2007年のアメリカ映画で、アメリカで人気のある西部の無法者ジェシー・ジェームズを主人公とした映画です。西部劇では、早打ちのガンマン、インディアンと戦う騎兵隊、カウボーイが主役でしたが、この映画では銀行強盗が主役です。
この映画の舞台となったのは、ミズーリ州です。ミズーリ州は、奴隷州ではありましたが、一人の農場主が所有する奴隷は5人以下という場合が多く、奴隷制が経済の根幹を形成していた分けではありませんでしたので、南北戦争に際して、北軍につくか南軍につくかで意見が分かれてしまいました。そして南軍を支持する人たちはゲリラとなって北軍と戦いますが、その中にジェシー・ジェームズもいました。彼は、1864年16歳の時に兄とともにゲリラに参加し、戦争が終わった後にも、彼は兄とともに銀行強盗、列車強盗を繰り返し、民衆の間では憎い北部を苦しめる義賊として、大変人気がありました。1866年2月13日に、ジェシー・ジェイムズが世界初の銀行強盗に成功したことから、2月13日は「銀行強盗の日」となっているそうです。アメリカというのは変な国ですね。
ジェシー・ジェームズについては、多くの真偽不明のエピソードが残っており、以下にウイキペディアに従って、二つのエピソードを述べます。
1872年に競馬が終了した後、会計係が収益を集めて10,000ドルを銀行へ輸送しようとした時、ジェシーたちが突如襲いかかり、金を奪って去っていきました。銃で撃たれたり死亡したものはいませんでしたが、ただ少女が一人、馬の蹄にひっかけられて怪我をしてしまいました。事件後まもなく「タイムズ」に一通の投書が届けられ、少女への治療代を支払う意思が表明され、「自分たちは何百万ドルを盗んでも咎められない政治家たちよりは道義的に優れていることと、自分たちは自衛のため以外に人を殺さず、金持ちから金を奪って貧乏人に配っている」と釈明がなされていたとのことです。まるで鼠小僧です。
また、ジェシーたちがある農家で未亡人から食事をご馳走になったおり、女性から「この農場でもてなせるのも今日までで、明日からは1,400ドルの借金のために人手に渡る」と打ち明けられました。するとジェシーたちは1,400ドルを贈り物として未亡人に残し、農家に借金取りが訪れ1,400ドルを取り立てて帰っていきましたが、帰り道にジェシーたちが待ち伏せており、1,400ドルを取り返したということです。これらの話はいくらなんでも出来すぎで、誰かの創作と考えた方がよさそうです。
映画では、ジェシーを崇拝する若者が彼の兄とともに、ジェシーにかけられた懸賞金欲しさと、ジェシーへの愛憎相俟って、1882年にジェシーを殺害するに至ります。そこに至る両者の精神的な葛藤は、かなり見応えのあるものでした。そしてジェシーの葬儀には多くの人々が参列し、彼の死を悼みました。ジェシーが34歳の時でした。それに対して、ジェシーを暗殺した兄弟は、人々から卑怯者と罵られ、二人とも最後は自殺することになります。こうした民衆の心情は、日本で源義経を称賛する判官贔屓と似た側面があるのかもしれませんが、同時に西部というほとんど無法地帯で、自力で逞しく生きていく人々の共感があるのかもしれません。ビリー・ザ・キッド
この時代に活躍した西部のアウトローとして、ビリー・ザ・キッドやワイアット・アープなどが有名です。ビリー・ザ・キッドは、12歳の時に人を殺し、1881年に21歳で殺されるまでに21人殺したとされます。何か数字合わせのようで、あまり信用できませんが、写真にあるように、華奢な体つきでハンサム、射撃と騎乗の腕は相当なものだったようです。映画などでは、弱きを助け強きをくじく義賊として描かれることが多いようです。ワイアット・アープはバッファロー狩りから始まり、保安官助手を務めたり、賭博場や娼館を経営したり、OK牧場で決闘をしたり、まさに法と無法の両側で生きた人物でした。彼は1929年まで生きましたので、西部開拓時代の伝説的な生き証人として、映画の西部劇の制作にも影響を与えました。
この映画でもう一つ興味をもったのは、ピンカートン探偵社が出てきたことです。「探偵」という職業は、警察組織が未熟な時代に、警察や個人から依頼を受けて、捜索や問題の処理をする職業のことで、シャーロック・ホームズなど小説で名探偵と称される人々が登場します。これに対してピンカートン探偵社は桁外れでした。1850年代に大統領候補だったリンカーンの暗殺を未然に防いで有名になり、以後要人の身辺警護を依頼されたり、大企業に雇われて労働組合のストと破りなどで、実績を上げます。そして映画では、政府がピンカートン探偵社にジェシーの逮捕・殺害を依頼し、ジェシーを暗殺した兄弟が、ピンカートン探偵社のスパイだったことが暗示されています。なお、同探偵社は、最盛期にはアメリカ陸軍の将兵を上回る人数の探偵を雇用しており、今日でも世界有数の警備会社です。
