2015年8月22日土曜日

映画で孫文を観て

孫文
1986年に中国で制作された映画で、原題は「孫中山」です。中国では孫中山と呼ばれることが多いのですが、日本では孫文の名の方がよく知られています。中国革命の父と言われた孫文の半生を描いた映画ですが、もともと170分のオリジナル版を日本語版では125分に短縮していますので、話が飛んで分かりにくくなっています。孫文については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第28章帝国の崩壊とナショナリズム ナショナリズムの時代」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/28.html)を参照して下さい。
孫文は、中華民国(台湾)でも中華人民共和国でも、「革命の父」として尊敬されていますが、彼は日本の坂本竜馬と同じで、公式の資料にはあまり登場しません。彼は絶え間なく組織をつくり、絶え間なく反乱を起こし、絶え間なく失敗し続けます。1911年の辛亥革命は一応成功ということになりますが、その後、結局袁世凱の独裁ということになり、その後も結社の結成や反乱を繰り返し、1925年に「革命いまだならず」という言葉を残して死にました。したがって彼が公式の立場に立ったのは、辛亥革命後の臨時大総統だった数か月だけです。また、彼は資金集めのため世界中を旅し、国内より外国にいることの方が多い人でした。しかし、それでも中国革命における彼の業績を否定する人はいません。
孫文は、福建省の貧しい農民の子として生まれましたが、兄がハワイにいたため、ハワイで教育を受け、西洋思想に感化されます。帰国後香港で医学を学び、ポルトガルの植民地マカオで医師として開業します。日清戦争が始まった1894年にハワイで興中会を結成し、翌年武装蜂起しますが、失敗に終わります。そして映画は、この頃から始まります。その後日本に亡命しますが、日本では宮崎滔天や犬養毅など多くの人々の支援を受け、1905年には彼らの援助で、革命諸団体を結集して中国同盟会を結成します。映画では、この結成大会がかなり詳しく描かれています。日本人が、これほど中国の革命を援助したのには、いろいろな理由があろうかと思われますが、一つには、自由民権運動に挫折した人々が、彼らの夢を中国に託したかったのだろうと思われます。
一方、孫文にも日本に対して特別な思いがあったようです。彼は、明治維新と、それをひきおこした幕末の志士たちを、高く評価していました。「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」「わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした」と語りました。しかし、晩年には日本の露骨な侵略に危惧を抱いており、彼の死の前年の1924年に神戸での講演で、日本に対し「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問いかけました。
孫文は、その長い革命の経歴の中で、何度も日和見的とさえ思える方針転換をしてきました。また、見方によっては、無謀な蜂起で多くの有為な人々を死なせてきた、と言えなくもありません。しかし、彼は、2000年を超える中国専制王朝を終わらせ、中国の進むべき道筋を示したことは、間違いないでしょう。映画で観る孫文はまったくめげることなく、苦悩しながらも、何度でも立ち上がる不屈の革命家でした。その精神は、その後の中国に大きな影響を与えました。最後に彼は、1917年のロシア革命と1919年の五・四運動を目撃した後、従来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと転換し、共産党とも提携します。つまり彼にとっては、方法やイデオロギーが問題なのではなく、どうしたら中国を救えるか、ということが問題だったようです。

映画は、伝記風に逐一事実関係を追っているだけで、しかも内容が短縮されているため、私の知的関心を呼び起こすようなものはありませんでした。しかし孫文は、その功罪はいろいろあるにしても、その生涯だけで十分に感動を引き起こします。孫文はいよいよ革命が全国的な高まりを見せている中で、癌のために死亡しました。58歳でした。28歳の時に興中会を興してから、30年に及ぶ革命の人生でした。しかし中国では、この後日中戦争・国共内戦など、まだ長い苦難の時代が続くことになります。2千年を超える専制王朝の歴史を清算することは、容易なことではありませんでした。

