2014年2月24日月曜日

映画でヒトラーを観て


はじめに 


「ヒトラーとは何者なのか」という疑問を、私はずっと若いころから抱き続けてきました。ヒトラーに関する色々な本を読み、それでも納得できる説明は得られませんでした。ヒトラーは、世界を人種同士が主導権を握るために争う闘争状態ととらえ、ナチ党の政権獲得は「世界史上最も偉大な民族であるゲルマン人による人種革命」の開始であると主張します。今日から見れば荒唐無稽としか思えない内容ですが、当時はこの主張が熱狂的に受け入れられたのです。日本でも、第二次世界大戦中に、本居宣長の皇国史観が宣伝され、日本は太陽である天照大御神が生まれた国だから、万国の中で最も優れた国であるとして、世界の国々に戦いを挑みました。この時代には、そうしたことが信じられるような風潮だったわけです。

ファシズムとか全体主義とかナチズムといった言葉は、曖昧に使用されていますが、ナチズムは、ドイツ人の世界支配を目指としていただけに、すぐれてドイツ的なものです。第一次世界大戦後に成立したヴァイマル共和国の下で、破滅的なインフレと世界恐慌を経験した人々は、もはやヴァイマル共和国も民主主義も国際協調も信じなくなっており、共産主義に対しては潜在的な嫌悪感をもっていました。そうした中で生まれてきたのが、国家社会主義です。国家社会主義という言葉は多様に使用されており、簡単に定義することは難しそうです。

 ドイツのナチズムの場合、反資本主義・反共産主義・人種主義・反ユダヤ主義が結びついたもののようです。ファシズムは、議会制民主主義や階級闘争を否定し、自由奔放な資本主義や個人主義を弾圧します。いずれも、反理性的で暴力的な側面をもちますが、第一次世界大戦後の困難な状況の中で、一つの打開策として生まれてきた思想のように思われます。日本にも国家社会主義の思想が生まれますが、非常に特異なのは北一輝です。






















 彼が目指したのは、国家主導による国家改造です。現在の政権も、議会も、財界も、軍部も腐敗堕落しているため、支配階級と結びついていない若手将校によりクーデタを起こし、戒厳令を発して、その間に国家改造を行うというものです。その際、民衆が入る余地はありませんので、その意味において国家主義的です。そして改造された国家においては、一定以上の所有の制限、男女平等の普通選挙、華族などの階級の廃止など、平等な国家が実現されるというもので、その意味において社会主義的です。こうした北の思想の影響もあって、1936226日に若手将校がクーデタを起こしました。結局、クーデタは鎮圧され、北一輝は処刑され、軍部が侵略政策に突き進んでいくことになります。
 一方、スターリンの独裁体制も国家社会主義とする人もいますし、ムッソリーニは国家社会主義の最初の実践者でしたが、ヒトラーのように極端な人種主義とむすびつくことはありませんでした。要するに、議会制民主主義が未熟な時代にあって、第一次世界大戦後の混乱や世界恐慌による経済的破綻の中で、一つの解決策として、国家社会主義という思想が普及したと思われます。ただ、国家社会主義は、国により、また人により、相当の違いがありますので、一律に論ずることはできないと思います。

 ここで紹介する映画は、数えきれない程あるヒトラーに関わる映画のうち、たまたま私が観た映画です。これら以外にも、優れた映画がたくさんあると思いますが、それらについては、また観る機会があれば、紹介したいと思います。


「独裁者」


 1940年、アメリカ製作、チャップリン主演・監督
1920年代から1940年代前半にかけて、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニなどの独裁者が登場し、世界中が混乱しました。彼らは歴史を自分たちの都合のよいように 解釈し、人々を扇動しました。チャップリンは、こうした独裁者の愚かしさをコミカルに、そして物悲しさを漂わせながら演じています。この時代に、これほど大胆に独裁者を風刺化できる人は少なかったと思います。やはり、チャップリンは並外れた映画人だったといえるでしょう。
なお、この映画ではチャップリンは一人二役を演じています。明らかにヒトラーと思われる独裁者と、不幸にも独裁者と瓜二つの小市民で、最後にこの小市民が独裁者を痛烈に批判します。(「グローバル・ヒストリー 第2章 歴史とは何か」と重複)
この有名な最後の6分間の演説を掲載します。

申し訳ないが、私は皇帝などなりたくない。それは私には関わりのないことだ。誰も支配も征服もしたくない。できることなら皆を助けたい、ユダヤ人も、ユダヤ人以外も、黒人も、白人も。
私たちは皆、助け合いたいのだ。人間とはそういうものなのだ。私たちは皆、他人の不幸ではなく、お互いの幸福と寄り添って生きたいのだ。私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくないのだ。
この世界には、全人類が暮らせるだけの場所があり、大地は豊かで、皆に恵みを与えてくれる。人生の生き方は自由で美しい。しかし、私たちは生き方を見失ってしまったのだ。欲が人の魂を毒し、憎しみと共に世界を閉鎖し、不幸、惨劇へと私たちを行進させた。
私たちはスピードを開発したが、それによって自分自身を孤立させた。ゆとりを与えてくれる機械により、貧困を作り上げた。
知識は私たちを皮肉にし、知恵は私たちを冷たく、薄情にした。私たちは考え過ぎで、感じなく過ぎる。機械よりも、私たちには人類愛が必要なのだ。賢さよりも、優しさや思いやりが必要なのだ。そういう感情なしには、世の中は暴力で満ち、全てが失われてしまう。
飛行機やラジオが私たちの距離を縮めてくれた。そんな発明の本質は人間の良心に呼びかけ、世界がひとつになることを呼びかける。
今も、私の声は世界中の何百万人もの人々のもとに、絶望した男性達、女性達、子供達、罪のない人達を拷問し、投獄する組織の犠牲者のもとに届いている。
私の声が聞こえる人達に言う、「絶望してはいけない」。
私たちに覆いかぶさっている不幸は、単に過ぎ去る欲であり、人間の進歩を恐れる者の嫌悪なのだ。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶え、人々から奪いとられた権力は、人々のもとに返されるだろう。決して人間が永遠には生きることがないように、自由も滅びることもない。
兵士たちよ。獣たちに身を託してはいけない。君たちを見下し、奴隷にし、人生を操る者たちは、君たちが何をし、何を考え、何を感じるかを指図し、そして、君たちを仕込み、食べ物を制限する者たちは、君たちを家畜として、単なるコマとして扱うのだ。
そんな自然に反する者たち、機械のマインド、機械の心を持った機械人間たちに、身を託してはいけない。君たちは機械じゃない。君たちは家畜じゃない。君たちは人間だ。君たちは心に人類愛を持った人間だ。憎んではいけない。愛されない者だけが憎むのだ。愛されず、自然に反する者だけだ。
兵士よ。奴隷を作るために闘うな。自由のために闘え。『ルカによる福音書』の17章に、「神の国は人間の中にある」と書かれている。一人の人間ではなく、一部の人間でもなく、全ての人間の中なのだ。君たちの中になんだ。君たち、人々は、機械を作り上げる力、幸福を作り上げる力があるんだ。君たち、人々は人生を自由に、美しいものに、この人生を素晴らしい冒険にする力を持っているんだ。
だから、民主国家の名のもとに、その力を使おうではないか。皆でひとつになろう。新しい世界のために、皆が雇用の機会を与えられる、君たちが未来を与えられる、老後に安定を与えてくれる、常識のある世界のために闘おう。
そんな約束をしながら獣たちも権力を伸ばしてきたが、奴らは嘘をつく。約束を果たさない。これからも果たしはしないだろう。独裁者たちは自分たちを自由し、人々を奴隷にする。
今こそ、約束を実現させるために闘おう。世界を自由にするために、国境のバリアを失くすために、憎しみと耐え切れない苦しみと一緒に貪欲を失くすために闘おう。
理性のある世界のために、科学と進歩が全人類の幸福へと導いてくれる世界のために闘おう。兵士たちよ。民主国家の名のもとに、皆でひとつになろう。


