榎原雅治著、吉川弘文館 2019年
東海道は、今日関西と関東を結ぶ大動脈であり、近世においても歌川広重の浮世絵や十篇十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などで東海道はよく知られていました。本書は、一般にあまり知られていない中世の東海道の様子を、紀行文や地理学的・考古学的手法を用いて再現しようとするものです。
中世においては、東海道は海道と呼ばれ、京から太平洋に通じる道のことで、当時は近江から美濃(岐阜)を通って尾張に入る道で、基本的には今日の東海道と同じです。ただ、江戸時代の東海道は美濃ではなく伊勢を通っていました。
江戸時代には道はある程度整備されていましたが、中世においては道と言えるようなものではありませんでした。以前ヨーロッパの中世の旅に関する本を何冊か読みましたが、中世において旅は拷問であり、道と呼べるものは千年も前に建設されたローマ帝国時代の道の残骸くらいです。日本の中世においても、広漠たる三河には目印の柳の木が植えられていただけだったそうです。京から鎌倉に至るためには何本もの川を渡る必要がありましたが、もちろん川には橋はなく、船があるのも数か所のみで、基本的には浅い所を探して歩いて渡るのだそうです。
私の身近な場所で、興味深い場所が2か所ありました。一つは熱田宿と鳴海宿です。当時この二つ宿場の間は海水の下にありましたが、干潮時にこの地域に広大な干潟が出現するそうで、旅人は干潮になるのを待って通ったそうです。もちろん迂回路はありましたが、干潮を待つ方が早かったようです。もう一つは、浜名湖の今切口です。中世においては、この地域は地続きで、3キロメートルほどの幅があったそうですが、15世紀末の地震と津波で決壊し、以後東海道は浜名湖の北側を通るようになりました。私はしばらく浜松に行っていたことがありますが、今切口が決壊したとき、地元の人が「今、切れた」と言ったことが地名の由来となったという俗説を聞いたことがあります。なお、今切口は今でも難所で、台風が接近すると真っ先に通行止めになってしまいます。
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