2010年にロシアで制作された映画で、日本語版の「バトル・キングダム」というタイトルは意味不明です。原題は「ヤロスラフ」で、英語版では「王子ヤロスラフ」です。サブタイトルは「千年前」で、日本語版の「宿命の戦士たち」というサブタイトルも意味不明です。こういうタイトルを考える人は、映画をちゃんと観ているのでしょうか。もっとも、この映画は日本人からすれば相当マイナーな映画で、私自身も主人公のヤロスラフや舞台となったロストフも知りませんでしたので、相当調べまくりました。
時代はキエフ大公国の時代で、当時はルーシと呼ばれていました。キエフ大公国は、日本の世界史ではロシア史の一環として教えていますが、この国は今日からいえば、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアのルーツとなった国です。この国にはさまざまな民族が入り混じっており、それに北欧から来たノルマン人(ヴァヤリーグ=ヴァイキング)が関わっているようで、この映画にも出てきますが、主に傭兵として軍事力を担っていたようです。当初、ノルマン人はバルト海に近いノヴゴロドに拠点を置き、ビザンツ帝国などとの交易を行っていましたが、9世紀後半にビザンツ帝国に近いキエフに拠点を遷します。キエフは、ドニエプル川の流域にあって水運に恵まれていたからです。
10世紀末にキエフ大公国のウラジーミル1世が、ギリシア正教に改宗します。このことは、その後のこの地方の命運を決定します。まずこの地方がキリスト教圏に入ったこと、そしてギリシア語文化圏に入ったこと、またビザンツ帝国の政治制度を導入したことなどです。当時のキエフ大公国には3つの選択肢がありました。当時のこの国の周辺には、ローマ・カトリック教会と繋がる西欧世界、古代ローマ帝国を継承するギリシア正教のビザンツ帝国、そしてイスラーム教圏があり、キエフ大公国がビザンツ帝国のギリシア正教を受け入れたのは、やはりビザンツ帝国との経済的繋がりが強かったからでしょう。
ウイキペディアは、ウラジーミル1世自身の解説はあっさりしていますが、なぜか「ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち」という項目を設けて、かなり詳細に説明しています。それによると、洗礼を受ける前のウラジーミルは「大いなる極道者」と呼ばれ、各地の別邸に数百人の妾をおいていたといわれます。一応、洗礼後はすべての妾を廃したと言われますが、実際にはどうだったのでしょうか。こういう状態でしたから、彼には12人の息子がいますが、母親が誰か特定できないようです。したがって、この映画の主人公ヤロスラフも、何年に生まれ、母親が誰で、何人目の子どもかも、よくわかりません。ウラジーミルは、地方の統治のため各地に王子を派遣しますが、ヤロスラフが派遣されたのは、ロストフという僻地でした。
(ウイキペディアの地図にいくつかの地名を追加しました。また境界線は私が書いたもので、いいかげです)
ここにあげた地図には、サンクト・ペテルブルクもモスクワも載っていますが、モスクワが歴史に登場するのは150年も後であり、サンクト・ペテルブルクに至っては700年も後のことです。ロストフは、今日のモスクワから北東へ200キロ強の位置にあり、ノヴゴロドなどともに、ロシアで最も古い町の一つです。しかし、町から一歩外へ出れば森に覆われた地域であり、そこには様々な民族が孤立的に居住し、盗賊が横行し、奴隷狩りも行われていました。
この地域に、熊をトーテムとする熊族が住む村があり、彼らは盗賊による襲撃に苦しめられていました。そこでヤロスラフは熊族と話し合い、治安の維持を引き受ける代わりに、キエフに服属するように提案します。この提案に熊族は同意しますが、熊族がキリスト教に改宗するという条件がついていました。これは難問で、双方に武力による解決を主張する人々がいましたが、平和的な解決を望むヤロスラフはあえて熊族の人質となり、熊族の信頼を勝ち取っていきます。この年が1010年ですが、この年にどういう意味があるのか、よくわかりませんでした。辺境のキリスト教化への第一歩という意味でしょうか。この映画が制作されたのが2010年ですから、千年前の1010年の何かを記念したものと思われます。いずれにせよ、1016年にヤロスラフはキエフ大公となって40年近く統治し、その間に領土を広げるとともに、法典の編纂や文化の振興を行うなど、その後ロシアに受け継がれていく文化の形成に貢献し、「賢王」と呼ばれました。タイトルの「バトル・キングダム」とは、かけ離れているように思われます。
