2012年の中国の大河ドラマで、全35話からなります。孔子は、言うまでもなく儒学の祖であり、一時の例外はあるものの、2千年以上にわたって中国の国家思想として用いられてきた思想です。また朝鮮も、日本に併合されるまでの朝鮮王朝で5百年以上国学として扱われましたので、今日に至るまで深い影響を与えています。日本の場合、江戸時代に林羅山が徳川家康によって登用されて以来、国学としての扱いを受けますが、朝鮮と比べればその影響は少なかったようです。それでも儒学が日本人の精神構造に深い影響を与えたのは間違いありません。
ドイツの哲学者ヤスパースは、1949年「歴史の起源と目標」において、紀元前500年前後の時代を、「世界史的、文明史的な一大エポック」として「枢軸時代」と呼びました。これは私には幾分こじつけのように思われますが、確かにこの時代に孔子が登場し、ほぼ同じ時代にインドでブッダが登場します。すでに文明が発生してから2500年以上経過しており、この時代に人類の社会や精神の在り方が成熟し始めたといえるのかもしれません。くしくも、孔子の時代から今日まで2500年程経っており、孔子やブッダは時代の折り返し点に立っていたといえるかも知れません。
ところで、儒学あるいは儒教は、学問なのか宗教なのかという問題は意見が分かれるところです。日本では、伝統的に学問として捉える傾向が強いのですが、宗教と捉える人々も沢山います。私自身は、大した根拠はないのですが、儒学の宗教的側面に関心があるため、ここでは儒学ではなく儒教と呼ぶことにします。もちろん私が儒教について論じることなどできるはずがないので、ここでは「儒教とは何か」(加地伸行著、1990年、中公新書)に基づいて、儒教の宗教的側面について述べたいといと思います。
人は常に「死」とは何か、ということについて考えます。仏教もキリスト教もイスラーム教も、「死」についてそれぞれの考えを持ち、儒教もまた「死」を出発点とします。そもそも「儒」とは「シャーマン(巫師・祈祷師)」のことです。中国では古くから、人間は死ぬと霊魂が肉体からら離れると考え、その霊魂を呼び戻す儀式をおこないますが、このような信仰の在り方をシャーマニズムといいます。霊媒師はシャーマンの一種と考えられ、あらゆるものに霊が宿るとするアニミズムもシャーマニズムの一種と思われます。このような信仰は古くから世界中で見られる信仰形態で、霊を呼び寄せることを専門とする人たちもいます。実は孔子の母が身分の低い巫女の出身で、彼女の家は「儒」を行う家、つまりシャーマンだったとされます。こうしたシャーマン的な信仰を基に、孔子は壮大な理論体系を構築していったと考えられます。
魂を呼び寄せる招魂儀礼は、祖先の霊に対する信仰と結びつきます。祖先の霊を祭るのは子孫である現在の当主であり、その当主の死後彼を祭るのは子孫であり、子孫を生むことは必要不可欠となります。そうすることによって、人々は自分の死後も再生することができると信じ、死の恐怖を和らげることができます。つまり祖先=過去・父母=現在・子孫=未来という関係が形成され、祖先を祭り、父母を敬愛し、子孫を生むこと、これらをまとめて「孝」と呼びます。そして自己の生命は祖先の生命であると同時に、子孫の生命でもあり、「孝」を行うことによって自己の生命は永遠に生き続けるということです。以上のことは、日本の仏教で語られていることと似ていますが、実は日本の仏教は儒教の影響を強く受けており、本来の仏教にはこのような思想はありません。そして儒教は、この「孝」の概念をもとに家族倫理を形成し、そのうえに社会・政治倫理を形成し、壮大な思想体系に発展していったわけです。
周王朝には古くから伝わる祭祀儀礼があり、孔子はこれに精通していました。当時から見ても、あまりに形式主義的な祭祀儀礼でしたが、人心が乱れているこの時代にこそ、「孝」を全うするために祭祀儀礼が必要だったわけです。さらに「孝」を全うするための基本として「仁」があります。人が二人いれば人間関係が発生し、その出発点は血族関係です。そこには「おもいやり」が必要であり、この血族間の愛を家族道徳に高め、さらにそれを国家の君臣関係にまで高めたのです。そしてそれを維持するための枠組みとして「礼」が重視されます。
