2014年10月11日土曜日

映画でカストロを観て

カストロはキューバ革命の指導者で、世界中で最もよく知られている人物の一人です。私たちの若いころには、毛沢東、ホー・チ・ミン、シアヌーク、カストロ、ゲバラなどが、巨人アメリカに抵抗した人々として第三世界の尊敬を集めていましたが、その中でただ一人カストロだけが、2014年現在88歳でまだ生きており、いわば反米闘争の英雄の最後の生き残りといえます。彼については評価が極端に分かれおり、ここでは両極端の二本の映画を紹介したいと思います。
 映画について述べる前に、カストロとキューバ革命について簡単に触れておきたいと思います。
カストロは1926年に富裕な農園主の息子として生まれ、学生時代は野球に熱中し、ハバナ大学では法律を学びました。当時のキューバは、他のラテン・アメリカ諸国と同様、ほんの一握りの人が土地を独占し、サトウキビ栽培に特化されていて、経済はアメリカ資本に支配されていました。そしてアメリカ資本主義と結んで特権階級を保護していたのが、バティスタ独裁政権でした。こうした中で、1953年にカストロは130人の仲間とともに兵営を襲い、80人以上が射殺され、カストロは逮捕されました。無謀としか言いようがありません。
カストロは懲役15年を宣告されますが、2年後に恩赦で釈放され、まもなくメキシコに亡命します。そして、そこでゲバラと出会います。キューバ政府はメキシコにカストロの逮捕を求めますが、元大統領カルデナスのとりなしで逮捕を免れました。1956年にカストロは82名の仲間とともにヨットでキューバに上陸しますが、軍の攻撃を受けて生き残ったのは18人だけでした。これも無謀としか言いようがありません。しかし、その後仲間が増え、ゲリラ戦を展開し、1959年にバティスタが亡命し、キューバ革命は成就されました。
カストロはもともと社会主義者ではなく、プロ野球の大ファンであり、アメリカに好感を抱いていました。そこでカストロはアメリカ大統領と会見するためホワイトハウスに行きますが、大統領はゴルフ中のため面会できないとして、副大統領が応対します。アメリカは、アメリカが今まで中南米でしてきたように、必要とあればカストロを排除すればよいと思っていたようです。こうした中で、キューバは土地の国有化とアメリカなど外国資産の国有化を行い、これに対してアメリカが経済制裁を行ったため、キューバはソ連に接近し、1961年には社会主義宣言を行います。

 その後いろいろありましたが、「アメリカの裏庭」と呼ばれたカリブ海の島国キューバが、革命後50年以上たってまだ生き延びているということは、驚嘆に値します。それが可能だった理由の一つは、米ソの冷戦のためソ連の援助を得られたということがありますが、1989年に冷戦が崩壊すると、キューバは苦境に立たされますが、なんとか立ち直ります。今日キューバの最大の問題は、カストロ引退後、弟のラウル・カストロが後継者になりましたが、その弟も高齢であり、後継者を早急に決めなければならないということでしょう。

コマンダンテ

2002年にオリバー・ストーン監督がスペインの制作会社の依頼で制作したドキュメンタリーです。監督自らが3日間にわたってインタビューし、30時間以上をフィルムに収録して制作されました。「コマンダンテ」というのは司令官を意味し、キューバではカストロの愛称として用いられています。カストロは、すでにこの段階で76歳でしたので、この映画はカストロの自叙伝あるいは遺書ともいえるもので、その資料的な価値は極めて大きいと思います。カストロは個人崇拝を嫌い、自叙伝を書くことも拒否していましたので、彼の長い闘争のさまざまな局面について、彼自らが見解を述べていますので、大変興味深い内容です。
 ところが、この映画はアメリカでは上映禁止となりました。キューバ革命後、土地改革や企業の国有化が進められると、多くの富裕層がアメリカに亡命し、フロリダを中心に反カストロのさまざまな陰謀を繰り返してきました。その際、キューバでカジノなどを経営していたマフィアもカストロに強い恨みを抱いて亡命者に加担し、CIAもキューバ奪回に執念を燃やしました。彼らによって、カストロは638回も暗殺が計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックに掲載されているそうです。今日、フロリダの亡命キューバ人は政治的にも大きな勢力を形成しており、アメリカ政府は過去に何度かキューバに対する経済制裁の中止を検討したそうですが、彼らの反対で実行できなかったそうです。そしてこの映画も、彼らの強い反対で上映禁止となったそうです。それにしても、「自由」の国アメリカで、そんなことができるのかと思いますが、総じてアメリカ人にはカストロ嫌いが多いので、こうしたことが可能だったのでしょう。
 カストロの功罪は多々あると思いますが、世界史という観点から見た彼の最大の功績は、アメリカに逆らって生き延びたということだと思います。中南米諸国の多くはアメリカに経済的に支配されてきました。こうした中で、アメリカの利害を損なうことなしに、何らかの改革を行うことは不可能だし、アメリカはそのような改革を決して許しません。過去にアメリカは、あらゆる方法を用いてそのような改革を潰してきました。カストロも革命後真っ先にこの問題に直面します。カストロは農地改革や外国資産の接収を決定しますが、まず真っ先に実家の土地を接収しました。その結果母と妹はアメリカに亡命することになります。こうした中で、CIAは亡命キューバ人を訓練してキューバ侵攻(ピッグス湾事件)を行いますが、失敗します。これをきっかけに、カストロはアメリカへの期待を捨て、ソ連に接近していくことになります。中南米の国々の多くの政権はアメリカに依存していますので、カストロを批判しますが、民衆の間ではカストロに賛同する人々が多くいます。かつてアルゼンチンのペロンが、反米を掲げて民衆の支持を得たように(「映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」参照)


オリバー・ストーン監督について、以前に「プラトーン」(「グローバル・ヒストリー はじめに」を参照)という映画を観ましたが、総じて「掘り下げ」が足りないという印象を受けました。彼は2度ベトナム戦争に従軍し負傷した経験をもち、その経験をもとにこの映画を製作し、それなりに問題作ではありましたが、ベトナム人の視点が欠けていました。また「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」というドキュメンタリーも、内容的には今一つ表面的な印象を受けました。この「コマンダンテ」も、アメリカでいろいろ議論されているカストロの謎について単発的に質問を重ねるのですが、これに対してカストロは、より幅広い視点で簡潔かつ率直に答えており、カストロの洞察力の深さを見せつけるものでした。
 質問の内容は多岐にわたっているため、ここでは若干の応答にのみ触れます。カストロは、親しみやすく、ユーモアに富み、話し上手で、人を引き付ける力があることは、誰もが認めるところであろうと思います。革命後の多くの困難について、自分たちには経験が不足していたことを率直に認めます。アメリカの侵攻は革命の2年後、キューバ危機は3年後であり、自分たちはアメリカの軍事力についても、同盟や協定がいかに移ろいやすいものかということについても、何も知らなかったことを認めます。独裁についての質問に対しては、「自分は説得することが好きだ」と答え、話せば必ず信じてもらえると語ります。確かに、彼の演説は長いことで有名で、10時間に及ぶ演説をしたこともあります。多分言葉によって国民を説得しようとしてきたのではないかと思います。また後継者問題については、キューバ国民の政治的成熟を信頼しているし、その点で心配していないと語ります。
彼の言葉には、多くの困難を切り抜けて来た者の重みがあり、どこまでが真実かは分かりませんが、心に響くものがありました。