1911

2011年に制作された中国・香港による合作映画です。「1911」とは、辛亥革命が勃発した年であり、なんとなく「9.11同時多発テロ」を連想しますが、この年は中国にとっては重要な年であり、この映画は辛亥革命百周年を記念して制作されました。この映画の主人公は、孫文の片腕だった黄興で、ジャッキー・チェンが演じていますが、この映画は革命で死んでいった多くの人々への鎮魂歌として制作されました。映画の冒頭で、「これは未来を信じて戦った、名もなき男達の魂の物語である」という字幕が出されます。
映画は、まず1907年における秋瑾の処刑の場面から始まります。秋瑾については、このブログの「映画で観る中国の四人の女性 秋瑾」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.html)を参照して下さい。処刑に先立って、彼女は心の中でつぶやきます。「私は革命のため死に赴く。革命のために死ぬ女性は、中国ではこの秋瑾が初めてだろう。革命を知らぬ世の人のため、私は家も子も捨てた。私が死ぬことが、革命とは何かの答えなのだ。革命とは、人々に風雨に耐える家を造ること、子供たちに平穏な世界を与えること、長年奴隷のように扱われてきた人々は、平安とは何かさえ忘れている。私は革命のために死ぬ。死は恐れるにも惜しむにも足りぬ。革命にこの身を捧げる喜びで、私は今この時至福の涙を流す。」この言葉が、革命で死んでいった多くの人々の心を代弁しています。
 1911年に中国同盟会は広州で蜂起しますが、またしても失敗に終わります。孫文にとって、1895年の最初の蜂起から、実に10回目の失敗です。しかし孫文はめげません。彼は再び、資金集めのために世界各地を奔走します。ところが、この年の10月に四川省で軍隊が反乱を起こし、これが辛亥革命に繋がっていきました。こうした反乱が起きた背景には色々ありますが、その一つとして清末の改革があります。1898年に光緒帝は変法自強運動と呼ばれる改革を実施しようとしましたが、西太后によって弾圧されてしまいます。その後義和団事件が起き、清朝の弱体化は決定的となります。そうした中で、西太后もかつて光緒帝が試みた改革の実施を許可します。
 そうした改革の一つとして、科挙の廃止と西欧式の教育による人材の育成があり、そのために多くの留学生が派遣されます。そして当時最も多く派遣されたのは、日本でした。中国は広大で、各地に清朝に対する不満を持つ人々がたくさんいても、お互いに知り合うことはほとんどありません。しかし日本に留学生として来れば、お互いに日本で知り合うようになります。また、日本は孫文がしばしば活動拠点とした場所であり、彼らは、日本で孫文の思想を学び、帰国していきます。
一方、日清戦争後中国では新軍と呼ばれる近代的な軍隊の編成が行われていました。そして、科挙が廃止されたため、多くの留学生が新軍に入隊しますが、その中に相当数の中国同盟会会員が含まれていました。彼らは、孫文の教えに従って、時が来れば蜂起する覚悟をしていました。そしてその時が来ました。失敗を重ねた孫文の革命は、無駄ではなかったのです。11回目の蜂起が、辛亥革命となります。革命派は、各省に決起したことを打電し、それに呼応して、18省の内15の省が清朝からの独立を宣言します。もはや清朝が生き延びる道はありません。
革命が勃発した時、孫文は資金集めのためアメリカに滞在していました。革命の知らせを受けた孫文は、直ちに帰国するのではなく、まずヨーロッパに立ち寄ります。当時清朝は、鉄道を担保にヨーロッパの国々から借金をしようとしていました。またも、清朝は国民の財産を列強に売り渡そうとしていたのです。実は四川省で起きた暴動の直接的な原因は、この鉄道と借款問題でした。孫文は、ここで清朝が列強から多額の資金を得れば、その資金で革命が弾圧されることを危惧し、列強の政財界の人々に、中国への借款を行わないよう説得してまわったのです。彼の説得が功を奏したのかどうかは分かりませんが、結局借款は行われませんでした。つまり列強は清朝を見限ったのです。これによって清朝の命綱が断ち切られることになります。さすが、孫文は国際人でした。
ここで清朝最大の軍事力をもつ袁世凱が登場してきます。彼は、若い時から出世欲が強く、2度科挙を受験しましたが、どちらも第一段階の試験で落第したため、軍人の道を選びました。朝鮮に赴任していた時には、朝鮮の政治の実権を握り、その下で農民反乱が起き、これをきっかけに日清戦争が起きて敗北します。その結果、上司の李鴻章が責任をとって辞職します。また光緒帝の改革に協力する約束をしたにも関わらず、西太后側に密告して改革を挫折させます。西太后の死が迫った時、死後光緒帝が復権するのを恐れ、光緒帝を暗殺させたとも言われています。山東省に赴任した時には、義和団を徹底的に弾圧して山東省から追い出しますが、追い出された義和団が北京に向かって義和団事件が起きます。義和団は列強によって鎮圧され、その際北京周辺の清軍は壊滅し、袁世凱の軍のみが強大となります。
そして、辛亥革命において、清朝の命令で四川暴動の鎮圧に向かいますが、途中で攻撃を止め、清朝と革命派を天秤にかけ始めました。彼は革命派と秘密裏に交渉し、自分を臨時大総統にするなら、皇帝を退位させると約束します。こうして最後の皇帝宣統帝は退位し、やがて袁世凱が中華民国の大総統に就任します。その後彼は革命派を徹底的に弾圧し、1916年には帝政を復活させて自ら皇帝となりますが、各界からの厳しい批判を受けて退位し、翌年死亡します。57歳でした。中国の近代史上でも、彼ほど評判の悪い人物は、他にいないのではないでしょうか。彼は、自分の小さい課題には対処できても、大局を見て行動するには相応しくない人物と評されています。中国の長い歴史の中で、王朝交替期のような混乱時代には、このような人物が多く現れ、それが混乱に拍車をかけたことでしょう。

