2018年5月12日土曜日

映画「アラビアの女王」を観て



2015年にアメリカで制作された映画で、無冠の砂漠の女王と呼ばれたイギリス女性ガートルード・ベルの半生を描いています。原題は「砂漠の女王」です。
古来、中東は東西交易の中継地として繁栄し、16世紀にはオスマン帝国がこの地域の大半を支配して繁栄しましたが、大航海時代以降、この地域の重要性はしだいに減少していきました。しかし19世紀にオスマン帝国が衰退すると、ヨーロッパ諸国が介入し、オスマン帝国はヨーロッパから見て東方問題とよばれる諸問題の舞台となります。そうした時代にあって、当時のヨーロッパの人々には中東の内陸部についての知識がありませんでした。そこで当時、外交官や旅行家や考古学者などが諜報員としてさまざまな情報を収拾していました。それは前に観た「「ザ・グレート・ゲーム」を読んで」 (http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/10/blog-post_18.html)の世界であり、その過程でシルクロードの存在が明らかとなるとともに、中東では古代オリエント文明の発掘も行われました。
こうした人々の一人に、後に「砂漠の女王」と呼ばれるようになるガートルード・ベルという女性が存在しました。彼女は1868年にイギリスの裕福な家庭に生まれ、オックスフォード大学で学び、弱冠二十歳で最優秀の成績で卒業します。彼女の高学歴が災いしてか結婚相手に恵まれず、1892年にペルシア公使である叔父を頼ってテヘランに向かい、以後彼女は旅と登山に熱中します。世界一周旅行を二度行い、シリアを旅して砂漠の魅力にとりつかれ、その著書「シリア縦断旅行」は、中東地域の情報源としても重視されました。なお、1911年のシリア旅行で彼女の案内役を務めたのが、後に述べる「アラビアのロレンス」です。

 第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツの同盟国だったため、イギリスと交戦状態になります。そこでイギリスは、オスマン帝国支配下のアラブ人に反乱を起こさせることを計画し、1915年にカイロにアラブ局なる諜報機関を設立します。そしてこの機関にガートルードもロレンスも加わっていました。同じころイギリスは、メッカの名門ハーシム家のフサインに、オスマン帝国からの独立とアラブ人統一国家の樹立を約束し、アラブ人への支援を開始します。「アラブ反乱」の始まりです。












 ところが、この頃イギリスは、フランスやロシアとオスマン帝国領の分割を画策し、フランスにシリアを与えることを約束していたのです。シリア・イラク・ヨルダン地域には多数の少数民族や少数派が存在するとはいえ、比較的一体化されたアラブ世界です。この地域からシリアを切り離せば、イラクは多数派のシーア派を少数派のスンニ派が支配する国になってしまいます。ガートルードもロレンスも、この密約の存在を知らされていませんでしたが、ガートルードは結局母国の指示に従い、すでにダマスカスを占領していたフサインの次男ファイサルをイラク国王に、兄のアブドゥッラーをヨルダン国王としました。つまりガートルードはイラクとヨルダンの生みの母となりました。
 しかしイラクとシリアの分離は多くの問題を残し、それがシリアとイラクの統合を目指すイスラミック・ステートの論拠となりました。またロレンスはクルド人地区の分離を主張しましたが、ガートルートはこれを無視しました。とはいえ、多くの問題があるにしても、今日のこの地域の混乱の責任を彼女に追わせることはできません。そもそも問題なのは、帝国主義的な世界分割なのです。その後彼女は考古学に没頭し、1926年バグダードで睡眠薬の過剰摂取により死亡しました。58歳になる2日前でした。彼女の死が事故なのか自殺なのかははっきりしませんが、チェーンスモーカーだった彼女は末期癌だったという人もいます。

 映画では、彼女の政治的な活動より、砂漠の旅とベドウィンとの交流を中心に彼女の半生が淡々と語られています。まさに彼女は砂漠を愛し、アラブを愛し、男たちの中でただ一人の女として、凛として生きた女性でした。

1962年にイギリスで制作された映画で、実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いたアラブ反乱を描いた映画です。
ロレンスの経歴には、ガートルードと似たところがあります。彼は1888年にイギリスで生まれ、1907年にオックスフォード大学に入学し、1910年に最優秀の成績で卒業しますが、この間に長期間フランスを自転車旅行するとともに、レバノンで1600キロも徒歩で旅行しています。そして翌年、ガートルードと知己を得ます。ガートルードは43歳、ロレンスは23歳でした。
 その後彼はガートルードとともにアラブ局に配属され、諜報員としてハーシム家の王子ファイサルのもとに派遣されます。そして、ここから先は独断でろくに武装もされていないアラブ兵を率いて、アカバを攻撃し、さらにゲリラ戦を続けつつダマスカスを攻略します。この間、アメリカのジャーナリストがロレンスに張り付いて、全世界に彼の行動を英雄的に報道しましたので、彼は「アラビアのロレンス」として世界的な有名人となります。しかし、アラブの民族主義がこれ以上高まることはイギリスにとって不都合ですので、彼を大佐に昇進させて本国に帰国させます。中尉から始まり、数年で大佐にまで昇進したわけで、しかもまだ30歳になっていませんでした。
 戦後彼は、名前を偽って二等兵として空軍に入隊しようとしますが、身分がばれて入隊が認められませんでした。しかし彼の粘り勝ちで入隊が許され、インドでの勤務を許されます。除隊後の1935年にオートバイ事故で死亡します。46歳でした。軍隊における彼の評価は、協調性の欠如、博識、語学堪能などでした。またアラブ民族主義の象徴という評価がある一方、イギリス帝国主義の手先という評価もあります。
 200分を超えるこの映画は、事故で死亡したロレンスの葬儀から始まります。彼は大変な有名人でしたから、多くの人が葬儀に参列しましたが、ほとんどの人がロレンスとは何者なのかについて知りませんでした。もしかすると、ロレンス自身にも分かっていなかったのかもしれません。映画でアメリカのジャーナリストがロレンスに、あなたにとって砂漠とは何かと尋ねます。それに対してロレンスは「潔癖」と答えます。もしかするとロレンスは、潔癖症の偏屈な人物で、たまたま砂漠で戦うことになった2年間に、彼の全人生が凝縮してしまったのかもしれません。映画でときどき見せるロレンスの狂気のまなざしは、非常に印象的でした。

 なおイラク戦争については、このブログの「映画でイラク戦争を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)を参照して下さい。

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