フィデル・カストロ キューバ革命

2005年にアメリカで制作されたテレビ用のドキュメンタリーで、原題は「カストロ、キューバの謎多き象徴」です。これは私の想像ですが、このドキュメンタリーは先の「コマンダンテ」に対抗して亡命キューバ人が作らせたのではないかと思われます。証言の多くが亡命キューバ人やCIAのもので、客観性に欠けています。またこの写真も、葉巻の煙にまみれた不健全な独裁者、というイメージを与えようとしているように思われます。さらに、しばしばカストロは「粗暴で女好き」という言葉が用いられます。
 「コマンダンテ」は、インタビューを中心に次々と話が展開していくため、キューバとカストロについての予備知識がないとついていけませんが、このドキュメンタリーはカストロの足跡を具体的に追っていますので、カストロとキューバ革命の事実関係を整理するのには役立ちます。ただ、全体としてカストロに対する悪意が感じられます。亡命キューバ人は、土地を没収されて私有財産を侵害されたと非難します。しかし、国土の90%を7%の人が所有するという状況を、放置することが許されるのでしょうか。また、アメリカは一貫してキューバはアメリカの安全を脅かすと主張し続けており、国民の多くもそう思っています。しかし、キューバのような島国がアメリカの安全を脅かすとは思えません。それは、アメリカに逆らうキューバの存在は、中南米におけるアメリカの支配を脅かすという意味であろうと思います。
 確かにカストロは、アメリカと対立して国民に長い耐乏生活を強いたし、カストロは否定していますが、反対派に対する弾圧も行ったでしょう。またアンゴラ内戦に介入して軍隊を送り、他の社会主義政権を支援するなど、あたかもソ連の先兵のように思われる時期もありました。ただ彼は、他の独裁者と異なり、私利私欲に左右されることが少なく、血縁者を重用することもありませんでした。弟のラウルはカストロの後継者となりましたが、彼は革命の最初からカストロの右腕として活躍してきた人物です。母と妹はアメリカに亡命し、後に娘も亡命します。4人の男の子はあまり出世していません。
さらに彼は、教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を挙げました。また、学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバでは最もポピュラーなスポーツとなっています。キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、「キューバ・モデル」として知られています。人口10,000人中の医師数が67.2人と世界で最も多いグループに属するとともに、医学教育にも熱心で、多くの留学生も受け入れています。
 
 結局私はカストロを支持しているようで、彼を客観的に捉えることができませんでした。私には彼を客観的にとらえるだけの知識がありませんし、第一まだ本人が生きていますので、客観的にとらえることなど不可能だと思います。ただ、「コマンダンテ」を見て、一層カストロに共感するようになりましたが、彼を客観的に評価するにはなお長い年月が必要だろうと思います。

 なお、カストロと葉巻のイメージは、この写真にもあるように、広く定着しています。それは、キューバの特産品である高級葉巻を売り込もうというキューバの思惑があるのかもかもしれません。もともとゲリラ戦中に藪で虫除けに葉巻を吸い始めたそうですが、1986年に本人の健康と国民に禁煙の必要性を説くために、禁煙したそうです。喫煙者である私としては、それだけでもカストロは尊敬に値します。
また、カストロは親日家として知られています。日本も、アメリカの同盟国とはいえ、キューバの問題は日本とは関係がないので、キューバとの友好関係は続いています。2003年に来日した際には、彼は外国の要人としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷し、「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残しているそうです。




2014年10月5日日曜日

映画「革命児サパタ」を観て

1952年に制作されたアメリカの映画で、メキシコ革命(191019)で活躍したサパタの半生を描いたものです。原題は、「サパタ 万歳!」です。
 メキシコ革命については、「映画でラテンアメリカの女性を観る 命を燃やしてで触れましたが、ここではもう少し詳しく述べたいと思います。
 ディアスは軍人として名声をあげ、1876年に三度目の選挙に敗北すると軍事蜂起を起こして大統領となり、以後34年間独裁者としてメキシコを支配します。この間に彼は、メキシコに外資を導入し、鉄道、港湾、通信網などのインフラ整備・新たな銀行の設立・商業の活発化・工業や農牧業が拡大し、経済発展を果たします。日本ではちょうど明治時代にあたります。しかし、無原則な外資導入により鉄道、石油石炭、鉱山など主要産業は全て外国資本の支配下に置かれ、経済発展の恩恵に浴したのは一部の特権階級だけで、逆に農民は土地を奪われ、貧しくなっていきました。
 1910年の大統領選挙に、すでに80歳のディアスが立候補したため、自由主義者のマデロがこれに対抗して立候補しました。ところが選挙直前にディアスがマデロを逮捕したため、ディアスが当選し大統領となります。アメリカに亡命したマデロは、メキシコ全土に蜂起を呼びかけ、各地で蜂起が起きましたが、その中にサパタやパンチョ・ビリャがいました。映画では、サパタは貧しい農民で、かつ文盲ということになっていますが、実際には彼は富裕な農民の出身であり、文盲ではありませんでした。彼はメキシコ・シティ南部で、インディオの血を強く引くメスティーソ(白人との混血)として生まれ、インディオの権利運動を推進して、農民から崇拝されていました。彼の理想は、インディオの伝統的な共同体社会を復活することであり、政治的には無政府主義の傾向がありますが、彼の理想は今もインディオたちに語り伝えられています。

 一方、パンチョ・ビリャは、メキシコ北部で大農園の小作人の子として生まれ、16歳の時農園主と喧嘩して逃走し、チワワ州で山賊となります。蛇足ですが、チワワ州は世界で最も小さい犬チワワの原産地です。彼は盗賊の頭領となり、教育はありませんでしたが人望があり、任侠にあつい地方ボスのような存在になっていました。彼はマデロが逮捕されると革命に立ち上がり、その軍事的な才能をいかんなく発揮します。南でサパタが、北でパンチョ・ビラが蜂起したため、ディアスは亡命を余儀なくされ、マデロが大統領に就任することになります。