孔子が最も重視したのは、周の礼でした。周の武王は殷を倒し、周王朝を開いて新しい秩序原理を生み出します。殷では祖先崇拝が非常に強く、常に祖先の祟りを畏れて祭祀や占卜が行われましたが、周では祖先は敬意を払う象徴となり、そのための礼が整備されました。統治にあたっては血縁の繋がりを重視し、要地には血縁者を配し、実際には血縁がなくても擬似的に血縁関係を形成することによって、その原理に従って統治されたとされます。実は、このような体制を築いたのは、武王の弟で建国の功労者でもある周公旦だとされ、彼はその功績から魯の国を与えられました。そして孔子は、この魯の国で生まれました。孔子が生まれたのは、周公旦の時代から500年もたった春秋時代の末期で、もはや周の礼を顧みる人はいませんでしたが、それでも魯にはまだ礼の伝統がかろうじて残っていたとされます。孔子は周公旦が行った政治を理想の政治とし、その実現のために生涯をかけますが、実際には「周の理想の政治」なるものは存在せず、孔子やその後の人々が創り出した「理想型」だったと思われます。その意味においても、中国の政治・社会のあるべき姿を生み出したのは、孔子だったといえるでしょう。
例えば、今日ではあまり意識されませんが、それでも朝の挨拶で兄弟に対する挨拶、子に対する挨拶、父母に対する挨拶が微妙に異なるでしょう。さらに会社へ行けば、上司に対する挨拶の仕方、お得意様に対する挨拶の仕方が異なるでしょう。一見形式的に見えるこのような儀礼が、人と人との関係を円滑にし、社会の秩序を保つことに役立ちます。日本の武道の基本は「礼に始まり礼に終わる」といいますが、戦うときにも一定の規範が必要だということでしょうか。このような関係を、家族間の関係から始まって君主との関係に至るまで「礼」によって規定し、そこに一定の秩序を維持していきます。もちろんそれだけでは「形式」にすぎませんが、そこに血族内での自分の魂を永遠のものとする「考」と、思いやりの「仁」が存在します。君主たるものは、父が子を思いやるように、民を思いやって統治せねばなりません。そうすることによって、穏やかで秩序ある社会が形成され、魂もまた永遠に受け継がれていくことになります。ここに、シャーマンである「儒」と政治思想とが結びついた、壮大な思想が形成されることになります。このような考え方は、当時にあっても今日にあっても、ほとんど夢物語のように思われますが、しかしそれは永遠の理想として受け継がれていくことになります。
ドラマは、アメリカに留学していた25歳の女性が、孔子を論文のテーマに選び、彼女が孔子を調査するという形でストーリが展開していきます。孔子(前552年‐前479年)は幼くして両親を失い、苦学して礼を学んだとされますが、ドラマでは孔子が17歳の時に死んでおり、また24歳の時と書いてあるものもあり、はっきりしません。また、彼は2メートルを超える長身だったとされ、堂々たる体格だったとされますが、ドラマではそれほど大きな人物ではありませんでした。
ところで、彼が礼や学問をどこで学んだのでしょうか。もちろん教育機関などあるはずもありませんから、基本的には独学だったと思われます。彼は至る所で師を求め、教えを乞うていたようです。例えば君子の教養として「楽」、つまり儀式での音楽を身につけなければなりませんが、あちこちの名人と呼ばれる人の門を叩いて教えを乞うたようです。ただ孔子は、必要な素養として「楽」を学んでいただけではなく、心底「楽」が好きだったようで、耽溺すると寝食を忘れるほどだったそうです。
孔子が目指したことは、君主に仕え、彼が理想とする礼を基盤とした政治を行うことでした。しかし、当時は諸侯が自立して周王を顧みず、諸侯の内部でも有力者が実権を握って君主を顧みず、互いに争っていました。なかなか職に就けない中で、彼の名を慕って集まってきた弟子たちの教育に専念するようになります。いわば人類史上最初の私立学校の設立です。彼は弟子たちと共同生活をし、庭に教壇を作って毎日講義をします。講義は、誰にでも分かる言葉で話し、講義中に弟子たちと議論をし、弟子たちに自分で考えるように仕向けます。まさに彼は、優れた政治家である以前に、卓越した教育者でした。
