2014年2月1日土曜日

映画で律令体制の成立を観て

「聖徳太子」


 これは、2001年にNHKで放映されたテレビ・ドラマです。

 聖徳太子は、十七条憲法を作り、その後の日本の国家の方向を示した人物として有名です。しかし聖徳太子については、すでに江戸時代からその実在を疑問視する意見があり、今日も議論が戦わされています。そもそも聖徳太子という名は、彼の死後100年以上たってから現れる名前で、「日本書紀」ですらまだ「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と記しています。聖徳太子は実在しなかったのか、聖徳太子と厩戸皇子は別人なのか、この問題に答える能力は、私にはありません。ただ、仮に実在したとしても、一般に聖徳太子について伝えられるエピソードの大半は後の時代の創作であるという点では、ほぼ意見が一致しているようです。

 たとえば、聖徳太子が馬小屋の前で生まれたため、厩戸皇子と呼ばれたなどという話は、イエス・キリストのエピソードのようで、信じるに値しません。また、10人の人が同時にはなした内容をすべて聞き分けた、などというエピソードも、後に造られたものであり、十七条憲法も聖徳太子が作ったことを疑う人もいます。聖徳太子以降、大化改新を経て天智・天武・持統天皇の時代に律令制が確立し、天皇制が強化されていきますが、この過程で聖徳太子崇拝が形成され、「日本書紀」でほぼ完成されます。つまり、聖徳太子が実在するかしないかは別として、そのイメージはかなり意図的に作り出されたものなのです。

 6世紀の前半、ヤマト政権による政治的統一がほぼ達成されますが、同時に中央の豪族が非常に強力になり、豪族間の対立もが激しくなって、大王による統一的な統治を阻害していました。なかでも大伴氏や物部氏は、その家系を神話時代までさかのぼることができる有力豪族でした。一方、蘇我氏は6世紀頃から急速に台頭した新興勢力で、仏教の導入を主張して大伴氏や物部氏と激しく対立していました。

 ドラマはまず朝鮮半島の情勢の説明から始まります。当時朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済が対立し、日本は百済と友好関係を維持し、百済を通じて中国の高い文化を学んでいました。そして伊真(いしん)という名の百済人が倭に渡来し、やがて彼は生涯聖徳太子に付き従うことになります。つまりドラマ全体が、常に朝鮮半島との関係おいて語られることになります。ドラマを見ていて私が何よりも驚いたのは、宮廷では朝鮮語が日常的に話されており、朝鮮語を話すことは貴人のたしなみとなっていたことです。これがどこまで事実なのか分かりませんが、当時朝鮮が外来文化の窓口となっていたことは確かです。

伊真が日本に着いて最初に目撃したのは、廃仏派の物部守屋が蘇我馬子の屋敷を攻撃して仏像を破壊する場面でした。なおこの場面に物部側の者として蘇我の屋敷を襲った中臣氏が登場しますが、中臣氏は神事・祭祀を司る豪族なので、当然仏教には反対です。しかし、後にこの中臣氏から、中臣鎌足が登場することになります。

 574年厩戸皇子は、第31代用明天皇の第二皇子として生まれました。母は蘇我氏の出身だったため、蘇我氏との血縁関係が深く、蘇我馬子などから仏教の影響を受けたと考えられます。585年崇仏派の用明天皇が即位しますが、2年後の587年に死亡したため、皇位継承をめぐる対立が起きます。蘇我馬子は、物部守屋がおす廃仏派の皇子を殺害し、崇仏派の崇峻天皇を第32代天皇として即位させ、さらにこれに反対する物部守屋を攻撃して滅ぼします。この時厩戸皇子はまだ13歳でしたが、蘇我馬子軍とともに参戦し、四天王に勝利を祈願したことがエピソードとして伝えられています。その後、馬子が実権を握りますが、これに不満を抱いた崇峻天皇までも殺害します。