話が逸れますが、当時アメリカの若いジャーナリストであるジョン・リードがパンチョ・ビリャに密着取材し、メキシコ革命のルポルタージュ「反乱するメキシコ」(筑摩書房)を著し、これにより彼はルポルタージュ作家としての名声を高めるとともに、世界の目をメキシコ革命に集めさせ、メキシコ革命の進展に貢献することになります。さらに彼は、1917年にロシア革命を取材し、「世界をゆるがした十日間」(岩波文庫)を著して、その名声を不動ものとします。しかし、第一次世界大戦後アメリカで反共産主義の動きが高まったため、ジョン・リードは迫害され、1920年にモスクワで病死します。32歳でした。ジョン・リードについては、1981年に「レッズ」という映画が制作されましたが、私は観ていません。

 マデロが大統領となると、サパタはマデロと会見し、土地の解放を求めますが、マデロはメキシコでも屈指の大地主であり、地主の利害を代表していたため、サパタの要求を拒否します。サパタはマデロと袂を分かち、マデロに対して反乱を起こします。そして、この混乱に乗じて保守派の軍人ウェルタがマデロを殺害し、政権を握ります。これに対してパンチョ・ビラャが反乱を起こし、1914年にサパタ軍とビリャ軍がメキシコ・シティに入城します。二人は大地主に対する敵意という点で一致していましたが、どちらも政権を握る意志がまったくなく、二人ともメキシコ・シティを去ってしまいます。映画では、サパタが一時大統領になったことになっていますが、真偽は不明です。
 この間隙をぬって権力を獲得したのはカランサでした。彼はビリャやサパタに配慮して、憲法の制定に着手しますが、憲法制定委員会はカランサの意に反して、ビリャやサパタの主張を大幅に採用した民主的憲法を制定します。1919年にドイツで世界で最初の民主的憲法としてヴァイマル憲法が制定されますが、メキシコではすでに1917年に民主的憲法が制定されていました。ただしカランサはこの憲法を無視しますが、1934年以降カルデナスがこの憲法を実現していくことになります。一方、ヴァイマル憲法は、1933年にナチスが全権委任法を制定したため、事実上消滅することになります。
 その後カランサはビリャを攻撃するとともに、1919年にサパタを暗殺します。これに対してビリャとサパタ派の残党は、農地改革などの社会改革の必要性を強く認識していたオブレゴン将軍を支持して戦い、カランサは射殺され、1920年にオブレゴンが大統領になります。彼はビリャ派やサパタ派と和平を結び、ここにメキシコ革命は事実上終結します。パンチョ・ビラャは、1923年に何者かにより暗殺されますが、彼の名は英雄として長く民衆に語り継がれます。一方政府では、その後独裁と腐敗がはびこりますが、1934年にカルデナスが大統領となり、1917年憲法を次々と実現していくことになります。
 パンチョ・ビリャは豪快かつ楽天的な人物でしたが、サパタは生真面目で、正義感が強く、理想主義的でした。どちらも民衆に人望があり、ずば抜けた軍事的才能に恵まれていましたが、ビリャは地主への敵意と義侠心から、サパタはインディオの権利をまもるという正義感から反乱を起こしたにすぎず、政権を担当する意志もヴィジョンも持っていませんでした。ただこの二人の戦いによって農民たちは、自分たち一人一人が強い意志をもてば、自分たちの土地を取り戻すことができることを学びました。そしてそれこそが、サパタが最も望んだことだったのではないでしょうか。




2014年9月28日日曜日

映画でラテンアメリカの女性を観る

 ラテンアメリカに関して女性を主人公とした映画を三作観ました。相互に関連はありませんが、この三作を通して、ラテンアメリカの社会を考えてみたいと思います。

命を燃やして


2008年に製作されたメキシコの映画で、1930年代から40年代のメキシコにおける一人の女性の生き様を描いた映画です。
 主人公はカタリーナという女性で、貧しい家で育ちました。15歳の時に、アンドレス・アセンシオという30代前半の将軍が、突然彼女に求婚し、体を求め、16歳の時に結婚します。彼女は、何も分からないまま性体験をし、妻となり、母となり、夫の人形としての暮らしを淡々と続けます。アンドレスは野心家で、州の知事選に立候補して州知事となり、カタリーナを州の厚生大臣に任命します。彼女はまだ二十歳前ですから、今日から見ればとんでもない話ですが、当時は権力者が周辺を親族で固めるという意味で、そんなことはよくあったようです。
 もちろん彼女に大臣が務まるはずはありませんが、陳情者から色々な話を聞く内に、夫の不正行為も知るようになります。夫は殺人や暴力などさまざまな犯罪行為に関わり、さらにあちこちかに女性がいて、他に子供も何人もいました。さらに大統領選挙への立候補も画策していました。こうした中で彼女はしだいに夫から距離を置き、若いオーケストラの指揮者と恋をし、初めて女性として目覚めます。しかし指揮者は夫に殺されてしまったため、彼女は密かに夫を毒殺します。こうして、16歳で結婚して以来、15年の後に初めて彼女は自立した女性として生まれ変わることになります。物語は淡々と進められ、何を言いたいのかよく分かりませんでしたが、一人の女性の成長過程を描いているものだと思います。この映画はメキシコでは大評判だったそうですが、日本では劇場公開されていません。

 私は、この物語そのものより、当時のメキシコそのものに関心があり、この映画を観ました。メキシコは19世紀前半の独立以来、他のラテンアメリカ諸国と同様に、政治的にも経済的にも極めて不安定でした。1910年にメキシコ革命が始まり、1917年に極めて民主的なメキシコ憲法が制定されましたが、憲法はほとんど無視され、相変わらず混乱が続いていました。しかし1934年にカルデナスが大統領に当選すると、一連の民主化政策を推進し、メキシコにようやく民主主義が定着していくようになります。アンドレスが活躍した時代は、こうした時代だったのですが、映画にはカルデナスの名前は一度も登場せず、政治には相変わらず陰謀・政敵の殺害・収賄が横行し、正義の片鱗すらありません。

 カルデナスの功績は大きいとしても、これが当時の政治の実態なのかもしれません。1940年にカルデナスは引退しますが、その後カルデナスの与党である制度的国民党は一党独裁を続け、腐敗・堕落し、まるで戦後日本の自民党による一党独裁のようでした。そして、2000年にようやく政権交代が実現しましたが、なおさまざまな問題を抱えています。とはいえ、他のラテンアメリカ諸国の中にあって、メキシコは民主主義が最も「順調」に発展してきた国だとされています。


