1999年にポーランドで制作された映画で、「クォ・ヴァディス」で有名なシェンキェヴィチの小説を映画化したものです。タイトルは「火と剣をもって」というような意味で、17世紀のポーランドにおけるフメルニスキの乱というコサックの反乱をえがいています。この映画は、日本語版では3分の1もカットされているため、映画のメイン・テーマは、ポーランドの将校ヤンと貴族の娘との恋なのだろうと思うのですが、恋の場面は最初と最後にしかでてきません。いくらなんでもカットのし過ぎで、時々はなしが繋がらなくなります。
舞台は、現在のウクライナで、ここはコサックの居住地域でした。ウクライナとコサックについては、このブログの「映画でロシア史を観る イワン雷帝・隊長ブーリバ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html)を参照して下さい。当時ウクライナはポーランドの支配下にあり、当時のポーランドはリトアニアと連合し、その領土はバルト海から黒海にいたる広大なものでした。ただ、16世紀以来国王が貴族たちによる選挙で選ばれるようになり、貴族が大きな力を持ち、自領で農奴制を強化するようになります。また、17世紀には天変地異が相次ぎ、農民たちの不満が高まり、各地でしばしば反乱が起きるようになります。そういう中で、コサックの頭領だったフメルニスキを中心に、ウクライナで大反乱が起きます。この反乱は、1648年から57年まで続き、これをきっかけに、東欧世界が大きく変貌していくことになります。
フメルニスキは教養のある人物で、コサックの将校としてポーランドのために何度も戦ってきた人物でした。ところが、1647年にポーランド系貴族がフメルニスキの土地に侵略し、家族を殺し、彼も処刑されそうになったため、反乱を決意します。映画では、1647年と48年のみが扱われています。彼は、南部のクリミア・ハン国と同盟し、その援助を受けて連戦連勝し、ポーランドと協定を結んで映画は終わります。そして最後に、シェンケヴィチの言葉として次の言葉で締めくくります。「戦乱の時代は長引き、ポーランドとウクライナは荒れ果てた。憎しみが民衆の心を蝕み、同胞たちの血を汚した。150年後エカチェリーナ2世はクリミア・ハン国を併合し、ウクライナのコサックも征服、そしてポーランドも衰退の道を辿った。」つまり、彼はフメルニスキに対して同情的に描き、ポーランド貴族の強欲さ批判し、それがポーランドを滅ぼすことになったのだ、と言っているわけです。そして一番悪いのはロシアである、と言っているわけです。シェンケヴィチの時代には、ポーランドはロシアに支配されていました。
フメルニスキの乱はまだ始まったばかりであり、この後さらに血みどろの戦いが続きます。この戦いに勝利するために、フメルニスキは周辺諸国との同盟を模索します。その際、西欧諸国は三十年戦争が終わったばかりで疲弊しており、問題になりません。まず最初に同盟したのは南部のクリミア・ハン国でした。クリミア・ハン国はモンゴル帝国の継承国の一つで、軍事力は強大でしたが、後にポーランドに寝返ったため、オスマン帝国との交渉を始めます。南進を目論むオスマン帝国は、ウクライナが保護国になることを条件に援助の約束をしました。しかしウクライナ正教会がイスラーム国の保護を受けることに反対したため、ロシアと交渉します。ポーランドと対立していたロシアはこれを受け入れ、こうして1653年にロシアの保護下でコサックが統治する国家が誕生することになります。
フメルニスキの乱は、東欧の大きな転換点となりました。1657年にフメルニスキが死ぬと、ウクライナは内部分裂を起こし、結局ロシアの介入を招くことになります。その後ロシアは、ウクライナを拠点にポーランドを巡ってスウェーデンと死闘を展開し、やがてポーランドは消滅することになります。さらにロシアは、クリミア・ハン国も征服し、黒海に進出します。こうして東欧の勢力図は大きく塗り替えられることになります。
