ジャック・ジェルネ著(1959年) 栗本一男訳、平凡社 1990年
本書は、フランスの「日常生活叢書」の一冊として出版され、「モンゴル襲来前夜の杭州」の人々の生活をさまざまな側面から描き出しています。一般に、日本で出版される中国史関係の本は、やたらに漢語が多く使用されていて読みづらいのですが、本書は著者がフランス人であること、また翻訳者も中国史の専門家でないこともあって、大変読みやすくなっています。
杭州は、隋代に建設された運河の南の終着点として繁栄し、12世紀前半に異民族に華北を占領されたため、多くの人々が杭州を中心とする江南に亡命し、杭州は100万を超える大都市に発展しました。それでも、宋皇室の人々は、当初は華北の再征服を目指していましたから、特定の場所に都をおくつもりはなかったようです。北宋が滅亡してから10年以上たって、ようやく杭州を都に定めますが、それはあくまで臨時の都であるということから、臨安と呼ばれました。この地方には他にも都に相応しい場所はあったのですが、著者によれば、ここが選ばれた唯一の理由は、「風光明媚」だったからだそうです。事実、杭州の西方に西湖と呼ばれる湖があり、その北・西・南は山に囲まれて大変美しく、今日では世界遺産に登録されているそうです。
本書は、サブタイトルにあるように、「モンゴル襲来前夜の杭州」、つまり13世紀半ばの杭州を、さまざまな角度から描いています。自然条件から内面生活に至るまで描くその手法は、アナール学派の影響を受けているように思われます。「いったん都になると、杭州の美しさが役だったのか、この都市の有利な地理的条件が次第に明らかになってきた。揚子江流域と大規模な貿易港が出現しつつあった東南海岸の中間点にあり、杭州は首都であると同時に、当時急速に発展しつつあったこの南中国の経済活動の一大拠点になるように運命づけられていたのである。」
「13世紀の半ばから、域内は全域が建物で埋まり、道路や小路に沿って何処までも切れ目なしに続く建物の線が中国人にも強い印象を与えたらしい。中国の都市は元来、城壁内でも広々としており、大きな空地、果樹園、庭や畑なども取り込んでいるものであった。……杭州は建物の密度の高さのゆえに、異様な光景を呈していたのである。」
「中華帝国を支配した秩序は道徳秩序であり、独裁国家が徐々にその秩序を広げ、ついに最も小さな社会単位である家族に至るまでこの秩序を押し広げた。個人の生活で私的部分と公的部分の区別がないことから、家族への義務と国家への義務の区分も明確でないことが中国の政治思想の根底にある。道徳と政治は唯一不可分であった。道徳についての見解、両親、年長者、身分の上の者に対する敬意について社会的合意があり、個人がその集団に埋没している時、強制する必要がなくなってしまうのである。その結果、ある種の自治が地方、郷村、家族単位に認められることになる。」
これらの文章は50年以上前に描かれたものであり、今日では受け入れられない内容が含まれているかもしれません。特に最後の部分は、これ程単純だろうかとも思いますが、中国の特色の一つであろうとは思います。いずれにしても、私にとっては興味をもって読めればそれでよいのです。
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