ウイキペディア
孔子は一時魯の宰相となりますが、政治抗争に巻き込まれて亡命することを余儀なくされます。彼は、前497年から前484年まで13年間、弟子たちとともに、斉→衛→陳→宋→鄭→晋→陳→楚→衛へと巡遊の旅に出ます。その旅は失望と困難の連続でしたが、その間にも彼は弟子たちに教え続けました。そして頑ななまでに、周公旦を理想とした仁と礼に基づく政治を説き続け、それなりに敬意をもって迎えられますが、結局誰にも受け入れられませんでした。結局彼は、69歳の時故郷に帰りますが、すでに妻は死んでおり、職に就くこともできず、余生を教育と「春秋」の執筆に専念して過ごしました。
孔子には3千人以上の弟子がいたとされ、その中でも今日まで名が残った人々が沢山います。ここでは、ドラマで大きな役割を果たす3人の弟子を紹介したいと思います。
子路は、ドラマでは孔子の最初の弟子ということになっています。もと盗賊だったという話もあり、何しろ2500年も前の話ですからはっきりしませんが、かなり早い時期に弟子になったようです。彼は武勇を好み、幾分軽率な所があったため、しばしば孔子に叱責されます。性格は実直で裏表がなく、常に孔子に付き従いました。後に衛の高官として採用されますが、反乱が起きて殺され、その知らせを聞いた孔子は落胆し、その2年後に死にます。
顔回は、父が孔子の弟子だったため、幼少の頃からいつも父に抱かれて孔子の講義を聴いていました。彼は、孔子の弟子たちの中で隋一の秀才で、講義のメモのみならず、孔子の日常生活での会話までメモをとりました。温厚でよく気がつく人物で、つねに孔子の身辺にあって、孔子の身の回りの世話をしました。孔子は晩年に「春秋」を執筆し、顔回も手伝いますが、完成をみることなく死亡します。その時孔子は、「ああ、天われを滅ぼせり」と嘆いたとされます。顔回は40歳の若さであり、子路が死んでまもなくのことでした。二人の高弟を相次いで失った孔子は、しだいに気力を失っていきます。
子貢は、孔子より31歳年少で、商才に富み、孔子の弟子の中では最も豊かでした。また弁舌が巧みで、ある君主に「孔子はどのように賢いのか」と尋ねられた時、「知りません」と答え、「知らなくてよいのか」と問われると、「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは孔子の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」(ウイキペディア)と、孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えたそうです。孔子は子貢の弁舌や商才を必ずしも好ましいとは思っておらず、しばしば子貢に苦言を呈しました。しかし子貢は、子路や顔回とともに孔子が最も頼りにし愛した弟子でした。孔子が死んだ後、弟子たちは3年間喪に服して孔子の墓を守りましたが、子貢はさらに3年間喪に服し、孔子の墓の近くに小屋を建てて墓を守ったとのことです。
孔子の妻は幵官(けんかん) 氏の娘ということ以外にはよく分かりません。孔子が19歳の時に結婚し、ドラマでは、孔子の足が並外れて大きく、普通の足袋を履けないため、孔子が放浪中にいつも足袋を作って送り続けたというエピソードが語られています。子は孔鯉(こうり)で、孔子より先に死にしたが、子思という子を残します。この子思が孔子の血統と儒教の教えを後世に残すことになります。漢代以降、歴代王朝により孔子の直系の子孫には特別待遇が与えられ、孔子の生地である曲阜(きょくふ)に孔廟が建てられ、人々の崇拝の対象であり続けました。1949年に中華人民共和国が成立すると、第77代の子孫は台湾の中華民国に移住し、現在第79代が存命中です。なお、曲阜は孔子に関わる遺跡が世界遺産に登録されており、観光の町として賑わっています。
