときであり、国王もあってなきがごとくでした。日本では、律令制は事実上崩壊していましたが、一応まだ枠組みは残っており、天皇は実権を失っていましたが、摂関政治という形で一応秩序は保たれていました。また、日本でもヨーロッパでも、武士や騎士階級は土地を巡って絶え間なく争い、ヨーロッパでは教会を中心に「神の平和運動」が展開されますが、あまり効果はありませんでした。十字軍運動は、こうした争いのガス抜きのような意味合いがあったのかもしれません。日本では、朝廷は武士同士の争いを私闘とみなして介入しませんでしたので、争うにまかされていました。土地の所有関係は複雑に入り組んでおり、武力で守るか奪い取るか、あるいは上級の権力に寄進して守ってもらうしかありませんでした。
国家構造も複雑でした。ヨーロッパでは一応下級騎士から諸侯にいたるまでの序列が存在し、一応国王がいましたが、ほとんど実権がありませんでした。時には、国王が領地を得るため、他の国王の家臣になることもありました。例えばフランスのアンジュー伯はフランス国王の家臣でしたが、同時にイギリス国王でもありました。このような上下関係の錯綜は、当時としては珍しいことではありませんでした。さらにこの上に理念的な存在としてローマ教皇と神聖ローマ皇帝がいましたが、神聖ローマ皇帝は事実上ドイツの国王でしかなく、そのドイツでも実権を行使できたのは自分の所領内だけでした。ローマ教皇は信仰の中心でしたので、一定の権威をもっていましたが、それでも実体としての権力はほとんどありませんでした。このようにヨーロッパの中世は、錯綜した権利・権力関係を前提として、国王と家臣との個人的な契約関係でなりたっている、ゆるいまとまりが存在していただけでした。やがて、それぞれの国の国王が、これに一定の秩序を与えていくことになります。
日本においても、武士は土地を巡って絶えず争っており、将門の反乱も直接的には土地を巡る争いが原因でした。武士たちは自己の権利を守るために、勢力のある貴族や寺院に土地を寄進し、それが摂関政治の背景となっていました。ところが土地を巡る争いが上級貴族・寺社の争いに発展したり、上級貴族・寺社の争いが武士同士の争いの原因にもなりました。鎌倉幕府は、まさに土地を巡る争いの調停と所領の安堵という、当時の武士の切実な要求に応えたのです。そして「御恩と奉公」という原則のもとに、頼朝は御家人との人的関係によって、鎌倉を中心に武士たちをまとめていったのです。この原則があったからこそ、鎌倉幕府は、頼朝の家系が三代で絶えたにもかかわらず、元寇をも凌いで、150年間続くことができたのだと思います。
日本でも国家の構造は複雑でした。まず鎌倉殿=征夷大将軍がいますが、これはもはや形式のみで、執権が実権を握っていましたが、やがて執権を代々継承する得宗家が実権を握るようになり、さらに得宗家の家人が実権をもつようになります。全国には御家人を守護や地頭として配置しますが、同時に律令制以来の国府も存在し、そのうえには公卿や天皇・上皇が存在するわけです。こうした関係は、法的にはヨーロッパの権力関係と異なるかもしれませんが、雑然として分かりにくいという点では、よく似ているような気がします。
要するに、頼朝は朝廷に代わる権力を握ろうとか、新しい国家を造ろうとしたのではなく、現状をあるがままに受け入れて、そこに秩序を生み出そうとしただけなのではないかと思われます。そもそも幕府とは、中国で皇帝が自ら軍隊を率いて出陣し、戦場にテントを設営して政務を行えば、それが幕府なのであり、もともと一時的な性格のものだったのです。
なお、北条政子と頼朝との関係について、すでに他の家との婚儀が決まっていた政子と頼朝が駆け落ちしたとのことで、これは一種の略奪婚にあたりますが、当時坂東では略奪婚はそれ程珍しいことではなく、将門も輿入れの途上にあった相手を奪い去ったとされています。
ちなみに、頼朝は1199年に51歳で死亡しますが、その7年後の1206年チンギスハーンがモンゴル帝国を樹立しました。世界の歴史は激しく動き始めていたのです。2001年にNHK大河ドラマで「北条時宗」が放映されましたが、あまり出来の良いドラマではありませんでした。総集編しかソフト化されていないようですが、私はこれを入手できませんでした。