 では、次期天皇を誰にするのか。何と、3代前の敏達天皇の皇后額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が、593年に推古天皇として第33代天皇に即位したのです。日本における最初の女帝とみなされています。彼女が蘇我氏の出身で、馬子と親しい関係にあったことが、理由の一つだと思われます。しかし彼女は聡明な女性でした。まだ二十歳にも満たない厩戸皇子を摂政に任命し、権勢の拡大に走る馬子とのバランスを取りながら、36年間もの間平安を保つことに成功しました。その間622年に厩戸皇子が49歳で死去、6年後の628に推古天皇が79歳で死去、その4年後に馬子も死にます。

 この間の東アジア世界は激動の時代でした。581年に中国で隋が成立し、400年続いた分裂時代が終わりました。しかし、611年から隋は3度におよぶ高句麗遠征を行い、朝鮮半島は動乱の時代を迎えました。618年隋が滅び唐が成立しますが、唐もまた朝鮮半島に介入し、日本もこれに巻き込まれていきます。日本でも、聖徳太子が遣隋使を派遣して中国の文化・制度を学び、国内の制度を整えていくとともに、仏法に基づく統治理念を形成していきます。629年玄奘が仏法を求めてインドに渡り、多数の仏典をもたらして翻訳し、そこで生み出された教義は法相宗として日本にも大きな影響を及ぼします。一方、聖徳太子が死んだ622年にムハンマドがメッカに聖遷を行い、イスラーム教という新しい理念が生み出されます。要するに、この時代は、長い混乱の時代を経たのち、新しい世界観が形成されていった時代でもあったのです。こうした時代の中で、聖徳太子伝説も形成されていったのだと思います。

 ドラマでは、権勢欲を強めていく馬子と理想を求める厩戸皇子との対立が描かれます。一体、厩戸皇子と馬子との35年間に及ぶ共同統治の時代がどのようなものだったかは、はっきりしません。この時代に馬子が実権を握っていたことは確かで、厩戸皇子の足跡はあまり認められません。確かに、馬子が利権のために朝鮮出兵を強行しようとし、これに厩戸皇子が激しく反発しますが、遣隋使の派遣や十七条憲法に馬子が反発した痕跡はありません。ドラマでは、この時代の厩戸皇子は憲法の第一条「和を尊しとなす」を理念として掲げます。これに対して、権勢欲に明け暮れる馬子は、娘の夫でもある厩戸皇子を清いものでも見るように慈しむなど、この二人の関係は愛憎半ばする複雑な関係として描かれています。ドラマの最後で二人が激しく議論する場面は、なかなか見ごたえがありました。

 厩戸皇子が隋に使節を派遣したとき、日本は野蛮の国としてほとんど相手にしてもらえませんでした。しかしやがて国内を整備し、隋の天子に「日出る国の天子より、日没する国の天子へ」と手紙を書き、遣隋使が受け入れられ、隋の使節もまた日本へやってきます。こうして聖徳太子の悲願は達成されます。これらの物語の大半は創作であろうと思われますが、少なくとも後に律令体制を築いていくことになる人々が、このようにあってほしいと願う聖徳太子像ではあります。こうして日本は天皇を中心とする集権国家へと少しずつ変貌していくわけですが、それは同時に少数派と地域文化を抹殺していく歴史でもあります。


「大化改新」


 2005年にNHKで放映されたテレビ・ドラマで、いわば「聖徳太子」の続編です。

 このドラマも、当時の東アジア情勢の説明から始まります。朝鮮の三国が対立し、中国では唐が成立します。日本もまたこの情勢に無関係でいることはできませんでした。そうした中で、622年聖徳太子が死んだ年に、まだ幼かった中臣鎌足が聖徳太子に憧れて飛鳥にやってきたところから、ドラマは始まります。やがて蘇我馬子の孫である蘇我入鹿と学友となり、どちらも秀才として知られるようになります。蘇我氏は名門中の名門で、いまも最高の実力者でしたが、中臣家は宮廷では最も低い位にありました。

