阿片戦争
1997年に中国(中華人民共和国)で制作された映画です。1997年というのはイギリスから中国に香港が返還された年であり、それを記念して、この映画が制作されました。阿片戦争は、1840年に始まり、1842年の南京条約で終わるわけですが、この条約で中国は香港島をイギリスに割譲します。さらにアロー戦争後に締結された1860年の北京条約で、九龍半島の一部がイギリスに割譲され、1898年にイギリスは九龍半島の残りの部分を、99年間の期限で租借します。この期限が1997年に切れるため、この年に返還されたわけです。
映画は、かなり国威発揚的な傾向をもち、また内容的にも知っていることがほとんどだったので、あまり得るものがありませんでした。それでも、幾つか興味深い場面がありました。まづ第一は、イギリス人から没収した阿片を焼却する場面です。何しろ没収された阿片は1400トン以上、2万数千箱に及びますので、これを処分するのは大変です。その方法は、海辺に人口池をつくって、その中に阿片を廃棄したうえ、そこに塩を入れ、次に石灰を入れて中和させ、それを海の中へ放出するというものです。映画はこの処分の場面を再現していますので、大変壮観であり、興味深い映像でした。
また、当時のイギリス議会で、中国との開戦について議論される場面がありました。相当強い、かつ真っ当な反対意見がありましたが、賛成271票、反対262票の僅差で艦隊の派遣が決定されます。中国が禁止している阿片を密輸し、それを没収されたからという理由で戦争を仕掛けたわけですから、イギリスの側に正義はまったくないわけですが、貿易が繁栄の基盤であるイギリスにとって、貿易を拒否されることは破滅につながりますので、結局、正義より利益が優先されたわけです。また、ほんの少しだけヴィクトリア女王が登場しますが、彼女は1837年に18歳で即位し、当時二十歳を少し過ぎたばかりでした(このブログの「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html参照)。
話は前後しますが、当時の皇帝道光帝は、当時の高官の中で最も気骨ある人物である林則徐に阿片の取締りを命じます。最初、林則徐は病を理由に辞退にしますが、道光帝は彼の病を分析します。①皇帝は重い任務を与えても権力を授けず制約ばかり多いこと、②任務を遂行しようとしても朝廷の大臣の非難を浴び、志半ばに終えかねないこと、③皇帝の考えが変わりやすく、見通しを立てにくいこと、以上です。まさに炯眼であり、これだけ見ると道光帝は名君のように思えますが、結局道光帝は三つとも約束を守らず、最後には林則徐を罷免してしまいます。
林則徐は、広州に赴任して阿片の取締りを開始すると、まもなく自分が国際情勢にまったく無知であったことに気づきます。そのためイギリスが艦隊を派遣してくるとは、夢にも思っていませんでした。彼は失脚した後、古い友人である魏源に、自分が集めた資料を与え、もっと多くの資料を集めてくれるように託します。魏源は、これに基づいて「海国図誌」を著し、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御すべき、と主張しました。しかし彼の主張は、中国ではあまり問題にされませんでした。というのは、中国が外敵に敗れたのは、これが最初ではなかったのです。その長い歴史の中で、何度も異民族との戦いに敗北し、時には中国全土を異民族に支配されることもありました。第一、清朝自体が異民族による王朝です。しかし、結局、異民族は中国の文明に同化し、偉大な中華の文明は維持されてきたのです。そして中国の人々は、今回も同様であると考えたのですが、今回は違っていました。
魏源の「海国図誌」に注目したのは、日本でした。吉田松陰や佐久間象山らが「海国図誌」を読み、早くから警告を発していたのです。われわれは、林則徐や魏源に感謝すべきだと思います。
北京の55日