義経
2005年のNHK大河ドラマで、宮尾登美子原作です。「草燃える」で、事実上鎌倉幕府の執権政治を確立した北条義時を松平健が演じていましたが、その松平健が「義経」で弁慶を演じていました。「清盛」で清盛の父忠盛を演じていた中井貴一が、「義経」では頼朝を演じ、「草燃える」で北条義時の恋人を演じていた松坂恵子が、「義経」では清盛の妻を演じていました。いくらなんでも節操がなさすぎで、役者の選定が安易すぎるのではないかと思います。
義経については、後世に創作された話が多く、このドラマでも伝説としての義経が描かれていました。義経については、すでに一の谷の戦い以降、伝説化が始まっており、失脚後は判官贔屓に尾ひれがつきました。大変興味深いのは、鎌倉幕府が編纂した「吾妻鏡」が義経に好意的な書き方をしているとのことですが、これは源氏から実権を奪った北条氏が、頼朝への評価を下げるためだったとされています。そして、何よりも義経伝説を定着させたのは、義経の死後200年以上後に書かれた「義経記(ぎけいき)」で、義経を徹底的に美化して描きました。ただし、「義経記」は、むしろ創作ものというべきで、資料的価値はほとんどないそうです。
武蔵坊弁慶が初めて登場するのは「義経記」で、かつてはその存在さえ疑われていました。仮に彼が実在したとしても、今日われわれが知るような弁慶とは全くの別人です。和歌山県の田辺市が弁慶の生誕地であると、観光案内には書かれていますが、根拠がありません。しかし弁慶に関わる伝承は多く、彼が義経を守るために立ったまま死んだという「弁慶の立往生」、その他「弁慶の泣き所」「弁慶の七つ道具」など、今日でも使用される言葉が残っていますし、弁慶に因む遺跡も数多く残っています。日本人は、なぜこれ程義経と弁慶を愛してきたのか、よく分かりません。判官贔屓だけでは説明できないものがあります。義経の愛妾だった静御前についても、「吾妻鏡」に記載されているだけだそうです。「吾妻鏡」は、鶴岡八幡宮で頼朝の前で舞った静御前を激賞し、北条政子が静御前の命乞いをしたことになっているそうですが、これも何か不自然です。「吾妻鏡」は、よほど頼朝を冷酷な人間に仕立てたかったようです。
このように義経の一生は伝承に覆われていますが、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなどは、明白な事実です。彼がどのようにしてこれ程の軍事的能力を身に着けたのか、よく分かりません。彼は鞍馬寺で少年時代を過ごしますが、当時の寺院には僧兵がいますので、ある程度武芸を習得することはできたでしょうし、平泉でも相当の修練を積むことはできたでしょう。しかし、大軍を率いての戦闘などはまったく未経験でしたから、やはり義経には天性の軍事的才能があったと考えるしかないでしょう。義経の戦略は、無謀な奇襲作戦とみなされることがありますが、むしろ源範頼が主力を率いて平家を追い詰めていき、義経が別働隊を率いて奇襲を行うという、戦略ではないかと思います。
一の谷の戦いでは、源氏軍は平家軍を東西から挟み撃ちにし、義経自身は精鋭70騎を率いて背後から攻撃して、平家軍をかく乱させたわけですから、理にかなった戦いでした。屋島の戦いでは、熊野水軍や屋島周辺の豪族を味方につけた上での攻撃でしたから、決して無謀な戦いとは言えませんでした。壇ノ浦の戦いでも、義経は1カ月かけて瀬戸内海の水軍を味方につけて決戦に臨みましたので、周到な準備をしたうえでの戦いでした。これらの戦いの過程は、伝承ではなく事実であり、やはり義経の軍事的才能には並外れたものがあったと言わねばならないでしょう。義経人気は、単に伝承によるものだけではなく、こうした神がかり的な活躍が人々を引き付けたのだと思います。