エビータ
1996年のアメリカのミュージカル映画です。「エビータ」は過去に何度も舞台や映画で上演されました。この映画は、アメリカで最も人気のある歌手マドンナがエビータを演じています。エビータとはエマの愛称で、アルゼンチン大統領夫人であり、夫のペロンとともにアルゼンチン国民に最も愛された人物です。

エバは田舎町で生まれ育ち、15歳の時に家出してブエノスアイレスに行きますが、なんのつてもない15歳の少女にはなかなか仕事が見つかりません。初めの内は雑誌のモデルなどをしていましたが、1930年代の後半からラジオや映画に出演するようになります。そして仕事が代わるたびに、相手の男性も代わっていたようです。一方ペロンは、陸軍師範学校を卒業した後順調に出世し、1943年には陸軍次官に任命されるとともに、初代労働福祉協会の長官となり、次々と労働者に有利な裁定を行って国民の人気を得ていました。そして1943年に、二人はあるパーティで出会います。エバは24歳、ペロンが48歳の頃でした。
 その後エバはペロンの愛人となるとともに、ラジオ放送で盛んにペロンの宣伝を行います。1944年にペロンが副大統領に就任すると、親ファシズム的で反アメリカ的な態度をとるペロンを嫌ったアメリカの圧力で、1945年にペロンは逮捕されます。これによって、むしろ外国の圧力に屈しなかったペロンは民衆の英雄となり、ペロンの釈放を要求する運動が高まります。そしてエバも、ラジオを使ってペロンの釈放を訴えます。こうした運動の過程で、*多様な民族からなるアルゼンチンが初めて一つの国民としての意識をもつようになります。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから大量の移民がアルゼンチンに流れ込みます。1914年の段階で、国民の3割が外国出身者という状態でした。したがってアルゼンチン人としてのアイデンティティなど生まれようもありませんでした。
釈放後ペロンはエバと正式に結婚し、1946年に大統領選に勝利し、かくしてエバは大統領夫人となります。そして映画では、ペロンの大統領就任後、エバは大統領官邸のベランダから民衆に向かって、この映画のテーマ曲である「アルゼンチンよ 泣かないで」を歌います。これはなかなか感動的な場面でした。アルゼンチン人という国民が誕生したことを象徴するような場面でした。
大統領就任後のペロンは、労働組合の保護や労働者の賃上げ、女性参政権の実現、外資系企業の国営化、貿易の国家統制などの政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受けます。一方エバも積極的に政治に介入します。彼女は、労働者用の住宅、孤児院、養老院などの施設整備を名目に慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立するなど、ブルーカラーの労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に大きな貢献をしました。
 しかしこれらの政策は、財政的基盤のないばらまき政策でしたので、まもなく破綻します。1952年の大統領選挙ではペロンは再選を果たしますが、この年エバは子宮癌で死亡します。33歳でした。葬儀は盛大に行われましたが、エバを失ったペロンはしだいに民衆の支持を失い、1955年に軍事クーデタで失脚しました。1973年にペロンはもう一度大統領に復帰しますが、すでにこの時78歳であり、翌年死亡しました。その後もアルゼンチンの政治は混乱を続けますが、今日でも二人は多くの国民に崇拝されており、いわばアルゼンチン人としてのアイデンティティのシンボルとなっているのかもしれません。
  
 この映画は、アルゼンチンでは不評でした。まずアメリカのセックス・シンボルであるマドンナが、神聖なるエバを演じたことに対する不快感があったようです。また、映画には、チェという名前の狂言回しが繰り返し登場してエマを批判します。キューバ革命で活躍したチェ・ゲバラはアルゼンチンの出身で、映画でのチェは彼を想定していると思われます。もちろんそれはフィクションですが、ちょうどこの頃、彼はアルゼンチンで医学を勉強していました。彼の皮肉たっぷりの口調を通して、民衆に崇拝された「聖なる」エバと、その実像である「俗なる」エバを語っています。そしてこの「俗なる」エバを描いたことが、アルゼンチンで不評だった理由のようですが、見方を変えれば、エバは今日でもそれほどアルゼンチン人に愛されているということです。
 なお、マドンナは多くの映画に出演していますが、演技力は今一で、最悪主演女優賞を5回もうけています。しかしこの「エビータ」では、ゴールデングラブ賞を受賞しています。この映画でのマドンナは大変魅力的で、さすがに歌唱力は抜群でした。

話しは変わりますが、ペロンはポピュリストだと言われます。ポピュリズムとは、既存の強力な体制に対抗するため、直接民衆に語りかけ、民衆の利益を約束して支持を得る政治手法のことです。日本語では大衆主義とか人民主義と訳されますが、「大衆迎合」と否定的に捉えられることもあります。しかしそれはもともと衆愚政治化しやすい民主主義の欠点であり、ポピュリストの責任ではありません。古くは、ローマのカエサルが元老院に対抗するため、ローマ市民に直接訴えかけました。また、メキシコでも、前に述べたカルデナスが地主寡頭支配に対して、全国遊説を行いました。そしてペロンは、中南米のほとんどの国で見られる地主寡頭支配に対して、労働者階級の支持を獲得します。最近では、小泉首相が「大衆迎合」という意味でポピュリストと揶揄されましたが、そのような指摘が当たっているのでしょうか。

 ただ、ヒトラーやムッソリーニも、資本主義や社会主義といった既成の体制に反対して市民に直接訴え、絶大な権力を獲得しました。彼らもまたポピュリストと言えるのではないでしょうか。いずれにしても、この時代はポピュリストの全盛時代だったとように思われます。それは、一部の人々のみが政治を独占していたのに対して、大衆を政治に参加させる役割をはたしました。ペロンもヒトラーやムッソリーニに親近感をもっていたようで、彼ら程ではありませんが、民衆による熱狂的な支持の裏で、反対者を過酷に弾圧していました。また、アルゼンチンはアイヒマンをはじめナチスの残党の亡命を受け入れましたが、だからといってペロンをファシストと呼ぶこともできないと思います。また彼は、ユダヤ人の差別に対しては断固反対していました。