 ヒトラーは、この映画を二度観たと伝えられていますが、彼の反応は伝えられていません。また、この映画は当時の日本では公開されませんでした。


「ヒトラー ある経歴」


 1977年制作の西ドイツの映画です。
 豊富な記録フィルムを使ってヒトラーの生涯を描いたドキュメンタリーです。ここで語られていることは、今日から見れば古典的なヒトラー像であり、すでに語りつくされたことばかりです。映画自体が40年近く前のものであり、映像にも興味を引くようなものがありませんでした。
 映画は、第二次世界大戦が彼一人のために引き起こされたかのように描いていますが、果たしてそうでしょうか。世界中の人々が、戦争の原因はドイツにあると言い、ドイツはヒトラーにあると言います。しかし本当にそうなのでしょうか。お互いに責任転嫁をしているだけのように思われます。ドイツとしては、戦争をヒトラー個人の責任としたいところでしょうし、ドイツ以外のヨーロッパの国々はドイツの責任にしたかったでしょう。

映画では、ヒトラーのすべての行為が、権力を握るための演技であるかのよう描かれていますが、私は、彼自身は真剣だったと思います。彼は、民主主義、社会主義、合理主義、国際主義などあらゆるものを否定し、ドイツ民族の純粋性を掲げます。そしてこのことが、混乱に喘ぐドイツの人々の琴線に触れたのだと思います。


「アドルフの画集」


2002年のハンガリー、カナダ、イギリス合作
 ヒトラーは画家を志し、1907年にウィーン美術アカデミー入学を目指しますが失敗し、その後彼自身の言葉によれば、極貧の生活を送ったとのことです。ただし、彼は父親の遺族年金を受けていたため、それほど貧しかった分けではないと思われますが、かなり荒んだ生活をしていたようです。彼は1914年にドイツ軍に入隊し、1918年に敗戦を迎えます。しかし当時のドイツは騒然としており、彼は画家を目指しますが、まったく絵は売れません。そうした中で、一人の若いユダヤ人画商が彼の才能に目をつけ、彼の絵を販売することを約束しますが、なかなか実現しません。その間、ヒトラーは小遣い稼ぎに反ユダヤ主義者の集会で演説をし、かなり聴衆を引き付けていました。この演説でのヒトラーの反ユダヤ主義が、演技なのか本気なのか、よく分かりません。演説での熱狂と、創作の苦悩とが混沌として一体となって描かれます。いよいよ彼が画家としてデビューしようとした前夜に、彼を支援するユダヤ人画商が反ユダヤ主義者によって殺され、ヒトラーの画家への夢は消え去ります。
 この映画で語られていることが、事実かどうか知りません。戦後にもまた画家への夢を持っていたのかどうか、また彼を支援するユダヤ人画商が実在したのかどうかも、分かりません。1918年に戦争が終わり、1919年にドイツ労働者党に入党するまでのヒトラーが、どのように過ごしていたか分かりませんので、この映画のような解釈も成立するわけです。結局彼は、「政治自体が新しいアートだ」と考え、激烈な演説と、それに対する熱狂的な歓声、派手な演出による幻想の創出、これらを通して民衆を扇動する、これが彼のアートだというのが、この映画の主張のようです。
 映画は、極限状態にあったヒトラーが、政治へと傾斜していく姿が描かれており、それなりに面白く観ることができました。

「ヒトラー~最後の12日間~」

2004年公開のドイツ、オーストリア、イタリア共同制作。
 ヒトラーを扱った映画は数えきれないほどあり、したがってヒトラーを演じた役者も数えきれないほどいるでしょう。ところが、意外にも、ドイツ語圏でヒトラー自身を扱った映画は、ドキュメンタリーを除けば、これが最初の映画だそうです。実はドイツでは、今日でもヒトラーやナチスの賞賛は法律で禁止されており、今日に至るまで多くのナチス党員が国内法により処罰されてきました。それに対して日本では、戦後60年も経っているのに、まだ戦争責任を問われなければならないのか、という人々がおり、ドイツとは対照的です。この映画は、人間ヒトラーを扱っており、公開にあたっては賛否両論があったそうですが、内容については概ね好評だったとのことです。
 この映画は、1942年にヒトラーの秘書として採用されたトラウドゥル・ユンゲという女性の回想という形で話が進められます。すでに連合軍はベルリンに突入し、ヒトラーら幹部は総統官邸の地下壕に避難していました。この間、ヒトラーは絶望したり、反撃を命じたり、脅迫観念に陥ったりして、極めて不安定な状態にありました。そんな中でも、420にヒトラーの誕生祝が行われ、429日にエヴァとの結婚式が行われ、30日にエヴァとともに自殺します。この間の事情はよく知られており、ほぼ想像通りで、ヒトラーもまた普通の人間だったということです。衝撃的だったのはゲッベルス一家でした。彼は、妻と6人の子を地下壕に連れてきており、ヒトラーの死の翌日に子供たちを死なせ、夫婦で自殺します。

 女性秘書ユンゲは、戦後初めてユダヤ人に対する大虐殺を知り、ショックを受けますが、それでも自分は何も知らなかったのだし、自分には関係ないと思っていました。しかしある時、反ナチス運動で処刑されたゾフィー・ショルという女性の墓碑銘を読んでショックを受けました。ゾフィーはユンゲと同じ年に生まれ、彼女がヒトラーの秘書となった194212月の2か月後に、処刑されていました。ユンゲがヒトラーの秘書となって浮かれている時に、ゾフィーは死の恐怖に震えていたのです。ユンゲは、若かったということは言い訳にならない、眼を見開いていれば気づいたはずだ、ということに気づき、自分を許せなくなりました。2002年に『最期の時まで‐ヒトラーの秘書が語るその人生』という回顧録を出版し、それに関するインタビューがドキュメンタリー映画に収録され、それが公開された数日後にユンゲは死去しました。そして、彼女の人生観を一変させたゾフィーが、次の映画の主人公です。

「白バラの祈り ゾフィー・シェル、最後の日々」


2005年制作のドイツ映画で、事実に基づいています。
 ミュンヘン大学の学生だったゾフィーは、兄や友人とともに、反ナチス・戦争終結を主張する「白バラ」のメンバーとして活動していました。そして1943218日、それはユンゲが秘書となってから2か月目ですが、ゾフィーと兄はミュンヘン大学でビラを配り、その場でゲシュタポに逮捕されます。ゲシュタポの部長は、自白させて命だけは助けたいと思っていたようですが、彼女は死を選びました。逮捕の4日後に裁判が行われ、その場で死刑を宣告され、その日のうちにギロチンで処刑されました。映画は、彼女が逮捕されてから処刑されるまでの4日間を中心に、彼女の心の葛藤を描き出しています。






















