2015年3月7日土曜日

映画で三人の女王を観る

クリスチナ女王

 1934年にアメリカで制作された映画で、17世紀におけるスウェーデン女王クリスティーナの半生を描いています。



















グスタフ2世アドルフ時代のスウェーデンの領土

スウェーデンはスカンディナヴィア半島のバルト海に面する国で、古くはヴァイキングが活躍した地域であり、ロシアに進出したのもスウェーデン系のヴァイキングです。スカンディナヴィア半島は農業的に貧しいため、ノルマン人は漁業やバルト海貿易で生計を立てることが多く、また地方勢力が自立していたため、戦争が絶えませんでした。14世紀終わり頃には、スウェーデンはデンマークに併合されてしまいましたが、16世紀に独立します。この頃からスウェーデンは、宗教改革でプロテスタントを受容するとともに、バルト海に進出し、ポーランド・デンマーク・ロシアと争うようになります。17世紀に入ってグスタフ2世アドルフが国王となると、積極的な侵略政策を推進し、ドイツでの三十年戦争にもプロテスタントとして介入し、彼は「北方の獅子」と呼ばれました。その結果バルト海はスウェーデンの海となり、今やスウェーデンはバルト帝国としてヨーロッパの大国となります。
ところが、1632年にグスタフは突然戦死してしまいます。38歳でした。その結果一人娘のクリスティーナがわずか6歳で即位することになります。彼女は幼少の頃から王子のように育てられ、男装し、騎馬を巧みとしました。また彼女は非常に知性豊かで、数か国語を操り、また暇を見ては読書に耽りました。彼女は1644年ころに18歳で親政を開始します。当時三十年戦争が終わりに近づいていましたが、父がスウェーデンをヨーロッパの強国にしようとしたのに対し、彼女は平和を望み、プロテスタントとカトリックとの宗教対立を終わらせたいと考えていたようです。そのため彼女は、ウェストファリア条約を締結して戦争を終わらせます。しかし1654年に彼女は突然退位し、王位を従兄に譲り、自らはスウェーデンを離れてヨーロッパに旅立ちます。
映画では、彼女が結婚しようとしないため、世継ぎがいないことへの不安の声が高まっている中で、彼女はたまたまスウェーデンを訪問していたスペインの特使と恋に陥り、愛のために王座を捨てて彼とともにスペインへ行こうとした、ということになっています。結局、出発の直前に恋人が決闘で殺され、彼女は一人でスウェーデンを去って行きます。この話は多分創作だと思われますが、映画そのものは面白く観ることができました。しかし、実はクリスティーナの人生はここから始まります。この後、彼女はまだ30年以上生きますが、その間彼女は隠遁生活を送っていたわけではありません。
 彼女は在位中から文芸に強い関心を示していました。三十年戦争が終わる直前にプラハを攻撃し、皇帝の美術品を大量に強奪し、さらに金に糸目を付けず美術品を買いあさりました。またデカルトを呼び寄せ、真冬の朝5時から暖房のない居間で講義をさせ、そのためデカルトは風をこじらせて、まもなく死亡します。スウェーデンを去る時も、彼女は集めた美術品をすべて持ち出し、1年程ヨーロッパ各地を旅した後に、父がプロテスタントのために戦って戦死したにもかかわらず、彼女はローマでカトリックに改宗し、そこを永住の地とします。ローマの邸宅にも多くの学者や芸術家を集め、学校を建て、オペラハウスまで建てました。
 彼女が王座を捨てて国を去った理由は、何だったのでしょうか。当初彼女はスウェーデンを文化の国にしたかったようです。美術品を集め、学者を集め、ストックホルムを「北方のアテネ」にしたかったようです。しかし現実には、スウェーデンにはまだヴァイキングの気風が残っており、宮廷では戦争の話ばかりです。また自由主義的な思想を持った彼女には、プロテスタントを絶対とする国是とは相容れませんでした。ヴォルテールは彼女について、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである」と述べています。そして彼女は、当時最も芸術の栄えたローマに向かったのだと思います。また、彼女がカトリックに改宗したのも、カトリックに心酔したというより、自由主義者だった彼女はカトリックにもプロテスタントにも関心がなかったからではないかと思われます。
 彼女はローマで30年以上優雅な生活を送ります。とはいえ、もともと服装には頓着せず、質素で装身具も付けませんでしたが、出費を惜しまず美術品・書籍を蒐集し、また各分野の学者・文化人・芸能人とも深く関わり、彼らのパトロンともなっています。こうした生活を賄うための費用は、スウェーデンにある彼女の資産から出費されましたが、結局それはスウェーデンからの持ち出しということになります。スウェーデン人にとっては、クリスティーナはプロテスタントを捨てた裏切り者であり、自由気ままに贅沢をして生きた女性であり、あまり評判がよくありませんが、彼女の30年以上に及ぶ余生は、常にヨーロッパ中で話題に種となっていました。彼女の遺体はバチカンに埋葬され、ミケランジェロの「ピエタ」の側に彼女の記念碑が建っているそうです。

