2016年4月27日水曜日

映画「楢山節考」を観て


映画は、深沢七郎の同名の著作(1956)1958年に映画化したものです。このブログの「映画で戦国時代を観て 笛吹川」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/02/blog-post_13.html)も深沢七郎の作で、どちらも悠久なる大自然の中に溶け込むように生きている人間を描いています。深沢七郎はギタリストで、42歳の時初めて書いた小説「楢山節考」が、多くの人々から激賞されました。三島由紀夫は、この小説について次のように言っています。「それは不快な傑作であつた。何かわれわれにとって、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる」(ウイキペディア)

1960年に発表された「風流無譚」は、天皇を侮辱しているとして右翼の激しい批判を受け、出版社の社長夫人などが殺傷されるという事件が起きました。そのため、その後深沢は長い放浪生活を送ることを余儀なくされました。一方、三島由紀夫はこれより10年後に、自衛隊の決起を呼びかけて割腹自殺しました。さまざまな価値観が激しく対立した時代でした。

 話が逸れましたが、映画の舞台は、山奥のさらに奥の小さな貧しい農村でした。ここでは食べていくのも困難な場所で、70歳を超すと口減らしのために年寄を山に捨てる(姥捨て)という習わしがありました。この村では、楢山という聖山に入る、という言い方をします。姥捨ての風習は世界各地にあり、日本でも信州にある冠着山(かむりきやま)が通称姥捨て山と呼ばれています。ただし、姥捨てについての伝承は残っていますが、資料的には確認できないようです。
 主人公はおりんと言う69歳の女性で、彼女には辰平という45歳の息子がおり、かなり前に嫁が死んだため新しく嫁をもらい、また辰平の長男が嫁をもらい、その嫁がすでに妊娠していました。口は増えていくばかりですので、おりんは年が明けたら楢山に入ることを決意していました。ある時、近所の12人家族の家が、長期間にわたって食べ物を盗んでいたことが判明し、村人たちに痛めつけられ、そしてある夜12人の家族が忽然と姿を消しました。村人たちに殺されたものと思われます。こうでもしなければ、村人たちは食べていけなかったのです。ある意味では、これは自然淘汰のようなものです。おりんは、楢山に入る決意を一層強くしたことでしょう。
 おりんには、不満な点が二つありました。一つは、歯が丈夫で、この年になっても歯が一本も欠けていないことでした。これでは村人たちに、丈夫な歯で沢山食べるのだろうと思われることが恥でした。そこで彼女は、自ら石臼に歯をぶつけ、前歯4本を折ってしまいます。これで彼女は、村人に後ろ指を指されずに、楢山に入ることができます。この歯を折る場面には、鬼気迫るものがありました。もう一つの不満は、息子の辰平が彼女を楢山に連れて行くのを嫌がっていることです。当然と言えば当然で、じっと目を瞑っている息子の目から涙が流れているを、彼女が見つめる場面は、表現のしようがありません。
 息子の決意を鈍らせないために、彼女は年が明ける前に楢山に入ることにしました。辰平の足取りは重く、彼女は早く進むように急かせます。楢山に入ると、至る所に白骨が転がっており、さらにカラスが飛び回っていました。この光景は、不気味というよりも、妙に美しく描かれていました。辰平が母を置いて帰ろうとした時、雪が降り始めました。楢山に入って雪が降ると、幸せであるとされていました。多分、一晩で凍え死ねるからだと思います。こうしておりんは、自分の意志を貫いて、死んでいくことになります。それは、十字架上のイエスのようでもあり、涅槃に入ろうとする仏陀のようでもありました。映画では、田中絹代がこの老婆の役を見事に演じていました。

 姥捨ての風習は、無慈悲で野蛮で残酷な因習であることは間違いありませんが、映画では、歌舞伎の手法が用いられ、ほとんどすべてオープン・セットで撮影され、全編に長唄や浄瑠璃が流れ、この悲惨な出来事を美しく描いていました。彼女は、村の掟に従うことで、家族の口を減らし、村の一員として誇りをもって死んでいくことができました。彼女は、たった一人で楢山で死んでいきますが、決して孤独ではありませんでしたし、むしろその死は崇高でさえありました。それでも、理性で考えれば、このような死は、欺瞞であり、社会矛盾の極みである、ということになるのでしょうが、理屈を超えて映画は美しく仕上げられていました。
















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