ドラマでは、孔子と弟子たちとの師弟愛を中心に描かれます。孔子は、常に多くの弟子たちのことを思い、それぞれの個性にあった教育を試みます。「恕(じょ)」とは、自分が欲しないことは他人に行わないという「思いやり」の心です。「仁」と「恕」との違いはよく分かりませんが、「仁」は孔子の思想の中核となる思想で、「論語」でもしばしば弟子が「仁とは何か」と質問しますが、尋ねる相手によって答えが異なっており、これを一言で説明するのは困難のようです。孔子の子弟たちへの思いやりには、心を打つものがあります。一方、いくら失敗をしてもめげない師に対して、多少あきれる弟子がいたとしても、それでも師のもとを離れることはなく、孔子もまた弟子たちを常に思いやり、指導し続けました。彼は人がいかに生きるべきかを語り続けます。それが現実と乖離していても、決して彼は語ることを止めませんでした。
孔子は学問を初めて一般に開放した人物ですが、国家が儒学を統治に利用しようとした時、儒学には統治者にとって非常に危険な側面をもっていました。専制君主にとって仁による統治など、ありえないからです。またその後、儒学にはさまざまな学派が生まれ、さらに科挙の科目となったため、きわめて難解な学問となっていきました。また、14世紀末に明を建国した洪武帝が、儒教道徳に基づく「六諭」を発布し、農村支配に利用しました。それは、「父母に孝順なれ。長上を尊敬せよ。郷里に和睦せよ。子孫を教訓せよ。各々職業に安んぜよ。非行をなすなかれ」の六箇条からなるもので、日本でも明治時代に「教育勅語」に採用されました。「六諭」で述べられていることが間違っているわけではないと思いますが、支配者に都合のよい部分だけがつまみ食いされており、支配者の義務については語られていません。しかし、支配者は仁をもって統治するというのが孔子の教えの根本であり、基本的にその部分が欠落しています。
19世紀末に中国が列強よって分割され、1911年に清朝が滅亡し、中国そのものが存亡の危機に立たされます。そうした中で、1915年に始まった文学革命で、儒学こそ近代化を阻害する思想の象徴として批判されました。事実当時の儒学には、そうした側面がありました。また1960年代の文化大革命でも孔子が批判されました。しかし今日の中国では、儒教や孔子が見直されつつあるようです。単に孔子は、中国が生んだ偉大な思想家というだけではなく、物質文明が謳歌される今日の中国において、孔子の教えを学ぶ必要性が認識されるようになったからです。
今までこのブログで書いてきた文章の中で、これが最も苦労した文章でした。キリスト教やイスラーム教については、もともと大した知識もなく、部外者として勝手に書くことができましたが、儒教については私は部外者とは言えず、また数えきれない程の研究書があります。私の本棚にも儒教に関する本が沢山ありまず、今回はそれらを検証することなく、テレビ・ドラマから得た印象だけで、この文章を書きました。儒教についての私の解説は間違っているかもしれませんが、それはあくまでも現段階での私個人の考えでしかないことを、ご理解ください。
孫子≪兵法≫大伝
2010年に中国で制作されたテレビドラマで、全35話からなります。最初に、混乱をさけるために、「孫子」という語について説明しておきます。まず、このドラマの主人公である孫武の尊称が「孫子」であり、さらに彼が著したとされる兵法書が「孫子」であり、最後に孫子の子孫とされる孫臏(ぴん)の尊称が「孫子」で、彼も戦国時代を代表する兵法家です。そして、ここで扱うのは孫武とその著書「孫子」です。
孫武については、長くその存在さえ疑問視され、彼の著書とされる「孫子」は孫臏が書いたのではないかとされてきましたが、1972年の発掘により孫臏の兵法書が発見され、その結果「孫子」は孫武の作であることと、孫武の実在の可能性が高くなりました。とはいえ、彼に関わるエピソードの多くは、後世の創作だと思われます。しかし、ここではドラマで扱われているエピソードの幾つかを、真偽はともかく、中国で長く伝わるエピソードですので、触れておきたいとおもいます。
