獅子の時代
1980年に放映されたNHKの大河ドラマで、幕末から明治の初期にかけて、会津の武術に長けた下級武士である平沼銑次(せんじ)と、薩摩の郷士で秀才の苅谷嘉顕(よしあき)という、二人の架空の人物を主人公としています。
幕末維新期についてのドラマは、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通など、そうそうたる英傑が主人公となるのが普通で、1990年のNHK大河ドラマ「翔ぶが如く」も、薩摩の西郷隆盛と大久保利通を主人公とした映画です。二人は幼い時からの親友であり、ともに維新を成し遂げていくのですが、結局最後は決別することになります。これらの英傑たちについては、あまりによく知られているため、ここではあえて架空の人物を主人公とした映画を取り上げました。
ドラマは、いきなり1867年のパリから始まります。この時代のフランスはナポレオン3世の第二帝政期で、この年にパリで万国博覧会が開催されることになっており、幕府はこれに初めて出品することになりました。幕府としては、幕府の権威が日に日に落ちていく中で、万国博覧会に出品することで、幕府が日本の代表であることを世界に示したかったのです。ところがこれに薩摩が横やりを入れた分けです。
長州はすでに1863年に5人の留学生をロンドンに送っており、薩摩も1865年に15人の留学生をロンドンに送っていました。そして、彼らが薩摩の出品を援助するためロンドンからパリに来るのですが、その中の一人に苅谷嘉顕がいました。一方、前年に薩長同盟が成立しており、薩摩は討幕の意図を露わにし始めていました。薩摩は、万博の展示場で「日本薩摩琉球王国」という旗を掲げて、幕府が日本の唯一の代表でないことを世に示したのです。幕府は当然撤回を求めますが、薩摩は早くからフランス入りしてフランス政府やマスコミに根回しをしており、どうすることもできませんでした。その結果、幕府は、日本の唯一の代表であることを示すという本来の目的を失ってしまいました。それどころか、万博開催中に日本で大政奉還が行われた分けですから、幕府の努力はまったく無意味となってしまいました。
一方、幕府は出品については商人に任せ、使節団は、まだフランスへの途上にありました。当時、日本からヨーロッパまでの船旅は2カ月ほど要します。代表は徳川慶喜の弟徳川昭武(あきたけ)で、まだ14歳でした。そして徳川昭武を護衛するために平沼銑次が加わっていました。なお、この一行に幕臣として渋沢栄一が随行しており、彼はフランスでの経験から、明治時代に日本の近代化に大きな役割を果たし、この後ドラマでも何度も登場します。このパリで苅谷嘉顕と平沼銑次が出会い、二人の間に不思議な友情が生れます。
博覧会が終わった頃、パリに大政奉還の知らせが届き、代表たちは急いで国に帰りますが、二人の運命は対照的でした。苅谷は官軍となり、やがて大久保利通の下で新しい国造りに向かったのに対し、平沼は会津で敗れ、さらに函館戦争にも敗北した後、辛酸をなめます。その後、平沼は西南戦争に駆り出されて鹿児島に行き、大久保利通暗殺に連座したという冤罪で北海道に流罪となり、さらに秩父事件に関わって姿を消します。まさに平沼は、明治維新の生み出した負の世界の中で、したたかに生きていきます。なお、秩父事件については、このブログの「映画で日本史上の反乱を観て 草の乱」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html)を参照して下さい。
一方、苅谷は新国家の建設に情熱を傾け、さらに北海道開発局の高官として北海道の開拓にも情熱を傾けます。しかし、この間に西南戦争で父と戦うという苦しみを味わいます。さらに、苅谷は正義感がつよくて頑固でしたので、官僚仲間と対立することが多く、一時職を辞しますが、やがて伊藤博文のもとで憲法制定に邁進します。彼は民主的な憲法の制定を期待していたのですが、伊藤博文と対立し、危険思想の持ち主として殺されてしまいます。
