2012年に中国で制作された連続テレビ・ドラマで、全41話からなり、三国時代の曹操を主人公としています。
われわれが一般に「三国志」という場合、明代に成立した「三国志演義」のことを指しており、ここにおける主人公は蜀の劉備です。この点については、このブログの「「三国志外伝」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_23.html)を参照して下さい。魏・呉・蜀という三国の中で一番力のない蜀の君主劉備が主人公というのは不可解であり、本来なら一番強力な魏の曹操が主人公であるべきですが、曹操は悪党としてあつかわれます。劉備が主人公となった理由は、色々あるようですが、一つには正統性ということがあるようです。劉という姓は漢の王室の牲であり、事実かどうかは知りませんが、劉備は漢の王室の子孫だそうです。もっとも、事実であったとしても、300年以上前の王室の子孫の末裔だそうで、劉備の時代には母とむしろを作って暮らしていました。また、強い者に対して弱い者を贔屓する判官贔屓ということもあるでしょう。
一方、劉備という人物は、武勇や学問に優れる分けではなく、見方によっては平凡な人物でしたが、不思議に人を引き付ける魅力があったようです。こうした人物は、中国の歴史上しばしば登場するようで、例えば漢の建国者である劉邦や「水滸伝」の宋江などが知られています。劉備が主人公になるには、それ以外にも色々理由があるようですが、いずれにしても宋代の講談物などでは、しだいに劉備が三国志の主人公となる傾向が現れ、明の「三国志演義」によってこの傾向が確立したようです。それにしても、曹操を悪人にしてしまうのには問題があり、最近では曹操を評価する研究も進んでおり、この映画はそうした傾向を背景に制作されました。
時代は後漢末期です。後漢王朝は、建国当初から豪族との連合政権という性格をもっており、豪族が強い力をもっていました。ところが、すでに第3代目頃から若年で即位する皇帝が続き、中には生後100日で即位する例もありました。そうなると、皇帝の身近にいる皇后とその縁者=外戚が力をもつようになり、外戚が政治の実権を握るようになります。これに対して皇帝は、やはり自らの身近にいる宦官を用いて外戚を排除しますが、今度は宦官が政治の実権を握るようになります。そこで次の皇帝は、外戚を用いて宦官を追い出します。一方、豪族出身の官僚たちは、自らを清流と称して宦官・外戚と対立し、さらに皇后と皇太后の対立、次期皇帝を巡る後継者争いも加わって、宮廷では泥沼の権力闘争が展開されるようになります。
当時の皇帝は霊帝で、168年に12歳で即位します。映画では、翌年14歳の曹操が皇帝の遊び相手として出仕しますが、この年、宦官が官僚を弾圧する第二次党錮の禁が起き、都は騒然としていました。また、184年には黄巾の乱と呼ばれる大規模な農民反が起き、一旦鎮圧されますが、各地に残党が残って再起を図っていました。そうした中で、豪族たちは自衛のために軍事力を強化して軍閥を形成するようになり、中央から自立して皇帝権力はますます弱体化していきます。霊帝は、暗愚な皇帝の代名詞のように見なされ、若年で即位し、宦官に操られていましたが、成人すると彼なりの改革を試みたりしており、近年では霊帝の再評価が行われているとのことです。そして189年に霊帝が病死すると、中国は動乱の時代へと突入していきます。
一方、曹操は有力な宦官の孫でした。宦官は去勢されているので、子や孫がいるはずがないのですが、当時の宦官は自分の名声や財産を残すために養子をとることが広く行われており、曹操の父が宦官の養子となったため、曹操は宦官の孫ということになるわけです。曹操は文武に優れた人であり、その人柄も信頼されていましたが、彼が宦官の孫であったため、常に周囲から軽く観られる傾向にありました。映画では、少なくとも189年以前の曹操は有能な官僚以上のものではありませんでした。ただ、権謀術数を好む傾向は、若い時からあったようで、こうしたことが、彼のイメージの形成に影響を与えているのかもしれません。いずれにしても、彼も故郷で軍隊の養成に励んでいましたが、その規模は他の勢力に比べてまだ小さく、また宦官の孫という立場上、率先して他を率いることは困難でした。
霊帝の死後、17歳の少帝が即位します。17歳での即位というのは、後漢皇帝の即位年齢としては4番目の高年齢だそうです。しかし皇帝の即位を巡って、再び宦官・外戚・官僚の対立が激化し、この混乱に乗じて甘粛省の董卓が洛陽を占領し、皇帝を廃位・殺害します。少帝の在位は、わずか5カ月でした。代わって少帝の義弟が、わずか7歳で即位します。これが漢王朝最後の皇帝である献帝です。これに対して、各地の有力豪族が反董卓連盟を結成し、名門出身の袁紹が盟主となりますが、董卓は皇帝を連れて長安に遷都し、反董卓連盟もそれぞれ兵力を温存して分裂してしまいます。こうした中で、董卓が弟に暗殺され、群雄の中でまず彼が姿を消します。