 この映画の主人公は、一応黄興です。黄興は湖南省の名門出身で、1889年に蜂起して失敗し、日本に亡命します。彼は、1903年に華興会を組織し、さらに1905年に孫文とともに中国同盟会を結成します。その後彼は、遊説、党員指導、蜂起など積極的な活動を推進し、1911年には辛亥革命を指導します。軍務が苦手な孫文に代わって、常に第一線で戦い、袁世凱に従うことを拒否し、反袁世凱運動を推進中、1916年に病死しました。52歳でした。革命のために若くして死んでいった多くの若者たちと同様に、彼の一生も革命に捧げた一生でした。そして孫文は、さらに10年間戦い続けることになります。

宋家の三姉妹

1997年制作の香港・日本による合作映画で、原題は「宋家皇朝」です。宋家という大財閥の三人の娘の運命を描いています。長女靄齢(あいれい)は大財閥孔祥熙(こう しょうき)に嫁ぎ、次女の慶齢は孫文に嫁ぎ、三女の美齢は蔣介石に嫁ぎます。そして、中国革命・日中戦争・国共内戦という動乱の時代を通して別れ別れになっていきます。靄齢はアメリカに、慶齢は本土に、美齢は台湾に住むことになります。
孫文が革命運動で苦闘していた頃、上海の大財閥宋嘉樹は、孫文の支援者でした。宋は、もともとメソジスト教会の宣教師でしたが、方向転換して財閥に成長しました。上の三人の娘は宋嘉樹の娘で、三人とも10代前半にアメリカに留学し、二十歳過ぎまでアメリカで教育を受けます。長女の靄齢は、帰国後、東京で孫文の秘書を務めますが、その時大財閥の孔祥熙と出会い、1914年に結婚します。二大財閥の結合です。1914年から慶齢が孫文の秘書を務めますが、やがて二人は愛し合い、結婚することになりますが、父親が猛反対します。あれ程開明的な父も、娘が自分の親友と結婚するなど想像もしなかったのでしょう。慶齢は反対を押し切って一人で東京へ行き、孫文と結婚します。反対されていたとはいえ、中国の大革命家と大財閥が、血縁で結ばれたことになります。
その後孫文のもとで蔣介石が台頭してきます。彼は日本で軍事訓練を受け、近代的な軍事技術を身に着けていました。彼はかなり実直な性格で、酒も飲まず煙草も吸わず、質素な生活をし、孫文を心底崇拝していました。一時はロシア語を勉強して「共産党宣言」などを読み、「赤い将軍」とまで呼ばれましたが、ソ連に留学し、三民主義を批判されて、共産主義に反発するようになります。
彼は孫文に信頼されて軍の司令官となり、孫文の死後、1926年に孫文の悲願だった北伐を開始します。そして1927年に宋家の三女美齢と結婚し、これによって蔣介石は大財閥の支持を得られるようになります。それとともに、蔣介石は共産党に対する弾圧を強め、その結果孫文の妻だった慶齢との関係が疎遠となって行きます。日中戦争中には、一致抗日が掲げられたため、三姉妹はともに各地の戦場で慰問を行い、抗日戦争の象徴的存在となりました。しかしやがて三人は離れ離れになります。