1963年にアメリカで制作された映画で、1900~1901年に中国=清で起きた義和団の乱を扱っています。時代考証はかなりいいかげんですが、1963年という時代では中国ロケは無理なので、ある程度やむを得ないとは思います。
まず、この反乱の背景について、2点だけ触れておきたいと思います。まづ第一に、1895年に清が日清戦争に敗れた後、中国は列強によって徹底的に分割され、この反乱が起きた時は、分割の真っ最中でした。列強は、あたかも蟻が獲物に群がるがごとく、中国を食い尽くそうとしていました。もちろん、その列強の中には、日本も含まれていました。
もう一つの背景は、キリスト教の問題でした。アロー戦争の後、キリスト教布教の自由が認められ、以後多くの外国人宣教師たちが中国で布教活動を行うようになりました。そして、不平等条約によって彼ら外国人に対しては、中国には裁判権がなかったため、かなり強引な布教活動が行われました。しかも、キリスト教に改宗した中国人にも同様の特権が認められていました。こうしたことが、民衆の間でキリスト教に対する不信感を強めていきます。例えば、土地の境界を巡る争いが起きた場合、宣教師が介入し、その特権的な地位を利用して、役人にキリスト教徒に有利な裁定を下させるといったことが、至る所で起きてきます。こうした状況に接している民衆にとっては、キリスト教徒こそ侵略の手先であると映り、各地でキリスト教徒を襲う事件が起きてきます。
反乱が起きた山東省は、孔子の生誕地曲阜がある場所ですが、19世紀末にこの地にドイツが急速に進出し、キリスト教の宣教活動も活発に行われたため、地元の民衆との対立が頻発するようになります。しかし、役人や政府は宣教師とのもめ事を嫌って、宣教師やキリスト教徒に有利な裁定を下すことが多かったため、民衆は地元の梅花拳という武術集団に助けを求めました。梅花拳は、歴史ある梅花拳全体に累が及ぶのを避けるため義和拳と改名し、宣教師を襲うようになりました。この義和拳を中心に、さまざまな人々や集団が集まり、その集団が義和団と呼ばれるようになります。なお、戦後日本で創設された少林寺拳法は、この義和拳の流れを汲むそうです。
義和団は、「扶清滅洋」(清を扶〔たす〕け洋を滅ぼすべし)というスローガンを掲げており、また清朝も列強の侵略を不愉快に思っていたため、義和団の弾圧には手心を加えていました。そうした中で、1900年6月21日に西太后は反乱を支持して列強に宣戦布告します。その結果北京における外国人居留地は義和団に包囲されてしまいます。今日から見れば、列強への宣戦布告は愚かな選択だったかもしれませんが、中国における列強の振る舞いはあまりに無礼かつ非道なものでした。そして映画は、ここから始まりますが、映画では列強の非道については触れられておらず、清朝の非道と義和団の野蛮で残虐な行為が語られ、それに対して英雄的に戦う欧米人の姿が描き出されるだけです。
当時北京の公使館区域には、約1000名の外国人と、ここに逃げ込んだ3000名ほどの中国人キリスト教徒がおり、護衛兵は500名足らずでした。そして映画は、主人公であるアメリカのルイス大佐とその部下が北京に入ったところから始まります。当時、日本を含めて11カ国の公使がおり、彼らは清朝の警告に従って退去するか、援軍の到着まで籠城するかを議論し、結局籠城することに決定しました。数十万人の義和団に包囲され、500人足らずの護衛兵で防戦するなど不可能で、しかも援軍は義和団に阻まれて進むことができない状態にありました。しかし、8月14日に援軍が到着し、わずか1日で義和団の包囲を突破してしまいます。映画は、この55日間の「文明人」による「野蛮人」に対する「英雄的な」戦いを描いています。
映画には、柴五郎中佐という日本人の軍人が登場し、伊丹一三(後の伊丹十三)が演じていました。映画ではほんのわずかしか登場しませんが、実は彼はこの籠城戦で主要な役割を果たしました。11か国もの人々がおり、意思疎通が困難で統制がとれない中で、彼は英語・フランス語・中国語に精通し、各国間の意志疎通を図り、事実上彼が籠城戦の指揮をとっていました。北京解放後、彼は欧米各国から賞賛を受け、欧米各国から勲章授与が相次ぎました。そして彼の仲介で、1902年に日英同盟が締結されることになります。彼は1930年に退役し、1945年に日本が敗北した後自決しますが果たせず、まもなくその怪我がもとで病死します。85歳でした。明治以来の多くの対外戦争に関わり、敗戦を目撃し、どのような思いで死んでいったのでしょうか。
