2014年7月9日水曜日

ロシア映画「 アンドレイ・ルブリョフ」を観て

 この映画は「映画でロシア史を観る」の続編で、時代的には「アレクサンドル・ネフスキー~ネヴァ川の戦い」と「イワン雷帝」の間の時代です。この映画の舞台は15世紀初頭のモスクワ大公国であり、モスクワ大公国はまだモンゴル(キプチャク・ハン国=ジュチ・ウルス)の支配下にありましたが、この時代にはジュチ・ウルスは分裂状態に在り、そうした中でモスクワ大公国が自立化への道を歩み始めた頃でした(「映画でロシア史を観る」参照)。そして、主人公のアンドレイ・ルブリョフは、イコン(聖画像)の製作者で、私は彼について名前も知りませんでした。

 ところで、イコンとは何でしょうか。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教においては、誰も神の姿を見た者はいないのですから、神の姿を描いて拝むことは許されません。しかし、直接神の声を聴いた預言者は別として、多くの人間は何か具体的なしるしがないと、容易には信じることができません。そこで、イエス・キリスト、聖人、天使、聖書における出来事などを絵に描いて、それを拝むようになります。これはユダヤ教でもキリスト教でも行われていますが、イスラーム教は厳しくこれを禁じます。ムハンマドは、キリスト教がイエスを神として祭り上げたことを批判し、ムハンマドは崇拝の対象でないことを厳命し、したがってムハンマドの絵を描くことも禁止されました(映画でイスラーム世界を観る)
 これに対して、ローマ・カトリック教会もギリシア正教も聖画像を認めており、普通「イコン」という場合、ギリシア正教とそれを受け継いだロシア正教会のものを指しますので、ここではイコンについてのみ話します。正教会では、崇拝の対象はイコンそのものではなく、イコンの現像あり、「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」と説明されます。つまりイコンは崇拝の対象ではなく、崇拝の媒介であり、人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる、ということです。こうした議論は、私のような部外者には何と無くこじつけのよう聞こえ、この点に関してはイスラーム教の方がはるかにすっきりしているように思えます。

 イコンがこのようなものであるとするなら、イコンを描く画家は単なる職人であってはなりません。ウイキペディアによれば、「真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く」ということです。

 ここでようやく本論に入ることができます。イコン画家リブリョフは禁欲的な僧侶であり、イコン画家としての技量は広く認められていましたが、彼自身は自らの描くイコンに納得していませんでした。当時のイコンは、威圧的なイメージで描くことで人々を恐れさせ、信仰を守らせようとする傾向がありましたが、リブリョフはもっと心を癒す慈愛に満ちたイコンを描くべきだと考えており、そうした迷いのためにイコンを書けなくなっていました。この間に、混乱するモスクワ大公国において、多くの悲惨な事件に遭遇し、彼は悩み苦しみます。そして、たまたま戦乱の中で一人の兵士を殺してしまいます。もちろん戦乱中ですから、兵士を殺しも罪に問われることはないのですが、僧侶としては殺人は許されませんし、血で汚れた手でイコンを描くことなどできません。そこで彼は自らへの罰として、絵筆を折ることと無言の行を行うことを誓います。


 この間に彼は一人の佯狂者(ようぎょうしゃ)に出会います。佯狂者とは正教会の聖人のことで、ぼろをまとって徘徊する聖人のことで、これもウイキペディアによれば、「佯」とは見せかけの意であり馬鹿を装いキリストの真理を明らかにする者、だそうです。こうした人々はロシアの歴史にしばしば登場し、このブログの「映画でロシア史を観る バトル・キングダム」で触れた聖ヴァシリ大聖堂は、佯狂者ヴァシリに因む教会です。この映画に登場する佯狂者は少女で、少し知能が低いのではないかと思われますが、純粋無垢な少女でした。彼女が本当に佯狂者であったどうか分かりませんが、少なくともルブリョフは彼女の中に信仰のあるべき姿を見出します。

至聖三者(ウイキペディア)

 その後10年以上の歳月が流れ、ある事件をきっかけに彼は無言の行を止め、絵筆をとることを決意します。この絵は彼の代表作で、「至聖三者」というタイトルがついています。率直に言って、私はこの絵の真価を理解できません。旧約聖書でアブラハムの前に現れる三人人の天子を描いたものだそうで、三人の天子が一つとなって神の姿が暗示されているのだそうです。西欧でのルネサンス以来の写実主義に毒された私には、こうした絵の価値を理解することができません。ミケランジェロは、システィナ礼拝堂の天井壁画「天地創造」で、何と神の姿を描いています。下の絵が、ミケランジェロが描いた神の顔で、私にはこちらの方が分かりやすいのです。








ミケランジェロ「天地創造」(ウイキペディア)





















 この映画が完成されたのは1966年でしたが、ソ連で上映されたのは1971年でした。ソ連当局によれば、残酷な場面が多い、人民に力強さがない、などの理由で上映が許可されなかったそうです。しかし、この映画はルブリョフが生きた時代を通してルブリョフが芸術家として成長する過程を描いたものですので、残酷な場面や哀れな人民の姿は不可欠でした。結局、205分あった本編を185分に短縮して公開されることになりました。ところが、この映画は一般公開の前に試写会で一部の映画専門家などから高い評価を受けており、1699年のカンヌ映画祭で、ソ連の出品要請がないにも関わらず、映画祭の最後の日に招待作品として上映され、高い評価を得ました。

 この映画は私には理解できない部分がかなりありましたが、それでも一人の芸術家が苦悶しつつ成熟していく姿は、私にとっても興味深いものでした。すこしニュアンスが異なりますが、2004年の「真珠の耳飾りの少女」という映画は、フェルメールがこの絵を描く背景を想像して描いた映画で、大変面白い映画でした(グムーバル・ヒストリー 第19章 17世紀 オランダの世紀」を参照) ルブリョフの生涯についてはほとんど知られていませんので、映画は、当然彼の残した作品から彼の苦悶を想像して生まれた創作だと思われます。

モンゴル帝国とモスクワ(山川世界総合図録)

 常に「歴史」という視点で映画を観る私にとっても、この映画は興味深いものでした。モスクワ大公国については、15世紀末のイヴァン3世以前につい以外にはほとんど知りませんでしたので、この映画は参考になりました。特に興味深かったのは、モンゴル人(タタール)との関係です。モスクワ大公の地位をめぐって兄弟が争い、弟がタタール人と結んで兄を倒そうとします。映画では、ロシア人よりモンゴル人の方が洗練されて描かれており、むしろロシア人が野蛮に描かれているように思われます。この点もソ連当局の気に入らない点だったのかもしれませんが、それは当時にあっては事実であったと思います。ロシア人は、「タタールの軛」という言葉で「野蛮なモンゴル人」による支配を表現しようとしますが、それは間違いです。
 モスクワは、広大なモンゴル帝国の西北のはずれ、まさに辺境の地であり、それに対してモンゴル帝国は、イスラーム世界と中国という二つの文明圏を内部に抱えていたのです。やがてロシアは西欧に再度接近を図りますが、常にロシアにはアジアとヨーロッパという二つの顔が存在し続けました。



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