頼朝と義経の不和と、その後の頼朝による義経の追討の理由も、よく分かりません。源範頼がこまめに頼朝に指示を仰いだのに対し、義経に独断専行的なところがあったこと、義経が朝廷から勝手に官位を受けたことが、頼朝の国家構想を台無しにしかねないこと、坂東武士の反発、後白河院による兄弟離間策など、さまざまな要因があげられており、どれが決定的要因となったかということについては、私には判断できません。要するに、義経という不世出の武人が突如出現し、栄華を誇った平家を鮮やかに倒し、その歴史的な役割を終えたということです。軍事の天才義経が平家を倒し、政治の天才頼朝が鎌倉幕府を築いた、ということかもしれません。いずれにしても、平清盛が古代から中世への橋渡しをしたとするなら、頼朝と義経は中世の出発点に立っていたのです。
ところで、義経と頼朝が不和になった後、義経は鎌倉の手前の腰越から頼朝に書簡を送ります。世に腰越状と呼ばれるもので、その切々たる訴えは、少し出来すぎではないかと思われるほどです。事実、この書簡の真贋については意見が分かれているようです。この書簡は「吾妻鏡」に記載されているもので、「吾妻鏡」による脚色があるのではないかとされていますが、他の資料とてらして、当時の義経の心情をよく表している、ともされています。いずれにせよ、この書簡は江戸時代には手習いの教科書として用いられたほどで、後世の多くの人々の心を捉えたことは間違いありません。それにしても、やはり頼朝は悪役で、少しかわいそうな気もします。しかし、徳川家康が最も尊敬した人物は頼朝であり、江戸幕府の創設に腐心していた家康は、誰よりも頼朝の心情をよく理解していたのではないかと思います。
義経の容姿や人柄についても、はっきりしたことは分かりません。義経を美男子に仕立て上げたのは「義経記」で、映画などでも義経役には美男子が用いられています。「義経」では滝沢秀明が演じていたので、申し分なく美男子でした。しかし義経については、小柄であったとか、出っ歯であったとか、それを否定する意見とか、色々ありますが、どうでもよいことです。また、人柄については、「義経」では品行方正な人物として描かれていますが、「炎立つ」「草燃える」では、天真爛漫あるいは傍若無人な人物として描かれています。これについても、よく分かりません。
その他、印象に残った人物をあげます。後白河法皇は、「炎立つ」でも、「清盛」でも、「義経」でも出てきましたが、いずれも「煮ても焼いても食えない人物」として描かれていました。彼の政治的手腕については、あまり評価は高くないようですが、したたかな人物だったことは確かなようです。彼は、平家の全盛時代を生き抜き、そして平家の滅亡を目撃した後に死にます。また上の三つの作品に共通して登場する人物の一人に、金売吉次(きちじ)なる人物がいます。奥州の商人で、奥州の金などを京でさばいた人物とされ、彼の案内で義経が鞍馬山を脱出して奥州に行ったとされています。彼が実在したかどうかは分かりませんが、奥州の商人が京に頻繁に出入りしていたことは事実であり、平泉は彼らを通じて京の情報を入手していたと思われます。そして平泉は、結局、頼朝によって滅ぼされることになります。
義経の死後、さまざまな伝説が生まれました。彼は北海道に逃れて蝦夷の首長となったとか、大陸に逃れてチンギスハンとなったとか、途方もない話が生まれました。義経が平泉で殺されたことは、ほぼ間違いのないことですが、彼が死んだのが1189年、チンギスハンがモンゴル帝国を樹立したのが1206年ですので、年代だけ見れば可能です。この説の起源は、大正時代にロンドンに留学していたある日本人が、日本人が馬鹿にされるので、義経=チンギスハン説を唱えた論文を発表したことにあるとのことです。この説は、まともな研究者からは問題にされませんでしたが、日本の民衆には大変評判となりました。これは、楊貴妃が熱田神宮の守り神になったという類の話ですが、義経はそれ程人々の想像力をかきたてる人物だったということです。
ドラマでは、世に知られた多くのエピソードが語られ、そのほとんどが史実とはいえませんが、観ていてそれなりにおもしろいものでした。
太平記
1991年のNHK大河ドラマで、原作は吉川英治です。「太平記」は、鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代半ばまでの50年間ほどを扱った軍記物語で、全40巻からなる膨大なものです。作者・成立年代とも不詳ですが、1370年代頃、複数の人々によって書かれたと推定されています。室町幕府を開いた足利尊氏は、特に明治以降、天皇に逆らった逆心として扱われてきましたが、戦後尊氏についての新しい評価が生まれ、吉川英治が「私本太平記」で新しい尊氏像を描きました。このドラマは、吉川英治の足利尊氏像に基づいて、足利尊氏の生涯を描いたものです。