 中臣鎌足は『天皇記』、『国記』など蘇我家に保存されていた聖徳太子の著作を見る機会を得ます。これらの書物は現在では残っていませんが、「日本書紀」はこれらの書物を基に記述されたと思われます。彼はここで初めて「一七条憲法」を読みますが、この憲法は当時一般にそれほど広く知られていなかったのかもしれません。「十七条憲法」が文献上最初に現れるのは「日本書紀」なので、この憲法を書いたのが「日本書紀」の編纂者ではないかとも疑われています。

鎌足は、当初聖徳太子の子息である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を崇拝し、彼が天皇になることを望んだ時期がありました。もっとも、山背大兄王が聖徳太子の子息であるという確証はなく、これも聖徳太子を理想化しようとする「日本書紀」によるねつ造かもしれません。いずれにしても、鎌足は本来の家業である神官職を継ぐことを止め、聖徳太子の仏法に基づく統治に心を惹かれていきます。

 問題は628年推古天皇の死を境に始まりました。後継者を田村皇子とするか、山背大兄王にするかで豪族たちの意見が分かれましたが、結局田村皇子が舒明天皇として即位します。その結果蘇我家の勢力は一層強力となる一方、山背大兄王を待望する勢力も根強く残ることになります。この時代には、次期天皇を誰にするかは豪族たちの話し合いで決定されており、天皇にはなお豪族連合の長としての役割が強く残っていました。そして641年舒明天皇が死ぬと、舒明天皇の皇后だった寶女王(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位し、642年蘇我入鹿が父蝦夷を代わって最高権力を握ります。ここに蘇我氏は、馬子・蝦夷・入鹿と三代にわたって権力を握り、蘇我氏の権勢は頂点に達します。さらに入鹿は、643年に蘇我氏の最大のライバル山背大兄王の館を襲ってこれを殺害します。

 この頃東アジア世界では、重大な事件が起こっていました。644年に唐の太宗は高句麗へ遠征軍を派遣するとともに、周辺諸国を牽制するため各地に使節を派遣しました。日本では、800人もの唐軍を随伴した使節が難波津に上陸し、そのまま都に進軍して都の外に駐屯したのです。これは明らかにヤマト政権への示威行為でした。今やヤマト政権は、内輪でもめている場合ではなく、中央集権的な強力な国家を形成する必要に迫られたのです。こうして645年に皇極天皇の子中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)が起きます。この事件の後皇極天皇は退位し、中大兄皇子に即位するよう勧めますが、彼が辞退したため皇極天皇の弟軽皇子が孝徳天皇として即位しました。さらに654年に孝徳天皇が死ぬと、再び皇極天皇が斉明天皇として即位し、661年斉明天皇の死後ようやく中大兄皇子が天智天皇として即位します。

 中大兄皇子がなぜ乙巳の変の後に天皇にならなかったかは、はっきりしません。何分この事件が起きたとき彼はまだ二十歳だったということもありますが、かつて聖徳太子が推古天皇の摂政として腕を振るったという先例に倣ったのかもしれません。また、大化の改新という一連の改革に対する反発を予想し、天皇を楯として改革を断行しようとしたのかもしれません。この時代には、対外的にも危機の連続でした。大化の改新はそうした対外危機への対応の表れでした。その後も、唐は新羅と連合して百済や高句麗を攻め、百済が滅ぼされたため、日本は朝鮮出兵を決意します。その矢先に斉明天皇が死んで、661年に天智天皇が即位し、663年に白村江の戦いで日本軍は大敗を喫することになります。まさに天智天皇は即位早々に大打撃をこうむることになったのです。こうした中で、国防を強化するとともに、667年に都をより内陸の近江に移すことになります。天皇を中心とする中央集権的な体制の樹立は、まだ道半ばでした。