 なお、彼女たちが書いたビラは、その後イギリスにわたり、反戦ビラとしてイギリス軍によってドイツでばらまかれたため、広く知れ渡りました。戦後、「白バラ」とゾフィーについて多くの本が出版されました。私が持っているのは「ミュンヘンの白いバラ」(山下公子、筑摩書房、1988)です。また、1991年にはゾフィーの似顔絵入りの切手も発売されました。
 こうしたことの背景には、ドイツ人の複雑な心情があります。戦後、世界中の人々から、ドイツ人は皆ナチであり、皆残虐であるかのように思われてきました。しかしドイツにも、ナチスに逆らったゾフィーのような女性がいたということは、ドイツ人に安堵感を与えることができたのです。また、先に述べたユンゲについても、2年以上もヒトラーの秘書として付き従い、しかも夫は親衛隊の将校でしたから、彼女がドイツが行った残虐行為について知らなかったとは、とても信じられません。彼女もまた、贖罪をしつつも、言いたくなかったことがあったのでしょう。

 いずれにしても、単にヒトラーが悪いとか、ドイツ人が悪いとか、こうした発想を持ち続ける限り、戦争の本当の原因を理解し、ヒトラーとは何者なのか、ということを理解することはできないように思います。このことは、日本についても言えると思いますが、それは決して某首相が言うような意味ではないことを、ご理解下さい。


「ワルキューレ」



2008年のアメリカ映画で、1944年軍部によるヒトラー暗殺未遂事件を描いたものです。ヒトラーの暗殺計画は50件近くあったとされていますが、この計画は暗殺後のクーデタ計画も含み、ワグナーの「ニーベルンゲンの指輪」に出てくる古代の神の名をとって、ワルキューレという作戦名がつけられていました。
映画の主人公は、貴族出身の将校シュタウフェンベルクで、北アフリカ戦線で負傷し、右手と左目を失って、内地勤務となり、そこでヒトラー暗殺の実行を引き受けました。1944720日、彼はヒトラーが出席する会議で爆弾をしかけ、爆発して数名が死亡しましたが、ヒトラーは軽傷ですみました。悪運が強いとしか、言いようがありません。シュタウフェンベルクは、翌日逮捕され、銃殺刑となりました。この事件で、約7000人が逮捕され、約200人が処刑されたそうです。
戦後、彼は英雄となりましたが、彼の場合、ゾフィーの場合ほど単純ではありませんでした。もともと国防軍とナチスは、あまり良好な関係にありませんでした。国防軍は、帝制時代からの軍隊で、幹部のほとんどが貴族やユンカーの出身だったので、伍長あがりのヒトラーを軽んじていました。また、ナチスは突撃隊という事実上の軍隊を抱えており、突撃隊は正規軍になることを目指していました。そしてヒトラーは軍の支持を欲しがっていたため、いわば身内である突撃隊を弾圧します。これによって軍は、ヒトラー個人への絶対的な忠誠を誓い、一連の侵略政策に加担します。幹部は当然、占領地での残虐行為やユダヤ人の迫害について知っていましたが、戦局が有利なうちはヒトラーの指示に従いました。一方、ヒトラーの直属軍ともいうべき親衛隊の勢力が巨大化する中で、戦局が不利になると、軍内部にしだいに不満が高まっていきます。

こうした中で、シュタウフェンベルクによる暗殺計画が実行されました。この計画での彼個人の勇気は賞賛に値しますが、遅すぎました。戦後、軍の幹部がヒトラーに反逆を企てたことは、ドイツ人にとって慰めとなりましたが、その軍部は、ニュルンベルク裁判の開始にあたって、軍はヒトラーの命令に従っただけで、通常の軍事行動を行っただけであると釈明し、裁判を免れたのです。

「アンネ・フランク」

2001年制作のアメリカ映画です。
 ヒトラーに関する映画をずいぶん観てきましたが、振り返って見ると、結局ユダヤ人に関係する映画がほとんどでした。ユダヤ人問題について、ここでは触れません。ユダヤ人が迫害された理由について、さまざまな説明がなされますが、どれ一つ納得できません。ユダヤ人迫害に関する数えきれない程の本があり、また映画もありますが、私の貧弱な言葉で書くと、かえって陳腐に思われるので、これについても書きません。一方、アウシュヴィッツでの虐殺はなかったと主張する人々がいます。アウシュヴィッツはソ連軍によって解放されたため、大虐殺はソ連によるでっち上げであるといいます。また、ガス室と言われるものが、必ずしもガス室ではないかもしれないという見解があり、これをもとに大虐殺はなかったとも言います。こういう人々は、自分たちの主張に都合のよい証拠が一つでもあれば、あたかもそれが全てであるかのごとく、声高に叫ぶ人たちです。
 アンネは、1929年にドイツで生まれ、ナチス政権が成立すると、1934年にオランダに移住します。ところが、1940年ドイツがオランダに侵略し、ユダヤ人の迫害を始めたため、194276日にアンネ一家など8人が隠れ家に移り住むことになりました。アンネ、13歳の時でした。しかし、194484日に隠れ家は警察に発見され、9月に8人全員がアウシュヴィッツ強制収容所に送られました。そして、19453月初め頃、アンネは腸チフスで死亡しました。15歳でした。これより2か月後にヒトラーが自殺します。
 8人のうち生き残ったのは、アンネの父だけでした。隠れ家に戻った父は、友人から遺品としてアンネの日記を手渡され、1947年にこれを出版します。「アンネの日記」は大きな反響を呼びお越し、ブロードウェイで上演され、1957年には映画も制作されました。日記は、第三者への手紙のような形式で書かれ、内容自体も興味深いのですが、何よりも一人の少女が2年間も隠れ家で暮らし、そして捕らえられ死んだという事実に、人々は衝撃を受けました。ユダヤ人が何百万人も死んだという知識は、単に数字の知識でしかありませんが、彼女の日記はその数字を生々しい現実として突きつけたのです。そして、アンネの運命は、何百万人というユダヤ人の運命でもあったのです。
 日記にストーリーがあるわけではなく、ただ日常生活が描かれているだけですが、この少女がやがて悲惨な末路をたどることが分かっているため、何気ない言葉にも心を打たれます。715日の日記にこう書かれています。「自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと。」この文章に暗さはありませんが、結局89日に彼女は逮捕され、日記も終わります。
この映画は、日記そのものを扱っているのではなく、1939年、つまりドイツがオランダに侵攻する前年から、彼女の死に至るまでの生活を描いています。したがって収容所での生活や死に至る経過まで描かれます。
 なお、例によって、アンネ自身や日記の存在を否定する人々がいます。そこでオランダの警察は、アンネを逮捕した親衛隊員を探し出して供述を得ましたが、それでも例の人たちは信じないでしょう。最近、都内の図書館で「アンネの日記」などが破られる事件がありましたが、犯人は、こういう人たちではなかったのでしょうか。