孫武は、紀元前500年前後、つまり春秋時代末期から戦国時代初期に生きた人で、孔子とほぼ同じ時代の人です。斉の人だった孫武は、斉の政争に巻き込まれて呉に亡命しました。すでにこの頃孫武の兵法書は有名となっており、孫武は呉の君主闔閭(こうりょ)に仕えることを望んでいました。闔閭も当時楚との戦いで苦戦しており、すぐれた軍事指導者を必要としていましたが、彼を登用する前に実力を試そうとしました。そこで彼は宮中の美女180人を2組に分け、彼の寵妃二人をそれぞれの隊長にして、孫武にこれを訓練するように命じました。しかし女性たちの動きは鈍く、孫武の命令に従わなかったので、孫武は「命令に従わないのは隊長の罪である」として寵妃二人を切り殺してしまい、その後女性たちは命令に従うようになります。寵妃を殺された闔閭は不愉快でしたが、結局孫武を大将軍に任命します。この話が事実かどうか分かりませんが、400年程後に書かれた司馬遷の「史記」に載っているそうです。
次は楚との戦いです。楚は20万の大軍を擁する大国でしたので、呉は楚に抑圧されていた二つの小国と同盟し、6万の軍を率いて楚に侵入しました。孫武は、巧みな陽動作戦により楚の大軍を翻弄し、楚軍が疲れ切ったところで楚軍を攻撃して勝利します。その後呉軍は楚の都を占領しますが、楚の君主が逃亡し秦に援助を求めたため、呉軍は撤退せざるを得ませんでした。しかしこの戦いによって孫武の名声は大いに高まり、呉も大国として台頭します。なお、この頃孔子が楚を訪問していましたが、楚が戦争で混乱していたため、楚からの退去を余儀なくされました。
次いで闔閭は、孫武の反対を押し切って越に攻め込みますが、惨敗して戦死します。闔閭の後を継いだ夫差は越を征服しますが、この頃から孫武の消息は途絶えます。ドラマでは、田舎に隠遁したことになっていますが、夫差に殺害されたという説もあります。いずれにしても、その後夫差は慢心し、結局呉は越によって滅ぼされることになります。この間の呉越の争いについては、このブログの「映画で中国史を観る 復讐の春秋(臥薪嘗胆(がしんしょうたん))」を参照してください。
ところで、孫子の兵法とはどのようなものなのでしょうか。従来、戦争の勝敗は天運に左右されると考えられていましたが、孫子は過去の多くの戦争を研究し、勝った理由、負けた理由を分析します。その結果生まれた孫子の兵法の基本は、「できる限り戦わない」ということのように思われます。「戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない」と言います。つまり、単に「戦争」そのものを論じるのではなく、国家運営との関係で戦争を考えねばならないということ、つまり民の生活が安定し、戦争に耐えられるかどうかをよく考えて戦争をするか否かを決めなければならない、ということです。そして彼が最も重視したことは、謀略や周辺国との同盟などを通じて、「武力に訴えず、戦わずして勝つこと」でした。民の生活への配慮や戦争の回避などという点で、孫武の思想には本質的に孔子と共通するものがあるように思われます。しかし結局孫武の真意は理解されず、その卓越した戦術と謀略の手法のみが取り上げられ、国家間の争いはますます激しくなっていきます。
孫子の兵法は東アジア世界に大きな影響を与え、日本でも古くから知られていましたが、中世における武士の戦いは個人の一騎打ちの積み重ねであり、兵法はあまり問題になりませんでした。しかし戦国時代に集団戦が戦争の中心になると、孫子の兵法が学ばれるようになります。甲斐の武田信玄が軍旗に、孫子の兵法の一部を採用して「風林火山」と書かせたのは有名です。風林火山とは、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)ですが、ただしこの話は後世の創作のようです。