そして、ひと粒のひかり


2004年に制作されたアメリカ・コロンビア合作映画で、マリアという一人の少女を通して、コロンビア社会の矛盾を描いています。

「コロンビア」の名はコロンブスに由来します。「新大陸」は、これを大陸であることを確認したアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって、「アメリカ」と命名されました。これに対して、19世紀初頭にシモン・ボリバルが独立運動を推進し、中南米にコロンブスの名をとった統一国家の樹立を目指しますが、結局失敗に終わり、コロンビアの名は現在の国にだけ残りました。
 コロンビアでは、長く一部の特権階級による寡頭支配が続き、それに反対する勢力は徹底的に弾圧されてきました。こうした中で、左翼によるゲリラ活動が盛んとなり、さらに巨大な麻薬シンジケートが形成され、身代金目的の誘拐、殺人、麻薬シンジケート間の抗争などが頻発します。そのため世界の多くの国は、コロンビアを旅行自粛国に指定している程です。さらに政府の腐敗も大きな問題となっています。経済は比較的順調に発展しているにも関わらず、一般の国民がその恩恵を受けることは少なく、政府は国民の教育にもあまり熱心ではありません。国民の多くは生活難に苦しみ、将来への展望が開けず、麻薬の生産や密売に手を出す人が後を絶ちません。中南米諸国は、大なり小なりコロンビアと似たような状況にあり、アルゼンチンのペロンの試みは、こうした状況の打破を目指したものでした。とはいえ、いまだにこうした体制が維持されている国は、中南米でも少数派になりつつあります。
 
マリアは地方のバラ農園で働いていました。バラの生花はアメリカや日本などに輸出され、コロンビアの重要な輸出品の一つです。仕事は単調で給料も安く、しかも彼女は母と祖母、さらに姉とその赤ん坊を養っていました。また、大して好きでもない青年と関係を持って妊娠し、さらにバラ園の主任と喧嘩をして仕事を辞めてしまいます。こうした中で、アメリカへの麻薬の運び屋の仕事に勧誘されます。一度で6000ドルもらえるとのことで、これだけあればコロンビアでは家が買えます。
 仕事は、小さなゴム袋に麻薬を詰め込み、それを飲み込んで胃袋におさめて渡米することです。小さいとはいっても繭くらいの大きさがあり、これを60個も詰め込むわけですから、大変です。最大の危険は、お腹の中で袋が破裂することで、破裂すれば命は助かりません。事実、彼女の友人が目の前で死に、胃袋を裂かれて麻薬が取り出されました。彼女は怖くなって逃げ出しますが、ある病院で胎児の生育を検診してもらい、エコーで胎児が動く姿を見て、アメリカに残ることを決意します。もちろん彼女は不法移民ということになりますが、アメリカで生まれた子はアメリカ市民となります。コロンビアで子供を産んでも、将来に何の希望ももてませんが、アメリカ市民なら将来にチャンスが与えられます。

 アメリカには不法移民が500万人いるといわれ、さらに毎年30万人近くが流入しているとされます。こうした移民はアメリカ人の仕事を奪っていると批判される一方、彼らはアメリカ人がしたがらない低賃金労働力の担い手になっています。移民は社会保障などを受けることができず、低賃金で不安定な生活をしていますが、節約すれば本国に送金でき、本国ではこの送金だけを頼りに生活人いる人々も多いそうです。そして不法移民は、自分はだめでも、子供はアメリカ人になれるという希望をもつことができます。

 中南米の少なからぬ国では、こうした貧困のために農民が麻薬の栽培を行ったり、マリアのような普通の少女が運び屋になったりすることは、珍しいことではありません。その中でもコロンビアは、特にひどい国の一つのようです。タイトルの「一粒のひかり」とは、彼女のお腹の子のことだと思われます。コロンビアでは何の希望も見出せませんが、アメリカでなら、少なくとも子供には希望を見出すことができるということです。



2014年9月23日火曜日

 栗を収穫しました。とはいっても6個なので、栗ご飯は無理ですね。桃栗三年とはよくいったものです。まだ背丈ほどの大きさですが、それでもちょうど三年で収穫できました。桃も三年ですが、梅干しくらいの大きさで終わってしまいました。
 先週は、大根(聖護院)・ほうれん草・菜花・小松菜の種を蒔きました。大根は2回失敗していますが、今回こそは成功させたいと思います。とはいっても、特別な対策はとっておらず、ただ運を天に任せるのみです。

2014年9月19日金曜日

映画で古代アメリカを観る

太陽の帝王

1963年にアメリカで制作された映画で、マヤ族に関するものです。時代は、1000年ほど前ということですから、10世紀頃と思われます。
マヤ文明は、メキシコ南東部からグアテマラにかけて栄えた文明で、そのルーツは紀元前3000年頃まで遡りますので、いくつかの時代区分が行われています。まず先古典期前期(紀元前3000 - 紀元前900年)に始まり、先古典期中期(紀元前900 - 紀元前400年)、先古典期後期(紀元前400 - A.D.250年)、古典期前期(A.D.250 - 600年)、古典期後期(A.D.600 - 900年)、後古典期(A.D.900 - 1524年)と続きます。ほとんど意味不明の時代区分ですが、マヤ文明が最も栄えたのは古典期後期だそうで、この映画の舞台となった10世紀には、すでにマヤ文明は衰退期に入っています。

メソアメリカでは多くの文明が興亡し、その興亡の原因ははっきりしません。ただ、メソアメリカには北からさまざまな民族が侵入し、それが多くの文明の興亡の原因の一つだったことは確かでしょう。古典期後期の文明が衰退したのは、当時メキシコ中央高原に栄えたトルテカ帝国(7世紀頃~12世紀頃)の侵入によるものではないかと推測されます。事実その後マヤ文明はトルテカ文明の影響を受けるようになったとされます。また、メキシコ湾岸の海上貿易が発展し、マヤ地区が通商路からはずれてしまったとも考えられます。事実、その後マヤ文明の中心はユカタン半島に移り、その北部にチチェン・イッツァが建設されます。そしてチチェン・イッツァで祭られていたのはケツァルコアトル(マヤ語ではククルカン)であり、ケツァルコアトルはトルテカ帝国の祖神です。ただし、ここで述べたことはすべて推測であり、私自身の誤解によるものなので、あまり信用しないで下さい。

ウイキペディア

映画は、チチェン・イッツァにおけるケツァルコアトルの神殿の場面から始まります。映画では現存する実物の神殿が使用されますが、この神殿は高さが24メートルもあり、階段は急勾配で、これを上り下りするタレントは大変だったようで、しかも上から下を見ると目が眩むそうです。