「ヒトラーの贋札」


2007年公開のドイツ・オーストリア共同制作
 主人公のアドルフ・ブルーガーは、ユダヤ人の印刷工で、紙幣や旅券などの偽造を行うなど、あまり褒められた生活はしていませんでした。1936年に、彼は紙幣偽造の罪で逮捕され、ユダヤ人として強制収容所に入れられましたが、収容所でも強かに生きていました。1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツはイギリス経済を混乱させるため、大量のイギリス紙幣を偽造する計画を立て、元贋札作りだったブルーガーに協力させます。これによって彼の待遇は大幅に改善されました。まさに、芸は身を助ける、です。彼は完璧な贋札を作ることに成功しますが、ここで一つの疑問が発生しました。自分が生き延びるために贋札を作っていますが、その贋札で敵にダメージを与え、その結果ドイツが勝ち続ければ、ユダヤ人に対する迫害はさらに続けられることになります。つまり、贋札は自分たちの命を救うのか、あるいは奪うのか、という疑問です。
 その後、彼らはアメリカ・ドルの偽札を作ることを命じられます。これ以上ナチスに協力すべきでないという人々がいましたが、それでも今を生きるために、サボタージュしつつではありますが、贋札を作り続けます。そして、ドルの大量製造の直前に、ドイツは敗北します。この贋金作戦の指揮者は、ユダヤ人を冷酷に扱った人物で、ブルーガーは最後に彼を殺す機会がありましたが、殺しませんでした。彼もまた、与えられた条件の中で、今を精一杯生きているのだ、と思ったのではないでしょうか。

 この映画の内容は、実際にあったことです。ブルーガーは実在の人物で、この映画は彼の証言に基づいて制作されたそうです。我々が記録映画などで観るユダヤ人は、何の抵抗もせずナチスに引き立てられ、そして死んでいくという、哀れなユダヤ人です。しかし、彼らもまた、与えられた条件のもとで、今を精一杯生きていたのだと思います。

「禁じられた遊び」


フランスで製作され1952年に公開されました。この映画はユダヤ人問題とは関係ありませんが、ドイツ軍がフランスに侵入し、逃げ惑うフランス人の悲惨な姿を描いています。
 1940年にドイツ軍がフランスに侵入し、5歳の少女ポレットの両親と愛犬が、戦闘機の機銃掃射で死にます。少女は、行くあてもなく一人で彷徨っていると、ミシェルという11歳の少年に出会い、彼の家で一時暮らすことになりました。ポレットはミシェルに教わって愛犬のお墓を作りますが、それ以来二人はお墓作り遊びに熱中します。やがてミシェルは、ポレットにせがまれて教会の十字架を盗もうとして発見され、大騒動となります。そしてポレットは、戦災孤児として身請けされることになります。
 ストーリーはこれだけですが、死というものを理解できない5歳の少女が、両親と愛犬の死を前にして、お墓作り遊びで心の空白を埋めようとしたのだと思います。そしてこのことは、ドイツ軍の侵入で大混乱に陥った当時のフランスの、至る所で見られた光景でした。
 なお、この映画は、映画の内容より、ギターによるテーマ曲の方が有名です。

「黄色い星の子供たち」


2010年製作のフランスの映画です。
 ナチスによるユダヤ人に対する迫害は、まず周囲からの嫌がらせから始まり、次にユダヤ人登録を強制され、さらに外出時には胸に黄色いダビデの星のマークをつけさせられ、最後に検挙されて強制収容所に送られます。そして、この映画は、黄色い星のマークをつけられた子供たちの物語です。
19406月にフランス軍がドイツ軍に敗北すると、フランスは中部のヴィシーに、ペタン元帥を首相として政府を樹立しますが、この政府はドイツの傀儡政府でした。ペタン元帥は、第一次世界大戦でドイツ軍の進撃を阻止した英雄でしたが、第二次世界大戦後、ドイツに協力した裏切り者として罵られました。しかし、彼は彼なりに、混乱するフランスにおいて、「禁じられた遊び」のポレットのような人々を救うことに精一杯だったのです。
確かに彼は、幾分無節操にドイツに協力しすぎたかもしれません。彼は、10万人のユダヤ人をドイツに送ることを求められましたが、とりあえず1万5千人まで値切ります。そして1942716日から17日にかけて一斉検挙が行われました。この時、13千人以上のユダヤ人が、とりあえずヴェロドローム・ディヴェールという競輪場に収容されたため、この事件はヴェル・ディヴ事件と呼ばれています。この13千人のうち、4割が子供でした。まもなく彼らは、ポーランドやドイツの強制収容所に送られ、帰ることができたのは、わずか400人だったとされます。そして、生きて帰った子供は、一人もいなかったとそうです。
 映画には特にストーリーらしきものはなく、ただ事件の顛末が描写されているだけです。そして、陽気で活発だった子供たちが、死の収容所に送られていく姿が描かれています。この映画について、これ以上言うべき言葉が見つかりません。フランス人には、ドイツ人程人種的偏見はなかったため、複雑な思いでこの事件を見つめていましたが、積極的に救出しようとする人もいませんでした。そして戦後、フランス政府は、あの事件はドイツ占領下で行われた事件なので、フランス政府に責任はないという、声明を出しました。

「ライフ・イズ・ビューティフル」


1997年のイタリア映画です。
 イタリアのムッソリーニは、ヒトラーほど極端な人種主義や反ユダヤ主義の思想をもたず、ドイツとの同盟後、ドイツがイタリアのユダヤ人迫害を要求しますが、あまり相手にしていませんでした。しかし、連合軍がシチリアに上陸すると、彼は失脚し、その後ドイツが北イタリアに侵入し、ムッソリーニを首班とする傀儡政府を樹立しました。そして、このドイツ支配の下で、本格的なユダヤ人迫害が行われたわけです。
この映画は、前半の陽気さと、後半の悲惨さが対照的です。主人公のグイドは、ユダヤ系イタリア人で、陽気な性格で、小学校教師と結婚し、ジョズエという息子を設けます。当時、第二次世界大戦が始まっており、ユダヤ人に対する多少の嫌がらせはありましたが、親子は幸せに暮らしていました。ところが、1943年にドイツ軍が北イタリアに侵入すると、親子とも強制収容所に送られます。収容所では、寝る場所も食事も極端に悪くなります。ジョジエが不安がると、グイドは、こどもを安心させるために、これは全部ゲームであり、よい子にして点数をためれば、戦車に乗って帰れると、噓をつきます。こうして、その後の収容所での悲惨な生活は、楽しいゲーム遊びに代わってしまいます。しかし、連合軍が収容所の近くまで迫り、あと一歩で救出というところで、グイドは子供を助けるために、殺されてしまいます。ジョズエは、最後までゲームだと思い込み、最後に連合軍の戦車に乗って、喜んで収容所から出ていきます。

ジェズエは、成長して初めて、収容所で父が自分のためにどんなことを行い、どのように死んでいったのかを知ります。こうしたことも、多くの収容所の親子の間に起こったことなのだろうと思います。「どんな状況下でも人生は生きるに値するほど美しい」というのが、この映画のテーマです。

「善き人」


2008年のイギリス・ドイツ合作映画です。
 この映画の主人公ジョン・ハルダーは、平凡な大学教授で、善き夫であり、善き父であり、病気の母の面倒をみ、親友にはユダヤ人もいました。彼は小説も書いていました。愛する妻が不治の病に犯され、苦しむ姿を見かねて安楽死させるという小説です。一方、ナチスは、障害者や遺伝的な障害を持つ人々を、ドイツ人の純潔を損なうとして、抹殺しようとしていました。そして、それを正当化するために、ハルダーの小説に着目したわけです。そのお蔭で彼は出世しますが、実はこの論理はユダヤ人の抹殺に繋がる論理だったのです。こうした中で、彼の親友のユダヤ人が逮捕され、強制収容所に送られます。ハルダーは、親友を探すため強制収容所を訪問しますが、そこでのユダヤ人の悲惨な状況を見て、愕然とします。これが、「善き人」が何気なく行った行為の結果だったのです。このように、あらゆるものが、ヒトラーという旋風に、否応なしに巻き込まれていったのです。