結局二人の夢は果たされませんでしたが、映画では、幕末から明治初期にかけてのさまざまな局面がかなり詳しく描かれており、大変興味深く観ることができました。なお、当時「トラック野郎」で人気絶頂だった菅原文太が、平沼役で出演し、見事なイメージ・チェンジを成し遂げていました。
遺恨あり 明治十三年 最後の仇討
2011年にテレビ朝日系列で放映されたテレビ・ドラマで、吉村昭原作の「最後の仇討」に基づいています。明治に入り、すでに仇討禁止令が制定している中で、明治13年に仇討が行われという史実に基づいて、ドラマはこの仇討の顛末を描いています。
事の起こりは、慶応4年(1868)、その年の内に明治に代わる時代のことです。この年、福岡藩の支藩である秋月藩の執政で開明派の臼井亘理(わたり)とその妻が、尊王攘夷派に暗殺されるという事件が起きました。こうした事件は、当時あちこちの藩で起きていましたが、秋月藩では、家老が開明派に反対して暗殺を命じたため、家老は犯人の探索を行わず、逆に臼井家に対して藩を乱したという理由で減俸するという不当な裁定を行いました。
当時、臼井亘理の長子六郎は11歳で、無残に惨殺された父母の死体を目撃し、父母の恨みを晴らすという固い決意をし、そこで彼の人生は止まってしまいました。たまたま臼井家の下女が犯人を目撃していたため、父を殺したのが一瀬直久、母を殺したのが萩谷伝之進であることが判明しました。しかし六郎はまだ幼かったため、ひたすら剣の修行に励みます。
ところで、仇討ち・敵討ち・復讐というのは、古くから存在し、司法制度が発達していない時代には、司法制度を補完するものとして公認されていました。ハンムラビ法典は復讐を認めていますが、同時に無制限の復讐に歯止めをかける意図もあったとされます。日本の江戸時代でも、殺人者に対しては原則的には公権力による処罰が行われましたが、いくつかの制限をつけた上で、仇討は認められていましたが、それは復讐ではなく武士の意地と面目に主眼が置かれていました。さらに家督を相続するために仇討が必要なことがあり、こうなると仇討には利害が絡んできます。
明治に入ると、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、武士は士族という名の失業者となりました。さらに明治6年(1873年)に仇討禁止令が出され、明治9年には廃刀令が制定されて、武士の誇りも捨て去られました。そうした中で、各地で士族の反乱が起き、明治10年には西南戦争が勃発します。六郎は、士族によるこうした事件とは一切かかわりなく、ただ恨みを晴らすことのみを考え、一瀬が東京に出たという情報を得て、1876年(明治9年)に東京に出ます。彼は、東京で剣の修行を積みつつ一瀬の行方を探し、ついに1880年(明治13年)に一瀬を殺害し、そのまま警察に自首します。六郎、23歳の時でした。
ドラマの後半は、六郎の裁判を巡る物語です。世論は、六郎を武士の誉れとして賞賛しましたが、裁判官は司法制度を守るためにも、この仇討を単なる殺人として裁くつもりでした。裁判官は、この仇討に関わった様々な人々の意見を聴取し、結局六郎が士族であるという理由で、死罪から罪一等を減じて無期懲役とする判決を下します。つまり士族の面目を考慮したわけです。六郎自身は、武士の誇りにも自分の将来にも無関心でしたから、素直に罰を受け入れます。そして士族もこの判決にある程度納得し、司法制度も守ることができました。
この事件は、前に観た「映画「阿部一族」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_18.html)と同様に、価値観が大きく変わろうとしていた時代に起きた事件でした。結局、六郎は、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法の発布の恩赦により釈放されます。ドラマでは、その後、彼は母を殺した萩谷伝之進を討つために旅に出ますが、彼は六郎が来る直前に、半狂乱になって首吊り自殺します。ただし、実際には六郎が服役中に死亡したともされます。一瀬の父も、六郎の判決後自殺したとされます。