地図はグーグル・アースで、図は私がいいかげんに書いたものです。

当時強力な軍事力をもったフナックと呼ばれる人物が率いる異民族が侵入し、チチェン・イッツァは滅亡寸前でした。神官は神に生贄(人身御供)を捧げるべきだと主張しますが、バラーム王は生贄に反対で、船で脱出することにします。映画のタイトルは「太陽の帝王」となっていますが、マヤは大きな政治的・軍事的勢力を形成したことはなく、多くの都市が存在し互いに合従連衡を繰り返していました。そのため、強力な勢力に攻め込まれるとひとたまりもありません。映画はアステカ帝国やインカ帝国と勘違いしているのでしょう。
やがて彼らは現在のテキサス州に到達し、そこで新しい生活を始めました。そこにはブラック・イーグルと呼ばれる人物に指導される狩猟民族が住んでおり、当初彼らと対立していましたが、やがて平和的に共存するようになります。ところがそこへフナックが大船団を率いて攻めてきました。バーラムはイーグルの援軍を得てフナックを倒すことができましたが、この戦闘でイーグルが戦死してしまいます。フナックなき今、バーラムは故郷に帰ることが可能となりましたが、生贄など厄介な儀式の多い故郷より、簡素で自由なこの土地で生きていくことを決意します。
ところで、先スペイン期の文明では、人間を生贄として神に捧げる人身御供の習慣が存在していました。人身御供の習慣は、古代社会には多くの地域で行われていました。今日われわれは日々死と向かい合って生きている分けではありませんが、古代社会では人命は災害や飢饉によって簡単に失われるものでした。こうした禍は神の意志によるものと考えるしかありませんので、人間にとって最も大切な命を捧げることによって災害の発生防止を祈願します。多くの場合、人身御供の習慣は消滅していきますが、先スペイン期の中南米では16世紀まで行われていました。

アステカでは、太陽の不滅を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げたそうですが、インカ帝国でもマヤでも同様の習慣があったようです。なぜこのような習慣が長期間続けられたのかは分かりませんが、先スペイン期の文化や信仰と深く結びついていたようです。そこにあっては、生贄に選ばれることは大変名誉なことであり、アステカでは球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在ったとのことです。インカでは、生贄は村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられたそうです。マヤでは、干ばつになった時14歳の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、ククルカンの聖なる泉に投げ込まれたそうです。いずれにしても、人間にはどうすることもできない自然の前にあって、人間を差し出すことによって神と人間の結合を強固にしようとしたと思われます。
 もちろん、生贄に対する批判もありました。トルテカ帝国が生贄を禁止したとされますが、真偽の程は不明です。生贄を廃止しようとすると、強力な反対勢力が現れて、結局失敗してしまうようです。また、この映画ではマヤの王が生贄の儀式を嫌い、災難の原因は生贄の儀式をしない王にあると批判され、結局故郷に帰らず、新天地で生きていくことを決意します。

 この映画の主張するところは明らかで、因習に囚われた祖国を捨て、自由な新天地アメリカで生きていくという、アメリカ人好みのテーマです。したがって、内容的にはつまらない映画であり、時代考証もいい加減に思われましたが、「マヤ」という非常に特殊なテーマを扱っているので、許したいと思います。なお、こうした事件が本当にあったかどうかについては分かりません。多分創作だと思われます。

チチェン・イッツアの神殿のケツァルコアトル。ケツァルコアトルは「羽毛ある蛇」です。
















代々木公園にあるケツァルコアトル像。メキシコの当時の大統領夫人来日記念として、メキシコ政府より贈られたものだそうです。かなりデフォルメされていて、ケツァルコアトルとは気づきにくいと思います。











アポカリプト

2006年のアメリカ映画。監督はイエス・キリストの最期を描いた『パッション』の監督メル・ギブソンです。この監督は自分のイデオロギーを主張するために、平気で事実を捻じ曲げる傾向があるそうで、この映画はまさにそうした映画です。監督のイデオロギーとは、白人クリスチャンを上位におく右派キリスト教の思想で、このブログの「映画でヒトラーを観て 紳士協定」の世界でした。この映画に対しては、マヤ学の研究者から強い批判があったそうです。

 ドラマの時代は16世紀の初め、コロンブスの大西洋横断後まだそれほど経っていません。場所はよく分かりませんが、ユカタン半島のどこかでしょう。ドラマは、マヤの軍隊が密林の中で素朴で「野蛮」な生活をしている村々を襲い、生贄にするための村人を連れ去るところから始まり、その中に主人公の青年も含まれていました。いよいよ彼が生贄にされようとするときに皆既日食がおき、彼は脱出に成功します。その後は逃げる主人公とそれを追う兵士とのサバイバルゲームです。さすがに映像は見事でしたが、私は「血みどろ」は苦手なので、時々目を逸らし、早送りして観ました。

 出演者はすべて現地人から選び、全編マヤ語で話すという映画で、マヤ文化を紹介する映画かと思っていましたが、実際はまったく逆で、マヤ人の野蛮性を強調するための手段でした。また主人公は都に連行されますが、それは旧約聖書に登場する悪徳と退廃の町ソドムとゴモラそのものでした(「映画で聖書を観る ソドムとゴモラ」)
 そして最後に、主人公と兵士が海にたどり着いた時、海には見たこともない大きな船が並び、小舟でキリスト教の宣教師が十字架を掲げて岸に向かっていました。そしてその姿は神々しいばかりに輝いていました。この映画のタイトルである「アポカリプス」とは黙示録であり(「映画で聖書を観る 新約聖書~ヨハネの福音書」を参照してください)、ヨーロッパ人が堕落した野蛮な世界に神の啓示を伝えるために到来した、といった意味でしょうか。この映画の冒頭に「文明が征服される根本原因は、内部からの崩壊である」というナレーションが入ります。それは、古代アメリカ文明を滅ぼしたのはヨーロッパ人ではなく、自分たちの内部崩壊であり、それに対して白人が神にかわって懲罰を下し、神の啓示を伝えるのだと言っている分けです。

 初めは真剣に見ていたのですが、だんだん腹が立ってきて、「血みどろ」も嫌だったので、早送りしてみてしまいました。こんなひどい映画はかつて観たことがありません。前の「太陽の帝王」は、幾分単純なアメリカ的価値観の押し付けではありましたが、悪意は感じませんでした。しかしこの映画は悪意の塊であり、いくらマヤを扱っているからといって、とても許せません。このような映画が広く受け入れられているということは、アメリカにはなお「紳士協定」の世界が強く残っているということでしょうか。

アギーレ/神の怒り

1972年の西ドイツの映画で、スペイン人によるエル・ドラド(黄金郷)探索の物語です。

 1521年にコルテスはアステカ帝国を滅ぼし、1533年にはピサロがインカ帝国を滅ぼして、膨大な黄金の工芸品を奪い、これらをすべて溶かして延べ棒とし、スペインに送りました。こうした中で、アンデスの西側のアマゾン流域の奥地に黄金郷があるという伝説が生まれました。