話が逸れましたが、列強は1年間北京を占領し、その間に日本を含めた列強は掠奪の限りをつくし、その上清朝に莫大な賠償金を要求したのですから、列強の強欲さにはあきれ返ります。しかし、さすがの列強も少し反省し、中国分割は一段落し、宣教師たちも少し反省して傲慢さを控えました。そして清朝の滅亡は、もはやだれの目にも明らかでした。清朝滅亡まで、あと10年です。
映画は、時代考証のいい加減さと、歴史認識のいい加減さから言って、駄作の部類に入るでしょう。前にみた「映画でアフリカを観て(3) カーツーム」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/3.html)では、反乱を起こしたマフディー側の立場も描いていましたが、この映画では義和団の立場は描かれていませんでした。義和団の乱は民衆の激しい怒りであり、この後まだ半世紀も続く動乱の出発点でした。
ラスト・エンペラー
1988年にイタリア・イギリス・中国の合作による映画で、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の生涯を描いています。溥儀は「わが半生」という自伝を書き残しており、この映画はこの自伝をもとに制作されました。また、溥儀の家庭教師で、スコットランド人のジョンストンが「紫禁城のたそがれ」という本を書き残しており、この本も映画の制作で参考にされているようです。また、この映画では紫禁城で撮影が行われており、前に観た「北京の55日」に比べると、時代考証が格段に向上しています。なお、この映画で使用されている言語は、英語です。
清朝末期には西太后が実権を握っており、光緒帝は事実上幽閉されていました。そして1908年に光緒帝が死去(毒殺)し、西太后が溥儀を後継者に指名、そして溥儀が宣統帝として即位します。当時溥儀は2歳10カ月でした。この間の事情については、「映画で観る中国の四人の女性 蒼穹の昴」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.html)を参照して下さい。
1911年、溥儀が5歳の時に辛亥革命が起きて、清朝は滅亡します。しかし袁世凱との取引により、皇帝はそのまま紫禁城で暮らし、紫禁城内では皇帝を名乗ることが認められ、さらに中華民国から毎年相当額の年金が与えられることになりました。したがって、5歳の溥儀は、革命が起き、清朝が滅びたことも知らず、従来通りの生活を続けました。ただし、溥儀が城外にでることは禁止されていました。こうして、紫禁城内では、清朝の慣行が、何事もなかったかのように、そのまま続けられることになりました。紫禁城の内部では、あたかも時が止まったかのようでした。
1919年、中国では五・四運動が起き、本格的な民族運動が高まっていた時代でした。そうした中で、ジョンストンというイギリスの植民地官が紫禁城を訪問します。彼は、溥儀の家庭教師として派遣されたのでした。彼は、東洋学に精通した教養ある人物で、溥儀は彼から外の世界を学びます。やがて溥儀は、ジョンストンの影響を受けて、当時なお1000人もいたとされる宦官や女官を追放するなど、宮廷の改革を断行します。しかし外の世界は激しく動いており、北京が軍閥の支配下に入ると、溥儀は紫禁城から出ることを命じられます。
出ろと言われても行くところがありません。彼は列強の大使館に保護を求めましたが、どの国も面倒に巻き込まれることを嫌って、断ってきました。しかし日本は、即座に溥儀の受け入れを決定し、天津の租界で彼を匿います。ただし、この段階で日本が溥儀を利用しようと思っていた分けではないようです。前年に起きた関東大震災に際して、溥儀は日本に巨額の義援金を送っており、溥儀を受け入れたのは、それに対する純粋な感謝の気持ちだったと思われます。しかし、やがて日本が本格的な侵略を開始し、満州国の建国を考えるようになると、溥儀に白羽の矢が当てられることになります。