映画はここで終わりますが、彼は萩谷の死によって生きる目的を失ってしまいます。もともと彼は武士の誇りとか正義を正すために行動していたわけではありません。正義を正すためなら、父母の殺害を命じた家老を討つべきですが、彼にはそうした意志はありませんでした。要するに彼の行動の原点は、11歳の時に見た父母の生々しい死の姿にあり、それに対する恨みを晴らすことだけだったのです。釈放後、彼は親戚の世話で結婚し、彼が病弱だったこともあって、妻が饅頭を売って生計をたて、1917年に60歳で死亡します。
この事件は、多事多難であった明治初期のほんの一コマにすぎませんが、当時の多くの人々の心を打ち、ドラマも大変よくできていたと思います。
新しい風
2004年に制作された映画で、明治時代に北海道の開発に携わった依田勉三(よだ
べんぞう)の半生を描いています。依田勉三は、今日の十勝の開発に生涯をささげ、今日の帯広の創設者となりました。なお、十勝とはアイヌ語で乳を意味する「トカプチ」を語源とし、十勝川の河口が乳房のように二つに分かれていたのが由来とされ、帯広はアイヌ語で「川尻が幾重にも裂けているもの」を意味する「オ・ペレペレケ・プ」が語源だそうです(ウイキペディア)。
農耕を基盤とする社会においては、常に人口増加にともなう農地不足が問題となります。江戸時代には幕府や藩が積極的に新田を開発したため、一定のバランスが保たれていましたが、それも限界に達していました。しかも明治に入ると、士族という大量の失業者が出現したわけです。前に触れた河井継之助(「映画で幕末を観て 河井継之助)や福沢諭吉なども(「映画で幕末を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post_6.html)、北海道での開拓を勧めていました。そして依田勉三は、19歳の時慶応義塾に入り、福沢諭吉の強い影響を受けました。
依田勉三は伊豆の豪農の次男に生まれ、明治14年(1881年)に資本金5万円で晩成社を創設し、翌年農民や友人らとともに十勝に向かいます。依田、29歳の時です。依田らはさまざまな種を蒔いて実験を繰り返しますが、イナゴ害・水害などさまざまな自然災害に襲われ、明治18年には、移民は3戸にまで減少しました。しかし、その後畜産を導入したりして、少しずつ業績が伸び、明治30年(1897年)に社有地の一部を宅地として開放すると多くの移民が殺到し、今日の帯広市の原型が形成されます。そして、大正14年(1925年)に依田は、72歳で死亡します。
要するに、北海道開拓の苦労の物語ですが、アイヌの問題があるため、私はこうした物語を素直に観ることができません。前に述べた「獅子の時代」でも北海道開拓の物語が出てきますが、そこではアイヌはまったきく登場しません。この映画ではアイヌが登場しますが、十勝には10戸程度のアイヌが狩猟生活を行っていました。さらに会津の武士が一人いましたが、彼は会津から逃れてアイヌの中に溶け込んで暮らしていました。映画では、依田たちはアイヌとの共存を望んでいましたが、政府の指示を受けた人々がアイヌの村を焼打ちするなど無法な行為を行い、結局村の人々は奥地へと移動していきます。
明治32年、日本政府は北海道旧土人保護法を制定します。その名目的な目的は、「貧困にあえぐアイヌ民族の保護」でしたが、実質的にはアイヌの財産の収奪とアイヌの日本への同化でした。具体的には
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入 (ウイキペディア)
そしてこの法が廃止されたのは、実に1997年でした。
その後日本は、日清戦争、日露戦争、日中戦争へと突き進んで行きますが、その出発点に北海道の開拓があったわけです。
坂の上の雲
2011年から13年にかけてNHKで放映された連続テレビ・ドラマで、一話90分で13話からなる長編です。司馬遼太郎の原作で、封建の世から目覚めたばかりの日本が、登って行けばやがてはそこに手が届くと思い、登って行った近代国家や列強というものを「坂の上の雲」に例えました。初めて国家をもったことへの痛々しいばかりの高揚感の中で、滑稽なほどがむしゃらに坂を登り続けていく人々が描かれています。しかし坂を登りつめてもそこに雲はなく、そこにあったのは絶壁でした。著者は、そうした時代を生きた人々を、幾分哀愁を込めて描いています。司馬は、本書が明治維新や戦争を賛美していると受け取られるのを嫌って、本書の映像化を拒否していましたが、彼の死後に映像化されることになりました。
