2014年8月5日火曜日

世界歴史の旅 古代アメリカ文明 アステカ・マヤ・インカ

増田義郎・青山和夫 山川出版社 2010
 著者の一人増田義郎氏は、日本における古代アメリカ文明研究の開拓者です。思い返せば、私は古代アメリカ文明をほとんど増田氏一人から学んだような気がします。私のように広範囲にわたって学習を必要とするものは、ある時期にある分野を集中的に学習すると、再びその分野に戻ってくるのに何十年もかかります。あるいは戻ってこれない可能性もあります。そして今、私の書棚にある古代アメリカ文明に関する未読の本を読もうとした時、その中で一番新しいのが本書でした。2010年においても、まだ増田氏が執筆活動を続けているのに驚きました。また何年か前に「太平洋―開かれた海の歴史」(増田義郎、集英社新書、2004)を読みましたが、その関心の広さに驚かされました。
 増田氏の著書は、平易に書かれて読みやすいというだけではなく、著者自身が古代アメリカ文明に興奮し、面白がって書いているため、読者を引き込んでいく力があるように思えます。増田氏は、「世界四大文明」という捉え方に義憤を覚え、メソアメリカ文明とアンデス文明を加えて、「世界六大文明」というべきだと主張しています。増田氏のこの気概が、氏の著書を面白くしているように思います。
 古代アメリカ文明は、紀元前2000年頃には農耕文明を独自に生み出したわけですから、六大文明としてもよいように思います。古代アメリカ文明を四大文明に加えない理由として、一部を除いて文字が普及しなかったこと、鉄を知らなかったこと、車輪をしらなかったことなどがあげられますが、逆にこれらの条件なしで、あれ程の文明が生まれたことに驚嘆します。また、古代アメリカ文明は、16世紀までまったく孤立して存在していたため、今日の文明の発展に貢献していない、まったく異質な文明という意識があるかもしれません。しかし、今日われわれが食べている食物の6割が中南米原産であり、それは中南米の人々が何千年もかけて開拓した食物であり、したがって中南米の文明はわれわれの食生活を支配しているという事実を知らねばなりません。
 古代アメリカ文明については謎が多く、まだまだ未解明な部分が多いようです。オリエント文明やインダス文明について、30年くらい勉強していなくても、それ程研究内容は変化していないと思いますが、古代アメリカ文明については、30年もたてばかなり新しい知識が追加され、見解そのものも変化している可能性があります。また、オリエント文明に関しては、何か新しい発見があるとマスコミでも取り上げられますが、古代アメリカ文明については、あまり取り上げられないため、われわれも知らないままに終わってしまいます。本書自体は、遺跡の観光案内のために書かれた本ですので、あまり立ち入った説明は在りませんでした。
われわれは、古代文明というものを四大文明の基準で考えることに慣れすぎていて、古代アメリカ文明について学ぶたびに驚き、発想の転換を迫られます。われわれは、「四大文明」という発想から抜け出すためにも、古代アメリカ文明を学ばなければならないと思います。中南米に関して、まだ読んでいない本が20冊ほど書棚にあります。どれもかなり古い本ではありますが、興味を抱いた本があれば、また取り上げたいと思います。


2014年8月3日日曜日

炎のアンダルシア

この映画は、このブログの「映画でイスラーム世界を観る」の続編で、時代的には「ロスト・キングダム」と「ハーフェズ ペルシャの詩」の間に入ります。
1997年制作のエジプトの映画で、舞台は12世紀におけるスペインのコルドバ、主人公はイスラーム世界が生んだ偉大な哲学者の一人であるイブン・ルシュド(ラテン名アヴェロエス)です。この映画を理解するには、幾つかの背景を知っておく必要があります。
まず、スペインの歴史から述べたいと思います。スペインは、地理的に見て、ピレネー山脈を隔ててヨーロッパ大陸とつながり、北と西は大西洋、東は地中海に臨み、南は狭い所で幅14キロのジブラルタル海峡を隔ててアフリカに繋がります。まさに民族と文明の十字路ともいうべき位置にあります。イベリア半島は紀元前3世の終わり頃ローマの支配下に入り、この時代に言語や文化がラテン化していきます。5世紀にゲルマン民族が侵入し、この間にローマ・カトリックを受け入れますが、8世紀初頭にイスラーム教徒のアラブ軍がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入して半島の大半を占領し、以後800年近くイベリア半島はイスラーム勢力の支配下に置かれます。この長期に及ぶイスラーム教徒による支配がスペインの歴史に大きな影響を与えたことは、言うまでもありません。
スペインに侵入した時のイスラーム世界はウマイヤ朝の時代でしたが、8世紀半ばにウマイヤ朝が滅びてアッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝の一族がスペインで自立して後ウマイヤ朝となります。以後、後ウマイヤ朝は11世紀まで存続しますが、この間に首都コルドバは東のバグダードとともに、イスラーム文明の中心の一つとして繁栄します。しかし文明の繁栄は宗教の形骸化を生み、その結果北西アフリカのベルベル人の間に宗教的な革新を求める動きが高まり、ムラービト朝が成立します。当時イベリア半島では、後ウマイヤ朝の滅亡後、幾つもの勢力が乱立して対立を繰り返しており、さらにキリスト教勢力も力をつけつつありました。そこで、イベリア半島のイスラーム教徒は、ムラービト朝に事態の収拾を要請し、その結果ムラービト朝がイベリア半島に進出します。ところが、やがてムラービト朝でも宗教が形骸化したため、北西アフリカで新しい宗教運動が起きてムワッヒド朝が成立し、イベリア半島にも進出します。この映画の舞台は、12世紀におけるムワッヒド朝時代のイベリア半島です。