19世紀後半の西部は無法地帯であり、そこで生きる人々の間に様々な伝説が生まれました。その伝説の真偽はともかく、こうした伝説を通じて、善きにつけ悪しきにつけ、「アメリカ的」なものが形成されていきます。東部沿岸地帯の人々は、長くイギリスへのコンプレックスを持ち続けますが、西部ではイギリスなどとは何の関係もない人々が、無法地帯に独自の社会を形成しつつあったのです。
遥かなる大地へ
遥かなる大地へ
1992年にアメリカで制作された映画で、アメリカン・ドリームをテーマとしていますが、その背景としてアイルランド問題と西部の開拓問題を扱っています。
アイルランドとイギリスの間には、宗教問題・自治問題・土地問題という三つの問題があります。アイルランドはカトリックの国であり、17世紀にピューリタンのクロムウェルがアイルランドを征服して以来、宗教問題と自治問題が発生します。さらにクロムウェルはアイルランドのほとんどの土地をイギリスの不在地主に与え、農民を小作農民とし、食糧をイギリスに輸出していました。しかも、アイルランド人は土地を分割相続する風習があったため、土地は零細化し、さらに地主は小作料を高くするために恣意的に小作人を追い出しました。これに対して農民の不満が高まっていきます。これが土地問題です。
こうした中で、1846年にジャガイモ飢饉が起きます。農民たちは、小作料のかからない荒地でジャガイモを栽培し、それが彼らの主食となっていました。ジャガイモは中南米の原産ですが、いまやそれがアイルランド農民の命綱となっていたわけです。ところが1846年にほとんどのジャガイモが立ち枯れし、100万人を超える人々が餓死したと言われます。ジャガイモの立ち枯れには色々な要素が複合的に作用していますが、直接的にはウィルスの感染でした。そして問題は、ジャガイモの立ち枯れにあるのではなく、その後の処置にありました。
実はジャガイモの立ち枯れはアメリカでもヨーロッパの他の国でも起きていたのですが、アイルランドほど重大な問題に発展しませんでした。つまり他の国では積極的に農民に食糧援助が行われたのに対し、アイルランドではこの時代にも食糧が輸出されていたのです。つまり飢餓輸出です。その背景にはイギリスの労働問題があったようです。当時イギリスでは労働運動が激化していたため、彼らに安い食糧を提供する必要がありました。さらにアイルランドから低賃金労働者を導入して、イギリスの労働者に対抗させるという意図もあったと思われます。こうしたイギリスの態度が、破滅的な飢饉を引き起こすことになります。
アイルランドでは、多くの餓死者が出る中で、多くの人々が故郷を捨てて世界各地に移民として流出していきました。はっきりしたことは分かりませんが、飢饉が起きてから10年後に人口が半減したといわれ、今日でもアイルランドの人口は飢饉以前に回復していません。その後もアイルランド人の移民は続き、とくにアメリカへの移民が多かったようです。そうした移民のなかに、後に第35代アメリカ大統領となるジョン・F・ケネディの祖先もいました。当時アメリカでは産業が急速に発展し 、多くの労働者を必要としていましたので、まさに流出する側と流入する側の思惑が一致した分けです。
映画は、1892年のアイルランドから始まります。農民の息子ジョセフが父を殺された復讐のために地主の館に行きます。ところがその屋敷にシャノンという変な娘がいました。彼女は田舎の堅苦しい生活が嫌いで、アメリカで華やかな生活をしたいと願っていました。しかし女一人での旅はできなかったので、彼女はジョセフに、交通費を払うのでアメリカまで連れて行って欲しいと頼みます。アメリカでは、誰でも土地が貰えると聞いたジョセフは、1892年に彼女とともにアメリカに旅立つことになります。自分の土地を手に入れる、というのが彼の夢でした。
彼女はある程度のお金を用意していましたが、ボストン港に着くと詐欺師にたちまち巻き上げられ、一文無しになってしまいます。その後二人はどん底生活をし、時には空き巣に入ったこともありました。その後いろいろあって、二人は土地を手に入れるため、西部に向かいます。
1830年代から、インディアンはオクラホマに強制移住させられた話は、すでに述べました (「映画でアメリカ史を観る(3)」) 。それ以来オクラホマはインディアンの保留地となっていました。オクラホマとは、「赤い人々」を意味します。ところが、19世紀末になると、鉄道会社がインディアンの土地の半分以上を取り上げ、これを開拓者に分配することになりました。特定の日時に開拓者たちを集め、一斉にスタートして早い者勝ちで土地を手に入れるというもので、これをランドラッシュといいます。最初のランドラッシュは1889年に行われ、1895年までに5回行われます。ジョセフたちが参加したランドラッシュは、多分1893年のものと思われ、最大規模のランドラッシュでした。
