2016年5月18日水曜日

映画「阿部一族」を観て

1995年に放映されたテレビ・ドラマで、森鴎外の同名の原作(大正2(1913))をもとに制作されました。この小説は江戸時代初期の殉死を扱ったものですが、実はその前年に明治天皇が崩御し、乃木希典陸軍大将が殉死しており、当時の世論は乃木の殉死を称賛する一方で、それを前近代的とする批判もありました。そうした中で、この「阿部一族」が執筆された分けです。
 殉死は、古代以来世界各地に見られる風習ですが、こうした風習には強制的殉死と自主的な殉死があります。戦国時代には、主君が戦死すれば家族や家臣が殉死することは美徳とされていましたが、病気などの自然死の場合、殉死する習慣はなかったようです。ところが江戸時代になると戦死する機会が減ったため、主君が自然死でも身近な家臣が殉死するようになり、それが美徳とされるようになりました。そうなると、今度は打算が生れてきます。殉死すれば、その一族・子孫は賞賛され優遇されますが、殉死しなければ不忠者と後ろ指を指されることになります。そこで、江戸幕府は1665年に殉死を禁止しますが、事件はそれ以前の1641(寛永18)に起きました。
 舞台となったのは肥後熊本藩で、1641年に藩主細川忠利が病死しました。主人公の阿部弥一右衛門は、この藩主のもとで異例の出世を遂げた人物でしたので、忠利の生前に、彼を含めて多くの家臣が殉死を願い出ましたが、忠利は殉死を禁止しました。しかし忠利の死後、次々と18人もの家臣が殉死し、人々からは忠義者として賞賛され、藩もそれを黙認していました。世継ぎである光尚は急遽帰国して藩主となり、今までの殉死は認めた上で、改めて殉死を禁止しました。一方、阿部弥一右衛門は先君の遺命を守って殉死をしなかったのですが、周囲から不忠者・臆病者と陰口をたたかれ、ついに耐えかねて殉死します。
 これに対して光尚は、弥一右衛門の切腹を殉死と認めず、阿部家の家格を落として、命令違反への見せしめとしました。阿部家を相続した権兵衛は、これに反発して忠利の一周忌の法要の場で、自ら髷を切って抗議しため、直ちに捕らえられて処刑されます。阿部家に対する二度もの侮辱に対し、阿部家全員が屋敷に立て籠もり、藩の追っ手と戦って、阿部家は全滅することになります。こうなると、もはや忠義の殉死などという話ではなくなってきます。もはやそれは、体面と一族の繁栄の問題であり、殉死というものが、それ程単純なものでないことが、よく分かります。島原の乱が終わったのが1637年で、まだ戦国時代の気風が残っていたとはいえ、時代は太平の世に移りつつあり、価値観が大きく変わりつつありました。しかも大名の嫡子は江戸で暮らしますので、国元の事情に疎く、国元の家臣たちとの間で齟齬が生じやすいものです。今や君主と家臣との関係は、戦場でともに戦ってきた関係とは異なっていたのです。そうした、様々な事情を背景に、阿部一族の問題が発生したようです。

 ところで、乃木希典の死は殉死ではなかったようです。彼は、西南戦争で軍旗を失ったことを恥じており、さらに日露戦争で多くの兵士を死なせたことに、強い罪悪感を抱いていました。すでに明治天皇にそのことを打ち明け、自害することを望んだのですが、明治天皇は自分が死んでからにしてくれ、と言ったそうです。そのため乃木はひたすら天皇の死を待ち、天皇の死後自害したため、殉死のように思われましたが、実は自責の念に駆られた自害だったようです。森鴎外は陸軍の高官でしたから、そうした事情を知っていたものと思われます。要するに鴎外は、殉死というものを、一律かつ単純に考えるべきではない主張したかったのでしょう。


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