聖ソフィア大聖堂
また彼は、今日までキエフに残る聖ソフィア大聖堂を建設しました。その建築様式は、500年後にモスクワで建設された聖ヴァシーリー大聖堂の原型を見るようです。
聖ヴァシーリー大聖堂
映画で描かれている内容は、私がまったく知らない世界でしたが、当時のキエフ大公国の動向や、辺境の風俗などがかなり正確に描かれているように思われ、大変興味深い内容でした。またヴァイキングの動向も興味深いものでした。話が飛躍しますが、アラビア半島は大半が砂漠であり、人口が一定以上増えると生きていけなくなるため、人々は定期的に肥沃なメソポタミアに向けて北上します。それと同じように、北欧も寒冷地であるため、人口が増加すると南下します。9世紀から10世紀がノルマン人移動の最盛期で、この映画の舞台となった11世紀には、ノルマン人の大移動はほぼ終息していましたが、それでもまだキエフ大公国の東の僻地で、ノルマン人が傭兵として活動していました。残念ながら、ノルマン人と現地人との関係はよくわかっていないようです。
この映画を観て、また私の先入観を一つ修正することになりました。我々は、西欧と比べて東欧・ロシアが後進的であると考えがちですが、少なくとも11世紀の段階では、キエフ大公国の国家組織と文化は西欧に優っていました。この時代の西欧では、国家組織はないに等しく、文化的にもローマ帝国の残り滓で成り立っていましたが、キエフ大公国はビザンツ文明という現役の高度な文明の影響を受け、またバルト海と黒海の交易の要衝を抑えて、交易でも繁栄していました。
しかし12世紀になると、西欧による十字軍遠征などで地中海航路が発展したため、ドニエプル川によるバルト海・黒海航路が衰退し、キエフ大公国も内紛が頻発して衰退していきました。そしてこの頃に、モスクワが資料に初めて登場しますが、まだ木造の柵が建っていただけです。ここへ、東からモンゴル軍が破竹の勢いで進撃してきます。1238年にモスクワが陥落、1240年にキエフが陥落、1241年にドイツ・ポーランド連合軍がワールシュタットの戦いで敗北します。今や、キエフ大公国の大半はモンゴルの帝国の一部であるキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)の支配下に入りますが、ノヴゴロドはモンゴル軍の侵入を免れます。そして、この時代のノヴゴロドの大公アレクサンドル・ネフスキーが、次の映画の主人公です。
「アレクサンドル・ネフスキー~ネヴァ川の戦い」
2008年ロシアで制作された映画です。1938年にエイゼンシュテインが「アレクサンドル・ネフスキー」という映画を製作しており、ずいぶん前に観たのですが、覚えているのは「氷上の決戦」だけです。ここで紹介するのは、2008年制作の映画で、ネヴァ川の戦いに焦点を当てています。エイゼンシュテインの映画については、後に「イヴァン雷帝」を観る予定です。
(ウイキペディアの地図に地名を追加しました。位置はいいかげんです)
アレクサンドル・ネフスキーは、ノヴゴロド公の子として生まれ、幼少より英知にあふれ勇敢だったため、1236年に父はアレクサンドルが16歳の時にノヴゴロド公の位を譲ります。まさにこの年に、モンゴルのバトゥの西征が始まりました。当時ノヴゴロドが置かれていた立場は、非常に複雑でした。東からモンゴル軍が迫るとともに、西からはスウェーデンやドイツ騎士団が、商業で繁栄するノヴゴロドを虎視眈々と狙っていました。しかもキエフ大公国は、すでにないも同然でした。
