1956年にアメリカで制作された映画で、1934年の小説「炎の生涯 ファン・ゴッホ物語」を基に、ポスト印象派の画家ゴッホの半生を描いた映画です。ポスト印象派というのは、一概には言えませんが、19世紀後半に流行した光を重視する印象派を継承しつつ、より内面を描き出そうとする人々で、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどが代表的な人物です。それぞれ異なった目標を目指してはいましたが、19世紀絵画から20世紀絵画への橋渡しの役割を果たしたとされています。
ゴッホは、1853年にオランダの牧師の子として生まれました。幼いころのゴッホは、癇癪持ちで、扱いにくい子だったとのことです。16歳頃、叔父の勧めで画商に努めるようになりますが、やがて彼は職場でも両親とも対立するようになり、25歳頃伝道師になることを志して勉強を始めますが挫折し、伝道師の仮免許をもらってベルギーの炭鉱地帯で伝道活動を行います。そこで彼は、ありきたりの説法に飽きたらず、炭鉱の貧民たちとともに生活しますが、教会から宣教師の権威を卑しめるとして、解雇されます。
その後彼は各地を放浪し、さまざまな人々や風景をスケッチして回り、この頃から画家になる決意を固めていきます。1880年頃、ゴッホが27歳の頃でした。また、この頃から弟のテオから毎月仕送りを受けるようになり、この仕送りは生涯続くことになります。その後、ゴッホは各地を転々とし、多くの画家とも交友をもちますが、彼は僅かな意見の相違にも、自分が全否定されたと感じる傾向があり、交友関係は長つづきしませんでした。1888年にはゴーギャンと共同生活を始めますが、絵画についての意見が合わず、しだいにストレスをためていったようです。ある時、ゴッホが自分の耳を切り落とすという事件が発生し、これをきっかけに、ゴーギャンはゴッホのもとを去り、ゴッホは精神病院に入院します。その後、ゴッホは入退院を繰り返し、1880年に銃で自殺します。37歳でした。
ゴッホはなぜ自分の耳を切り取ったのか、彼の精神病がどのようなものだったのか、また彼はなぜ自殺したのか、いずれもはっきりしません。ただ、晩年の2年間は、ゴッホにとって最も多作な時代で、ようやく彼自身が望む絵が描けるようになっていたようです。そして、ゴッホの死の翌年に弟のテオが病死します。
ゴッホの絵は、すでに生前に評価されつつありましたが、テオの死後妻のヨーがゴッホの作品の展覧会を開いたり、ゴッホがテオに送った膨大な書簡を公表したりして、ゴッホの作品と人生を世に出す努力をしました。これにより、ゴッホの作品の価格が急騰するとともに、苦しみに耐えて自らの使命をまっとうした天才画家、というような伝説が生まれます。その代表的な例が、この映画の原作である1934年の小説「炎の生涯 ファン・ゴッホ物語」です。映画では、ゴッホは、ゴーギャンに「心が伝わるような画家」になりたいと述べ、そのために心も体も犠牲して死んでいきます。
映画は面白かったし、ゴッホが優れた画家であることは間違いないと思いますが、もう少し伝説を削ぎ落とした、ゴッホの実像を見たいと思います。
天才画家ダリ 愛と激情の青春
2008年のイギリス・スペインの合作映画で、タイトルに「天才画家ダリ」とありますが、この映画の主人公はダリではありません。ダリは1989年に85歳で死にますが、死の直前に、若い頃の友人ロルカについて語り、この映画はダリの思い出に基づいてロルカについて描いており、原題は「小さな灰」です。またサブタイトルの「愛と激情の青春」は、この二人の同性愛のことであり、相当誤解を招くタイトルです。
ダリといえばシュルレアリズムですが、シュルレアリズムについて、私にはまったく分かりません。それは、既成の秩序や常識に反抗し、「個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視」(ウイキペディア)するものだそうです。この絵はダリの作品で、ロルカが「小さい灰」と名付けました。この絵に描かれた生き物は、80年後にはみな死んでおり、灰になっているからだそうです。「小さい灰」が、この映画の原題ですが、映画の内容とどう関係があるのか、よく分かりません。