ウイキペディア



































次に、日本語のタイトルにあるアンダルシアについて述べたいと思います。狭義のアンダルシアとは、今日のスペイン南部にあるアンダルシア自治州のことですが、広義にはイスラーム教徒の支配下にあるイベリア半島のことで、イスラーム勢力からみれば、一時はイベリア半島のほとんどがアンダルシア(アル・アンダルス)でした。ここでは、狭義のアンダルシアについて述べます。アンダルシアは乾燥し、まばゆい太陽の輝く典型的な地中海性の気候で、シェリー酒の産地で、フラメンコと闘牛の発祥地であり、われわれがイメージする最もスペイン的な土地です。アンダルシアは最後までイスラーム教徒の支配が残った地域で、さまざまな民族が混在していました。在来のスペイン人はもちろん、征服者であるアラブ人、後に侵入してくるベルベル人(ムーア人)、ジプシー(*ロマ)、さらにユダヤ人がいました。イスラーム教は宗教的に寛大だったため、多くのユダヤ人がさまざまな分野で活躍していました。後に彼らはスペインから追放され、セファルディムと呼ばれて各地に散って行きますが、これについては「映画でヒトラーを観て 戦火の奇跡」を参照して下さい。
  「ジプシー」は差別用語であることから、しばしば「ロマ」という表現が使用されますが、「ロマ」はジプシーの一種族名であるため、「ロマ」を使えば他の種族を差別することになります。したがって、ここではあえて「ジプシー」という言葉を使用したいと思います。
 アンダルシアには歴史的に重要な都市が3つあります。一つはセビリアで、16世紀以来アメリカ大陸との独占的な貿易港として繁栄しました。もう一つはグラナダで、イベリア半島のイスラーム勢力の最後の拠点であり、スペインのイスラーム文化の粋ともいうべきアルハンブラ宮殿が建てられますが、1492年にグラナダはキリスト教勢力により陥落します。そして最後は、この映画の舞台となったコルドバです。コルドバは、後ウマイヤ朝の首都としてバグダードとともにイスラーム文化の中心地として繁栄し、10世紀には世界最大の人口を擁する都市となります。11世紀に後ウマイヤ朝が滅びた後にも、コルドバは文化の中心であり続けます。そしてそのコルドバで、この映画の主人公イブンルシュド(アヴェロエス)が誕生します。
 イブン・ルシュドは、哲学者にして医学者であり、また法学者としてコルドバの大法官にもなります。しかし、何と言っても彼は哲学者として、ヨーロッパ哲学に圧倒的な影響を及ぼすことになります。イスラーム哲学は古代ギリシア哲学の影響を強く受けており、イブン・ルシュドは何よりも、古代ギリシアのアリストテレス哲学の註解者として重要な役割を果たします。私には、彼の哲学を論じる能力はありません。ただ映画との関係で一言いえば、従来の神秘主義的な直観(新プラトン主義)や狂信・迷信に対して、人間の知性を重視したということです。神の存在さえも知性で証明できる、ということだと思います。このような考え方は、当然異端視されますが、やがてこの思想がスペインからヨーロッパに伝わり、ヨーロッパの思想に決定的な影響を与えることになります。ヨーロッパの哲学はイスラーム哲学から学んで生まれたのであり、ヨーロッパは古代ギリシアのアリストテレスをイスラーム哲学、とりわけイブン・ルシュドから学んだのです。