地図はグーグル・アースで、線は私がいいかげんに書いたものです。












この黄金郷を発見するために、1560年にスペインは多分数百人の探検隊を派遣しました。出発点のキトは、赤道直下の標高2850メートルの位置にあり、かつてはインカ帝国の第二の都であり、現在はエクアドルの首都です。まず、大西洋を横断するのも命がけの時代で、さらにキトにまで達するのも大変です。そしてキトからさらにアンデスを登り、こんどはアンデスの東側斜面を下ることになります。兵士たちは鉄の鎧兜を身に着け、荷物運びのためのインディオの奴隷は鎖につながれています。さらに食糧のための家畜や大砲まで運んでいます。なぜか何人かの女性が同行しており、しかも美しく着飾っています。
 峻厳な稜線を、長い隊列が進んでいく光景は、大変幻想的であると同時に、場違いで滑稽でもあります。やがて探検隊は激流が渦巻く川に行き当たり、ここで指揮官はこれ以上の進行を断念して、40名だけ選んで彼らにこの先の探検を委ね、1週間たって戻らなければ全滅したとみなすと宣言します。このあたりまでは若干の記録が残っているそうですが、その後40人がどうなったのかは分からず、一人も戻りませんでした。したがってここから先は、創作ということになります。
 40人の中には、隊長の愛人と副隊長アギーレの15歳の娘も含まれていました。本人たちの希望によるものだということです。3槽の筏を組んで川を下りますが、1槽は転覆し、またしばしば現地人の攻撃を受けて、人数はしだいに減っていきます。そうした中でアギーレは反乱を起こし、隊長を殺害し、スペインからの独立を宣言し、ここに帝国を樹立することを宣言します。そしてこの頃から人々はしだいに狂気に陥っていきます。それでもアギーレは、コルテスやピサロが成功したのに、自分が成功しないはずはないと信じ、ひたすら前進します。この頃から彼は「俺は神の怒り」であると口走るようになります。

 「神の怒り」という言葉の意味は私にはよく分かりません。旧約聖書において「神の怒り」とは信仰をもたぬものに対する怒りであり、新約聖書においては「原罪」であろうとおもわれます。したがってすべての人間は「神の怒り」のもとにあるわけで、「俺は神の怒り」だというのは「俺は神だ」といっているのと同じだと思います。アマゾン源流の秘境の真っただ中で、アギーレはあたかもすべてを支配しているかのような錯覚に陥ったのではないでしょうか。そして実は何も支配しておらず、むしろ彼は巨大な自然に完全に支配されていたのだろうと思います。彼は「神の怒り」を受けていたのではないかと思います。

 当時のスペイン人は、ある意味で偉大であったように思われます。欲に駆られていたとはいえ、歴史の巨大な流れと強烈な冒険心が彼らを突き動かし、善きにつけ悪しきにつけ、強烈な意志をもって世界史の扉をこじ開けようとしていました。確かに彼らの行為は、インディオを踏みつけ、スペインに物価高騰をもたらし、また多くの有為な若者が無為に死んで行きました。あたかも『ドン・キホーテ』のように、彼らは新しい世界史の扉に突進していったように思われます。

この映画は何を言いたいのかよく分からず、解釈することが難しい映画でしたが、美しい映像と極限状態での狂気の姿は必見に値します。なお、この映画のアギーレは、サッカーの日本代表監督としてメキシコから招かれたアギーレとは無関係です。



2014年9月12日金曜日

ラス・カサスを読む

 生涯をインディオの保護に捧げた、ラス・カサスに関する2冊の本が書棚にありました。彼は、16世紀にインディオの保護を訴えた人物で、色々議論が分かれる人物です。2冊を読み比べてみたいと思います。さらに彼とは対極にあるコンキスタドルに関する本を紹介します。

ラス・カサス伝 新世界征服の審問者

染田秀藤著 1990年 岩波書店
 アメリカ大陸の現地人にとって、ヨーロッパ人の到来はまさに宇宙人の襲撃に匹敵する衝撃だったと思われますが、スペイン人にとっても、この広大な土地と人々をどのように扱うべきか戸惑いました。とりあえずスペイン人は、従来型、つまりイベリア半島においてレコンキスタにより新たに得た土地と領民を戦士に与えるという方式を採用しました。そして、一獲千金を夢見て命がけで「新大陸」に渡った征服者たちは、貪欲に利益を追求し、その結果インディオの生活は徹底的に破壊されました。

 ラス・カサスの父は、コロンブスの第2回遠征に同行し、ラス・カサス自身も1502年にエスパニョーラ島に航行し、インディオを使役して農場経営を行いました。ラス・カサスが18歳頃のことでした。しかし、やがてインディオの悲惨な状況を目の当たりにし、1506年に司祭に叙任され、さらに司教に任命されると、「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴えつづけました。
 スペイン本国も、インディオに対する対処の仕方が分からず、当初スペイン本国もラス・カサスの意見に耳を貸し、改革を実行したりしますが、「新大陸」の征服者によるラス・カサスに対する憎悪は凄まじく、改革案もほとんど実施されることはありませんでした。それでも彼はインディオの保護を叫び続け、1566年に死去するまでインディオの保護を訴え続けました。

 ラス・カサスについての評価は、時代により異なります。「スペインの征服事業に関しては、武力による金銀財宝や領土の獲得を目指した、もっぱら軍事的な性格を帯びた企てであるとする解釈と、先住民のキリスト教への改宗、つまり魂の獲得と文明化という精神的かつ文化的目的をもった歴史的事業であったとする解釈がある。前者の解釈によれば、スペイン人征服者は物欲に駆られて先住民を殺戮した極悪非道な人間であり、キリスト教化はスペインがインディアスを支配し、掠奪するための単なる口実にすぎなかった。この解釈は歴史的に見れば、16世紀、つまり、近代の世界システムが確立しはじめたころ、イギリス、フランスやオランダなど、後発の植民地国家がスペインによるインディアス独占支配体制を打破するという政治的かつ経済的な意図のもとに行った反スペイン運動の中で生まれたものである。」スペイン人はこれを「黒い伝説」と呼び、ラス・カサスを「黒い伝説」の創出者として弾劾ました。
 「一方、(19世紀に)スペインから独立したものの、慢性的な国内の政情不安と経済的疲弊を解消できず、その結果新植民地主義の犠牲になって経済的な自立を阻まれ、苦悩するイスパノアメリカでは、先住民は近代化を阻害する要因で、スペイン人征服者こそイスパノアメリカの建設者であると考えられ、征服は美化された。……それは「白い伝説」と呼ばれている。そのような征服史観においてラス・カサスが積極的に評価されるはずはなかった。……ラス・カサスは「黒い伝説」では征服の非道な実態を告発する重要な証人となり、「白い伝説」では時代錯誤の精神の持ち主と偏執狂者とみなされた。」
 「しかしそれらの征服史観には、共通して被征服者であるインディオの視点が完全に欠落していた。つまり、双方ともヨーロッパ中心主義に基づく見解にすぎなかったのである。」これに対して、「インディオを国家の基本的な構成要素とみなして彼らの自由と人権を擁護し、国民社会への統合を目指すインディヘニズムと名付けられる運動」が高まりました。そこにおいては、「ラス・カサスは新植民地主義に反対する先駆的な存在としてその現代的意味が評価されたのです。一方、「カトリック世界では解放の神学」と呼ばれる新しい教会運動が登場した結果、行動する聖職者ラス・カサスの神学理論が評価」されるようになりました。

