1943年にアメリカで制作された映画で、タイトルの通り、ラジウムの発見で知られる女性科学者マリ・キュリーの半生を描いたものです。この映画は、キュリー夫人の次女によって書かれた母の伝記に基づいて制作されました。
キュリー夫人は1867年にポーランドのワルシャワで生まれ、出生時の名はマリア・サロメア・スクウォドフスカですが、以後フランス語風にマリと書くことにします。彼女は小貴族の家に生まれ、父も祖父も科学者でしたが、家は貧しかったので大学には行けず、家庭教師で生計を立てていました。1891年、24歳の時、恋に破れた彼女は、フランス行を決意し、ソルボンヌ大学(パリ大学)に入学します。そしてドラマは、ここから始まります。
大学では数学と物理を専攻しますが、パリでの生活は大変でした。屋根裏部屋に住み、昼は学校で勉強し、夜は働き、食べるものもろくにありませんでした。そうした中で、彼女に研究室を貸してくれた科学者ピエール・キュリーと恋をし、1895年に結婚します。ピエールは、女性は感情で動くので、科学には向かないと考えていましたが、彼はマリの科学への愛と才能に魅かれたのでした。結婚式は質素で、新婚旅行は自転車で田舎を回るというものでした。二人とも、研究以外に趣味がなく、二人で研究に没頭し、やがて恩師から存在を暗示されていた放射性物質の研究を始めます。
映画でマリは言います。「あらゆるエネルギーは消滅する。巻かなければ時計は止まる。火は勝手に消える。食べなければ生物は死ぬ。数百万年も太陽に当たらずに地中にあった鉱物が、そのままの状態で光線を出せる分けがない。エネルギーは、どこから来るのか。」まさにこれが問題です。原子は最小の単位で、それ以上分裂しないと考えられていましたが、分裂する原子があり、分裂する時にエネルギーが生まれるということであり、それは発想のコペルニクス的回転でした。
二人は劣悪な環境のもとで研究を続け、1898年にポロニウムとラジウムという元素を発見し、さらに4年の歳月と7000回を超える実験によって、ラジウムの精製に成功します。それは、単に元素表に新たな元素を追加したというだけでなく、核分裂によってエネルギーが生まれることを実証したわけで、太陽が核融合によってエネルギーを生み出しているとするなら、物理学を根底から覆すものです。この功績により、1903年に二人はノーベル物理学賞を授与されます。そして1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表し、物理学的な宇宙観が決定的に変化していくことになります。
この頃、放射線が生物の細胞に影響を与えることが知られるようになり、ピエールは自分の手にラジウムを塗って実験し、火傷をすることが判明しました。今日から見れば、無茶苦茶な実験です。もしラジウムが細胞を損傷させるなら、ラジウムによって悪政の腫瘍を破壊できるのではないかと考え、ラジウムを医療に役立てるため、ラジウムの精製方法に関する特許を放棄し、やがてラジウムは工業生産できるようになります。
当時は、放射線のもつ危険性が十分認識されておらず、当時の研究者は放射性物質をポケットに入れて持ち歩いていましたので、多くの研究者が放射性障害で死亡しました。今日キュリー夫妻の記念館には、二人が使用した道具や原稿が保管されていますが、放射能が強いため、鉛の箱に保管してあるそうです。そしてマリ自身も、1934年に再生不良性貧血で死亡しました。しかし、その前にマリを大きな不幸が襲いました。1906年、ピエールが馬車に轢かれて死亡したのです。言わば交通事故です。47歳でした。マリは日記に、「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いたそうです。
映画はここで終わります。その後彼女は夫の意志を次いで研究を続け、1911年にはノーベル化学賞を受賞します。後に彼女の長女もノーベル賞を受賞しますので、一家で4回もノーベル賞を受賞したことになります。次女のエーヴは、母の伝記の冒頭で、「その人は、女だった。他国の支配を受ける国に生まれた。貧しかった。美しかった」と書いており、アインシュタインはマリの追悼文で、「彼女の科学に対する大いなる業績は、大胆な洞察力ばかりではなく、想像しうる最も過酷な困難の下で実行する集中力と粘り強さの賜物である。・・・マリ・キュリーは、あらゆる有名人の中で、自らの名声によっても自分を見失わなかった唯一の人物である」と述べているそうです。(ブログ虹法師より)
なお、物理学に関して述べた部分は間違っているかもしれません。そもそも私は、相対性理論をほとんど理解していません。
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