 ユダヤ人の強制収容所送りを指揮したアイヒマンが、「100人なら災害だが、10000人なら統計上の数字である」といったそうですが、そこには共感の心と想像力が欠落しているように思われます。そして、これが当時の多くのドイツ人の実態だったのだろうと思います。

「戦火の奇跡」


2002年にイタリアで制作された映画です。
 実は、この映画は前篇と後編からなっているのですが、なぜかレンタルビデオ屋に後編がなかったので、前篇しか見ていません。
イタリア人ジョルジョは、スペイン内戦時にフランコ軍に参加し、いわば独裁政権の樹立を援助した人物でしたが、今は牧場を経営し、たまたま1944年にハンガリーに家畜の買いつけに行き、そこでのユダヤ人の悲惨な状況を見て、これを助けるという話です。この話が史実かどうかは知りません。多分フィクションだろうと思います。主人公は、義侠心溢れるマフィアのボスのような人物です。彼がスペインで戦った理由は、共産主義者の政府ができれば、教会が破壊されるので、キリスト教徒を助けるためである、という単純明快な動機によります。そしてハンガリーでの活動は、ユダヤ教徒を助けるためということです。
 私が非常に興味をもったのは、二つあります。第一は、ユダヤ人救出にスペイン大使館が協力したことです。スペインといえば、15世紀末のレコンキスタ完成以来、ユダヤ人を追放し、実に19世紀初めまで異端審問でユダヤ人を迫害してきた国です。この間にスペインのユダヤ人の多くは、南欧やオスマン帝国領に亡命し、彼らはセファルディムと呼ばれます。ユダヤ人には二つの大きな系統があって、セファルディムの他にアシュケナジムという系統があり、西欧に移住したユダヤ人が、迫害されて東欧に移住した人々です。そしてハンガリーでは、東欧と南欧の中間にあって、どちらの系統のユダヤ人もいたようです。
一方、スペインは、歴史的な背景は分かりませんが、1924年にリベラ独裁政権が、かつてユダヤ人を追放したことを謝罪し、すべてのセファルディムにスペイン国籍を与えることを約束しました。また、1939年に成立したフランコ政権は、ヒトラーの要求にもかかわらず、ユダヤ人に対する露骨な迫害はしなかったようです。ムッソリーニもフランコも、ヒトラーの人種主義には、異常なものを感じていたようです。こうした中で、ハンガリーのスペイン大使館は、ジョルジョが連れ出した大量のユダヤ人を匿ったわけです。ただし、この話が事実かどうかはしりません。私自身は、ここでスペイン大使館が登場したことに、興味をいだいただけです。
 もう一つは、アイヒマンです。彼については、後に詳しく述べますが、彼は占領地のユダヤ人を強制収容所に送り込む責任者です。ところが、ハンガリーではユダヤ人の輸送が停滞していたため、アイヒマン自身が乗り込み、1944年に40万人のユダヤ人をアウシュヴィッツに送ります。しかし、ドイツの敗北が明らかになると、アイヒマンはハンガリーを脱出して姿をくらまし、やがてアルゼンチンに亡命します。つまり、ハンガリーは、アイヒマンが最後の「仕事」をした場所だったわけです。

 結局、この映画の最後がどうなったのかについては分かりませんが、イタリアでは大変好評だったとのことです。

「シンドラーのリスト」


1993年のアメリカ映画です。
 シンドラーは、若い時から仕事を転々とし、時には投機的な仕事に手を出して失敗を繰り返し、また遊び人でもありました。つまり、彼は、どちらかと言えば、人生をあまり真面目に生きてきた人物ではありませんでした。第二次大戦が始まると、戦争特需を当てにして、ポーランドで工場経営を始めます。その際、ナチスに一定の金を納めれば、ユダヤ人を無給で使うことができるため、ナチスの幹部たちに賄賂を贈り、便宜を図ってもらいました。はっきり言って、あまり褒められた仕事ではありません。しかし、ユダヤ人に対するナチスのあまりに非道な行為に、彼は次第に義憤を感じるようになっていました。ナチスの幹部に賄賂を贈って、ユダヤ人を労働者として使っている限り、彼らは強制収容所に送られることを免れることができたため、少しでも多くのユダヤ人を雇うようになりました。





 それでも、彼が考えていたのは金もうけであり、決してユダヤ人を救おうと思ったわけではありません。しかし、見るに見かねて、一人救い、二人救い、そうしているうちに1200人近いユダヤ人の命を救ったのです。「戦火の奇跡」のジョルジョが救ったのは100人にも満たないしょう。日本の外交官杉原千畝(ちうね)が、ユダヤ人に「命のビザ」を与え、5000人のユダヤ人を救いましたが、殺されたユダヤ人全体から見ればわずかな数です。それでも、一人救えば、やがてその人は結婚して2人の子を産むかもしれません。そしてその二人の子は4人の子を生むかもしれません。長い年月の後に、一人の生命がおびただしい数の生命につながっていくはずです。まず一人を救うという、その心が尊いのだと思います。
 シンドラーは、ユダヤ人を救出するための出費がかさみ、戦争が終わった時には破産していました。その後も彼は、色々な事業に手を出しますが、ことごとく失敗します。彼に命を救われたユダヤ人たちは、彼が困窮しているのを知って、1961年に彼をイスラエルに招きました。以後彼は、1974年に死亡するまで、イスラエルとドイツでの二重生活を続けます。そして彼は、最後まで山師的な実業家であり、遊び人であり続けたようです。彼の死後、彼の最後の恋人の屋根裏部屋から、彼が親衛隊に取り入るために贈った賄賂などを記載した、大量のリストが発見されました。これが、シンドラーのリストです。

 映画は、ユダヤ人に対する親衛隊員の非道な行為を詳細に描いており、それは、シンドラーでなくても、普通の人なら黙視できないような蛮行です。こうした状況を描くことによって、大して善人でもないシンドラーが、ユダヤ人救出へと追い詰められていく姿が描き出されています。