 このように、ラス・カサスについての見解が時代により、地域により大きく異なってきたため、著者は事実関係を確実に書くことを心掛けています。そのため、私のような素人が読むには幾分厄介で、途中をかなりとばして読んでしまいました。なお、ラス・カサスは、インディアスにおける労働力としてアフリカの黒人を投入すればよいと主張したことがあり、これについて長く批判されてきました。このことは、当時のラス・カサスがアフリカ人について無知だったことによるもので、後にラス・カサスはこの発言を後悔し、撤回しています。


 ところで、何の根拠もないことですが、中南米に関する本を何冊も読んでいるうちに、これを近代世界システムに組み込んで説明することが馬鹿馬鹿しく思われてきました。もう一度、中南米の側から、世界史を見直して見る必要があるように感じましたが、もはや私にはその気力が残っていません。


カール5世の前に立つラス・カサス

ラインホルト・シュナイダー著(1938) 下村喜八訳 1993年 未来社
ラス・カサスを調べていると、私の個人的な感想としては、同時代に生きたルターと大変よく似ているように思います。ルターといえば宗教改革の火ぶたを切った人物であり、決して信念を曲げず、1521年のヴォル帝国議会で自説を撤回するよう求められた時、「私にはどうすることもできない、私はここに立つ」といったとされます(ただしこの話は伝説で、事実とは違うようです)

1517年、ラス・カサスはマドリード北方のバリャドリードの宮廷に滞在し、そこにスペイン王になったばかりのカルロス1(後に神聖ローマ皇帝カール5)が滞在していたため、インディオ保護のための活動を精力的に行います。この年、ルターがヴィッテンベルク教会の城門に「九十五カ条の論題」を張り出しました。カルロス1世は、人道的な理由より、「新大陸」で征服者たちに好き勝手にさせ、統制がきかなくなることを心配し、一定の保護政策を決定します。
 その後ラス・カサスはスペインと「新大陸」を何度も往復し、インディオ保護を徹底させようとしますがうまくいかず、むしろ征服者たちの彼に対する憎しみはますます激しくなっていきます。そうした中で、1551年にバリャドリードでカルロス1世の前でインディオ問題を公開討論することになりました。この小説は、この時のラス・カサスを描いています。相手は、アリストテレス学者として高名であったセプルベダで、インディオは野蛮人であるとして、アリストテレスの「先天的奴隷人説」をインディオに適用します。これに対してラス・カサスは、自らの経験をもとに先住民の大半が文明的生活を送っていると証言し、異教徒であるインディオの自然権を主張しました。討論では、おおむねラス・カサスの主張が認められたようですが、その後もインディオ保護は進まず、1556年に彼はスペインは神の懲罰を受けて、必ず没落するだろうと予言しつつ死んでいきました。なお、この年カルロス1世も死亡します。

 本書にはベルナルディーノという架空の人物が登場します。彼は「新大陸」でインディオを酷使して富を蓄え、たまたま討論のためバリャドリードに向かっていたラス・カサスの船に同乗していました。本書は彼を通じてインディオの悲惨な状況を語ります。そして帰国後も、親戚や友人たちに歓迎されませんでした。お前たちが貴金属を大量にもたらしたおかげで、貨幣価値が下がり、蓄えた富がほとんどなくなってしまったと非難されます。結局、インディオを酷使して得た富は、スペインに何ももたらさなかったわけです。


 本書の著者ラインホルト・シュナイダーはドイツの作家で、ナチス時代にはユダヤ人の迫害を批判して迫害された人物です。また戦後にはドイツの再軍備やアメリカによる核兵器の配備に反対し、いわば非国民として非難されました。ラス・カサスもスペインの繁栄を願わないのかと非難されましたが、彼はこのような非道を続ければやがてスペインは没落するという危機感を抱いていました。シュナイダーは、自分の行動をラス・カサスに投影し、このままではドイツは没落してしまうという危機感を表明したかったのだと思います。

マチューカ 未知の戦士との戦い

1599年マチューカ著、青木康征訳 1994年 岩波新書(アンソロジー 新世界の挑戦12)

 マチューカは、コンキスタドル(征服者)として富と地位を求めてインディアスの各地を転戦します。軍人としての彼の能力は高く評価されていましたが、なかなか出世できませんでした。彼はヨーロッパに帰国中、たまたまラス・カサスと論争したセプルベダの著書を知って共鳴し、ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告(プレビシマ)」に対する反論書を書くことを決意します。これが本書「未知の戦士との戦い」です。
 彼はラス・カサスの著書の間違いを、かなり些細なことまでとりあげ、ラス・カサスの説の間違いを指摘していきます。インディオを生まれつき残虐で裏切り者である、と言います。それは戦士として直接インディオと戦ったマチューカにとっては嘘偽りのない事実だったことでしょう。また彼は、インディオと数えきれほどの戦いを行っており、敵が異なれば武器も戦術も異なります。それはまさに「未知の戦士との戦い(ミリシア)」であり、それなりに面白い内容であり、またその限りでは説得力があります。

 しかしマチューカとラス・カサスとの間には半世紀ほどの開きがあります。マチューカが生まれたのは1555年頃であり、ラス・カサスが死んだのが1556年で、この間にインディアスの状況は激変しています。ラス・カサスの時代にはインディアスをどの様に扱うか模索していた時代でしたが、マチューカの時代にはインディアスの植民地化は既成事実となっていました。ラス・カサスの時代には、なぜスペイン人はインディオに対して暴虐な扱いをするのかと問われましたが、マチューカの時代にはなぜインディオはスペイン人に反抗するのか、反抗するなら倒すしかないということになります。

 マチューカの主張は、コンキスタドルはラス・カサスが主張するような暴虐者ではないということ、またインディオへの武力行使は侵略ではなく、法に基づいて行われる懲罰であり、インディオはラス・カサスが主張するような善良な人間ではないということです。マチューカは、ラス・カサスが指摘する多くの事件の「発端と状況」を論証し、ラス・カサスが間違っていることを指摘します。しかしマチューカはもっと大きな「発端と状況」を見ていませんでした。すべての発端は、コロンブス以来のスペインによる侵略と暴虐であり、それゆえにインディオがスペイン人に強い敵意を示して攻撃してくるのは当然のことなのです。その意味で彼の視野は狭すぎました。しかし当面彼の著作は広く受け入れられ、逆にラス・カサスは忘れ去られていきます。