このドラマを観て、結局私には尊氏とはどのような人物なのか、よく分かりませんでした。鎌倉幕府は、朝廷と幕府の二元体制だったように思われ、武士の成長とともにバランスが崩れ、一元化の必要が生まれてきたのではないかと思いますが、結局、尊氏はこの時代のアンバランスを象徴しているように思われました。彼は物事を決断するのが遅く、しかし一旦決断すると断固として実行しますが、危機に陥ると、自害するだの、出家するだのと口走ります。彼には、躁鬱の傾向があるのではないかと、疑う人もいます。もともと彼は後醍醐天皇による一元化を望んでいたようですが、後醍醐天皇の新政の失敗が明らかとなると、天皇を廃して幕府を開きます。ところが、1336年に尊氏は新田軍に大敗し、わずかな兵とともにて九州に逃れますが、わずか1か月後には大軍を編成して西上し、3か月後には京を奪回します。この行動力と統率力には並外れたものがあります。しかし、その後政務は弟に任せ、自分は絵を描いたり、歌を詠んだり、猿楽に興じていました。それでいて、誰もが尊氏には一目を置いており、かれにはカリスマ性のようなものがあったと思われます。
平清盛は、京にあって朝廷の枠組みの中で、武家というより平家一門による支配を強行したのに対し、鎌倉幕府は「朝廷のものは朝廷に」、「武家のものは武家に」という発想だったように思われます。しかし元寇は、鎌倉政権の転機となりました。北条時宗は、この非常事態を前にして全国の武士を動員し、その結果北条氏による専制体制が成立することになります。さらに時宗は戦時の指揮を迅速化するため、北条家の家人を重用しますが、その結果北条家の家人が管領として力をもつようになります。さらに御恩と奉公を原則とする鎌倉幕府にあっては、武士の奉公に対して恩賞を与えねばなりませんが、外国の侵略に対する戦いでは、恩賞として与える土地が発生しません。そのため十分な恩賞を与えられなかった武士が、不満を持つようになります。
一方、鎌倉時代には、権利・権力関係がきわめて複雑でした。10世紀以来、まず天皇が実権を失って摂関政治が行われ、ついで上皇が実権をもつ院政が行われ、さらに武士が実権を握って鎌倉将軍が生まれますが、将軍が実権を失って執権が実権を握り、この執権職を北条家の嫡流が世襲して得宗家となり、やがて執権も実権を失って得宗家の執事が実権を握ります。一方、御家人は、領地を息子たちに分け与えて零細化し、さらに北条得宗家に奪われて貧困化していました。その御家人たちは、朝廷・公卿・寺社の土地を侵食していました。こうした複雑な権利・権力関係を整理し、一元化する必要がありました。その際、中心となるのは天皇か将軍かということが問題になります。後醍醐天皇は天皇中心の政治を目指しますが、もはや朝廷にはその力は残っていませんでした。
結局、尊氏は将軍による一元化を目指すことになりますが、そうなると、もはや鎌倉から支配することは困難となり、京に幕府を開くことになります。その後南北朝時代に入り、南北の対立と地方勢力との対立がからみ、次々と戦争が起き、ついには尊氏は弟と戦って殺害し、さらには息子(庶子)とも戦います。挙兵してからの尊氏の生涯は、戦いの連続でしたが、これをよく切り抜けます。尊氏については、派手な伝承もなく、その人物像はなかなか分かりませんが、ドラマでは、「器量のある」人物として描かれており、「戦場での勇猛さ」「敵方への寛容さ」「部下への気前の良さ」など、人身掌握に長けていたようです。
南北朝の動乱を通じて、武士は公家や寺社の領地を強奪し、公家の没落は決定的となっていきます。鎌倉時代に幕府が任命した守護は警察権力しかもたず、公家などの領地に関わることはありませんでしたが、室町時代には守護は政治的・経済的な権力をもち、自立性を強めていきます。とはいえ、守護が守護であるためには、将軍によって任命される必要があり、しかも有力守護には在京の義務があったため、将軍と守護との間に権力のバランスが形成された分けです。つまり、室町幕府は守護との連合政権という性格をもっていたと思います。そして、もはやそこに朝廷が入る余地はほとんどなくなり、武家による支配が確立することになります。