このドラマは、どちらかといえば中臣鎌足の青春ドラマ風に描かれており、また乙巳の変が終わったところでドラマは終わっています。大化の改新は、狭い意味では乙巳の変以降の改革を指しますので、大化改新自体を扱っているわけではありません。むしろ乙巳の変=大化改新という誤解を与えそうな内容でした。中臣鎌足という人物も謎の多い人物で、百済王族からの帰化人ではないかという説も存在し、だからこそ百済救援に奔走したのではないかとも考えられています。また、実際に大化改新において鎌足がどのような役割を果たしたのかもよく分かりません。ドラマでは、鎌足は大変地味で謙虚な性格として描かれており、乙巳の変以降あまり表面に登場しません。

 しかし天智天皇は鎌足の功労に報いて「藤原」姓を与えます。これが後の藤原氏の繁栄の出発点となります。特に鎌足の子藤原不比等は「大宝律令」を編纂する等、律令体制の成立に重要な役割を果たしました。そして丁度この頃「日本書紀」が編纂されますので、聖徳太子と同様に藤原鎌足も偶像化されていったのかもしれません。


「大仏開眼」


このドラマは、2010年にNHKで放映されたもので、平城京遷都1300年を記念して制作されました。これも、「聖徳太子」「大化の改新」の続編です。内容は、752年における東大寺での大仏開眼の前後における日本の政治・社会状況を描いています。
 映画は、遣唐使として派遣された吉備真備(きびまきび)と玄昉(げんぼう)の帰国から始まります。当時の遣唐使船は、難破の確立が非常に高く、4隻出発すれば1隻は沈没します。その理由は二つあります。当時の遣唐使船は平底で竜骨がないため、嵐で強い波にぶつかると壊れてしまいます。また、遣唐使船は中国での儀式の日程に合わせて出発しますので、最も気象条件の悪い時期に出帆し、帰国することになります。したがって危険な船に乗り、中国に20年近く滞在し、さらに危険な船で帰国するわけですから、留学生が生きて帰る可能性はかなり低くなります。


 吉備真備と玄昉は同じ時期の716に日本を出発、735年に帰国します。これは中国では、玄宗皇帝の全盛期に当たります。玄宗皇帝は、吉備真備と玄昉の才能を惜しんで、なかなか帰国を認めなかったと伝えられています。吉備真備が出発したのが22歳の時ですから、帰国したときには40歳に近かったと思われます。帰国の船は嵐に合い、船は沈没寸前でしたが、そこで玄昉は真備に自分の夢を語ります。洛陽の郊外の龍門の石窟に、675年に則天武后によって完成された高さ17メートルに及ぶ盧舎那仏があり、それに匹敵するものを日本で建造したいという途方もない夢でした。実際に玄昉が大仏造営を提案したかどうかは分かりません。いずれにしても彼は、人格的に問題があり、密通事件をあって失脚しました。

 吉備真備が帰国したのは、日本ではようやく律令制が確立した頃でした。乙巳の変以来、天智天皇・天武天皇・持統天皇を経て、大宝律令が発布され、都も、従来天皇が変わるたびに移動していましたが、まず藤原京、ついで平城京に固定されます。ただ天皇家は男子の後継者に恵まれませんでした。持統天皇自身、後継者の草壁皇子が幼かったため中継ぎとして天皇となったのですが、草壁皇子が早逝したため、彼の子軽皇子に期待を寄せますが、あまりに幼すぎました。そこで軽皇子が15歳になるのを待って持統天皇は皇位を譲り文武天皇が誕生しますが、彼も早逝し、その子首(おびと)皇子は幼かったので、文武天皇の母、つまり草壁皇子の正妃が元明天皇として即位します。しかしまもなく彼女は老齢を理由に娘に譲位し、元正天皇が誕生します。そして724年にようやく首皇子が聖武天皇として即位しますが、彼は病弱でした。結局、聖武天皇は749年に退位し、娘が孝謙天皇(称徳天皇)として即位します。

