2015年2月14日土曜日

映画でアメリカを観る(5)

死刑台のメロディ

1971年のイタリア/フランスの合作映画で、使用されている言葉はイタリア語です。この映画の原題は「サッコとヴァンゼッティ」で、1920年代にアメリカで起きたサッコ・バンゼッティ事件という冤罪事件を扱っています。
 第一次世界大戦後、アメリカは世界の経済大国となり、経済は空前の発展を迎えましたが、その繁栄を享受していたのは、ほんの一部の人々でしかありませんでした。そして富める者が最も恐れているのは革命であり、実際に1917年にロシア革命が起こっていました。こうした中で、警察はストライキや左翼思想家たちに対する弾圧を強めていました。そして1920年にマサチューセッツ州で強盗事件が起きると、アナキストでイタリア系移民だったサッコとヴァンゼッティが逮捕されました。
 アナキズムの定義は非常に多様で、一言で述べることは困難ですが、少なくとも「無政府主義」という日本語の訳からくるイメージ、つまり「無秩序な無政府状態を望む」とは異なっています。総じてアナキストは巨大な国家権力を嫌い、その意味ではマルクス主義とは相容れません。一部には権力と戦うため武力を用いることもありますが、多くは精神の自由と平和を求める人々です。映画によれば、サッコとヴァンゼッティは、真面目に働いてもなお、踏みにじられるような社会を正したいと考えていました。しかし、ブルジョワにとっては、共産主義も社会主義もアナキズムも皆「赤」であり、徹底的に弾圧すべき対象でした。
 この時代には、前に述べた「世界を揺るがした十日間」の著者ジョン・リードも迫害されました。また、一時鳴りを潜めていた人種主義集団クー・クラックス・クランも活動を活発化させていました。そしてサッコとヴァンゼッティの事件においては、警察も検察も裁判官も、さらに陪審員までも偏見の塊でした。彼らにとって二人が強盗事件の犯人かどうかはどうでもよいことで、二人が「赤」かどうかが問題だっただけでした。
 アメリカには建国以来、WASP(ワスプ)=「""はホワイト、"AS"はアングロ・サクソン、""はプロテスタント」であることが、真のアメリカ人の条件であり、こうした信念がインディアンや黒人を迫害し、またセーラムで起きたような事件の背景でした。19世紀末頃から南欧系や東欧系の移民が急増し、彼らの多くはカトリックやユダヤ人だったため、アングロ・サクソン系の人々は不快感を抱いていました。この頃プロテスタント的な禁欲主義に基づく禁酒法が制定されたのも、こうしたことを背景としています。またこの時代には、アジア系の移民を排斥する移民法も制定されています。
 1921年に陪審員は、明確な証拠もないまま二人に有罪の判決を下し、その結果二人の死刑が決定されました。これに対して全米で二人の無罪を主張する運動が巻き起こってきました。この運動は、二人がアナキストであるかどうかとか、イタリア系であるかどうか、といったことが問題なのではなく、正義が行われなかったこと、そしてアメリカの民主主義の危機を問題としました。そしてこの運動は外国にも波及し、世界的な規模で無罪の要求が行われました。
実は、19世紀末にフランスでも似たような事件が起きます。フランスのユダヤ系将校ドレフュスが、スパイの疑いで逮捕されます。そして彼の無罪の証拠があるにもかかわらず、政府は保守派に配慮して有罪で押し通そうとしました。これはもはやユダヤ人問題ではなく、フランスの民主主義の根幹に関わる問題です。多くの知識人がドレフュスの無罪を主張し、政府を非難します。その結果、政府はドレフュスの釈放を決定します。それは、フランスの民主主義の勝利だったといえます。
一方アメリカでは、多くの反対にもかかわらず、1927年にサッコとヴァンゼッティは処刑されます。アメリカでは民主主義が敗北したわけですが、これをきっかけにこの様な不当な裁判に対する反省も生まれてきました。ヴァンゼッティは、一介の労働者にすぎない自分が、歴史に大きな役割を果たせたことを幸運に思う、と言って死んでいったそうです。 
この映画の主題歌は「あなたたちは、ここにいる」というもので、長い闘争の末に処刑されて肩の荷をおろした二人への鎮魂歌だそうです。さらに、多くの支援にもかかわらず、正義がはたされなかったことへの無力感と二人への同情が込められているそうです。「処刑台のメロディ」という日本語版のタイトルには、こうした意味が込められているのだと思います。
二人の処刑から50年後の1977年に、この判決は誤審であり、二人が無罪であることが正式に認められました。この映画が公開されてから、6年後のことです。