 映画は、南フランスのある町で、イブン・ルシュドの本を翻訳した人物が異端として火刑となり、イブン・ルシュドの本も焚書(焼却)となっている場面から始まります。そしてこの異端者の息子ジョセフは、イブン・ルシュドから学ぶためにスペインに向かいます。しかしスペインでも、イブン・ルシュドは苦境に陥っていました。スペインでも狂信者たちがイブン・ルシュドの著作を異端であると叫んでいたからです。彼らはイブン・ルシュドを陥れようといろいろ手を尽くし、次第に彼は追い詰められていきます。
 カリフはイブン・ルシュドの親友でしたが、やがて狂信者の諫言に惑わされ、イブン・ルシュドの著書の焚書を命じます。ジョセフはそれを察知して師の著書を守り、他の弟子たちとともに師の膨大な著書の写本を三部つくります。当時はまだ印刷機がなかったので、すべて書き写すことになります。そして一部はフランスに、もう一部はカイロに送ることにしました。当時バグダードは衰退し、イスラーム文明の中心はカイロに移ろうとしていました。ジョセフは著書をヨーロッパに持ち込もうとしますが失敗し、再び師のもとに戻ります。そして、結局イブン・ルシュドの著書は焚書となり、彼はモロッコに追放されます。映画では、最後にカリフが過ちに気づいてイブン・ルシュドを許したところで終わりますが、実際には彼は追放先のモロッコで死にます。
 この映画の原題は「運命」ですが、日本では分かりにくいということから、「炎のアンダルシア」という名に変更されました。実は、私もこの映画での「運命」の意味がよく分かりませんでしたが、「炎のアンダルシア」というタイトルの方がもっと分かりません。この映画には色々な側面が同時並行的に語られ、全体像を整合的に把握するのが難しい映画でした。映画はフランスでの焚書に始まり、コルドバでの焚書で終わります。しかし、彼の著書はイスラーム世界に広く伝えられ、さらに13世にはヨーロッパで翻訳されて、ヨーロッパの思想に絶大な影響を与えます。これが「運命」なのかもしれません。
 彼は、何よりも知性を重視し、思想・言論の自由を主張しましたが、そのために狂信者たちに目の敵にされます。こうしたことは、彼の時代だけでなく、世界中のどの時代にもあることです。何よりもこの映画が制作された当時のエジプトがそうでした。1990年代のエジプトで、イスラーム主義の過激派が国内で政府の役人や外国人観光客らを標的にしたテロを続発させていました。観光客を標的にしたのはエジプトの重要な歳入源である観光収入をテロによって激減させ、経済に打撃を与え、それに伴う政府への不満をあおって政府を転覆させようという意図によるものです。1997年にはカイロのエジプト考古学博物館の前に止まっていた観光バスが襲撃され、ドイツ人観光客ら10名が死亡、さらに2か月後にルクソールで起きた事件では、犯人たちが観光客に銃を乱射し、日本人10名を含む61名の観光客が死亡しました。この映画には、こうした狂信的な集団に対する批判も込められていると思われます。そしてこの映画の最後の画面に、「思想には翼がある。その羽ばたきは誰にも止められない」という字幕が掲げられます。そして、これが「運命」なのかもしれません。

 ドラマにはさまざまな伏線があります。イブン・ルシュドの弟子たちの物語、宰相の陰謀、ジプシーの女と王子との恋などです。さらにインド映画「ムトゥ」のような音楽とダンスが何度も登場します。それは「ムトゥ」のように底抜けに明るいものではなく、哀愁に満ちているとともに、民衆の活力に満ちた歌とダンスです。「映画でイスラーム世界を観る アフガン零年」でみたように、今日も含めて狂信的なイスラーム主義者たちは文化を否定する傾向がありますが、文化というものは人間の生活に不可欠なものなのだ、と言いたいのではないかと思います。そして、この歌とダンスが、さまざまな事件や複雑な人間模様を結びつける接着剤となっているように思いました。
 イブン・ルシュドは1198年に死に、1236年にコルドバはキリスト教勢力であるカスティーリャ王国により占領されます。そしてスペインは、イブン・ルシュドの思いとは異なり、宗教的な狂信へと走り、スペインからイスラーム教徒もユダヤ教徒も追放し、非妥協的な宗教的浄化政策を推進するようになります。これも運命かもしれません。しかし、この時代に建てられた多くの建造物が、コルドバ歴史地区として世界遺産に認定され、今も当時の面影を残しています。

 この映画は、幾分分かりにくいとはいえ、非常に面白い映画でした。特に歌とダンスには、心を揺さぶられるものがあり、一見の価値があります。


「エル・シド」

 1961年のアメリカの映画で、スペインを舞台とした武勲詩を題材としています。「炎のアンダルシア」と内容的には直接関係ありませんが、イブン・ルシュドより100年程前のイベリア半島を舞台としていますで、ここで取り上げてみました。
















 11世紀末のイベリア半島の情勢。地図はグーグル・アースを用い、境界線は私が書いたので、いいかげんです。当時はまだ、ポルトガルという国もスペインという国も存在しません。ポルトガルが建国されたのは12世紀で、スペインは15世紀後半にカスティーリャ王国とアラゴン王国が合併して成立しました。またマドリードが首都となるのは16世紀です。