彼は、1932年に満州国執政となり、さらに1934年に満州国皇帝となります。これは、満州国を再建したいという溥儀の夢ではありましたが、現実は日本の植民地の傀儡政権以上のものではありませんでした。日本は溥儀に訪日させて、天皇と親密さを演出したり、さらに溥儀の弟溥傑と天皇の遠縁に当たる華族の娘を結婚させて、日本と満州の一体化を進めます。この間日本は満州で、アヘンの製造・販売や細菌兵器の製造と人体実験を行っていたのです。
1945年に満州国が崩壊すると、溥儀はソ連軍の捕虜となり、1949年に中華人民共和国が成立すると、溥儀の身柄は中国に引き渡されます。そして映画は、ここから始まります。ここから過去を回想し、現在と過去を往復しながら、溥儀の半生が描かれます。その後溥儀は戦犯管理所に移され、そこで刑務所暮らしをします。1959年に釈放されますが、彼には行くところも、生活の仕方も分かりません。ところで、周恩来は名門の出であり、溥儀に同情していたようで、この時溥儀に面会し、植物園で働くように手配します。はるか以前に、どこかで中国制作の「わが半生」という映画を観ました。今回この映画の存在を確認できませんでしたが、確かに観ました。そこで周恩来は溥儀に言います。「貴方が皇帝となったのは2歳の時であり、革命が起きたのは5歳の時でしたから、貴方にはなんの責任もない。しかし、満州国皇帝となった時は、大人であった」と。まさにその通りです。
その後溥儀は、文史研究委員会専門委員で働き、また民間の女性と結婚します。この間に彼は「わが半生」を執筆しました。そして文化大革命が吹き荒れる中で、1967年に癌で死亡しました。61歳でした。まさに波乱に富んだ人生であり、見方によれば哀れな一生といえますが、この激動の時代には多くの人々が、動乱・戦争・飢餓で死んで行きましたので、彼一人が哀れだったわけではありません。なお彼が著した「わが半生」は、共産党政権の監視下で書かれたものなので、彼の思いのすべてを書くことはできなかったと思いますが、ジョンストンの「紫禁城のたそがれ」とともに、清朝宮廷の内部を描き出した貴重な資料となっています。
最期に、溥儀の弟溥傑について触れておきたいと思います。彼の一生も、ほぼ溥儀と同じでしたが、日本の華族の娘嵯峨宏(さがひろ)と結婚し、二人の女の子がいました。終戦後、夫はソ連に抑留されたため、宏は二人の娘を連れて、1年4カ月かけて日本に戻ります。この当時の事情については、宏自身が「流転の王妃」に書き残しています。その後三人は嵯峨家のもとで静かに暮らしますが、長女の慧生(えいせい)は、1957年に学習院大学の同級生だった大久保武道と伊豆半島天城山でピストル心中します。嵯峨家は、直ちに大久保による無理心中だと主張しますが、学習院大学の同級生達は、大久保と慧生の往復書簡を纏めて『われ御身を愛す』として出版し、2人は同意の上での心中であったと主張しています。そこで慧生は、「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書いています。いずれにしても、この事件の動機や顛末については、不明な点が多いようです。
1960年に溥傑が釈放されると、宏は中国に帰り、文化大革命の困難な時代を乗り越えて中国で暮らし、1987年に北京で死去します。この間溥傑は何度も日本を訪れ、日中の架け橋としての役割を担い、1994年に北京で死去しました。87歳でした。一方、次女の嫮生(こせい)は、ほとんど日本で暮らし、結婚して福永こ生となって5人の子をもうけ、2013年現在存命中だそうです。溥儀には子がいなかったため、清朝最後の皇帝の血筋は、彼女によって引き継がれています。
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