その後、曹操は急速に勢力を拡大し、しだいに袁紹と対立するようになります。この頃曹操は郭嘉(かくか)という軍師を得ます。郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に優れていたとされ、最初袁紹のもとを訪れましたが、袁紹の人物に失望し、曹操に仕えることになります。郭嘉によれば、「「道」においては面倒な礼・作法に縛られる袁よりは自然体である曹が優れており、「義」においては天子に逆する袁より奉戴を目指す曹が優れており、「治」においては寛(締りの無さ)を以て寛を救おうとする袁より厳しい曹が優れており、「度」においては猜疑心と血縁で人を用いる袁より才能を重んずる曹が優れており、「謀」においては謀議ばかりして実行しない袁より曹が優れており、「徳」においては上辺を飾る人々が集まる袁より栄達と大義を目指す曹のほうが優れており、「仁」においては目に触れぬ惨状を考慮出来ぬ袁より曹が優れており、「明」においては讒言がはびこる袁より曹が優れており、「文」においては信賞必罰な曹は袁より優れており、また、「武」においては虚勢と数を頼みにする袁より要点と用兵を頼みにする曹は優れているのである」(ウイキペディア)とのことです。彼は、曹操に数々の勝利をもたらましたが、38歳の若さで死亡します。後に、赤壁の戦いで敗れた曹操は、もし郭嘉がいればこんなことにならなかったのに、と嘆いたそうです。
董卓死後の長安では、皇帝を奪い合って権力闘争が泥沼化し、皇帝は洛陽へ脱出しますが、洛陽は董卓によって廃墟となっていました。有力豪族たちは、実権のない皇帝を助ける意志を持ちませんでしたが、曹操が皇帝を擁立して、196年に自らの領地にある許昌に宮殿を立て、皇帝を迎え入れます。実権はないとはいえ、400年以上続いた漢王朝の皇帝ですから、これを擁立したとなれば、曹操は形式上中国全土に命令を発することが可能となります。これに対して袁紹が黙っているはずはなく、二人の決戦は避けられない状態となりました。こうした中で、劉備が、小勢力とはいえ重要な役割を果たすようになります。人々は、ようやく劉備が只者ではないことに気づき始めます。
200年、いよいよ曹操と袁紹との決戦が始まります。官渡の戦いです。兵力では袁紹が圧倒的に優位に立っていましたが、曹操の巧みな用兵に翻弄され、結局敗北します。宦官の孫と蔑まれてきた曹操は、ついに華北を掌握し、今や漢室を戴いて、最高の実力者となります。次は南方の征服ですが、207年に頼りとする軍師郭嘉が死亡し、ドラマはここで終わります。一方同じ頃、劉備は天才軍師と言われた諸葛孔明を得、こうして2008年、世に名高い赤壁の戦いが行われます。「三国志」は、この戦いでクライマックスを迎えるわけですが、映画はその直前で終わります。結局曹操が敗れたため、魏・呉・蜀という三国が鼎立することになります。その後も曹操と劉備との間で激戦が繰り広げられますが、決着がつきませんでした。
216年曹操は魏王に封じられますが、それは飽くまでも漢王朝の枠組みの中での魏王でした。結局曹操は、漢王朝を倒して自ら新王朝を建てることは在りませんでした。それは、漢王朝への忠誠心なのか、それとも漢王朝の枠組みを必要としていたのか、あるいは宦官の孫と言う家柄の卑しさを配慮したのか、私には分かりません。220年に曹操が死ぬと、後継者の曹丕は、献帝に迫って退位させ、自ら皇帝となります。形の上では、献帝が曹丕に18回禅譲を求め、曹丕は18回断った後に受け入れたことになっていますが、事実上は帝位の簒奪でした。ここに漢帝国が名実ともに滅亡することになるわけですが、魏による全土の統一も達成されることは在りませんでした。以後、中国は魏晋南北朝時代と言われる、400年に及ぶ分裂の時代を迎えることになります。
映画では、多くの人命や地名が登場してくるため、内容を追うのが大変でした。また、曹操自身が官僚的で律儀な人物だったので、前半は少し退屈でした。彼は官僚的な几帳面さで物事を決定し、綿密な計画を立て、自ら軍の先頭に立って戦います。彼は頭痛もちだったようで、何時も頭痛に苦しんでいました。また、後半では女性がほとんど登場せず、画面に華やかさがかけていました。もっとも、曹操に何人の妾がいたか知りませんが、30人以上の子供がいますので、女性関係は相当盛んだったことは間違いありません。
ただ、「三国志演義」で描かれる曹操とは異なり、実際の曹操は決して劉備の引き立て役ではなく、悪人でも善人でもなく、有能な人物として描かれています。
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