イベリア半島では、1031年に後ウマイヤ朝が滅びると、イスラーム教勢力は小王国に分裂し、それに対して北部でキリスト教勢力が復活してきます。キリスト教勢力でも、色々な勢力が興亡・合併・分裂を繰り返しますが、この映画の舞台となったのはカスティーリャ王国です。カスティーリャ王国は1037年に成立し、イスラーム勢力が混乱しているのに乗じて領土を広げ、1085年にはトレドを占領し、さらに領土を拡大しようとします。トレドはコルドバと並ぶイスラーム文化の中心地の一つで、カスティーリャ王国がこれを手に入れたことで、キリスト教世界は高度なイスラーム文明を吸収する窓口を手に入れたことになります。トレドには一大翻訳所が設けられ、大量のアラビア語文献がラテン語に翻訳されるようになり、それがヨーロッパにもたらされたわけです。
このようなカスティーリャ王国の勢力拡大に対し、分裂していたイスラーム勢力は、当時北アフリカで勢力を拡大していたベルベル人のムラービト朝に援助を求めます。それに応えてムラービト朝軍はイベリア半島に上陸し、1086年にカスティーリャ軍を破ってキリスト教勢力をトレドまで後退させます。この結果、トレドを境にイスラーム勢力とキリスト教勢力が対峙することになりますが、エル・シッドが活躍したのは、こういう時代でした。「エル・シッド(エル・シド)」とは、アラビア語のアンダルス方言で「主人」を意味し、この時代には身分の高い人物への敬称として用いられていたそうです。彼の本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールで、カスティーリャ王国の武人でした。
 エル・シッドについては、12世紀後半に成立した「わがシッドの歌」という武勲詩があり、ヨーロッパでは非常によく知られた人物です。ただ、この武勲詩と映画の「エル・シド」と、史実として知られるエル・シッドとの間には微妙な違いがあり、ここでは史実として知られるエル・シッドについて述べたいと思います。武勲詩では、エル・シッドはイスラーム教徒と戦う英雄であり、君主に忠実で正義を貫く騎士として描かれます。しかし当時のイベリア半島は、イスラーム勢力もキリスト教勢力もばらばらに分裂しており、時にはイスラーム勢力の君主がキリスト教勢力の君主と手を組んで、共通の敵(イスラーム教徒であろうとキリスト教徒であろうと)と戦うということは、よくあることでした。イスラーム教徒とキリスト教徒はいつも戦っていたわけではなく、普段は親しく交流が行われていたのです。
 ロドリーゴは、カスティーリャ王国のサンチョ2世に仕えていたのですが、国王が暗殺され弟がアルフォンソ6世として即位すると、彼はアルフォンソ6世がサンチョ2世を暗殺したのではないかと疑ったため、彼はアルフォンソ6世によって追放されます。この間に彼はイスラーム教徒の領主を助けたため、この領主からエル・シッドと呼ばれるようになり、追放後彼はこの領主のもとに身を寄せます。やがて彼のもとに多くの騎士が集まり、イスラーム教徒などとともにバレンシアを攻略し、彼はそこの領主となります。映画では、ベルベル人(ムーア人・ムラービト朝)がバレンシアを攻撃し、戦闘中にエル・シッドは重傷を負い、彼の遺言で死後彼の遺体を馬に乗せて軍隊の先頭に立って走らせます。その結果ベルベル人は恐れをなして逃げていく、という話です。しかし事実は、すでに生前から「わがシッドの歌」が出回っており、彼はそれを嬉しそうに聞きながら死んでいったということです。

 あまり感銘を受ける映画ではありませんでしたが、当時のスペインの状況を知る上では、大変参考になりました。エル・シッドが死んだのが1099年、1126年にイブン・ルシュドが誕生し、1198年に死にます。この間イベリア半島北部でキリスト教勢力が拡大し、アンダルシアでは、北アフリカからのベルベル人が進出し、キリスト教勢力と対峙します。イベリア半島の勢力図が大きく変わろうとしていた時代でした。


















2014年7月28日月曜日

黄金マクワウリ

 今年は試に黄金マクワウリの苗を2本だけ植えてみました。最初の1個は収穫するのが早すぎて、キューリの様な味でした。そこで次は、収穫してからしばらく間をおいて熟させてから食べようと思ったのですが、マクワウリはメロンと異なり追熟ができないので、落ちるまで熟させる必要があるようです。慌てて食べてみましたが、前回よりはウリらしい味になっていました。まだ4個なっているので、次こそ失敗のないようにしたいと思います。



 今年は4種類のカボチャの苗を植えたので、4種類のカボチャができました。ウリと異なり、カボチャは収穫してから3週間以上おいておく必要があるそうです。先日、待ちかねて食べたら、まだ水っぽかったです。作物はそれぞれ性質が異なり、難しいですね。今年はカボチャは豊作で、まだ次々と実をつけつつあります。現在サツマイモも栽培中ですが、庭中カボチャとサツマイモの蔓で、足の踏み場もありません。




 栗が20個ほどなっています。去年初めて3個なったのですが、中の実が成熟していませんでした。今年は肥料を大量に与えたので、もしかしたら実も成熟するかもしれません。20個あれば栗ご飯ができます。なお、桃は実をつけたのですが、縮葉病にかかり、結局実は梅干しみたいになって終わりました。縮葉病を避けるためには、冬に予防薬を散布しておく必要があるようです。







2014年7月20日日曜日

海賊のこころ

門田修著 筑摩書房 1990
「スールー海賊訪問記」というサブタイトルがついています。著者の門田氏は、「漂海民」に憧れて、インド洋や東南アジアの海で彼らと生活をともにし、また「海賊」なるものにこだわり続けた人物で、私のような「小心」な人間には到底真似できないことです。














スールー諸島(ウイキペディア)