靄齢の夫孔祥熙は国民政府の財務を担当していましたが、個人的蓄財に目に余るものがあり、批判を受けて辞職し、1947年靄齢とともにアメリカに移住し、靄齢は1973年にニューヨークで死亡しました。84歳でした。一方、日中戦争終結後、国民党と共産党との間で内戦が始まり、敗北した蔣介石は美齢とともに台湾に拠点を移します。慶齢は中国に残り、孫文の妻として多くの要職を与えられますが、ほとんどは名誉職でした。文化大革命の時代に、蔣介石の妻の姉として批判されましたが、毛沢東による「文革保護対象名簿」の第一位として保護され、1981年に死亡しました。88歳でした。台湾に渡った美齢は、政治の表舞台に立って活躍しますが、1975年の蔣介石の死後しだいに影響力を失い、同年にアメリカへ移住しました。その後もしばしば台湾に帰国し、影響力を行使しようとしましたが、台湾で民主化が進むにつれ、ますます影響力を失い、晩年はニューヨークの豪邸で暮らし、2003年に死亡しました。105歳でした。
映画は、日中合作ということもあって、当たり障りのない内容で、激動の時代を生きた三姉妹を中心に、事実関係を追うのみでした。時には、西安事件の顛末など興味を引く内容もありましたが、何しろ3人を主人公にして激動の時代を描くわけですから、歴史的事件の多くは素通りでした。「宋家の三姉妹」というのは、すでに生前からマスコミでも取り上げられ、世界的に有名でした。もし、共産党政権が成立していなかったら、中国には「宋王朝」が成立していたかもしれません。

ところで、中国には客家と呼ばれる人々がいます。中国の長い歴史の過程で、華北で戦乱が続くと、多くの人々が南方に移住し、そこに定住するようになります。こうしたことが、歴史上何度も繰り返されました。彼らは、現地の人々から見ればよそ者=客であって、しばしば迫害されたため、孤立した生活をしていました。こうした人々には、その言葉に「古代漢語」が残っていたりして、民俗学的にも大変興味深いのですが、ここでは、この映画に関わる範囲だけで述べたいと思います。
彼らはよそ者で土地の所有が困難だったため、商業に携わる人が多く、また東南アジアなどへ華僑として移住する人々もいました。彼らは、抑圧されていたため、結束力がつよく、広範囲に及ぶネットワークが形成されていました。19世紀半ばに太平天国の乱を起こした洪秀全は客家の出身であり、孫文も客家の出身でした。孫文が革命のための寄付を華僑に求めますが、おそらく客家のネットワークを利用したものと思われます。そしてこの映画の宋家も客家であり、したがって宋家の三姉妹は客家だったわけです。また、後に中華人民共和国で実権を握る鄧小平も客家であり、シンガポールの近代化を果たしたリー・クアンユー(李光耀)、後に台湾の総統となる李登輝なども客家の出身です。

中国近代史を、こうした視点で見ると、従来とはことなった近代史像が見えてくるのではないかと思います。


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