リン・ハントン編(1989年) 、筒井清忠訳 1993年 岩波書店
本書は、ミシェル・フーコーの文化史、E・P・トムソンやナタリー・デーヴィスによる群集・共同体・儀礼、ローカル・ノレッジ、ローカル・ヒストリー、文学・批評・歴史的想像力など、戦後の新しい文化史のモデルを概説するとともに、幾つかの新しいアプローチを試みています。
私は、世界史という非常に幅の広い教科を教えていましたので、相当多分野にたる本を読んできましたが、読む際の態度は、まず必要な知識と意味を知ること、閃きを得ること、例えば「チベットの歴史とは、これなのだ」というような閃きが必要で、これがないと授業で情熱をもって教えることができません。また、授業で使えるようなエピソードも必要です。これらの観点で有用と思われる部分に線を引いていきます。逆に、実証的な部分や、理論的な部分は読み飛ばしてしまいます。これが私の職業的な読書の仕方です。この本の第六章「テクスト・印刷物・読書」で述べられていることは、まさに私自身のことです。ギンズバーグの「チーズとうじ虫」は、ピノッキオが十数冊の本をどの様な読み方をしたかを分析しており、大変興味深いものでした。
とはいえ、私もいつかは本を精読したいと思っており、最近では時間的な余裕があるため、精読に心がけています。以前は、仕事上、今必要な本を読む、という読み方をしていましたが、現在では「手当たり次第」という読み方になっています。しかし、相変わらず、3分の1程度読んで、関心がないと思うと、すぐ読むのを止めてしまいます。関心がなくても、なぜ関心がないかを考えることも必要だとは思いますが、私にはそれだけの根気がありません。しかも、精読するより、途中で止めてしまう本の方が多い、というのが現状です。
それにしても、この本は難しすぎます。もう少し易しく書けないのか、と思います。ここで理屈っぽく述べられている内容を読むと、私の「グローバル・ヒストリー」や「映画で観る世界史」などは児戯に等しく、それどころか歴史学に害毒をまき散らしているのではないかとさえ思えてきます。私も、はるか昔に歴史哲学にのめり込んだ時があったのですが、指導教官に、「体育のできない体育教師のようなものだ」と言われて、止めてしまいました。以後、あまり進歩のない歴史教育に携わってきました。
この本の中で、最も引きつけられたのは、やはりフーコーですが、同時にフーコーの歴史は、私にとっては最も理解しがたい歴史でした。逆に理解できないから、引き付けられたのかもしれません。「全体的な記述は一つの中心(原理、意味、世界観、総合的な様相)にあらゆる現象を引き付けるが、一般的な歴史は逆に拡散した空間を描き出す。」「人間において自己認識や他者理解の確実な基礎を与えるものなど何もない。身体さえも基礎にならないのである。」何も前提としないこうした態度は、私を含めて構造主義的な歴史に限界を感じている人には、魅力的だと思います。でも、私自身は、だからどうしたら良いのかが分かりません。
この論文の論者は、次のように言っています。「フーコーの文化史研究は発端を持つが原因をもたない歴史学である。単一の原因、主要原因のかわりにフーコーは原因なきゲームを我々に提供する。それは断絶と分裂の世界であるが、にもかかわらず一つの世界である。彼はポスト構造主義的アナーキストでは決してない。彼の歴史学はルールと目的をもったゲームである。しかしそれは二人以上の人間が遊ぶことのできるゲームだろうか。すなわちフーコーの方法は模倣できるものなのだろうか。」
私はフーコーの著作を読んだことはなく、読んでみたいという気持ちはありますが、もはやその気力は失われつつあります。なぜか禁断の実を食べるようで、恐ろしいのです。
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