1336年、尊氏が事実上幕府を開き、南北朝時代が始まりますが、その翌年の1337年にヨーロッパで百年戦争が始まり、中世社会が崩壊に向かっていきます。この時代は、世界的に寒冷期に入っており、飢饉や疫病が流行し、世界各地で動乱が勃発します。中国でも、元末の混乱の中で、1351年に紅巾の乱が勃発し、1368年に朱元璋が明朝を開きますが、明が安定するには15世紀初頭の永楽帝の登場を待たねばなりません。日本の南北朝時代の混乱も、こうした世界の動向と無縁ではなかったと思います。そして、1358年に尊氏は死にますが、まだ混乱は終わっていませんでした。そして、尊氏が死んでからちょうど100日目に義満が生まれ、彼のもとで室町幕府は全盛期を迎えることになります。
ドラマでは、繰り返し猿楽や田楽が登場します。特に、猿楽の座長である花夜叉が、楠木正成の妹という設定になっていますので、猿楽がドラマの伏線の一つとなっていました。田楽と猿楽の相違はよく分かりませんが、どちらも平安時代の半ば頃から民衆芸能として発展してきたようです。田楽と猿楽は互いに影響しあいながら、また先に触れた今様の影響も受け、独自の芸能を生み出しました。田楽や猿楽が発展した背景には、「立ち合い能」という催しがありました。「立ち合い能」では、田楽や猿楽が芸を競い勝負するというもので、互いに芸を磨く中で猿楽の観阿弥が革新的な芸能を生み出しました。本来、「能」とはストーリー性のある芸能全般を指していましたが、やがて猿楽が「能」を代表するようになります。古代ギリシアのアテネでも、祭りの日に演劇が上演され、投票により優劣が決定されました。そうした中で、数々の名作が生み出されました。それと同じようなことが、能楽を生み出す背景となったようです。
私が、もう一つ興味を抱いたのは「ばさら」です。ウイキペディアによれば、「バサラ」とは、「身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった」ということです。ドラマでは、近江の守護大名佐々木道誉が「ばさら」として登場し、猿楽に興じたり、立花(生花)に熱中したりします。尊氏は「ばさら」の風潮を嫌っていましたが、道誉は最後まで尊氏を支持し続けます。それだけ尊氏は度量の大きな人物だったということでしょうか。
ちなみに、戦国末期から江戸時代初期に、「かぶき者」という風潮が生まれます。これもウイキペディアによれば、「かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行した」ということです。もともと「かぶく」とは「傾く」で、奇妙な身なりしたり、勝手な振る舞いをして、既成の価値観に反抗することを意味します。この時代に生きた伊達正宗も、かぶき者の傾向をもっていたかもしれません。
2006年にNHKで「出雲の阿国」というドラマが、全6回で放映されました。この出雲阿国という女性は、戦国時代の末期に「かぶき踊り」を踊って評判となりました。彼女については、分かっていることがほとんどないようですが、彼女は、単に踊っただけでなく、武士の扮装をして茶屋女と戯れる役を演じたそうで、「かぶく」女として大変評判になったそうです。このドラマでも、阿国は最後に「私はかぶく」といいますが、価値観が激しく転換する時代に、彼女の踊りは人々の心を捉えたのだと思います。その後、これを真似て遊女歌舞伎なるものが流行し、江戸幕府はこれを風紀を乱すものとして、女性が歌舞伎を演じることを禁止しました。その結果野郎歌舞伎が生まれ、これが江戸時代に栄えることになります。
なお、この時代のヨーロッパでも、やはり風紀を乱すという理由で、女性が舞台にあがることが禁じられていました。「恋におちたシェイクスピア」という映画では、「ロミオとジュリエット」の上演直前に、ジュリエット役の男の子が声変わりして、出演できなくなり、代わりに女性が出演する、という物語です。いずれにしても、風紀を乱すのは、女性ではなく、男性の方だと思いますが。