スールー海は、フィリピン南部のミンダナオ島からボルネオにかけての島々で、一応フィリピン領ではありますが、フィリピン政府の統治がほとんど及んでいない地域のようです。15世紀半ばにマラッカ王国からアラブ人がここに王国を築き、この王国は実に19世紀末にアメリカに併合されるまで続きます。この王国の宗教はイスラーム教であり、アラビア語を公用語とし、中継貿易で繁栄し、海賊行為も行っていました。





 陸を移動して暮らす人々がいるように、海を移動して暮らす人々がいます。彼らは船を住居として暮らし、漁業を生業とし、時には商業を行い、時には海賊行為も行います。我々が従来学んできた歴史は、陸の権力者の歴史であり、海に生きる人々は無視されてきました。しかし最近海のネットワークが注目されてきたことから、漂海民についても注目されるようになってきました。今日では、漂海民が生きていける場所はずいぶん減り、海賊もずいぶん減りました。それでも、スールー海、マラッカ海峡、ソマリア沖などは、今日でも海賊が出没しますが、マラッカ海峡では周辺国の協力により、ずいぶん海賊が減ったようです。最近ではソマリア沖の海賊が激増しており、スールー海の海賊事件数はソマリア沖の海賊事件数に一位の座を譲ったようです。
 海賊というと「パイレーツ・オブ・カリビアン」に登場するような海賊を想像しがちですが、本書によると、スールー海の海賊は少し違うようです。筆者は何人かの海賊にインタビューをしていますが、彼らは海賊行為や殺人にほとんど罪悪感をもっておらず、強い者が弱い者を倒して物を奪う行為を、自然の行為と考えているようです。しかも、スールー海の海賊は、主に貧しい地元の漁師を襲います。漁で獲った魚や貝を、またそれを売って得た金を奪い、時には命も奪います。
 なぜ彼らは海賊となったのか。貧困によりやむを得ず海賊を行うという説明があります。しかし著者の聞き取り調査では、親族に海賊がいたから海賊になったというケースがほとんどのようです。彼らは国家などはまったく信用せず、親族の繋がりのみを重視します。したがって親族やそれと関わる人は決して襲いません。著者が海賊に会うことができたのも、親族の繋がりに頼ったからでした。また、海賊行為はヨーロッパの侵略に対する反抗という見方がありますが、海賊行為はヨーロッパの進出以前からあり、それが現在一つの要因となっているとしても、本来の原因とは思われません。
結局著者の結論は次のようです。「弱い者は襲われてもしょうがない」「こんな海賊たちの非人道的な考え方、いや、感じ方は人間を生態系の一部として見做す意識が強いからではないだろうか。海底にころがるナマコや海面を走るアカエイや、ジンベイザメや、動かない珊瑚虫と同じように人間を観察するのだ。それら命あるものは、海で生きる者にとって採集の対象物である。人間もまた例外ではない。生命は護るべき、慈しむべきものでなく、狩り獲り利用すべきものなのだ。そのあとは熱帯の太陽が再生産してくれる。バランスが崩れない程度の採集を行っている。自然を熟知した者の行いだ。」

このような著者の結論が正しいのかどうか分かりません。人間は魚ではないので、ただ弱いから殺され奪われた、ですむのでしょうか。今一つ納得のいかない結論でしたが、人間の営みには、こうした側面もあるのだとは思います。


私が愛した春日野道

  私は、仕事の関係で神戸で4年間を過ごしました。私にとっては名古屋との間を行き来する苦しい日々でしたが、20113月に神戸を去るに当たって、この文章をブログに投稿し、まもなくブログを閉鎖しました。したがってこれが大学のブログでの最後の投稿となります。