「ニュルンベルク裁判」


1961年制作のアメリカ映画です。
1945年にドイツの戦犯を裁くための国際軍事裁判は、ナチスの党大会開催地であり、アメリカの占領地域であるニュルンベルクで開催されました。
 ニュルンベルク裁判は、国際法廷で戦争犯罪人を裁くという、前代未聞の裁判でした。アメリカは、敗戦国に対する戦勝国の制裁という形式になることを恐れ、被告人には弁護人をつけるなど、正式な裁判の形式を踏襲することを望みました。判事も、連合国の主要国のうち、ドイツと直接戦ったイギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4か国からそれぞれ2名ずつ選ばれた。
しかし、この裁判には、法的に見て少なくとも二つの問題がありました。一つは、事後法であるということで、新しく法を作って、その法で過去の罪を裁く、という問題です。もう一つは、戦勝国による敗戦国に対する裁判ということで、「同じ事でも敗戦国がやれば悪、連合国側がやれば必要悪」とする「ダブルスタンダード」になってしまい、中立性が保持できない、という問題です。つまり、ニュルンベルク裁判は、裁判ではなく連合国による政治ショーという側面があったのです。この点では、極東国際軍事裁判も同様でしたが、それでも東京裁判では、比較的中立的な立場に立てたインドからも判事が召請されており、この判事が個別意見として全被告人を無罪とする意見を出しています。いずれにしても、この裁判は、将来の戦争犯罪への抑止となる側面がある反面、どんな状況であろうと戦勝国は敗戦国の指導者を処罰できるという先例を作ることにもなりました。
 この映画の主役は、連合軍主席検事のジャクソンです。彼は地方都市で弁護士として活動し、黒人の弁護を無償で引き受けるなど、正義感溢れる弁護士でした。彼は、F.ローズヴェルト大統領に認められてワシントンに招かれ、やがて司法長官を経て最高裁判事となります。そして、ニュルンベルク裁判での連合国首席検事に任命されるわけですが、これは相当に厄介な仕事でした。
 この映画は、ドキュメンタリーではなくフィクションですので、検事や裁判官の任命、戦犯の逮捕と拘留生活に至るまで描かれています。映画では、裁判におけるゲーリングとジャクソンとの対決が見せ場となり、この対決は、ジャクソンの敗北となります。ゲーリングは生粋の軍人であり、すでに処刑を覚悟していますので、ジャクソンは格の違い見せつけられることになります。ユダヤ人を強制収容したことに対し、ゲーリングは、アメリカは日本人を強制収容したではないか、ドイツ人やイタリア人を強制収容したのか、これは人種差別ではないのか、アメリカは日本に原爆を落としたが、これは大量殺戮ではないのか、と言います。明らかに、ダブルスタンダードという、この裁判の矛盾点をついていました。

主役は、ほとんどゲーリングのようでした。彼は、軍人らしく銃殺刑を望んだのですが、絞首刑と決まったため、密かに青酸カリを手に入れて自殺しました。結局ジャクソンは、最後までゲーリングに振り回されて終わったわけです。この裁判の功罪については、極めて多くの意見があり、ここでは触れません。ただ、戦争の過程で起こったことについて裁判できるかどうかは疑問が残りますが、ユダヤ人に対する虐殺だけは、黙視するわけにはいかなかったと思います。

「ヒトラーの審判 アイヒマン、最期の告白」


2007年のイギリス・ハンガリーによる合作映画で、ユダヤ人の虐殺に深くかかわったアイヒマンの裁判を描いた映画です。
 アイヒマンは中流家庭の、ごく普通の子として育ち、学業も振るわず、仕事も転々としていました。1932年に人に勧められてナチスに入党し、親衛隊に入隊していますが、イデオロギーにはあまり関心がなかったようです。1934年にユダヤ人担当課に採用され、以後彼は一貫してユダヤ人問題に関わることになります。最初は、ユダヤ人のパレスチナ移住に専念しますが、やがてオーストリアに赴任し、ここで彼の才能が発揮されます。彼は、わずかな間に、5万人のユダヤ人を追放し、彼らの財産を没収し、ユダヤ人移住を一大企業に発展させます。彼は、整然と組織だった行動が得意だったようで、今やユダヤ人移住問題の専門家となり、350万人にとされるドイツのユダヤ人をポーランドのゲットーへ移住させる計画を推進します。
 戦後、アイヒマンは、各地に潜伏した後にアルゼンチンに渡りましたが、1960年にイスラエル諜報特務庁=モサドが彼を拉致し、アルゼンチンの主権を無視してイスラエルに連行しました。映画はここから始まります。1961年に、世界中が注目する中で、アイヒマンの裁判が行われることになりました。レス警部が尋問を担当することになりましたが、民衆には、裁判など行わずすぐ殺害すべきという意見が多く、まっとうな尋問を続ける警部は裏切り者として嫌がらせを受けます。
 ドラマの途中で、ナチス時代の生活、アルゼンチンでの生活、拉致の模様などが、アイヒマンの回想として描かれ、大変興味深い内容でした。尋問では、アイヒマンは一貫して「命令に従っただけ」と答えるのみで、自らの罪を認めませんでした。しかし、ハンガリーでのユダヤ人の移送中に、ソ連軍がポーランドに侵入してきたため、移送の中止命令が出ており、それにも関わらず彼は移送を強行したことが判明し、これによって彼の論拠が崩れることになります。結局、彼は絞首刑となりますが、イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないので、これはイスラエルで執行された唯一の法制上の死刑となりました。なお、尋問の最後に警部が、「なぜ多くのユダヤ人を殺したのか」と質問したのに対し、アイヒマンは「ユダヤ人だからだ」と答えました。この単純さには、戦慄すべきものがあります。


 「イェルサレムのアイヒマン」は、ハンナ・アーレントが1963年に発表した裁判記録で、「悪の陳腐さについての報告」という副題がついています。この本は、世界中に衝撃を与えました。なぜなら、何百万人というユダヤ人を強制収容所に送ったアイヒマンは、ごく普通の人物だとして描き出されていたからです。獄中では几帳面に整理整頓し、供述には協力的でした。自分はユダヤ人を嫌ったことはなく、ガス室での虐殺には嫌悪を感じていたこと、自分はただ命令に従っただけだ、と主張します。彼は、すでに死刑を覚悟しており、彼の主張は身を守るための言い訳にすぎないとは言い切れません。「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」という彼の主張には、反論しがたいものがあります。彼は、自分で方向性を考えて実行する能力には欠けていましたが、方向性=命令さえ与えてくれれば、見事にそれを実行する能力がありました。
 この本の著者は、ドイツ系ユダヤ人でアメリカに亡命しますが、その内容は非常に客観的です。アイヒマンを悪逆非道な人物としてではなく、ごく普通の人物として描き、さらにアルゼンチンからの不法な拉致や、この裁判に正当性があるのか、といったことを問題としたため、ユダヤ人からは非難されました。しかし、一方で、ごく普通の人間でも、これほど非道なことを平然と実行できるという事実は、多くの人々に衝撃を与えました。
ギュンター・アンデルスという哲学者が、「アイヒマン問題は過去の問題ではない。我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、少なくともアイヒマン的世界の後裔である。我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がその機構に対抗できず、誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」と述べたそうです。私は、人間にとって必要なことは、他者への共感と、自分の行為が及ぼす結果への想像力なのではないか、と思います。

ところで、スペインの哲学者オルテガは、1929年の著書「大衆の反逆」で、新たにエリート層となった専門家層を、「近代の野蛮人」と呼び、精神的・内面的な高貴さが欠落していると述べています。事実、この後ドイツで権力をもったヒムラー、ハイドリヒ、などは、高い教育を受けた人々でしたが、自らで考えることなく、出世という欲に突き動かされ、命令された任務を見事に達成していきます。まさに、オルテガは、アイヒマンの出現を預言していたのです。
次にヒトラーの側近の一部の経歴を簡単に記します。その際、それらの人物の評価には触れず、事実のみを描きます。