 592年に推古天皇が即位してから、770年に称徳天皇が死ぬまでの180年近くの間は、女帝の時代だったといえるでしょう。この間に6人―8代の女帝が、90年近く在位したのです。この時代は、中国で則天武后が君臨した時代と重なりますが、則天武后と異なり、日本の女帝はなりたくてなった分けではなく、幼少の後継者が成長するまでの中継ぎとして女帝になったにすぎません。この時代には幼少で天皇になることはできませんでした。天皇になるには豪族の同意が必要であり、実際に統治ができないような幼少の人物が天皇として認められることはありませんでした。つまり、この時代の天皇には、前天皇の子というだけで、幼児でも天皇になれるほどのカリスマ性がなかったということです。

 この時代の女帝となった人々は、必ずしも幸福だったとは言えないでしょう。日本で最初の女帝である推古天皇は三代も前の天皇の妃でしたが、彼女は蘇我馬子と聖徳太子のバランスをとって巧みに統治しました。皇極天皇(斉明天皇)は乙巳の乱で退位したかったのですが、中大兄皇子が即位を拒否したため、続けざるをえず、当時の外交的危機に苦闘することになります。持統天皇は草壁皇子の即位に希望を託して女帝となりましたが、その夢は破れました。ただ彼女は、6人の女帝の中でただ一人政務に直接携わり、夫である天武天皇の理想の実現に努力した女性でした。最後の孝謙天皇は、見方によっては可愛そうな女性でした。聖武天皇の男子の後継者がいずれも早逝したため、女性でありながら皇太子とされ女帝となりました。そして女帝は結婚することが許されず、したがって子が生まれませんから、在位中に後継者を探さなければなりません。結局彼女の死とともに、天武天皇の系統は断絶し、天智天皇の系統に移っていきます。つまり女帝はあくまでも中継ぎであり、男子の系統が重視されたということです。彼女の死後、女帝は17世紀と18世紀に一人ずついるだけです。そして彼女の死とともに女帝の時代は終わりましたが、軟弱な男子が続いた時代に、女帝は天皇家の血統を維持する上で重要な役割を果たしました。

 話がそれましたが、吉備真備が帰国した時代は、天智・天武・持統という実力のある天皇の後に、実力のない天皇が続き、その結果藤原家が強大な力を持つようになった時代でした。藤原氏は壬申の乱で天智天皇側に居たため、天武天皇の時代には遠ざけられていましたが、鎌足の次男である不比等は下級役人から立身し、文武天皇の時代には後見役として重用されました。この間大宝律令の編纂に関わるなど律令体制の成立に大きな役割を果たすとともに、娘を文武天皇や後の聖武天皇に嫁がせ、皇室との関係を強めていきます。不比等の死後彼の4人の息子が藤原四兄弟として朝廷で権勢を誇り、これに対して古くからの貴族たちが不満を強めていきます。ところが、この四兄弟は737年に当時流行していた天然痘で死亡し、藤原氏は大打撃を受けます。吉備真備が帰国した2年後のことで、朝廷は大混乱に陥ります。

 当時、自然災害・飢饉・疫病の流行が相次ぎ、民衆は貧困に喘ぎ、土地を捨てて各地を放浪する人々が激増していました。こうした中で、巨大な仏像により巨大な慈悲を民衆に与えるため、巨大な盧舎那仏を造営するという考えが持ち上がってきます。もちろんそれには、後の国分寺の建設とともに、天皇の権威を高めるという意図があったのですが、今から1300年も前の時代ですから、社会に平安をもたらすためという目的も、決して嘘だった訳ではりません。しかし結果は、盧舎那仏造営のために民衆に大きな犠牲をしいることになり、民衆の生活は破綻していくことになります。