私は、神戸に滞在している間ずっと、夕食を春日野道の商店街で食べてきました。神戸製鋼があった時代には、春日野道は映画館や風呂屋が何軒もある繁盛した町だったそうですが、今はすっかり寂れてしまいました。総じて、このあたりの商店に共通しているのは、経営者が高齢化して後継ぎがおらず、そのために商売にあまり欲がなく、商店街の中でお互いに店を訪問し合って成り立っている感があります。ということは、外からの新しい客が非常に少ないということです。私などは、この商店街では数少ない新顔の客ということになります。
 私が一番よく行く店は、この商店街のなかほどにある「大関」という居酒屋です。というのは、この店のママの両親が以前魚屋をやっていたため、魚が新鮮だということ、また注文に応じて何でも作ってくれるからです。一人暮らしをしていると、病気になった時に食べるものがなくて困るのですが、よくここでお粥や雑炊を作ってもらいました。いわばこの店は私のダイニングのようなところです。この店は、基本的にはママが一人で経営しているのですが、時々ご主人やママのお母さんが手伝いに来ます。このお母さんは肺癌で手術し、すでに80歳を越していますが、今も元気そのものです。
 この店の隣に、「足立時計店」があり、80歳を越した老夫婦が経営しています。この老夫婦に腕時計の電池交換をしてもらうのは心痛むものがありますが、本人は40年間時計屋をやっているので、どんな時計でも修理できるというのが自慢です。でも今時、時計を修理する人なんているんでしょうか。その隣に、名前は忘れましたが、タバコ・酒屋があります。こここのお爺さんは大変元気者で、息子さんが後を継いでいます。とは言っても、お爺さんが80歳を過ぎていますので、後継者も決して若いとは言えません。「大関」の向かいに「勉強堂」という古本屋があり、ここのおばあさんがタバコ屋のお爺さんの同級生だそうです。この「勉強堂」は息子さんが経営しており、私はかなり沢山の本を買ってもらいました。古本屋のホームページには、よく本を直接とりにいきます、と書いてあるのですが、実際には100冊や200冊の本では来てくれません。しかしここのご主は、私を車に乗せて気持ち良く学校まで本を取りに来てくれ、大変助かりました。
 「大関」の裏に「まねき寿司」という寿司屋があります。ここの大将は68歳で、あと2年で開業して50年になるので、その時に引退すると言っています。この店は午後6時に開店し午前3時まで営業しています。以前は、バーのホステスなどが仕事の帰りに寿司屋に立ち寄ることがよくあったのですが、最近はそういう客もずいぶん減っていると思います。でも大将は、昔からのやり方なので、このまま続けると言っています。この町の商店主は頑固な人が多く、昔からのやり方を決して変えようとはしません。また、この店は出前をやっているのですが、出前をやる以上一人では経営できないので、バイトを雇っています。ところがこの大将は口が悪く、バイトを口汚く叱り飛ばしますので、すぐバイトが辞めてしまいます。今年の正月には、「今年は怒らないと決めた」と言っていましたが、言っている先から怒っていました。現在バイトが一人、かろうじて続いていますが、はたしてこの店はあと2年続くのでしょうか。
「大関」から少し南へ下がったところに「中川」という洋食屋があります。ハンバーグ、カレー、シチューなどをおいている、昭和の初期の洋食屋を思わせるような店で、老夫婦が経営しています。ここは飲み屋ではないので、本来私がいくような店ではないのですが、一人暮らしをしていると、たまにこうした料理を食べたくなるのです。ボリュームが多く、たまに栄養をとるのに最適の店です。この店のマスターは無口で、あまり客の前に出てきません。なお、この店は日曜日が定休日で、こうした店は日曜日に家族連れが来るのではないかと言ったのですが、「昔からのやり方なので」と言って変更しようとしません。ここのマスターも頑固なおやじでした。
春日野道商店街の阪急駅に近いところに「東雲庵(しののめあん)」という蕎麦屋があります。私は蕎麦が好きなのですが、神戸には蕎麦屋がすくないため、よくここに食べにいっていました。ここの大将は変な人で、いろいろな仕事を転々としたのちに、30歳を過ぎてから蕎麦屋に弟子入りし、私が神戸に来る半年ほど前に春日野道で開店しましたそうです。それまで大将が修業していた店は元町にある「卓」という店で、経営者はここの大将より若い人で、なかなか腕のいい職人でした。どちらの大将も味には拘りがあるのですが、どうも神戸では蕎麦は好まれないようで、客の入りが今一なのが残念です。
「東雲庵」の向かいに「みくみ」というスナック風の飲み屋があります。ここのママは以前三宮でスナックを経営していたようで、客あしらいがうまく、私もストレスがたまった時には、しばしばこの店で飲んでいました。この店は三宮以来のなじみ客が多く、いつ行ってもなじみのお客さんがいます。お互いに名前を知らないのですが、結構お客さん同士で話が盛りあがっています。なお、私は今回引っ越しに当たって、この店のママに紹介してもらった業者にお願いしましたが、大変安い金額で引き受けてくれ、大変助かりました。
春日野道商店街の阪神駅に近いところに、「よろこんで」という寿司屋があります。若い夫婦(春日野道の他の店と比べて)で経営している寿司屋で、中に入ると大将が大きな声で「いらっしゃいませ」というので、まず驚かされます。そして注文すると「よろこんで」と答えます。ここはネタもシャリもやたらに大きく、私などは6貫も食べるとお腹がふくれてしまいます。また赤出汁はほとんど丼ぶりのような器に入っており、とても全部は飲めないので、いつも半分の量にしてもらっています。
 「大関」の近くにジパングという喫茶店があり、私はよくここでモーニングを食べます。この店も若い夫婦が経営しており、年中無休で朝7時から店を開いています。私は、職業柄なのか、若い人が頑張っているのを見ると応援したくなります。それだけではなく、私は新聞をとっていないので、毎朝喫茶店で新聞を読むのですが、ここは色々な新聞を置いているので好都合です。また、焼きたての卵焼きを挟んだサンドウィッチが、私のお気に入りです。
 私のマンションの近くに中央鍼灸院という治療院があります。ここは保険が使用できて、20360円という格安なので、以前よく行っていました。ところが、共済組合から病気でもないのに整体治療に保険を使うことはできないという通達があったため、あまり行かなくなりました。この治療院の先生はよく喋る人で、治療している間中喋り続けています。春日野道の噂話について色々教えてもらいましたが、もしかするとこの先生を通じて私の噂が春日野道中に広がっているのかもしれません。

 