 ゲーリングはエリート外交官を父に持ち、士官学校を卒業後、第一次世界大戦で航空隊の一員として華々しい活躍をします。1922年にナチスに入党し、その幅広い人脈によって資金集めに貢献し、さらに突撃隊を粛正するなど、ヒトラーが最も信頼する側近となっていきます。そして第二次世界大戦が始まると、ゲーリングはヒトラーの後継者に指名されますが、戦況が不利となると二人の関係は不和となり、最後はニュルンベルクの裁判で有罪となり、死刑直前に自殺します。
ヒムラーは安定した中産階級の生まれで、子供の時から勤勉で学力優秀、虫一匹殺せないような少年でした。大学では農学を学び、ここでも弱々しく心優しい青年でした。彼は、やがて親衛隊に入隊し、親衛隊を事実上ヒトラーの私的軍隊として強大化していき、ドイツの警察権力を掌握し、ゲシュタポや強制収容所も彼の指揮下に置かれました。まさにユダヤ人虐殺の中心人物だったわけで、心優しい青年がどうしてこのように変貌してしまったのでしょうか。彼は、最後はイギリス軍の捕虜となって、自殺します。
 ハイドリヒは、高名な音楽家を父に持ち、豊かな生活をしていましたが、戦後のインフレで困窮するようになり、この時期に反ユダヤ主義の思想を強めていきます。やがて彼は海軍に入隊し、将来を嘱望される軍人に成長していきます。その後ヒムラーによって抜擢され、ゲシュタポや諜報組織を任されるなど、ヒムラーの片腕となっていきます。ユダヤ人迫害を直接実行したのはハイドリヒで、その冷酷さはつとに有名です。彼は、1942年には、イギリスの画策により暗殺されます。
 リッベントロップは、富裕な貿易商の家庭に生まれ、貴族の娘と結婚して貴族の称号を手に入れました。やがて、ヒトラーのもとで外務大臣となり、敗戦までドイツの外交を担いますが、その政策は一貫して戦争推進であり、ヒトラーの気に入るような外交政策を行います。彼の態度は、妻とヒトラー以外に対しては極めて傲慢だったといわれ、ひたすら出世と保身に明け暮れたとそれます。そして、戦後ニュルンベルク裁判を経て処刑されます。
ルドルフ・ヘスは、富裕な貿易商の家庭に生まれ、第一次世界大戦に従軍、戦後ヒトラーに出会って熱狂的なナチス党員となります。おとなしくてまじめな性格で、常にヒトラーの近くにいて、あらゆる問題を処理しました。しかしヒトラーの寵愛を失うと、精神的に不安定となり、占星術など神秘的な世界に逃避するようになります。そして、1941年に突如、飛行機で単身イギリスに亡命し、以後終戦までイギリスで監禁されます。ニュルンベルク裁判では記憶喪失を装いますが、やがてそれが偽装であることを自白し、終身刑を言い渡されます。彼は、直接残虐行為に関わってはいないと思われますが、常にヒトラーの傍にあって重要書類にサインをしていたため、有罪判決を免れることはできませんでした。
 ゲッベルスは、上の5人とは異なり、貧しい家に生まれ、さらに小児麻痺のため障害者となりますが、ひたすら勉学に励んで大学を卒業しました。しかし、その直後に破滅的なインフレに見舞われて就職できず、知識人としての誇りも引き裂かれ、しだいに反資本主義・反ユダヤ主義に傾いていきます。彼は、ヒトラー政権の下で宣伝大臣を務め、ラジオや映画などあらゆる媒体を用いて、政治的な宣伝を行いました。それによって彼はプロパガンダの天才と呼ばれ、政治宣伝のモデルを生み出したと言われます。妻との間に6人の子をもうけるなど、ナチスの模範的家族とされて政治宣伝に利用しましたが、実際には女性関係は相当乱れていたようです。しかし最後は、かれは総統官邸に妻や子を連れ込み、ヒトラーの死後、家族全員で自殺します。


 結局、「ヒトラーとは何者なのか」という問いには、答えを出すことができませんでした。ただ、ヒトラーが時代のすべてを創出したのではなく、時代のあらゆる矛盾や醜さが、ヒトラー個人に凝集し、それがあらゆるものを巻き込んでいったように思われる、という陳腐な結論に達したのみです。

「栄光への脱出」




1961年のアメリカ映画です。
 ユダヤ人が自分たちの国を持ちたいと思うようになったのは、19世紀の終わりころからですが、第二次世界大戦中のホロコーストを経験したユダヤ人たちは、パレスチナに自らの国家を建設しようと決意し、続々とパレスチナに向かいました。しかし、パレスチナを委任統治するイギリスは、アラブ人との対立を恐れ、ユダヤ人たちをキプロスに収容します。そこで、キプロスのユダヤ人たちを貨物船に乗せ、イスラエルに大量脱出させようという計画が立てられました。これが「栄光への脱出」です。
 しかし、この映画は、ユダヤ人によるイスラエル建国を正当化するための宣伝映画であり、制作に関わった人々の多くがユダヤ人でした。この間にも、悪名高いユダヤ機関が、イギリス人にテロ攻撃を繰り返していました。また、ユダヤ人はパレスチナ人との共存を主張しますが、反抗するアラブ人については、旧ナチスの生き残れが支援していると主張します。確かにパレスチナ人の中にナチス残党の傭兵が紛れ込んでいた可能性は否定できませんが、それが中心になることなど、ありえません。
 確かに、ホロコーストに晒されたユダヤ人の心情は、察するに余りありますが、だからといって、パレスチナは無人の土地ではないので、一方的にそこに国家を造ることには無理があります。その後、ユダヤ人がパレスチナで行ったことは、ナチス顔負けの行為でした。この映画は、テーマ音楽が評判となり、また脱出シーンはモーセの出エジプトを思わせる大規模な物でしたが、あまり素直な気持ちで観ることはできませんでした。

「敵こそ我が友」


2007年制作のフランスの映画です。
 ナチス親衛隊員だった人物が、戦後中南米にわたり、アイヒマンとは対照的に、アンデスに第四帝国の建設を企てた人物のドキュメンタリーです。
 彼の名はクラウス・ビルバーで、「リヨンの虐殺者」と呼ばれ、本来ならニュルンベルク裁判にかけられるところでした。ところが、米ソの対立が激しくなると、彼はアメリカの情報部の保護下に置かれ、以後反共運動の工作員として暗躍します。彼は共産党の情報に精通しており、まさに、「敵の敵は味方」なのです。しかし、フランス政府からの身柄引き渡しの要求が強まったため、家族とともにボリビアに移住します。当時のボリビアは、アメリカが支援する軍事政権の支配下にあったため、ボリビアの軍事政権と深く関わっていき、1967年にはCIAも協力してゲバラの逮捕・処刑にも関わったとされます。まるで「007」の世界です。この時代には、中南米の独裁政権でナチスの残党が暗躍していたと言われ、結局アメリカは、中南米にナチスを復活させることになったわけです。
その後、バルビーは元ナチス党員を集めてナチス再興を図り、武器取引会社や海運会社を経営します。彼が戦争犯罪人であることが明らかとなると、ボリビア・テレビに出演して正体を証し、回顧録まで出版しました。この間にも彼は、ボリビア政権との関係を続けましたが、コカインの生産と輸出のため、後見人であるアメリカの支持を失い、身柄をフランスに引き渡されました。裁判において、彼は「自分はフランスがアルジェリアでやったのと同じことをしたにすぎない」と主張しましたが、終身禁固刑を宣告され、1991年に獄中で死亡しました。確かにフランスは、アルジェリアでバルビー顔負けの残虐行為を行っており、そのフランスがバルビーを裁くのは、幾分偽善的な感じがします。