 朝廷では藤原仲麻呂を中心に藤原家が勢力の挽回を図り、聖武天皇はその圧力に耐えかね、藤原家の勢力が強い平城京を捨て、各地を転々とします。まさに混乱の極みです。藤原不比等らが編纂した大宝律令の精神は消え去ろうとしていました。そういう中で、盧舎那仏の造営が現実味を帯びてきます。盧舎那仏さえ造営されれば、すべてが解決すると。しかしこの巨大な仏像をどうやって造営するのか。資金をどうするのか、人をどうやって動員するのか。それでなくても民の疲弊は耐え難いものになっていました。ここで切り札として飛び出した案が、法相宗の僧行基に造営を依頼することでした。

 前のテレビドラマ「大化の改新」でも南淵請安(みなぶちのしょうあん)という僧侶が出てきます。彼は聖徳太子によって小野妹子とともに遣隋使として派遣され、32年間中国にとどまり、640年に帰国します。ドラマでは、彼が民衆の医療に専念している姿が描かれていますが、その真偽は分かりません。ただ、中大兄皇子と中臣鎌足が南淵に師事し、大きな影響を受けたことは間違いありません。一方、行基は早くから貧民救済、治水、架橋など社会事業に従事していました。ところが当時僧尼令により、僧侶がこのような活動を行うことが禁じられていました。当時の仏教は護国仏教であり、僧侶の役割は国のために経を読み教学を研究することでした。いわば僧侶は国家の役人だったのです。だから、僧尼令は僧侶としての身分を守るという意味合いが強く、厳しい罰則が適用された例はあまりありません。当時朝廷は行基の行動に罰則を適用しようとしたのですが、行基への民衆の支持は強く、彼は今や菩薩とさえみなされるようになっていたため、朝廷も扱いに苦慮していました。その行基に大仏造営を依頼した分けですから、まさに苦肉の策といった所です。しかも彼は各種の工事の経験から、多くの技術者集団を抱えており、まさにうってつけでした。行基が何故この事業を引き受けたのは分かりませんが、彼もまた巨大な仏像の慈悲を求めたのかもしれません。彼はまもなく勧進のために全国を行脚し、仏像造営の支持と資金を集め、大きな成果をあげます。

この頃、吉備真備が何をしていたのかはっきりしませんが、ドラマではすべての重要な問題に関わっています。遷都を進言し、盧舎那仏造営には反対しますが、結局受け入れます。彼は表面に出ることはありませんでしたが、あらゆる問題に精通した能吏だったようです。聖武天皇が死んだ後も、孝謙天皇の信任が厚く、右大臣にまで出世します。これは地方豪族出身で、しかも単なる学者としては異例の出世です。彼は3代の天皇に仕え、その間相変わらず自然災害や飢饉は続いていましたが、藤原仲麻呂の乱以降は大きな紛争が起きることはありませんでした。天皇制に基づく国家はようやく定着していったといえます。なお、この時代に道鏡が孝謙天皇の寵愛をうけますが、このドラマではまつたく登場しません。ドラマでは、吉備真備は、自分は理屈に合わないことは信じないとして、大仏の造営に反対していますが、その彼が妖僧と言われる道鏡とともに政権の中枢を担っていたのが、不思議に思われます。

仏教は外来の宗教であり、この時代までは国家の護国宗教であり、教学でしかありませんでしたが、大仏造営というとてつもない事業を通して、ようやく民衆的な宗教に変わりつつありました。その過程で、日本の伝統的な宗教と習合し、日本独自の仏教が形成されていきます。そうした中で、最澄や空海が登場し、日本の仏教を新しい方向に導いていくことになります。


