2019年1月23日水曜日

韓国映画「古山子 コサンジャ」を観て



2016年に韓国で制作された映画で、李氏朝鮮で正確な地図を制作した金正浩(キム・ジョンホ、号*古山子 コサンジャ)の半生を描いており、大変面白い映画でした。原題は「古山子、大東輿地図」です。

 古山子について分かっていることは、ほとんどありません。多分1800年頃に生まれて、1864年頃に死にました。その間に彼は、多分30年以上にわたって朝鮮中を旅し、精巧な朝鮮の地図「大東輿()地図」を作製しました。地図の作製にあたって彼は、座標使って位置をとらえており、現在でも通用する正確な地図です。地図は冊子になっており、いつでも好きな場所を開くことができ、冊子を全てつなぐと横3メートル、縦7メートルにもなるそうでです。しかも彼はこれを木版に彫り、いつでも好きな時に印刷できるようにしたのです。
残念ながら私は、古山子についても「大東輿地図」についても知りませんでした。一体古山子とは何者なのか、どのように生計を立てていたのか、どのようにして天文学や測地術を学んだのか、そもそも一体何のために、たたった一人で朝鮮全土の地図を作ろうと思ったのか。彼より半世紀ほど前に、日本の伊能忠敬が「大東輿地図」に匹敵する正確な地図を作成しますが、彼は経済的に恵まれており、天文方で天文学や測地術や数学を学んでおり、しかも幕府の全面的な支援を受けて製作しました。では古山子はどうなのか、何も分かりません。したがって映画で述べられていることの大半はフィクションですが、それなりに説得力のあるフィクションでした。
 映画では、古山子は都で木版屋を経営しいており、妻と女の子がいましたが、彼自身はいつも旅に出て、地図を書いていました。彼が地図を作るようになった理由は、彼の父が国が作った地図を見ながら旅をして、道に迷って遭難したからです。国が作成した当時の地図は相当いい加減で、しかも道の距離については高低差を無視して直線距離が書かれており、実際の距離と相当の違いがあるため、地図に頼って旅をしても遭難の危険があり、もっと正確な地図が必要でした。また旅をする人は、地図のある役所に行って自分で移す必要がありましたが、その過程で間違える可能性がありました。そこで彼は地図を木版に刻み、誰もが正確な地図を簡単に入手できるようにしようとしました。これが古山子が生涯をかけた夢でした。もちろんそれは、映画での話であり、実際はどうだったのかについては、不明です。
 地図が完成に近づくと、政治が関かわてきます。正確な地図を独占することは専制支配の強化に役立ち、また市中に広く地図が出回れば、それが迫りつつある欧米などの外国人の手に入り、それは国防上の問題に関わります。事実、日本でもシーボルトが伊能忠敬の作製した地図を持ち出そうとして大事件に発展し、シーボルトは追放され、日本側の責任者は処刑されました。誰もが正確な地図を持つということと、国防上の問題は両立しにくい時代だったのです。
 ここで大院君という人物が登場します。彼は大変興味深い人物ですが、ここでは深入りしません。ただ一言付け加えるなら、正祖の死後貞純太后による3年間の垂簾聴政を経て、19世紀初頭より貞純皇后の一族による外戚政治が行われ、やがて外戚が勢力を維持するため幼君を立てるという、まさに手段と目的が逆転してしまうという有様でした。大院君はまだ幼かった国王高宗の父で、彼が1864年から1873年まで政治の実権を握り、外戚勢力を抑えると同時に、有能な人材を登用し、さまざまな改革を推し進めていました。映画では、大院君は一目で古山子の地図の重要性を見抜き、同時にその危険性も見抜きます。大院君は、高額で地図を買い取ることを申し出ますが、古山子の望みは民衆に地図を提供することでしたので、大院君の申し出を断ります。

 そのため彼は政治闘争に巻き込まれ、彼の妻子は死に、彼自身も投獄され、すべてを失って死んでいきます。しかし、彼の弟子が隠してあった地図を持ち出し、都の広場で地図を並べ、民衆に地図の存在を知らしめます。もちろん大院君との関係を含めて、これらの話はフィクションですが、しかしこれこそ古山子が真に望んだことなのかもしれません。

 一方、古山子は大院君により処刑され、木版は償却されたという説が流布し、ネット上でも相当流布しています。この説については、韓国では大院君を貶めようとする日本帝国主義によるでっち上げである、とされています。でっち上げかどうかは分かりませんが、私もこの説は受け入れられません。第一に、古山子が処刑されたという記録はどこにもなく、何よりも木版は現存しているからです。
 なお、この地図に竹島(独島)が記載されていたかどうかというような野暮な議論は、ここでは止めておきたいと思います。

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