 彼女の死後のスウェーデンでは、「北方のアレクサンドロス」と言われたカール12世がロシアと戦って敗れ、大国としての地位を失います。そして、その後のスウェーデンは、長い年月をかけて、クリスティーナが望んだ平和国家への道を歩んでいくことになります。



女帝キャサリン

1997年にドイツで制作された映画で、18世紀後半のロシアの女帝エカチェリーナ2世の生涯を描いた映画です。「キャサリン」というのは「エカチェリーナ」の英語読みで、彼女はドイツ生まれなので、ドイツ語では「カテリーン」と読みます。なお、ジャケットに「私に、溺れなさい」という意味ありげな言葉が書いてあり、しかもツタヤではこの映画はエロティック・サスペンスに分類されているため、わいせつな映画を連想させますが、ちゃんとした歴史映画です。でも、少しベッドシーンが多すぎるような気がします。やはり多少そちらの気がある映画かもしれません。
ロシアでは、ピョートル大帝の時代に大国としての基礎が築かれますが、その後ロマノフ家の男系が断絶してしまい、女帝が続きます。一度生後2か月のイヴァン6世が即位しますが、ピョートル大帝の嫡流エリザヴェータ(英語名エリザベス)がクーデタをおこして即位します。さらに彼女にも子がなかったため、ドイツで生まれ育った甥のピョートル(英語名ピーター)を後継者として迎え入れ、さらにその妃として、1744年に、当時14歳のドイツの小貴族の娘ゾフィーが迎え入れられました。これが後のエカチェリーナ2世です。
 ゾフィーはフランス語に堪能で、知性と教養に溢れ、乗馬も巧みでしたが、音楽だけは苦手でした。彼女は新教徒でしたが、ロシアに着くとギリシア正教に改宗し、ロシア語を猛練習しました。一方ピョートルは、愚鈍で、知能が少し劣っているのではないかとも言われていました。彼はギリシア正教に改宗することを拒み、ロシア語も勉強せず、ロシアの敵プロイセンのフリードリヒ2世を崇拝していました。彼が唯一得意としたのは、音楽だけでした。また彼は性的能力に問題があり、結婚して7年間もの間妻との関係がありませんでした。エリザヴェータは、後継者が生まれないことを心配し、エカチェリーナに他の男性との関係をもたせ、その結果エカチェリーナは子供を出産します。つまりエカチェリーナは夫との性的関係のないまま、後継者を生んだのです。さらにその後二人子供を出産します。
 1762年にエリザヴェータが死去すると、夫ピョートルは皇帝に即位、エカチェリーナも皇后となります。当時ロシアはプロイセンと戦っていましたが、ロシアは勝利目前だったにもかかわらず、フリードリヒ2世の崇拝者だったピョートルは軍隊を撤退させ、さらにギリシア正教会の領地を没収します。その結果ピョートルに対する反発が高まり、エカチェリーナ女帝への待望論が高まります。時は熟しました。この年、彼女は近衛軍とギリシア正教会の支持を得てクーデタを起こし、夫を捕らえ、女帝として即位しました。エカチェリーナ2世の誕生です。33歳の時でした。彼女はロマノフ家の血をまったく引いておらず、しかもロシア人ですらありませんでした。映画では、クーデタの過程が詳細に描き出されますが、彼女の行動は実に果敢でした。
 エカチェリーナ2世は啓蒙思想の影響を強く受けており、彼女の願いはロシアを中世社会から抜け出させ、近代化することでした。彼女は様々な改革を行い、トルコと戦って領土を広げ、ポーランド分割にも参加し、ウクライナも領土とします。そして、彼女が最終的な目標としたのは農奴解放でしたが、貴族の力があまりに強力で、結局果たせませんでした。逆にヴォルガ川流域のドン・コサックがプガチョフを指導者として反乱を起こしたため、これを徹底的に弾圧しました。善きにつけ悪しきにつけ、彼女は理想と現実とのバランスを維持することが巧みであり、たとえこの時代に彼女が理想に走って農奴解放を強行したとしても、成功しなかったでしょう。それ程、当時のロシアの社会は未熟だったのです。

 エカチェリーナ2世の男女関係の派手さはつとに有名で、多くの男性を寝室に連れ込みました。「英雄色を好む」というのは、女性についてもいえるようです。ただ、彼女もまた男女関係によって政治的判断を左右されることはなかったようです。彼女が最後に心から愛したとされるポチュムキン将軍は、トルコとの戦いで大きな功績をあげた人物ですが、映画では彼がプガチョフの処刑を思いとどまるよう強く要求しますが、彼女は拒否し、ポチュムキンは彼女から去っていく、という場面が描かれています。ポチュムキンは、ロシアが黒海に進出することを可能にした人物で、後に黒海艦隊に彼の名に因んだポチュムキン号という戦艦が造られます。このポチュムキン号は、1905年にこの船の水兵が反乱を起こして、ロシア第1次革命のきっかけとなった戦艦です。


