珈琲専門店というのはいい。コンセプトがはっきりしているし、シンプルだけど、上等で、装飾品にも拘っていて素敵。専門と言っても、ソフトドリンク、紅茶、各種、種類は豊富で、しかも美味しい。派手さはないけれど、品物や居心地の良さも、あきらに好まれる理由だ。壁の屈折率が悪いのか、計算なのか、さざめき立つように、客の話声が反共して聴こえ、賑やかな雰囲気が楽しめる。女友達とおしゃべりの華を咲かせるのに、しっくりくる。あきらは迷わずブレンドを選んだ。
「最近は、どうなの?」
さっそく春子は直球の質問をしてきた。
「どうってまあ、相変わらず、翔の家出は治らないみたい。りさちゃんとは、はじめましてだね。とりあえず何か飲みましよう」
春子はあきらから珈琲色をしたメニューを受け収り、隣に座っているりさにも見せ合いながら答えた。
「男の方が頻繁に家出なんて、あきらには知られたくないお友達や遊びがあるんじゃないの…一般的に言えば、ゲームとか、車とか」
「それもあるかもしれない。そんなつもりないけど、シビアなこと平気で言ってしまうから、気をつけなくちゃ」
「気を付ける必要ないんじゃないの。それがあきらなんだし。離れて行くならその程度、でも…」
でも、そうだ。あきらは翔のことが好きなのだ。翔にどんな後ろ暗い秘密めいたものがあったとしても、ここまできたら受け入れるしかない。
春子は、あきらの強気な雰囲気が押し込まれてしまうほど、女の顔を見せるあきらをいじらしくも可愛らしく感じる。
「その表情、思ってる事、素直に言っちゃえばいいじゃない、可愛いいわよ」
「…やだっ可愛いいなんて、恥ずかしい。からかわないで下さい! それならりさちゃんのほうがよっぽど可愛らしいですよ」
言ってて本当に恥ずかしくなってきた。それでもほのぼのした空間に安堵してる。春子さんにはかなわないなあと思う。
「でもやっぱり私、恥ずかしすぎて、口調をキツめにしちゃうかも。可愛くなんて無理ですよ」
そんなことないのに、とたおやかな振る舞いでグラスに唇を引き寄せる春子。ひとつひとつのしぐさが、流れるようで、いつ会っても見とれてしまう。
りさは二人の話を聞いているのかいないのか、適当な相槌を打っている。
春子は一年と少し前からの友人だ。でも、それを感じさせないだけの濃度のある空間を春子が培ってきた安心感かある。実際はあきらが勝手に思っているだけなのかもしれないが、春子には誰に対しても変わらない大らかさかある。海の香り。ふとそんな単語が脳裏をかすめた。
翔と出会う前、あきらは会社での業務ペースも安定してきて、一人暮らしの寂しい夜を紛らわせるために、できる範囲であらゆるものを習っていた。高校時代から続けていたテニスをはじめに、女子スキルを上げるために、本格的な料理、イタリアン、フレンチ、純和食、創作料理も、文字通り本格的に頑張った。今ではその話題は化石化となっているが…。それでも、少しでも翔の心に近づきたくて心理学の勉強を今も続けている。もちろん素人知恵ではどうにかなると思っていないので、カウンセラー資格も視野にいれている。そして数ある興味対象の中からあきらの心を引きつけたのはメイク、ファッションの探求。
あきらと知り合う前から、春子はりさと友人関係だった。何も問題ない。
りさに対して、極自然に、可愛いと思えるのも、不自然じゃない。甘やかしてあげたくなる風体を彼女はしている。だから、それは、問題ないのだ。あきらだってりさに会うのは今日が初めてだし、知らないことが多くて当然なのだ。それなのに、あきらの肌をちくちくと静電気のように刺す、痛みを伴う違和感はなんなのだろう。
「恥ずかしい話で悪いんだけど、私…」
春子さんは、ためらうように、暗いものを覗き込むのを拒むように、言葉を紡いだ。
「流産してるの」
あきらは人並みにうろたえた。あまりにも衝撃的な告白に言葉が出なかった。
「驚かせてしまってごめんなさい。実は、今経営している美容院は2店舗目でね、以前、経営していた時にうまく集客できなくて、その、夫との仲も良くなくて離婚調停も長くて、ストレスが溜まってしまっていたみたいなの」
「そう、だったんですか」
ようやく言葉を絞り出せたが、頭の中は混乱していた。そんなことがあったなんて。自分の経験や想像をはるかに超えた体験をしている、そんなことが現実に、ニュース以外の方法で知ることになった自分は、ただただ呆然と勣揺するしかないちっぼけな存在に感じる。
「あの、なんて言っていいのか…ごめんなさい」
それにしてもその旦那さんはお腹に子供がいるのに、別れようとしてたってこと? 他にも色々問題があったんだろうけれど、ひどいとしか思えない。