 ニュルンベルクにおいて、正義の名の下に裁判が行われましたが、裏ではこのようなことが行われていた分けで、これが政治の現実でした。バルビーの件は氷山の一角にすぎず、それ以外にも同じようなことが沢山行われたでしょうし、ソ連も似たようなことをしていたでしょう。こうした事実を知れば知るほど、ニュルンベルク裁判が茶番に思われてきます。

「ミュンヘン」


2005年にアメリカで制作された映画です。1972年のミュンヘン・オリンピックの開催中に、パレスチナの武装組織「黒い九月」が、11名のイスラエル選手を殺害するという事件を起こしました。映画は、この事件から始まります。
ところで、イスラエルには、モサドと呼ばれる諜報・特務機関が存在します。モサドは、世界中に亡命したナチスの残党を探し出したり、特殊な工作を行ったりする機関で、アイヒマンを探し出し、アルゼンチンから拉致したのもモサドでした。そしてイスラエル政府は、事件の直後にパレスチナ難民キャンプを爆撃して、多数の民間人を殺害すると同時に、テロリストへの報復を決意し、テロの首謀者11名の暗殺をモサドに命じます。この作戦は、「神の怒り作戦」と名付けられました。イスラエルは、敵意に満ちたアラブ諸国に囲まれた小さな国であり、アラブ諸国はユダヤ人を最後の一人まで海の彼方に追い出す、と叫んでいます。そうした中で、イスラエルが生きていくためには、加えられた危害には必ず報復する、ということを見せつける必要があったのです。
この映画の主人公は、暗殺メンバーの一人アヴナー(仮名)という人物で、ストーリーは彼の話に基づいた実話だということですが、もちろんイスラエル政府は否定しています。彼らは、イタリアでの暗殺から始まって、世界中に散らばる標的を次々と倒していきます。しかし、一つの報復が新たな報復を呼び、絶え間のない報復の連鎖が生み出されます。アヴナーは、しだいに自分の仕事に疑問をもつようになり、精神的にも病んでいきます。その後、アヴナーはイスラエルを離れ、名前を変えてニューヨークに住んでいるとのことですが、真偽のほどは不明です。いずれにしてもユダヤ人は、ヒトラーの呪縛から容易には抜け出すことができないようです。
この映画の監督はスピルバーグで、「シンドラーのリスト」の監督でもあります。スピルバーグは、「シンドラーのリスト」ではユダヤ人に同情的な映画を作りましたが、この映画ではイスラエルに批判的な映画を作りました。

「紳士協定」


1947年に制作されたアメリカの映画です。この映画は、ヒトラーとは直接関係がありませんが、ユダヤ人問題の深層を描いた映画です。
主人公は、人気ライターであるフィル・グリーンで、彼は反ユダヤ主義に関する記事を書くように依頼されました。しかし、幼い息子に、なぜユダヤ人は嫌われるのかと問われたとき、彼は答えることができませんでした。そこで、彼は自分がユダヤ人になりきったら、反ユダヤ主義を実感できるのではないかと考え、自分がユダヤ人であると公言します。そして、その噂はまたたくまに広がり、自分に対する人々の態度が微妙に変化していることに気づき、また今まで見えなかったことが見えてきました。高級ホテルは、ユダヤ人の宿泊を、間接的に拒否しました。こうした施設は「非開放」として、暗黙のうちに知られていました。また、リベラルなことで知られたある雑誌社は、ユダヤ人の採用を行っていませんでした。
婚約者の実家は郊外にある裕福な家で、パーティーに招かれましたが、主催者からユダヤ人であることを言わないでくれと、頼まれました。多くの人は、自分は反ユダヤ主義者ではないが、周りにそういう人がいるから、と言います。人々は、はっきりとは反ユダヤ主義者とは言いませんが、優しい言葉で、間接的に自分たちの社会からユダヤ人を排除する暗黙の了解が存在します。これを「紳士協定」と言います。こうした事実をつきつけられたフィルは、激しい怒りを感じるようになります。
ユダヤ人は、他の人と何の違いもありません。それにも関わらずユダヤ人が差別されるのは、ユダヤ人擁護主義者の態度そのものにあることに気づきます。彼らは、白人クリスチャンを上位においた上で、自分は反ユダヤ主義者ではないと言い、そういう人が「いい人」と呼ばれますが、フィルはそのような人たちこそが差別の根源だと考えるようになります。そのことをはっきり知ったのは、息子が差別された時でした。ユダヤ人擁護主義者たちは、「可愛そうに」と慰めてくれますが、決して差別した人々に抗議したりはしません。そんなことをしたら、自分が所属するコミュニティーから排除されてしまうからです。そしてそのコミュニティーとは、白人クリスチャンのコミュニティーであり、自分がそのコミュニティーの一員であることに誇りを感じているのであり、これこそが差別の根源なのです。
フィルは、苦悶の末に、雑誌の連載原稿を書き始めます。タイトルは、「私は8週間ユダヤ人だった」です。この記事は大反響を呼び起こし、記事としては大成功だったわけですが、フィルはたたった8週間の経験で、深く傷つきました。

私にとっても、この映画は衝撃的でした。この映画は、アメリカでの公開より40年後の1987年に日本でも公開されましたが、その時のキャッチ・コピーは、「いま、答えてほしい! あなたも“紳士協定”に組する人なのか-」というもので、これに対して私は「否」とは言い切れません。


付録 愛の勝利を


2009年制作のイタリア・フランス合作映画で、サブタイトルにあるように、イタリアの独裁者ムッソリーニを愛した女性の、激しい生き方を描いた映画です。その女性の名はイーダ ・ダルセルで、実在した人物だそうです。
 ムッソリーニは、ヒトラーとは異なり、相当教養のある人物で、さまざまな思想を組み合わせ、独自の国家社会主義の思想を生み出し、それを実践した最初の人物です。もともと彼は社会主義者で、二人が出会った1907年頃は社会党の幹部として活躍していました。しかし、彼は国家社会主義に向かっていき、ばらばらに対立する民衆を一つの方向に向かわせるには、戦争に参加することが最も効果的だと考えました。1914年に第一次世界大戦が始まると、彼は社会党に反対して参戦を主張したため、社会党を除名されます。ムッソリーニにとって最も苦しい時期でしたが、彼女は全財産を売却してムッソリーニに提供し、ムッソリーニにすべてを捧げます。そしてムッソリーニの子を産みます。
 ムッソリーニは戦争に行き英雄として帰り、やがてファシスタ党を結成して、独裁者への道を歩み始めますが、その過程で彼女は、すでに彼に正妻と子供がいることを知ります。彼女は自分が正妻であることを訴えますが、スキャンダルを恐れたムッソリーニは、彼女を精神病院に幽閉します。それでも彼女は何度も脱走を試み、ムッソリーニに合おうとしますかぜ、無視され続けます。ムッソリーニにとっては、イーダは、正妻も含めて多数いる女性の一人だったかもしれませんが、彼女にとってムッソリーニは全身全霊を込めて愛した男性だったのでしょう。結局彼女は、1937年に死亡し、息子も1942年に精神病院で死亡、ムッソリーニは翌年失脚して、2年後に処刑されます。
 ファシズムは、混迷を深めている時代に、人々を一つの方向に向かせて結束させるのには効果がありますが、個人を犠牲にするという特色があります。多くの人々が、プロパガンダで熱狂している時に、多くの「個」が押しつぶされている、という現実があります。イーダは、巨大な全体に対して激しく戦った「個」であった、と言えるかもしれません。

























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