2020年7月26日日曜日

「ベトナム戦争と私」を読んで


 石川文洋著 2020年、朝日新聞出版
筆者は、長年ベトナム戦争を撮り続けてきた写真家・ジャーナリストで、多分私も過去に、筆者の写真や文章を見たことがあるだろうと思います。私の世代の青春時代はベトナム戦争とともにあり、新聞には毎日「ベトコン」「北爆」「エスカレート」という言葉が躍っていました。
報道という観点から見た場合、ベトナム戦争は稀有な例です。どの国のジャーナリストだろうと、また戦争に批判的なジャーナリストだろうと、アメリカは彼らの取材活動に便宜を払い、自由に取材し報道させました。アメリカは、この戦いが自由と民主主義のための戦いだと信じており、この戦争を世界に知らせたいと思っていました。そのため、この戦争は戦争報道にとって画期的な意味をもっていました。しかし結果的には、多くの報道によりこの戦争の醜さを、世界に拡散することになります。今日でもアメリカは、ジャーナリストによる取材を歓迎していますが、それでもベトナム戦争時代に比べれば、相当制限していると思います。
「拷問を受けたり殺されたりする青年をカメラマンは何故、止めないで撮影していたのか」「傷ついた子を前に嘆く親に向かって、どうして何枚もシャッターが切れるのか」。筆者は、こうした疑問をしばしば投げかけられたそうです。実は、私もそう思っていました。これに対して、筆者はこう答えます。「可哀そうだからこそ、何枚もシャッターを切ったのである。傷ついた子供、親の悲しみ、そしてそのような状況つくりだしたアメリカ政府、村を攻撃した米軍への怒りがシャッターを押させる。もし、被害者たちが嫌がったら続けてシャッターは押せない。撮る方、撮れらる方の間に暗黙の了解があって成立したと思っている。写真には私の気持ちが表れている。」
いずれにしてもヴェトナムは、ジャーナリストやカメラマンにとっても、大きな試練だったのだと思います。

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