当時のヨーロッパは、農業生産が増大して人口が増加し、外に向けての膨張運動が本格化していました。スペインではイスラーム教に対する国土回復運動、東方に対してもイスラーム教徒に対する十字軍運動、そして13世紀の前半にはギリシア正教のビザンツ帝国を征服しました。そして、東欧・北欧では、北方十字軍と称してギリシア正教のロシアへの膨張が始まっていました。一方、ノヴゴロドでは古くから貴族による自治が行われており、大公は事実上、軍事的指導者以上の役割を持ちませんでした。当時のノヴゴロドの貴族たちの中には、スウェーデンやドイツ騎士団に服属して平和を維持すべきだという人々が沢山いました。それに対してアレクサンドルは、むしろモンゴルに接近し、スウェーデンやドイツ騎士団との対決姿勢を強めます。
こうした中で、スウェーデン軍がネヴァ川流域に侵攻してきます。ネヴァ川はノヴゴロドの北方にあり、今日のサンクト・ペテルブルクを流れる川です。1240年、アレクサンドルはわずかな兵力でスウェーデン軍の野営地を奇襲し、スウェーデン軍を壊滅させました。この勝利により、アレクサンドルは「ネヴァの勝者」を意味する「ネフスキー」と呼ばれるようになります。映画はここで終わりますが、彼は1242年にはドイツ騎士団の侵攻を撃退して領土を確保します。外交的には、何度もキプチャク・ハン国の首都サライを訪問して、臣従の意を示します。
こうした政策の背景には、モンゴル軍が強大であるということもありますが、ドイツ騎士団など西方の勢力はカトリックへの改宗を強要するのに対し、モンゴルは宗教的に寛大だったことがあります。こうして、ロシアは西欧世界とは別の道を進むことになります。また、ロシアのルーツともいうべきキエフは、やがてポーランドに併合されて、ロシアとウクライナは、当面それぞれ別々の道を歩んでいくことになります。
アレクサンドルの死後、彼の末子がモスクワを与えられてモスクワ公国が成立し、やがてモンゴルからモスクワの徴税請負人としての地位を与えられ、14世紀後半にモスクワ大公の地位を与えられました。今日のロシアの直接的なルーツであるモスクワ大公国は、モンゴル帝国の枠内でアジアの一国として始まったのです。後にしばしば「タタールの軛」と言われ、ロシアが重税と圧政に苦しみ、野蛮なモンゴルの支配下で文化も停滞した、言われました。しかし重税を取り立てたのはモスクワ大公であり、反タタールの反乱を鎮圧したのもモスクワ大公でした。また、モンゴルの文化は中国やイスラーム文明を吸収しており、決して野蛮な文明とは言えません。むしろ、モスクワ大公国はモンゴルの庇護のもとで成長したというべきです。ただ、ロシア文明の基盤となったビザンツ帝国やキエフ大公国と切り離されたことが、ロシアの歴史に大きな影響を与えることになったと思います。そしてそれは、アレクサンドルが西方からの侵略に対抗するために選んだ道でした。(ウイキペディアの地図に私が地名を追加しました。位置はいいかげんです。)
モスクワは、バルト海・黒海・カスピ海をつなぐ要衝にあって繁栄し、1480年にイヴァン3世の下でキプチャク・ハン国から独立します。この間、1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅びると、ギリシア正教の総本山をモスクワに遷し、ビザンツ帝国の後継者を自認するようになります。イヴァン3世の時代、まだモンゴルの残存勢力があり、西にはポーランドやスウェーデンがロシアへの侵入を狙っていましたが、ようやくモスクワ大公国は国家としての体裁を整えつつありました。そして、イヴァン3世の死後、半世紀後にイヴァン4世(雷帝)が登場することになります。
「イワン雷帝」
1944年から46年にかけてソ連で制作された映画で、エイゼンシュテイン監督によるものです。この監督は「戦艦ポチュムキン」など多くの話題作を制作した監督で、特に映画技術上画期的な手法を用いることで知られる監督だそうです。この映画では、歌舞伎の影響を受け、「見得を切る」という手法を用いて、人物をクローズアップさせています。この映画は三部作からなりますが、第二部でスターリンを批判したということで上映禁止となり、第三部は制作されませんでした。
