1987年にフランスで、ポーランドのワイダ監督の下で制作された映画で、ドストエフスキーの原作をもとに制作されました。ワイダ監督については、このブログの「映画でポーランド現代史を観て:カティンの森・ワレサ-連帯の男」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/10/blog-post_8.html)を参照して下さい。またドストエフスキーについては「映画でロシア文学を観て カラマーゾフの兄弟」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/04/blog-post_30.html)を参照して下さい。
ドストエフスキーの小説は難解であり、その中でも「悪霊」はとくに難解だとされています。「カラマーゾフの兄弟」も難解でしたが、内容がシンプルで分かりやすかったのですが、「悪霊」はストーリーさえ十分把握できませんでした。はるか昔に、多分私は「悪霊」を読んだはずですが、ほとんど覚えていません。多分、ほとんど意味を分からないまま読み飛ばしていったのでしょう。そして今回、この映画を観ても、全然意味が分からず、私も全然進歩していないことが判明しました。
小説の舞台は1870年頃の、ある地方の町です。これより少し前に農奴解放が行われて、社会は流動化しつつあり、さまざまな思想が議論されます。まず西欧の理性万能主義、社会主義、ニヒリズム、アナーキズム、テロリズム、そして神は存在するのか、ロシアは生き残れるのか、さらに狂気、陰謀、裏切り、殺人などが渦巻き、最後に旧世代の知識人ステパンが死んで、物語は終わります。
ウイキペディアによれば、
ステパン氏が死ぬ直前にルカ福音書に書かれた、「病人にとりついた悪霊が、病人から出て豚にとりつき、豚は自ら湖に飛び込み溺れ死んだので、病人は治癒した」という箇所を引いて、「病人はロシアであり、悪霊は彼にとりついた思想、そして自分やピョートルが豚だ」と言う。
ドストエフスキーは新しく生まれた思想とそれに熱狂する人々が、ロシアという国の精神性を破壊してしまうと考えていた。
「過度に先鋭化した思想が一人歩きをし、生身の人間性を無視し破壊する」
というのは、現代までの歴史でもありとあらゆる形で繰り返されている。
ということだそうです。
これでは救いを見出せませんが、ドストエフスキーは、「当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えている」とされます。」
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