2014年7月9日水曜日

ロシア映画「 アンドレイ・ルブリョフ」を観て

 この映画は「映画でロシア史を観る」の続編で、時代的には「アレクサンドル・ネフスキー~ネヴァ川の戦い」と「イワン雷帝」の間の時代です。この映画の舞台は15世紀初頭のモスクワ大公国であり、モスクワ大公国はまだモンゴル(キプチャク・ハン国=ジュチ・ウルス)の支配下にありましたが、この時代にはジュチ・ウルスは分裂状態に在り、そうした中でモスクワ大公国が自立化への道を歩み始めた頃でした(「映画でロシア史を観る」参照)。そして、主人公のアンドレイ・ルブリョフは、イコン(聖画像)の製作者で、私は彼について名前も知りませんでした。

 ところで、イコンとは何でしょうか。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教においては、誰も神の姿を見た者はいないのですから、神の姿を描いて拝むことは許されません。しかし、直接神の声を聴いた預言者は別として、多くの人間は何か具体的なしるしがないと、容易には信じることができません。そこで、イエス・キリスト、聖人、天使、聖書における出来事などを絵に描いて、それを拝むようになります。これはユダヤ教でもキリスト教でも行われていますが、イスラーム教は厳しくこれを禁じます。ムハンマドは、キリスト教がイエスを神として祭り上げたことを批判し、ムハンマドは崇拝の対象でないことを厳命し、したがってムハンマドの絵を描くことも禁止されました(映画でイスラーム世界を観る)
 これに対して、ローマ・カトリック教会もギリシア正教も聖画像を認めており、普通「イコン」という場合、ギリシア正教とそれを受け継いだロシア正教会のものを指しますので、ここではイコンについてのみ話します。正教会では、崇拝の対象はイコンそのものではなく、イコンの現像あり、「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」と説明されます。つまりイコンは崇拝の対象ではなく、崇拝の媒介であり、人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる、ということです。こうした議論は、私のような部外者には何と無くこじつけのよう聞こえ、この点に関してはイスラーム教の方がはるかにすっきりしているように思えます。

 イコンがこのようなものであるとするなら、イコンを描く画家は単なる職人であってはなりません。ウイキペディアによれば、「真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く」ということです。

 ここでようやく本論に入ることができます。イコン画家リブリョフは禁欲的な僧侶であり、イコン画家としての技量は広く認められていましたが、彼自身は自らの描くイコンに納得していませんでした。当時のイコンは、威圧的なイメージで描くことで人々を恐れさせ、信仰を守らせようとする傾向がありましたが、リブリョフはもっと心を癒す慈愛に満ちたイコンを描くべきだと考えており、そうした迷いのためにイコンを書けなくなっていました。この間に、混乱するモスクワ大公国において、多くの悲惨な事件に遭遇し、彼は悩み苦しみます。そして、たまたま戦乱の中で一人の兵士を殺してしまいます。もちろん戦乱中ですから、兵士を殺しも罪に問われることはないのですが、僧侶としては殺人は許されませんし、血で汚れた手でイコンを描くことなどできません。そこで彼は自らへの罰として、絵筆を折ることと無言の行を行うことを誓います。


 この間に彼は一人の佯狂者(ようぎょうしゃ)に出会います。佯狂者とは正教会の聖人のことで、ぼろをまとって徘徊する聖人のことで、これもウイキペディアによれば、「佯」とは見せかけの意であり馬鹿を装いキリストの真理を明らかにする者、だそうです。こうした人々はロシアの歴史にしばしば登場し、このブログの「映画でロシア史を観る バトル・キングダム」で触れた聖ヴァシリ大聖堂は、佯狂者ヴァシリに因む教会です。この映画に登場する佯狂者は少女で、少し知能が低いのではないかと思われますが、純粋無垢な少女でした。彼女が本当に佯狂者であったどうか分かりませんが、少なくともルブリョフは彼女の中に信仰のあるべき姿を見出します。

至聖三者(ウイキペディア)

 その後10年以上の歳月が流れ、ある事件をきっかけに彼は無言の行を止め、絵筆をとることを決意します。この絵は彼の代表作で、「至聖三者」というタイトルがついています。率直に言って、私はこの絵の真価を理解できません。旧約聖書でアブラハムの前に現れる三人人の天子を描いたものだそうで、三人の天子が一つとなって神の姿が暗示されているのだそうです。西欧でのルネサンス以来の写実主義に毒された私には、こうした絵の価値を理解することができません。ミケランジェロは、システィナ礼拝堂の天井壁画「天地創造」で、何と神の姿を描いています。下の絵が、ミケランジェロが描いた神の顔で、私にはこちらの方が分かりやすいのです。








ミケランジェロ「天地創造」(ウイキペディア)





















 この映画が完成されたのは1966年でしたが、ソ連で上映されたのは1971年でした。ソ連当局によれば、残酷な場面が多い、人民に力強さがない、などの理由で上映が許可されなかったそうです。しかし、この映画はルブリョフが生きた時代を通してルブリョフが芸術家として成長する過程を描いたものですので、残酷な場面や哀れな人民の姿は不可欠でした。結局、205分あった本編を185分に短縮して公開されることになりました。ところが、この映画は一般公開の前に試写会で一部の映画専門家などから高い評価を受けており、1699年のカンヌ映画祭で、ソ連の出品要請がないにも関わらず、映画祭の最後の日に招待作品として上映され、高い評価を得ました。