映画では、ポーランド人、コサック、タタール人の衣裳や風俗が、かなりきめ細かく描き分けられており、大変興味深く観ることができました。また、蜂蜜酒という酒が頻繁に出てくるので、興味を感じて調べてみました。蜂蜜酒は、蜂蜜と水を混ぜておくだけで、簡単に造ることができるようで、人類が造った最古の飲料だそうです。現在でも東欧では、蜂蜜酒が広く愛飲されているそうです。この映画は、あまりにカットが多いので、内容的にはよく分かりませんでしたが、映像的には興味深い映画でした。
神聖ローマ 運命の日
2012年にイタリア・ポーランドによる合作映画で、1683年におけるオスマン帝国軍によるウィーン包囲を題材としていますが、率直に言って何を言おうとしているのかはっきりせず、つまらない映画でした。映画の冒頭に「現在を誤る原因は、過去への無知に尽きる」というマルク・ブロックの言葉を上げていますが、これも具体的に何のことを言っているのか、よく分かりませんでした。なお、タイトルに「神聖ローマ帝国」を掲げていますが、神聖ローマ帝国は三十年戦争で事実上解体しており、この時代の神聖ローマ帝国とは事実上オーストリアのことです。
実は、150年程前にもウィーンはオスマン帝国に包囲されたことがあります。当時オスマン帝国の領土はハンガリーにまで達しており、ウィーンは目と鼻の先でした。こうした中で、1529年、当時全盛期を築いたスレイマン1世が12万の軍を率いて、ウィーンを包囲しました。これに対してウィーンを防衛する兵は2万そこそこでしたが、もともとウィーンは要塞として建設された町でしたので、城壁が堅固で、それほど簡単には陥落しません。スレイマン1世は2カ月近くウィーンを包囲・攻撃しますが、大雪が降り、食糧補給が遅滞したため、突如全軍を引き連れて、粛々と撤退していきました。さすがはスレイマン1世です。ウィーンは陥落しませんでしたが、ヨーロッパ中を震え上がらせるのには十分であり、オスマン帝国の存在の大きさをヨーロッパに見せつけることになります。
そして1683年に、再びオスマン帝国がウィーンを包囲することになります。当時、オスマン帝国ではスルタンはほとんど政治に関与せず、大宰相が政治の実権を握っていました。当時の大宰相カラ・ムスタファは領土拡大策をとっており、150年ぶりにウィーンを陥落させようと考え、15万の大軍を率いてウィーンを包囲しました。映画では30万となっていますが、それには荷物の運搬人や炊事係り、さらには娼婦の数も含まれているのでしょう。直前に皇帝はウィーンを脱出し、映画では恐怖に怯えて脱出したかのように描かれていますが、援軍を要請するためヨーロッパ各地を巡っていたのです。そして最大の成果はポーランドの支援を得られたことです。
ポーランドはコサックの反乱で衰退しつつありましたが、たまたま当時のポーランド王ヤンは軍事能力に優れており、オスマン帝国と領土問題で争っていたことから、自ら救援のため出陣しました。一方、カラ・ムスタファは側近の進言を聞き入れず、城壁の攻撃を続けますが、城壁は前回よりさらに強固となっており、容易に突破できませんでした。そのため兵士たちの間に不満と動揺が高まっていました。そうした中で、ヤン王は千騎の騎兵とともにオスマン帝国軍に突入し、その結果帝国軍は大混乱に陥って敗走しました。こうして再び、ウィーンは防衛されることになりました。
映画では、イタリアのカプチン修道士マルコ・ダヴィアーノがウィーンを救うために奔走し、彼が大宰相カラ・ムスタファと幼い時に出会ったことがあり、この二人がウィーンで運命的な対立をする、というような筋立てになっていますが、意味がよく分かりませんでした。結局、カラ・ムスタファはスルタンの命で処刑され、指揮官を失ったオスマン帝国軍は、戦闘能力を失ってしまいます。なお、カプチン修道士マルコ・ダヴィアーノは、帝国軍が残していった大量のコーヒーを用いて、ミルク入りのコーヒーを作り、これがカプチーノと呼ばれるようになったという伝説がありますが、真偽は不明です。また、ウィーンの人々が包囲から解放された祝いとして、トルコ旗の象徴である三日月形のパン―クロワッサンを焼いたという伝説がありますが、これも真偽不明です。