 どうもアメリカという国は、戦争の後にイデオロギー的ヒステリーが起きる傾向があるようです。南北戦争の後には、クー・クラックス・クランの人種主義が吹き荒れ、第一次世界大戦後にはクー・クラックス・クランの復活やサッコ・バンゼッティ事件など、第二次世界大戦後には赤狩り旋風が吹き荒れ、次に述べるオッペンハイマーもこれに巻き込まれることになります。

シャドー・メーカーズ

1989年にアメリカで制作された映画で、最初の原爆製造に携わった人々を描いています。タイトルの「シャドー・メーカーズ(影の製作者たち)」は英国版のタイトルで、この事業が極秘で行われたため、こうしたタイトルが付けられたと思います。原題は「Fat Man and Little Boy」で前者が長崎に、後者が広島に落とされた原爆です。その形状から、前者は「太っちょ」、後者は「ちび」という名称がつけられました。ちなみに、広島に原爆を落とした爆撃機「エノラ・ゲイ」は「陽気なエノラ」という意味です。これらはアメリカ人特有のユーモアですが、あまり笑う気になれません。


ところで、アインシュタインの特殊相対性理論の帰結は、E = mc2(エネルギー (E) = 質量 (m) × 光速度 (c) 2 )で表わされるそうですが、私にはまったく意味が分かりません。私は物理学史が好きで、以前ずいぶん物理学史に関する本を読んだのですが、20世紀になるとまったく理解できなくなります。いずれにしても、この単純な公式が原爆を理論的に裏付ける公式だそうです。ドイツ系ユダヤ人だったアインシュタインは、アメリカのF.ローズヴェルト大統領に、ドイツが開発する前に核兵器を開発するようにという手紙を書いたそうです。F.ローズヴェルト大統領がその手紙に影響されたかどうかは知りませんが、アインシュタイン自身はこの手紙を書いたことを、生涯後悔したとのことです。
どのような経緯かは知りませんが、当時アメリカではドイツが核兵器開発を進めていると信じられており、F.ローズヴェルト大統領は、1942年に核兵器開発計画の開始を指示します。これは当初マンハッタンに本部が置かれたため、マンハッタン計画と呼ばれました。1943年にニューメキシコのロスアラモスに研究所が建設され、アメリカ中から優秀な研究者を集めて研究が開始されました。その責任者として、当時39歳のオッペンハイマーが選ばれました。彼は早熟の研究者で、理論物理学を専攻し、統率力にも定評がありました。ただ、研究者の身辺に多く共産主義者がいたため、厳重な監視体制が敷かれました。そして彼らに与えられた使命は、19カ月で完成させよということでした。
 間もなくドイツでは核兵器開発の計画がないことが判明し、しかも19455月にはドイツが敗北しました。もはや計画を続行する意味がありませんので、研究者の間でも核兵器の開発を止めるべきだという意見が強まっていました。しかし核兵器の完成は目前に迫っており、日本を倒すためにも、また戦後ソ連に対して優位に立つためにも、製造は続行されました。オッペンハイマーも躊躇しましたが、結局1945716日世界で初めて原爆実験を成功させます。ここに至るまでに躊躇はあったにしても、映画では彼は科学者として一つのことを成し遂げた満足感に溢れていました。