イヴァン4世は、1533年に三歳でモスクワ大公になりますが、大貴族たちの専横により彼の存在は無視されていました。しかし1547年、彼が17歳の時にツァーリに即位することを宣言します。ツァーリとは、ビザンツ皇帝の称号であり、さらに遡ればローマ皇帝の称号であり、そのような称号を外国が認めるはずがありません。彼がこの称号を名乗ったのは、むしろ国内向けだったと思われます。国内には多くの有力貴族がおり、大公などは彼らの貴族の第一人者程度の地位でしかありません。しかも、イヴァン4世の幼少期の間に、貴族の専横はますます激しくなっていました。こうした中で、イヴァン4世は、より超越的な地位を必要としたのではないかと思います。彼が活躍した16世紀の後半は、ヨーロッパで絶対王政が生まれつつあった時代であり、彼の行動もそうした時代背景から生まれてきたものと思われます。
彼は即位すると、官僚制の整備、常備軍の設置、貴族や教会の権限の縮小など、次々と改革を行うとともに、戦争によって領土を拡大していきます。その結果大貴族との対立が激しくなり、1560年に妻が毒殺され、さらに側近を次々に失うと、イヴァン4世は突如退位を宣言します。映画によれば、翌年、彼は「民による嘆願」いう形で復位しますが、これはスターリンへの気遣いかもしれません。それはともかく、彼は復位の条件として非常大権を獲得し、以後イヴァン4世による恐怖政治が始まります。有力者に対する大粛清と対外戦争が続きますが、1574年末に再び退位を宣言し、76年初に再び復位します。そして1581年に跡継ぎを誤って殺してしまい、そのことを後悔しつつ、イヴァン4世は84年に死亡します。なお、「雷帝」という異称は、日本語に翻訳する時に遠慮してつけられたもので、原語を直訳すれば「恐怖王」といったところでしょうか。
イヴァン4世は極めて複雑な人物で、冷酷・残虐なのか信仰深い人物なのか、冷静に計算して行動する人物なのか、激情にかられて衝動的に行動する人物なのか、よく分かりません。また、彼の功績についても、ロシア・ツァーリズムといわれる専制体制の基礎を築いたと言うべきなのか、それともロシアを混乱に陥れたというべきなのか、よく分かりません。16世紀末にイヴァン4世が死んだ後、15年間ほど混乱状態が続き、1613年に成立したロマノフ朝も容易に安定しませんでした。
映画は、全体に重苦しい雰囲気で描かれていました。洞窟のような狭い部屋、屈まなければ通れないような低い出入り口、暗くて狭い廊下、その間を貴族たちが鼠のように動き回る、こうした描写の仕方は、陰謀に渦巻く当時のロシアの状況を示すものと思われます。また、前の二つの映画では、建物は木造でした。ロシアは石材資源に乏しい代わりに、木材資源が豊富なため、太い木をしっかりと組み合わせて造られており、なかなか趣のある建物でした。それに対してこの映画での建物は、多分煉瓦を積み上げ、その表面を漆喰で塗り固めてあるのだと思いますが、まるで洞窟のようでした。この時代のロシアの建築が再現されているのか、監督が意識的にこうしたセットを造ったのかは分かりませんが、陰惨な雰囲気がよくでていました。
さて、ここで話を少し戻したいと思います。13世紀にモンゴル軍によって征服された後、キエフ・ルーシはポーランドの支配下に入ります(実際にはリトアニアも関係してきますが、話が複雑になるので触れません)。15世紀頃からドニエプル川の中流と下流に、コサックと呼ばれる集団が発生します。「コサック」という言葉の由来も、コサックのルーツもはっきりしませんが、西欧で没落した貴族や遊牧民の盗賊、ロシアでの農奴制の強化を嫌って逃亡してきた農民などが集まって生まれたと言われます。彼らは民族集団ではなく、軍事集団で、各地で傭兵として雇われたりしていました。初期のコサックはドニエプル川中流のザポロージャ地方に根拠地を築いたためザポロージャ・コサックと呼ばれ、のちにそこから分かれて南ロシアのドン川流域に移住した人々をドン・コサックといいます。