映画は、1922年のマドリードから始まります。当時のスペインでは、ブルボン朝が続いており、国王の専制、カトリックによる支配、地主制度の存続など古い体制がそのまま残っており、翌年には軍事独裁政権が成立して、言論の自由は徹底的に抑圧され、まさにどうにもならない状態にありました。このマドリードで、三人の青年が出会います。詩人で劇作家のロルカ、映画監督志望のルイス、自称天才画家のダリで、3人は親しい友人となり、お互いの芸術について熱く語り合います。やがてロルカとダリは特殊な感情を抱くようになり、キスを交わすまでになりますが、ダリはそれ以上の進展を望まず、パリに去って行きます。その後ダリとルイスは、シュルレアリズムの傑作と言われた「アンダルシアの犬」という映画を制作し、大変話題となります。その後、ダリはアメリカに渡って、芸術でも経済的にも成功し、ルイスはメキシコに帰化して多くの話題作を制作します。一方、ロルカは詩人として名声を得ると同時に、演劇活動も続けます。しかし、彼の自由主義的な思想のため、ファシストから危険視され、内戦が勃発すると、フランコ軍に捕らえられて処刑されました。その後、ダリはロルカについて一切語らなくなり、死の直前にロルカとの関係を告白したとのことです。
映画は、才能豊かな三人の青年が出会い、それぞれ屈折した思いを抱いてそれぞれの道を歩みました。しかし、結局この映画が何を言おうとしているのか、よく分かりませんでした。まして「アンダルシアの犬」などは、私の理解の外にあります。あるいは、もっと単純に、この映画はこの時代にスペインが被った悲劇について、述べているのかもしれません。
セラフィーヌの庭
2008年のフランス・ベルギーによる合作映画で、20世紀前半の北フランスでひっそりと絵を描き続けた女性画家の物語です。
彼女の名はセラフィーヌで、家族もなく、家政婦の仕事で日銭を稼いで暮らしていました。おそらく虐げられた人生を歩んできたことでしよう。彼女は、美しい自然の中で、木々や花々と一緒にいるのが、唯一の楽しみでした。そして、40歳を過ぎたころ、彼女は天使から絵を描くように命じられたそうです。しかし彼女には絵具を買う金がありませんでしたので、植物などから色々な色をつくり、板の上に直接絵を描いていました。ただ、「白」だけは作れなかったため、「白」の絵具だけは、お金を貯めて買っていました。
1912年、彼女が働いている家に、ドイツ人の画商ウーデが滞在するようになります。彼はピカソを見出した審美眼のある画商で、セラフィーヌの絵の見事さに驚き、もっと描くように勧めます。しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると、フランスとドイツが戦争状態になったため、彼はドイツに帰らざるを得ませんでした。その後も、彼女は、苦しい生活の中で絵を描き続け、1927年にウーデが帰ってきます。ウーデは、セラフィーヌの絵が格段に上達していることを知り、彼女に金銭的な援助を与え、個展を開くことを約束しました。
ところが、この頃から彼女の精神状態がおかしくなっていきます。贅沢三昧の生活を始め、奇行に走るようになります。そういう中で、1929年に世界恐慌が始まり、ウーデはもはやセラフィーヌの贅沢を支えることができなくなり、やがて彼女は精神病院に入り、1942年に死亡します。生涯家政婦としての仕事を淡々とこなし、自然とたわむれ、一心不乱に絵を描いてきた彼女の精神は、第一次世界大戦と世界恐慌という時代の大波には耐えられなかったのかもしれません。その後ウーデの努力もあって、彼女の絵は広く知られるようになります。
美しい自然、それは彼女の庭そのものであり、その自然が彼女に語りかけるものを、彼女は描いていきます。絵を描いている時の彼女の鬼気迫る姿も印象的で、大変よくできた映画だと思います。
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