完全に話が逸れてしまいましたが、足利尊氏は、こうした混乱の時代にバランスを維持し、後の室町幕府の繁栄のもとを築いたのだと思います。
花の乱
1994年のNHK大河ドラマで、応仁の乱を中心とした室町時代を扱っています。このドラマは視聴率が低く、「清盛」が登場するまで最低視聴率の記録を維持していました。ドラマは、室町時代の繁栄と退廃を、能をおりまぜながら、幻想的に描いており、それなりにおもしろく観ることができました。内容的には、史実に反する部分がかなりあるようですが、この時代についての知識がほとんどない私にとっては、あまり気になりませんでした。
1408年に義満が死ぬと、第四代将軍義持の時代となりますが、彼は1423年に義量(よしかず)に譲位します。ところが25年に義量が早逝したため、将軍不在のまま義持が実権を握り続けます。そして義持には他に子がなく、彼が後継者を決定するのも拒否したため、義持の4人の弟たちの中から籤引きで選ぶことになりました。前代未聞の珍事です。籤引で選ばれた義教(よしのり)は、仏門に入っていたため還俗し、第6代将軍となります。しかし、彼は将軍権力の強化に努め、守護の家督相続などにも介入したため、怨みをかって、1441年に暗殺されます。そのため、わずか9歳の義勝が第7代将軍となりますが、翌年病没し、弟の義政が第8代将軍となります。このように幼少の将軍が続いたため、将軍の権威はしだいに失われていきました。
そして、ドラマの舞台は、義政とその妻日野富子の時代です。日野家は、代々室町将軍に正室を繰り込むことで栄えてきました。したがって日野家の妻は女子を生むことが務めであり、将軍に嫁いだ日野家の娘は嫡男を生むことが務めでした。そして日野富子は男子を生むことができませんでした。一方義政は、はじめは政治に情熱を燃やしていましたが、何度も挫折して政治に嫌気がさしていました。そうした中で、1464年に突如義政は隠居して、すでに出家している弟の義視(よしみ)を次期将軍にすることを決定します。ところが翌年、政子が男児を出産し、彼女はこの子を次期将軍にすることを望んだのです。この後継者を巡る対立に、各地の守護などの後継者を巡る対立がからんで、収拾のつかない状態となり、1467年に応仁の乱が勃発することになります。
話は逸れますが、農業を基盤とする社会においては、相続の問題は厄介な問題です。鎌倉時代には、御家人は領地を子供たちに分割相続させる習わしだったので、御家人はしだいに零細化していきます。そのため室町時代には分割相続が廃止され、特定の一人が一括相続するようになりますが、問題は誰が相続するかで、絶えず争いが起こっていました。これが応仁の乱の背景です。江戸時代には、長子相続が原則となりますが、そうなると今度は次男・三男が問題となります。他家に養子に入ることができれば幸運ですが、それ以外は生涯冷や飯食いとして過ごすことになります。このことは、農村においても同様で、次男や三男に分け与える土地などあるはずがありません。田を分ける者は愚か者であるとして「たわけ」という言葉が生まれたとされます。この言葉の語源には異論がありますが、真実の一面をついていることは確かです。
イギリスでも、ジェントリは長子相続が原則であるため、ジェントリの次男や三男は商人や軍人や、時には海賊になったりします。こうした相続の問題を解決するには、農業以外の経済基盤、具体的には商工業の発展と、都市の発展、そしてこれを可能にする社会の流動性が必要です。室町時代には、商工業が急速に発展しますが、公家や武士が商工業に手を出すほど社会は流動化しておらず、江戸時代には逆に身分秩序が固定化されてしまいます。これに対してジェントリは、貴族と庶民の中間に位置する身分だったため、土地経営以外の分野に積極的に進出していくことが可能でした。これがイギリスにおいて資本主義の発展を促したわけですが、応仁の乱の時代のイギリスは、まだ百年戦争やバラ戦争など相次ぐ戦争に明け暮れていました。