「昔の話だからそんなに気にしなくていいわって言っても無理ね。今は美容関係の方とまたご縁があってね、お店も再聞できたの。人生何かあるか分からないわよね、色んな意味で。本当は保育施設も兼ねたいんだけどまだ、借金があるし、何に使ってるのか知らないけど、彼も金使いが荒くてね、難しくて…。でも、良いところもあるのよ。ええっと。何の話をしようと思ってたんだっけ、脱線しちゃったわ、ごめんなさい、あきらは? 彼の不審な家出以外は大丈大なんでしょう?」
「はい、翔は優しくて良い子です。一緒に居て気兼ねないし、本当の私を理解してくれて、とても有り難いと思います」
「よかったわね、せっかく女として生まれてきたんだから、綺麗で、いつまでも若々しくいたいわね。私、本屋さんなんて大嫌い。人生の本当は経験することに価値があるのよ。文字ばっかり見つめてて何が楽しいのか分からないし、時間がもったいないじゃない? お酒落したり、旅行したり、そう、恋よ! 恋がなくちゃ人生じゃないもの。色々と変な事もあったけれど、それは必要なことだったと心底思うわ。嫌なことも苦しいことも受け入れて、新しいことに挑戦して、何もない日なんて、私は作りたくないのよ」
「そうですよね」
あきらは深く頷いた。迷ったり立ち止まってるだけで答えが出るなら、人生の深みはどんどん失われていくのだ。ぬるい珈琲をもてあますような人生は、私には理解できない。したくもない。あきらは新しくブレンドを注文した。暑い濃厚な香りの湯気に、心躍る。
不幸と幸福の荒波を受け入れてきた、春子の器量の大きさからくる大人の色気が何気ないしぐさや表情から滲み出ている。あきらを励ますために言いにくいいことを打ち明けてくれたと思うと、少し複雑な気持ちになるけれど、だからこそ、ますます春子には、誰よりも幸せになって欲しいと思った。
りさはガトーショコラをついばみ、ふんふんと相槌を打っていたところを春子さんに宥められていた。
「りさちゃんにはちょっと難しかったかな、ごめんね」
それにしてもいったい、こんな素敵な女性に、最低な男が寄ってくるなんて、どうしてなのだろう。世の中、苦虫を噛みしめたくなるような理不尽なことは、いちいち口にするのも憚られるほど、道端の小石のように転がっている。上手く躓かないでいくことさえ気を付けてさえいれば問題ない。それとも…。
女には、その女特有の匂いというのがあるらしい。生まれ持った匂い。春子さんは海底で濡れ続けた肌着を離さず、皮膚と同調させているかのような匂い。
彼女の気配に触れるたび少し、海の底でひとりでいる、侘しい気持ちに、ときどきなる。それでもあきらは首を横に振った。
「春子さんにば絶対、良い人が見つかるはずです。私が保証します」
春子は優雅に笑って、ありがとう、と言った。
ちらっと視線をやった先にいたりさは遅い速度でハーブティーを飲んでいるし、春子さんから譲ってもらったガトーショコラの残りをちょこちょこ食べていた。りさは私とは変わらぬ年齢のはずだが、絶対といっていいほど幼く、珈琲にも目もくれない、似合わない。それがさも当然のような自然さで、そのどの可愛らしいしぐさにも演技がないのが、あきらを不安にさせる。
甘ったるい風貌に、服装、しぐさ、それを憚らない、無頓着さ。適度に世間を知らない。でもバイトもしているからそれなりにしゃんとした空気感を相手に与えられる。
男好きするりさ。
あきらはりさへの気持ちがなんなのか分からなくて困惑する。不快感をごまかそうと、あえて明るい表情で意地悪な言葉をはしばしに抑し付ける。
「りさちやん。あんまりふわふわしてたらダメだよ。ファミレスのバイトとか現状に廿んじたりしないで、なんていうか、騙されないか心配だよ」
我ながらおせっかいの極みである。それでも何か言わずにおけなかった。それは、良い意味でも悪い意味でも危なかしっさが、りさにあるからだ。
「りさちゃんは経験も少なくて世間知らずだから、心配ね。そこが可愛いんだけど、りさちゃんには絶対幸せな恋愛をして欲しいわ、そして本当に好きな人に出会えるといいわね。何でも挑戦してみるのよ。可愛いんだからもったいないわ」
春子は残りの珈琲カップを綺麗なしぐさで揺らしながら言った。視線はりさに注がれている。
りさの可愛らしいデザインモデルの服から、さらさらな黒髪が、絹糸のカーテンのように艶やかに流れる。アーモンドを思わせるくりっとした双眼が、あきらを見つめる。肌は陶器のような冷たさ、闇を落としたような黒い瞳。不気味なほど整った顔立ち。桜色の唇がゆっくり動いた。
水が涼やかに流れるような声が問こえた。
「あきらも、りさを可愛いと思う?」
急にりさに同意を求められ、いっそう、寒々とした。が、りさから視線を逸らしなんとか答えた。
*原稿は何度も書き直され、残っていた原稿がばらばになっており、十分整理しきれませんでした。そのため内容が支離滅裂になっています。
(写真は、この文章の内容とは無関係です。)
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