ジョセフとシャノンは土地を手に入れることに成功し、同時に二人が愛し合っていることに気づき、こうして二人は、夢だった自分の土地を耕し、そこで生きていくことになります。これは、典型的なアメリカン・ドリームの物語です。しかしこのアメリカン・ドリームは、インディアンの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなりません。そしてこの夢は長つづきしませんでした。この夢は、次の映画で打ち砕かれることになります。
映画の内容は単純でしたが、映画そのものは面白く観ることができました。とくにランドラッシュの場面は壮観でした。
怒りの葡萄
1940年に制作されたアメリカ映画で、スタインベックの同名小説を映画化したものです。
映画の舞台は1930年代のオクラホマです。オクラホマは、グレイトプレーンズの一角を占める肥沃な土地ですが、強風や雷雨が多く、世界有数の竜巻の発生地でもあります。それでも第一次世界大戦中には戦争特需で農業は発展し、農民は借金をして経営を拡大していました。ところが戦後農産物需要が減り、さらに世界恐慌で価格が暴落します。そして、農民に壊滅的な打撃を与えたのは、ダストボールです。
ダストボールの原因は、未熟な農法にあります。より生産性を高めるため、過剰なスキ込みによって草が除去され、肥沃土は曝され、そこへ日照りが続いて土は乾燥し、土埃とって東方へと吹き飛ばされます。そのほとんどは巨大な黒雲となって東海岸にまで達し、大西洋へと失われていきました。要するにダストボールは、農業の開拓を自然の限界まで引き上げることによって発生した人災だったのです。その結果、多くの農民が東部の資本家によって借金のカタとして土地を奪われ、資本家は集積した土地でトラクターを用いた大規模な農業経営を行うようになります。
土地を失った農民は、土地と仕事がいくらでもある「乳の密のあふれる土地」とうわさされたカリフォルニアに向かいます。この時代のオクラホマからの移住者は、30万から40万と見積もられており、その中には、前の映画で観たジョセフたちも含まれていたかも知れません。そしてこの映画では、トムは一族10人とともに、おんぼろのトラックに乗ってカリフォルニアに向かいました。それは、モーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出し、乳と密の溢れるイスラエルへ向かう姿を彷彿させます。
しかしカリフォルニアには土地も仕事もありませんでした。例えば、「500人の労働者必要 高給優遇」と書いてある広告を2000枚配布すると、5000人の労働者が集まってきます。そうすると仕事の取り合いになり、賃金が安くなります。さらにストライキを起こせば、警察が介入し、下手をすると射殺されます。これは誰それが悪いといった問題ではなく、富めるものが貧しいものをとことん搾取するという社会の構造が問題なのです。
ワインを造るには葡萄を足で踏み潰します。映画は、この踏み潰された葡萄を踏み潰された人間にたとえ、そうした人間にも怒りがあることを伝えています。やがてトムは家族のもとを離れ、地下に潜伏して労働運動を行おうと決意します。そして残された家族も、力強く生きて行こうと決意して、映画は終わります。ただ、原作はもう少し複雑で、崇高な終わり方をしています。トムの妹がトラックの中で流産し嘆き悲しみますが、たまたま飢え死にしそうな年寄りに自分の乳を与え、満足そうに笑みを浮かべて終わります。このように踏み潰された人にこそ、人間の真の崇高さがあるということでしょうか。
1939年にスタインベックの「怒りの葡萄」が発表されると、ジョン・フォードは直ちにこの映画の主演を申し出たそうです。このブログでも彼が主演とした「未知への飛行」を掲載しており、また後に述べる「12人の怒れる男」でも彼が主演を演じますが、いずれも寡黙で多くを語らず、胸に怒りを秘めて不正に立ち向かう役を演じています。この小説と映画は大評判になるとともに、保守層からは激しい批判を受けました。しかしこの小説でスタインベックはノーベル文学賞を受賞し、この映画はアカデミー賞を受賞しています。
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