ヨーロッパにおける軍事書としては、プロイセンの軍人だったクラウゼヴィッツの「戦争論」が有名です。これは、ナポレオン戦争での経験をもとに、19世紀の前半に書かれたもので、兵法というより、「戦争とは何か」という問題を哲学的に論じたもので、「戦争は政治の延長である」という彼の主張は有名です。今日では、各国の軍事機関で「戦争論」と「孫子」は不可欠の教材とされています。クラウゼヴィッツより二千数百年も前に書かれた「孫子」が、今日もなお通用しているということは、驚くべきことです。
このドラマは、孫子、老子、孔子が出会って語り合う場面で終わりますが、これ自体は創作です。老子は実在が疑問視されており、孔子が老子の教えを受けたという伝説が残っていますが、これも後世の創作だし思われます。老子は無為自然、つまり何もせず自然の状態がよいとし、孔子の礼を重視する思想を人為的すぎると批判したとされます。しかし人間が全員無為自然の状態となったら、社会は成り立ちませんので、これは実現不可能な究極の理想ということになります。また、孔子の仁による政治も理想であり、実際にそのような理想社会を築くのは困難です。一方、孫武も平和を希求して兵法を編み出しましたが、現実には戦乱はもっと激しくなりました。この三人は、それぞれの立場で理想型を生み出し、それはどれも実現しませんでしたが、今日に至るまで誰もが求める理想として生き続けています。
「墨攻」
2006年に制作された中国・日本・韓国・香港による合作映画で、酒見賢一の小説を映画化したものです。
この映画のタイトルの一部となった「墨」とは、戦国時代の思想家である墨子に由来します。墨子についての経歴はほとんど分かりませんが、兼愛・非攻を説いた思想家として有名です。墨子は、すべての人を公平に隔たり無く愛せよと主張し、儒教の愛は家族や君主のみを強調する「偏愛」であるとして否定します。また、当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定しますが、防衛のための戦争は否定せず、土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より防城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げました。
墨子は孔子を上回る理想主義者で、孔子の時代以上に戦乱が続く当時にあって、彼の思想が受け入れられるはずがありません。しかし彼には城の防衛という特殊技術がありました。墨子の死後、墨家という集団が形成されます。この集団には特殊技術をもった人々がたくさんおり、防城を依頼されると、彼らがそれぞれの技術を駆使して城を守り、その技量は高く評価されていました。
映画では、梁という小国が趙という大国に攻撃されようとしていたため、墨家に救援を求めました。ところが、当時墨家の内部で対立が起きており、墨家は救援を断りましたが、革離という墨者が上司の決定を無視して、一人で梁に向かいました。梁城は人口4千人程の小さな城で、そこに10万人の趙軍が迫っていました。革離は、まず民に人は皆平等であると説き、一致協力して城を守ろうと説きます。人々は彼を信頼するようになり、彼の命令に従います。革離は、城を守るためのあらゆる仕掛けを作り、敵軍を撤退させることに成功します。しかし、革離の評判が高まると、梁王は彼に国を乗っ取られるのではないかと疑うようになり、その結果革離は追われるようにして城を去っていきます。
墨子は、頑ななまでに自説を守ったことから、「墨守」という言葉が生まれます。そしてこの小説の著者は「墨守」を転じて「墨攻」という言葉を造ったわけです。私は墨子や墨家についてほとんど知りませんでしたので、この映画を大変興味深く観ることができました。とくに「非攻」という言葉の裏に、防城のスペシャリスト集団という事実があることに驚きました。中国文明の奥の深さには、いつも唖然とさせられます。
墨子は、戦国時代以降忘れ去られますが、近代になって彼の思想がキリスト教の思想と似ていることから、再評価されるようになったそうです。
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