 この映画は私には理解できない部分がかなりありましたが、それでも一人の芸術家が苦悶しつつ成熟していく姿は、私にとっても興味深いものでした。すこしニュアンスが異なりますが、2004年の「真珠の耳飾りの少女」という映画は、フェルメールがこの絵を描く背景を想像して描いた映画で、大変面白い映画でした(グムーバル・ヒストリー 第19章 17世紀 オランダの世紀」を参照) ルブリョフの生涯についてはほとんど知られていませんので、映画は、当然彼の残した作品から彼の苦悶を想像して生まれた創作だと思われます。

モンゴル帝国とモスクワ(山川世界総合図録)

 常に「歴史」という視点で映画を観る私にとっても、この映画は興味深いものでした。モスクワ大公国については、15世紀末のイヴァン3世以前につい以外にはほとんど知りませんでしたので、この映画は参考になりました。特に興味深かったのは、モンゴル人(タタール)との関係です。モスクワ大公の地位をめぐって兄弟が争い、弟がタタール人と結んで兄を倒そうとします。映画では、ロシア人よりモンゴル人の方が洗練されて描かれており、むしろロシア人が野蛮に描かれているように思われます。この点もソ連当局の気に入らない点だったのかもしれませんが、それは当時にあっては事実であったと思います。ロシア人は、「タタールの軛」という言葉で「野蛮なモンゴル人」による支配を表現しようとしますが、それは間違いです。
 モスクワは、広大なモンゴル帝国の西北のはずれ、まさに辺境の地であり、それに対してモンゴル帝国は、イスラーム世界と中国という二つの文明圏を内部に抱えていたのです。やがてロシアは西欧に再度接近を図りますが、常にロシアにはアジアとヨーロッパという二つの顔が存在し続けました。



2014年7月8日火曜日

その後の「動物園」

以前私は、大学のホームページでの自己紹介で、「私の出会い」というタイトルの文章を書きました。

掘立小屋が並んでいるだけの動物園















動物とは自由に触れ合うことができます















かなり汚い動物園です


















犬と猿が共存しています
















 「旅には色々な出会いがあります。私は紀伊半島の旅が好きで、よく42号線を車で走りました。この道路の途中の紀伊長島の近くに、「動物園」という名前の不思議な動物園があります。当時(今から10年以上前)60歳を過ぎた「オジサン」が一人で経営している動物園で、入場料はわずか200円、客も少なく、どうやって経営しているのか不思議に思っていました。でも、私はこの動物園が何となく好きで、42号線を走る際には、必ず立ち寄り、何も語らず立ち去っていました。
ところが、あるときこの「オジサン」が、突然私に身の上話を始めたのです。自分は小学校のときに遠足で伊勢神宮に行き、そこで大きなガマガエルを見た。このガマガエルを自分で飼ってみたいと思ったのだが、伊勢神宮までは遠かったので、まず新聞配達をしてお金をため、自転車を買って伊勢神宮に行き、ガマガエルを捕まえた。これをきっかけに色々な動物を飼い始めるようになった、というのです。
この話を聞いて私は、私がこの動物園に不思議な魅力を感じていた理由を理解しました。この「オジサン」は動物園を経営しているのではなく、単に本人が色々な動物を飼いたくて、それが結果として動物園になっているだけだということ、したがって、この動物園は実は動物園ではなく、「オジサン」と動物が一緒に生活する「場」だったのです。だから私は、この動物園に不思議な魅力を感じていたのです。
この「オジサン」が、突然、私に身の上話を始めた理由は分かりません。さらに10年近くこの動物園には行っていませんので、現在この動物園がどうなっているのかも分かりません。この機会に、この動物園を再建するプロジェクトを立ち上げたいとも思うのですが、この「オジサン」は相当偏屈な人なので、私の言うことなど聞いてくれないでしょう。」

整然とした綺麗な動物園になりましたが、動物の気配がしません
















 実は2年前(2009)3月に、久しぶりにこの動物園を訪問しました。ところがこの「オジサン」は、前の年の12月、つまり4か月前に亡くなっていました。その後、「オジサン」のただ一人の協力者だった奥さんは、一人では動物園を経営できないので、実家のある鳥羽に帰ったそうです。そこで地元の人たちが話し合った結果、ボランティアによって動物園を維持することが決まり、また出資する人がいて、動物園はきれいに改築され、若いボランティアの人たちがせっせと働いていました。
 私はボランティアの女性に、「オジサン」は面白い人でしたね、と言ったら、「無茶苦茶な人でした」という答えが返ってきました。この動物園は、「オジサン」のいい加減な動物管理のため、しばしば動物が逃げ出して、近所の人たちに迷惑をかけていたようです。確かに動物が逃げ出すのは問題ですが、動物園がきれいになり、動物の管理がしっかり行われるようになった結果、この動物園の魅力が失われてしまいました。結局この動物園は、オジサンの、オジサンによる、オジサンのための動物園だったのです。