その後、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアが神聖同盟を結成し、16年間にわたってオスマン帝国と戦います。この戦いを通じて、ポーランドはますます疲弊し、衰退していきます。ヤン王の輝かしい戦いは、滅びゆくポーランドの最後の輝きだったと言えましょう。三十年戦争以来、もはや西欧への進出が困難となったオーストリアはハンガリーに進出し、東へ拡大していくことになります。ロシアも、この戦争を通じて東欧・バルカンへの進出の足場を築くことになります。一方、オスマン帝国は、さらに200年かけてゆっくりと衰退の道を歩んでいきます。こうして東欧の勢力図は大きく変わっていくことになります。
バンディット
2009年に制作されたポーランド・スロヴァキア・チェコの合作映画です。「バンディット」は盗賊を意味し、映画は18世紀初頭にスロヴァキアのタトラ山地で活躍した義賊ヤノシークを描いています。ヤノシークは実在の人物だそうで、現在でもスロヴァキアでは人気があるそうです。
現在スロヴァキア共和国の領域となっている地域は、10世紀以来ハンガリーの北部地域を構成していました。16世紀にオスマン帝国がハンガリーに進出し、ウィーンに迫ると、スロヴァキアはオーストリアのハプスブルク家とハンガリーとオスマン帝国との争奪の地としてしばしば戦場となり、結局ハンガリーの一部としてオスマン帝国の支配下に入りました。17世紀の末にオスマン帝国が第二次ウィーン包囲に失敗し、ハンガリーから後退すると、ハンガリーはオーストリアの領土となり、それとともにスロヴァキアもオーストリア領となります。
ヤノシークが山賊として活躍したのは、スロヴァキアがオーストリア領となってから10年ほど後のことです。この時代のスロヴァキアの政治情勢が、どのようなものであったかについては、よく分かりませんが、少なくともこの時代にはスロヴァキア人という民族意識はまだなかったようです。それにも関わらず、スロヴァキア人は独自の言語と風習を維持しており、この頃から19世紀にかけて少しずつスロヴァキア人としての自覚をもつようになっていきます。とはいえ、スロヴァキアの語源はスラヴ人なので、オーストリアのゲルマン人やハンガリーのマジャール人とは違うという意識から形成されてきたものだと思われます。なお、スロヴェニアの語源もスラヴ人なので、スロヴェニアも同じような経緯で形成されてきたのではないでしょうか。いずれにしても、スロヴァキア人という民族意識が形成されていく過程で、義賊ヤノシークの伝説も形成されていったのではないでしょうか。
映画によれば、ヤノシークはハプスブルク家に対する反乱軍に無理やり徴集され、4年間軍隊で過ごしました。そこで彼は読み書きと軍事技術を学びます。この反乱軍なるものが何を意味するのかよく分かりませんが、1711年頃にはハプスブルク軍によって壊滅状態になり、ヤノシークは軍を離れます。まもなく彼は山賊の頭領に見込まれ、その後を継ぐことになります。彼は、殺さず、犯さず、金持からしか奪わず、民衆に金品を分け与えたとされます。これが事実かどうかは知りませんが、しかし、やがて彼は捕らえられ、残酷な拷問を受け、処刑されます。その間に、当然男女の物語などが語られますが、話の筋は単純であり、彼が活動したのは2年間ほどでしかありません。
(ウイキペディア)
映画では、タトラ山地の変化に富んだ美しい風景がたっぷり映し出されます。実際にタトラ山地でロケを行ったかどうかは知りませんが、スロヴァキアの3分の1がタトラ山地なので、他でロケを行う理由がありません。また、山間に孤立して点在する村々や、そこに住む人々の素朴な生活が描き出されており、大変興味深く観ることができました。
なお、スロヴァキアは、第一次世界大戦後にチェコと合同してチェコスロヴァキアとなりますが、1989年の東欧革命後スロヴァキアはチェコから分離してスロヴァキア共和国となりました。
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