2009年にスペインで制作された映画で、古代ローマ帝国末期のアレクサンドリアを舞台としています。この映画の原題は「アゴラ(広場)」です。アゴラとは、古代ギリシアの都市国家の広場=アゴラであり、民会の開催場所でもあったため、比喩的に様々な概念が交わる場を意味し、またアゴラはポリスの中心として複数の道が出会う場所でもあります。そして映画は、さまざまなものがアレクサンドリアに流れ込み、さまざまな葛藤が展開され、やがて歴史が一つの方向に向かっていく様を描いています。
アレクサンドリアは、紀元前4世紀にアレクサンドロスによって建設され、その後プトレマイオス朝の首都となってギリシア文化を継承するとともに、ナイル川デルタ地帯の西端にあって交通の要衝としても繁栄しました。また、アレクサンドリアには大図書館が建設され、世界中のあらゆる分野の書物が集められ、プトレマイオスなど優れた研究者が天文学・数学・哲学などさまざまな研究が行われました。まさにアレクサンドリアは、当時の世界の学問の中心だったといえます。紀元前1世紀にアレクサンドリアは、ローマ帝国の支配下に入りますが、その繁栄はそのまま継続されます。そしてこの映画の主人公は、ここで研究するヒュパティアという女性です。
ヒュパティアは実在した人物で、著書は残っていませんが、優れた天文学者・数学者として知られていました。映画では、彼女が太陽中心説、つまり地動説を証明しようとしたことになっています。すでに紀元前3世紀にアリスタルコスが地動説を唱えていましたが、当時としてはあまりに突飛な考え方に思われたため、彼の説はあまり問題にされませんでした。そして2世紀にプトレマイオスが天動説を確立し、この説が広く受け入れられるようになります。しかしこの説にも、子細に検討すると幾つかの矛盾点があり、映画では彼女はこの矛盾点を解決するため、発想を180度転換して地動説を再検討します。ただ当時の段階では地動説にも致命的な矛盾があり、映画では、彼女はこの矛盾を解くために、太陽の周りを回る地球の動きが円ではなく楕円であるという結論に達しますが、その直後に彼女は殺されてしまいます。いずれにせよ、地動説が日の目を見るには16世紀のコペルニクスを待たねばならず、楕円運動が日の目を見るには17世紀のケプラーを待たねばなりません。
ヒュパティアが生きた時代は、キリスト教が帝国を支配しつつあった時代でした。313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのは、キリスト教を帝国統治に利用しようとしたからでした。その後も概ねこの政策は継承され、皇帝はキリスト教徒となり、キリスト教徒を重用するようになります。そうなれば寄らば大樹の陰で、続々とキリスト教への改宗が進んでいきます。そしてテオドシウス帝は、380年にキリスト教を国教とし、392年には他の宗教を禁止するに至ります。そして映画は、その前年の391年から始まります。
アレクサンドリアは多様な世界でした。古代エジプト以来の神々、古代ギリシアやローマの神々、そして離散した多くのユダヤ人が住んでいました。さらにアレクサンドリアにはキリスト教の主教座が置かれており、その司祭だったキュリロスという人物が、民衆を扇動して異教徒の弾圧を繰り返していました。特に彼が目の敵としていたのは、大図書館とそこで行われている研究で、それは彼にとって神を冒涜するものでした。そのため彼は民衆を動員して図書館を破壊してしまいます。これによって、ヘレニズム以来蓄積されてきた偉大な文化遺産は失われ、ヨーロッパの科学は長い間低迷することになります。考えて見れば、彼らが行っていることは、今日イスラーム主義者たちが行っていることと同じであり、一神教という特異な宗教は、過激化すると他のものを一切受け入れない傾向にあるようです。
412年にキュリロスはアレクサンドリア教会の総主教となります。過激で野心家の彼にとって、まだ未解決の問題が残っていました。一つはユダヤ教徒の問題で、彼らはアレクサンドリアで大きな勢力を形成していましたので、これを徹底的に弾圧します。さらにヒュパティアの問題がありました。たかが一介の科学者にすぎませんが、彼女はキリスト教に改宗しておらず、しかもアレクサンドリアでなお大きな声望を維持していました。そして415年に、彼女は扇動された民衆によって殺害されます。キュリロスが彼女の殺害を指揮したかどうかは不明ですが、それを望んでいたことは確かです。こうしてヘレニズムの最後の火は、消し去られることになります。
映画はこれで終わりですが、キリスト教はもう一つ重大な問題を抱えていました。ここでは神学上の議論については触れませんが、キュリロスは、暴力・恫喝・陰謀・収賄などあらゆる手を使ってライバルを異端として排斥していきます。すでに異端とされていたアリウス派を徹底的に弾圧するとともに、431年にエフェソス公会議でネストリウス派を異端とし、皇帝さえも破門で脅して屈服させます。もはやローマ帝国はキリスト教に乗っ取られたも同然であり、西ローマ帝国はまもなく滅亡します。
キュリロスの神学は、今日の正統派キリスト教の基盤となっており、今日のキリスト教を生み出したのは、キュリロスだったと言えるかもしれません。それと同時に彼は、ヘレニズム文明の破壊者であり、その過程でヒュパテイアも殺害されました。しかしアレクサンドリアにヘレニズム科学の伝統は残り、やがて7世紀に北アフリカがイスラーム教徒の支配下に入った後、アレクサンドリアはアラビア科学の揺籃地の一つとなっていきます。
この映画にはさまざまな伏線があり、相当複雑ですが、かなりよく出来た映画だと思います。映画では、ヒュパテイアに恋する二人の男性とその運命も描かれていますが、ここでは触れません。
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