[付録]「妖僧」


 1963年に公開された映画で、孝謙天皇の時代に一時権力を握った僧道鏡を描いた映画です。

 749年、孝謙天皇は病弱な父聖武天皇から譲位を受け、天皇となっりまた。彼女の母光明皇后は藤原氏の出身であり、藤原仲麻呂の叔母だったため、この二人が政権を独占することになりました。信頼する吉備真備も左遷されたため、彼女は孤独でした。また、未婚のまま女帝となった彼女は結婚できないため、別に後継者を探さなければなりませんでした。結局、藤原氏の女性を妻とし、藤原仲麻呂と強い関係にある皇子が皇太子とされ、758年孝謙天皇が退位して淳仁天皇が即位し、孝謙天皇は上皇となります。当然藤原仲麻呂が実権を握り続けましたが、760年に彼の後ろ盾だった光明皇太后が死ぬと、しだいに影響力を失っていきました。

761年孝謙上皇が病となり、道鏡の看病で病から回復すると、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになります。孝謙上皇は、これに口出しをした藤原仲麻呂と淳仁天皇に対して激怒し、764年軍隊を動かそうとした藤原仲麻呂に対して素早く行動し、彼を倒します。この時、文官であった吉備真備が生涯にただ一度軍隊を指揮し、仲麻呂を倒しました。さらに孝謙天皇は淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として復位します。ここに、称徳天皇と道鏡の二頭体制が成立することになります。称徳天皇は道鏡を太政大臣や法皇に任じ、さらに皇帝にしようとしたとさえ言われています。しかし、770年称徳天皇が死ぬと、道鏡は下野に左遷されて、その地で死にます。

一体道鏡とはどういう人物だったのでしょうか。彼については、根拠のない噂話の類が多く、彼の実像を理解するのは困難です。特に称徳天皇と男女の関係があったなど、性に関わる話が多く伝わりましたが、どれも根拠のない話です。彼は、しばしばロシアのロマノフ朝末期の怪僧ラスプーチンと比較されます。確かに、病気の治癒や性に関わる話が多いことなど、両者には似た側面があります。ラスプーチンは、帝制末期のロシアに政治に介入して混乱を招いたとされますが、彼はあまり政治には関心がなかったとも伝えられており、国内の混乱を見て第一次世界大戦への不参加や農民への減税を説いたりしたとも言われますが、これらの意見が皇帝によって採りあげられることはありませんでした。100年程前のラスプーチンについてすら、はっきりしたことがわからないのですから、1200年以上も前の道鏡について分かるはずがありません。どちらも噂話の類が多すぎるのです。ただ道鏡は法相宗の義淵の弟子であり、華厳宗の良弁からサンスクリット語を学び、禅にも通じていたとのことですから、相当の知識人であり、「得体の知れない妖僧」などでは決してありませんでした。ラスプーチンも道鏡も、その「悪行」を貴族によって弾劾されますが、見方によっては両社とも規制の枠に当てはまらない人物で、既得権益を侵害されそうになった貴族たちが、二人をことさらに悪く言ったのかもしれません。

映画では、道鏡は修行によって体得した妖術を使い、妖術によって孝謙天皇の病を治し、やがて二人は恋に落ち、男女の関係となります。道鏡は、俗世と関わったため妖力を失い、称徳天皇が再び病にかかった時、妖術で治すことができませんでした。つまりこの映画は、道鏡と称徳天皇とのラブロマンスとして描かれている分けですが、同時に派閥闘争と権益にまみれた貴族たちと、それを正そうとする道鏡との戦いとしても描かれています。その意味において、道鏡に対する従来の悪評に挑戦する映画であったと言えます。

この映画で私が関心をもったのは、彼が山に籠って修行した修験者として描かれていたことです。山に対する信仰は世界中どこにでもあり、それは民間信仰として生き続けますが、やがて険しい山で修行をする修験者と呼ばれる人々が現れ、それが仏教と結びついていきます。仏教と民間信仰との習合で、ちょうどこの頃から始まり、現在でも吉野などで信仰が守られています。修験者は民間では妖術使いと思われる傾向があり、この映画でも道鏡は妖術使いとして登場します。ただし、道鏡は純然たる仏僧であって、修験者と言えるかどうかは分かりません。


















0 件のコメント:

コメントを投稿