応仁の乱では、花の御所を挟んで、極めて狭い所に数万人の軍隊が、11年間も睨み合っていた分けですから、京は廃墟になってしまいます。また疫病も流行し、川は疫病での死者で埋まったとさえ言われています。この間にも、義政はますます政治を顧みなくなり、庭園や銀閣寺の建立に没頭し、「幽玄」「わび」「さび」を特色とする東山文化が栄えることになります。こうした時代の風景は、死者の世界からものを観る夢幻能そのもののように思われます。こうした文化は、戦乱を避けて京を離れた公家たちによって地方にもたらされ、すぐれて日本的な文化が形成されることになります。文化史家である内藤湖南が、日本史は室町時代から学べばよいと主張して物議をかもしましたが、文化史における室町時代は、それ程重要だったということです。
この間に、公家の没落は決定的となり、守護は領域支配を強めて守護大名となり、その下では相次ぐ戦乱への自衛行動として国人が台頭し、一揆が結成されたりします。戦国時代の始点はいつかという問題には議論があるようですが、応仁の乱の終結をもって事実上、世は戦国時代に突入していくことになります。
このドラマの主人公は日野富子であり、美しく描かれてはいますが、権力への執着が非常に強く、結局彼女の子義尚(よしひさ)が1473年に第9代将軍となり、彼が25歳で病没すると、義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(よしき)を第10代将軍とし、義材と対立するとこれを廃し、1493年に義政の甥義澄を第11代将軍に就けるなど、権力を維持し続けました。そして、その3年後の1496年に57歳で死亡しました。一方、彼女は経済感覚に優れていたようで、当時急速に発達していた貨幣経済を利用して、京の出入り口で関銭を徴収したり、飢饉の時に米に投資して利益を得たりしました。相次ぐ戦乱で人々が塗炭の苦しみに喘ぎ、室町幕府が凋落しつつある時、彼女自身は巨万の富を築きあげていたのです。彼女は、「悪女」「守銭奴」などといわれて、あまり評判がよくありませんが、傾きつつあった室町幕府の、頼りない男たちの中にあって、強く生きた女性だったということでしょうか。なお、富子が死んだ1496年には、すでにコロンブスが大西洋を横断しており、まもなくヴァスコダガマがインドに到達することになります。
ドラマの中で、二人の人物に関心を抱きました。一人は一休宗純で、彼は天皇の御落胤らしく、公家や武家社会でも一目を置かれていました。6歳で寺に入り、15歳の時にはその秀才ぶりは京でも評判だったようです。しかしある時から、勤勉な学僧から自由奔放な僧へと変身したようです。とにかく、女色・男色・飲酒・肉食、なんでもありの、いわば破戒僧となります。また、京の町を異様な風体で練り歩いたりもしました。彼のこうした奇行は、形式化して中身のなくなった仏教界への批判だったとされています。彼の歯に衣を着せぬ物言いから、民衆には人気があり、江戸時代に一休の頓知話が生まれますが、これ自体は創作です。
もう一人は森女(しんじょ)です。彼女は盲目の旅芸人、いわば瞽女(ごぜ)です。ドラマでは、日野富子の隠された妹ということになっていますが、これも創作です。彼女は、30歳頃一休に出会い、以後一休の庵で暮らし、針の穴に糸を通す仕事までしたと言われます。そして、当時80歳を超す一休は彼女に恋をし、関係をもつに至ったとされます。ドラマでは、華麗な富子と、物静かな森女とが対照的に映され、室町時代の明と暗を浮き彫りにするのに役立っています。
室町時代は、南北朝時代と戦国時代が重なっていることもあって、非常に分かりにくい時代です。戦国時代以前の室町時代を扱った映画は、ここで紹介した「太平記」と「花の乱」くらいしか、ないのではないでしょうか。そのため、この二つのドラマは、私には大変参考になりました。また、「花の乱」では、すべて人々が、それぞれがその宿命を背負って生きており、したがつて、悪行にもそれなりの理由があり、富子もまた宿命に駆り立てられて行動します。すこし綺麗ごとではありますが、創作ものとしては面白く観ることができました。
日本史についての連作は、一旦ここで終わります。また、機会があれば、別の角度で日本史について書いてみたいと思います。
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