 なお、エカチェリーナ2世に謁見した日本人がいます。伊勢国の廻船の船頭だった大黒屋光太夫で、彼については井上靖の小説をもとにした「おろしや国酔夢譚」という映画があります。1782年に光太夫は紀州から江戸へ向かいましたが、途中嵐に合い、7か月ほど漂流した後アリューシャン列島に漂着します。ここで毛皮を獲りに来ていたロシア人と出会い、彼らとカムチャッカ半島を経てイルクーツクに至ります。ここで博物学者のラクスマンと出会い、彼の勧めでペテルブルクに向かい、エカチェリーナ2世に謁見して帰国の許可をもらいます。ロシアとしては、漂流民を送り届けることを口実に日本と国交を開きたかったため、先のラクスマンの息子を遣日使節として派遣します。結局日本は光太夫たちを受け取って、ラクスマンたちを追い返し、国交はなりませんでした。それにしても帰国までに10年の歳月を要し、出港した時の17名の乗組員の内、帰国できたのは3名でした。艱難辛苦の10年でした。その後光太夫は江戸小石川に住居をもらい、余生を軟禁状態で過ごすことになります。




















ヴィクトリア女王 世紀の愛

2009年のイギリスとアメリカの合作映画で、19世紀のイギリスの女王ヴィクトリアの若い時代を描いており、原題は「The Young Victoria」です。
ヴィクトリア女王は、1837年に18歳で即位し、1901年に81歳で死亡するまで、63年間も在位します。そして彼女の在位期間は、大英帝国の繁栄の頂点の時期とほぼ一致するため、この時代はヴィクトリアの黄金時代とか、ヴィクトリア朝などとも呼ばれます。彼女が生まれた時には、彼女は王位継承候補の順位としては5番目でしたが、成長する過程で後継者候補が死亡したりして、結局彼女が第一の継承者候補として残りました。しかも、彼女が成人した年に王が死亡したことは、イギリスにとっても幸運でした。未成年で即位すると、近親者が摂政となって政治を独占し、宮廷が混乱するからです。また彼女は未熟で、政治についてほとんど分かりませんでしたので、議会と議会が選んだ首相が実権を持つようになります。彼女が即位した頃には、まだ国王がかなりの権力を持っていましたが、彼女の晩年には王権は弱体化し、議会を基盤とする政治が確立していくことになります。
映画は、ヴィクトリアが即位する1年前から始まります。未来の女王に対する周辺の様々な思惑が交錯し、即位後も彼女をコントロールしようとする様々な動きがありました。そうした動きの一つとして、叔父であるベルギー国王が、花婿候補としてドイツの貴族を送ってきました。アルバートです。そしてヴィクトリアはアルバートに一目ぼれし、彼女の方から求婚し、1840年に結婚します。アルバートは教養があり、非常に有能でした。それに対してヴィクトリアは感情に左右されやすく、反論されるとヒステリックになる傾向があり、彼は彼女の扱いに苦労しますが、それでも彼は誠実に対応し、最初の子が生まれたところで、映画は終わります。
しかし、女王としての彼女の人生は、始まったばかりです。彼女は20年の間に9人の子を産み、政務はほとんど夫にまかせていましたが、彼は1861年に42歳の若さで他界します。彼女の悲しみは深く、その後10年以上喪に服し、ほとんど政務を行わなくなります。その結果国王の力はますます失われていきます。しかし1870年代に入ると、彼女は徐々に政務に復帰し、特にディズレイリの帝国主義政策を支持します。その結果イギリスの領土は全世界に広がり、ここに大英帝国が成立します。大英帝国には多様な民族・宗教集団が含まれ、全体としての統一性はありませんでしたが、植民地の人々を「女王陛下の臣民」として結び付け、ヴィクトリア女王が統合の象徴の役割を果たすことになります。
 さらに、ヴィクトリア女王の子供や孫たちはヨーロッパの王侯と血縁関係を結び、それがイギリスの外交政策に大きな役割を果たします。彼女の晩年には、ヨーロッパ各地に40人の孫、37人の曾孫がいたそうで、彼女は「ヨーロッパの祖母」とまで言われました。ただ、彼女かアルバートのどちらかが血友病の因子を持っていたようで、彼らの子孫を通じてヨーロッパ各地の王侯に血友病が伝えられることになります。血友病は遺伝病で、一般には女子は発症しにくく、男子に発症しやすいようです。最も有名な例は、孫のアレクサンドラがロシア皇帝ニコライ2世に嫁ぎ、彼女が生んだ唯一の男子が血友病だったということで、このことがロシア革命の遠因となりました。善きにつけ悪しきにつけ、ヴィクトリアは後世に様々な影響を残した分けです。

この映画の発案者はイギリス王室に属する人物だったので、かなりヴィクトリア女王を美化しているように思います。彼女自身はそれ程優れた統治者とは言えないようで、むしろ議会から排出された有能な人材に助けられたというべきだと思います。つまり、今や国王が政治をリードする時代は終わりつつあったのです。ヴィクトリア女王の最大の功績は、結果的に王権を弱体化させたことにあるのかもしれません。


 ここで述べた三人の女王は、それぞれ直接の関係はありません。クリスティナ女王は突然王位を捨て、エカチェリーナ2世は力で王位を奪い、ヴィクトリア女王は63年間も王座にありました。そして三人とも、それぞれの国において、それぞれの時代に重要な役割を果たしました。


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