 ロシア革命後、アメリカでは共産主義者に対する弾圧が強まり、第二次世界大戦中には同盟国への配慮もあって一時弾圧が緩みますが、第二次世界大戦後再び弾圧が強化されます。そして1950年には、マンハッタン計画に参加していたローゼンバーグ夫妻が、スパイ容疑で逮捕されました。この年、マッカーシー上院議員が「国務省に所属し今もなお勤務し政策を形成している250人の共産党党員のリストをここに持っている」と発言し、これをきっかけに赤狩り旋風が吹き荒れます。この「250人のリスト」なるものは実在しなかったようですが、アメリカは再びイデオロギー的ヒステリー状態に陥ってしまいます。
 この頃、オッペンハイマーは水爆の開発を依頼されましたが拒否し、むしろ核兵器を国際管理の下におく必要性を訴えます。しかし、妻や弟など近親者が共産党党員であり、自身も共産党の集会に参加したことが暴露され、1954年にオッペンハイマーは公職を追放されることになります。晩年のオッペンハイマーは核兵器を開発したことを後悔しつつ、1967年に62歳で死去します。

 この映画は、核兵器の開発に対する自己弁護的なところがあり、あまり評判のよくない映画でしたが、マンハッタン計画の実情を知る上では、大変参考になる映画でした。


ニューオーリンズ

1947年にアメリカで制作された映画で、ジャズの発祥地ニューオーリンズを舞台としています。
 ニューオーリンズはルイジアナ州にある港湾都市で、もともとフランスの植民地でしたが、19世紀初頭にアメリカが購入しました。したがって本来フランス語でNouvelle-Orléans=「新オルレアン」と呼ばれていましたが、これが英語でニューオーリンズと呼ばれるようになります。この町は、ミシシッピー川の河口近くにあり、ここからミシシッピー川とその支流を通じて、アメリカ内陸部と深くつながっています。内陸部の農産物などがミシシッピー川を下ってニューオーリンズに達し、そこから海外に輸出され、また海外からの商品がニューオーリンズに入って、そこからミシシッピー川を遡って内陸に運ばれていきます。早くからミシシッピー川に蒸気船が登場し、マーク・トゥエインもその船員をしていたことがあり、彼の「トム・ソーヤの冒険」はその経験に基づくものです。

 一方、19世紀初頭にハイチ革命が起きると、白人が奴隷を連れてニューオーリンズなどに流れ込み、さらにアメリカで奴隷貿易が禁止されると、ニューオーリンズは奴隷市場としてで繁栄し、1840年代にはアメリカ最大の奴隷市場となります。このブログの「映画でアメリカを観る マンディンゴ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/2.html)でも、ちょうどこの時代のニューオーリンズの奴隷市場が描かれています。その結果黒人人口が増加し、1900年頃には黒人と混血=クリオールの人口が市の半分を超えるまでになります。 こうした背景のもとに、20世紀初め頃のニューオーリンズで、西欧の音楽技術とアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感とが結びついて、ジャズと呼ばれる音楽のジャンルが形成されることになります。

 この映画は、1917年のニューオーリンズを舞台としています。ストーリーは、歓楽街のカジノの経営者と、ニューオーリンズに越してきた良家の御嬢さんが恋をする、というだけのことですが、伏線としてジャズの歴史が語られており、ルイ・アームストロングなどジャズの奏者が多数出演しています。当時、酒場やカジノでジャズが演奏されるようになり、大変な人気を博していました。ジャズはまず民衆に広がり、さらにクラシックに飽き足らない一部の変わり者が愛好するようになり、しだいに人々に認知されるようになっていました。
ところが、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、ニューオーリンズに軍事基地が建設され、兵士たちに梅毒が感染することを恐れた軍が歓楽街を封鎖してしまいます。歓楽街で働く人々は、アームストロングも含めて、やむなくミシシッピー川を遡ってシカゴに行きます。そしてシカゴでジャズは大評判となります。1920年に禁酒法が制定されると、酒場は地下に潜り、そこでミュージシャンたちが集うようになります。またレコードやラジオの普及によって、ジャズはアメリカを代表する音楽の一つに成長していき、世界中に普及していきました。皮肉にも、軍による歓楽街の封鎖や禁酒法が、ジャズの普及を促したわけです。

 1917年にニューオリンズでは、すでに奴隷制度は廃止されていたものの、差別は歴然としており、そうした行動が映画の随所で見られました。何よりも、映画の最後に白人の女性歌手がジャズを歌いますが、そこには黒人の姿は見られませんでした。

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