最初の舞台は、伊予(愛媛県)の松山で、三人の少年たちの物語から始まります。一人は主人公の秋山真之(あきやま
さねゆき)で、後に海軍参謀として日露戦争の勝利に貢献します。もう一人は彼の兄である秋山好古(あきやま
よしふる)で、後に日本軍の騎馬隊を指揮して日清戦争・日露戦争で大活躍をします。そして、もう一人は正岡子規で、彼は34歳で早逝しましたが、日本の近代文学に計り知れないほど大きな影響を残していきます。
ドラマの前半は、青春群像物語です。やがて三人は東京に出、それぞれの道を模索していきます。秋山家は貧しかったので、好古は学費の要らない陸軍士官学校に入ります。彼は、もともと大人しい性格のようでしたが、自分に与えられた道をひたすら努力で切り開いていきます。真之は兄の援助で東大受験のための予備門(旧制高校)に入りますが、もともと喧嘩好きで、学問に向かないと考え、海軍士官学校に入ります。子規は、初めは政治家を目指しましたが向かないと判明、次に哲学を目指しますが向かないと判明、最後に文学、ことに俳諧の復興を目指すことになります。なお、真之と子規が通っていた予備門の同窓生には夏目漱石がおり、英語教師に高橋是清がいました。
やがて日清戦争が始まります。この間の伊藤博文や陸奥宗光らの外交上のかけ引きは、興味深いものでした。当時真之は海軍将校の下っ端でしたが、好古は騎馬隊の指揮官として大活躍します。子規は、戦争の終わり頃に従軍記者として清に渡ります。事実かどうか知りませんが、従軍医師だった森鴎外に出会い、鴎外にこの戦争は「明治維新と文明開化の押し売り」であると言われ、深く考えるようになります。そして、この頃から子規は結核にかかり、自分の余生があまり長くないことを感じるようになります。
日露戦争が近づいてきます。小村寿太郎らによる外交的取引は見応えがあり、財政家である高橋是清による資金集めも興味深いものでした。真之は、東郷平八郎のもとで日露海戦の作戦の立案を任せられます。一方、子規の病はますます重くなり、外へ出ることも困難となり、小さな部屋と小さな庭を見つめながら、命を削って俳句を作り続けていました。この間に様々なエピソードが語られます。訪日中のロシア皇太子ニコライ暗殺未遂事件、ロシアでの諜報活動、子規の晩年など、大変興味深い内容でした。
後半の多くは日露戦争を扱っており、私は戦争の経過にはあまり興味がないので、少し飛ばしました。それでも、日本が勝利する場面を見ていると、心が踊るのはなぜでしょうか。それはプロ野球で応援するチームが勝利するのと同じでしょうか。サッカーで日本が勝利した時の心躍る気持ちと同じでしょうか。正岡子規も日清戦争での日本の勝利を喜びはしましたが、軍人だけが日本を築いているのではないこと、自分も日本の文化を築いているという気概がありました。日露戦争の時、すでに正岡子規は亡き人となっていましたが、奇しくも夏目漱石が松山にいました。後に夏目は、松山での経験をもとに「三四郎」を著し、その中で日露戦争について、三四郎が「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言うと、別の男に「滅びるね」と言わせています。また西洋文明ばかりを取り入れて、日本のものは何もないこと、富士山は日本一だが、日本人がつくった分けじゃない、とも述べています。
さすがに夏目は、日本が置かれている状況を、よく理解していました。今日から見れば、夏目漱石や正岡子規の業績の方が、日清戦争や日露戦争での日本の勝利より、価値あるものを日本人に残したといえるのではないでしょうか。司馬遼太郎は、明治初年から日露戦争までの時代を驚くべき楽観主義の時代だったと述べていますが、同時にこの時代に生きた人々を愛情をもって描き出しています。
0 件のコメント:
コメントを投稿