ここでは主にザポロージャ・コサックについて述べたいと思います。この辺はキエフ・ルーシの中核地域でしたが、古くからウクライナと呼ばれており、この時代にはポーランド支配下のウクライナ地方となっていました。一方、モスクワ大公国もルーシでしたが、この頃からギリシア語風にロシアと呼ぶようになります。ここに、キエフを中心とするウクライナと、モスクワを中心とするロシアの原型が形成されることになります。コサックは自立心が強く、しばしばポーランドの圧政に対して反乱を起こしますが、その度にロシアの介入を招き、18世紀にはロシアに併合されることになります。
そして、16世紀初頭に、コサックがポーランドに対して行った反乱が、次の映画のテーマです。
「隊長ブーリバ」
1962年制作のアメリカ映画で、ウクライナ出身のロシアの文豪ゴーゴリの小説「タラス・ブーリバ」を映画化したものです。時代は16世紀の初めで、オスマン帝国が破竹の勢いで領土を拡大していました。そうした中で、ウクライナはオスマン帝国との戦いの最前線にあり、コサックはオスマン軍のと戦いで善戦していました。しかし、ポーランドはウクライナを支配するためにコサックの解散を命じたため、ブーリバは山に逃れて再起のための時を待ちます。
やがて二人の息子がたくましいコサックとして成長すると、ブーリバは敵であるポーランドを知るために、今ではポーランドの町となっているキエフの学校に息子たちを留学させます。二人は、ポーランド人に野蛮人と軽蔑されながらも、たくましく生きていました。そうした中で、兄のアンドレはポーランドの貴族ナタリアに恋をします。しかしナタリアの兄はアンドレに制裁を加えたため、アンドレは兄を殺し、故郷に逃亡します。
やがて、コサックは土地を奪ったポーランドに対する復讐に立ち上がります。しかしアンドレは、恋人のいるポーランドに味方し、父と戦って死んでいきます。アンドレの最後の言葉は、父や家族の名ではなく、ナタリアの名前でした。その後ブーリバはポーランド軍を全滅させ、土地を取り戻して映画は終わります。しかし、小説にはまだ続きがあります。
その後もポーランドとの戦いは続き、弟のオスタプはポーランド人に捕らえられ、群集の前で拷問されて処刑されます。その時ブーリバは大胆にも群集に紛れ込んでいました。オスタプが処刑の直前に「父さん聞いているか」と叫ぶと、静まり返った群集の中でブーリバは「聞いているぞ」と叫んで、風のように去って行きます。やがてブーリバもポーランドに捕らえられ死んでいきます。最後にブーリバは、やがてロシアがお前たちを屈服させるだろう、と叫んで死んでいきます。
われわれは、ブーリバのこのようなロシアへの期待には、違和感があります。しかしゴーゴリは、その鋭い社会批判にも関わらず、保守的で熱烈なスラヴ主義者でもあり、ゴーゴリは最後までこの矛盾を克服できず、名作「死せる魂」は未完に終わってしまいます。彼の痛烈な社会批判とスラヴ主義がどこで結びつくのかという問題は、この時代のロシア思想の複雑さを象徴する問題の一つであろうと思いますが、詳しいことは私には分かりません。この最後の部分はともかく、ブーリバ親子の物語は、長い外国の支配に翻弄されたザポロージャ・コサックの運命を象徴しているように思います。
結局、ザポロージャ・コサックはロシアに支配され、ロシア革命後にはコサックは反革命分子として徹底的に虐殺されます。1991年ソ連邦の解体にともなってウクライナは独立しましたが、その後も政治的な混乱やロシアとの対立が続いています。一方ドン・コサックは、ステンカ・ラージンの乱やプガチョフの乱などしばしばロシアに反抗しましたが、18世紀には自治を認められ、帝国内の軍隊として働くようになります。ロシアの対外戦争や国内の反乱鎮圧にも参加し、日露戦争でもコサック軍が大きな役割を果たしました。しかしロシア革命後赤軍と戦って、追放されました。
たった4本の映画で、16世紀までのロシア史を観たわけですが、それでも「イワン雷帝」以外は相当マイナーな映画でした。私が観たもの以外にもロシア史を扱った映画があるかもしれませんが、それ程数は多くないでしょう。もっと多くのロシア映画が公開されることを期待しています。17世紀以降について、私が観た映画は、「グローバル・ヒストリー 第27章 社会主義の挑戦」に記載されています。
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