2019年1月12日土曜日

映画で李氏朝鮮を観て(2)

 朝鮮・韓国はしばしば外からの侵略を受け、中国、北方民族、日本・倭寇との間で複雑な関係が紡がれてきました。こうした国際環境のもとで、小国朝鮮は中国に朝貢し、中国に寄り添うことによって、自らの安全保障としました。事実、7世紀には唐の援助で日本の進出を阻み、新羅による統一国家の形成に成功します。しかし13世紀に登場したモンゴル帝国・元はあまりに強力で、中国自身がモンゴル帝国に飲み込まれ、高麗もまた元に服属を余儀なくされました。14世紀後半に中国で明が成立し、元が北方に追いやられると、朝鮮でも李成桂が李氏朝鮮を建国し、いち早く明に朝貢します。そして16世紀から17世紀にかけて、海から豊臣秀吉の日本軍が、北から女真族が攻め込んできます。

バトル・オーシャン
2014年に韓国で制作された映画で、豊臣秀吉の朝鮮出兵と朝鮮の英雄李舜臣を扱った映画です。豊臣秀吉がなぜ朝鮮出兵を行ったかについては諸説あり、はっきりしません。ただ、出兵の最終目標は朝鮮ではなく中国の明でしたから、あまりにも無謀で、余計に目的が分かりません。ただ、当時ヨーロッパ人が世界中に進出し、まさに世界の一体化が始まろうとしていた時に、世界に向かって国を開くか閉じるかという、二者択一を迫られていたのかもしれません。そして結局、日本も朝鮮も中国も国を閉じることになります。
秀吉の朝鮮出兵は2度行われました。1回目は1592年から1593年の文禄の役、2回目は1597年から1598年の慶長の役で、合わせて文禄・慶長の役と呼ばれ、韓国では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれます。そして、この映画の舞台となったのは、慶長の役(丁酉の倭乱)での露梁海戦(ろりょうかいせん)で、この戦いで朝鮮・韓国の英雄李舜臣(り しゅんしん、イ・スンシン)が活躍します。なおこの映画の原題は「露梁海戦」です。

李舜臣は、幼い時から勇猛果敢で、22歳の時に武官となるため試験を受け始め、32歳でようやく合格します。しかし派閥闘争の激しい李氏朝鮮では、武将の地位も派閥の動向に左右されます。李舜臣は1591年に大抜擢され、翌年の文禄の役では日本の水軍をゲリラ的に攻撃して苦しめます。しかし1597年の慶長の役では、李舜臣は命令に背いたため更迭され、拷問を受けて一兵卒に落とされますが、彼の後任が日本軍に敗北し、水軍が壊滅状態になると、李舜臣が再任されます。そして彼が再任されたとき、朝鮮水軍の戦船は12隻しかありませんでした。
映画はここから始まります。1598年に豊臣秀吉が死去し、日本軍は撤退を開始していました。こうした中で、明・朝鮮の水軍と日本の水軍が激突する、いわゆる露梁海戦が勃発します。この海域には多数の島が点在し、島と島の間の狭い地域では海流は潮の干満に応じて激しく変化します。一方、日本水軍の先遣隊を務めた来島通総(くるしま みちふさ)は、村上水軍の流れをくむ瀬戸内海の水軍で、瀬戸内海の水流は、この地域とよく似ていたため、この地域の海流を熟知していました。この点については、このブログの「」映画で武士の成立を観て 鶴姫伝奇」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/02/blog-post.html)を参照して下さい。
映画は、李舜臣と来島通総との知略をつくした戦として描かれます。後半はほとんど戦闘場面で、当時の海戦がよく再現されていたと思いますが、少しオーバーであり、また延々と戦い場面が続くので、うんざりしてきました。最後は、李舜臣が軍神となって日本軍を蹴散らし、朝鮮の人々が万歳を叫んで終わる、という映画です。史実は、先陣を務めた来島の船団は大損害を被り、来島自身戦死しますが、李舜臣の軍団も崩壊し、後続の日本の軍団はほぼ無傷でこの海域を通過します。つまり日本軍にとって、この戦いは、この後の作戦に大きな変更を必要とするものではありませんでした。
日本の武士は長い戦後時代を戦い抜いてきましたので、確かに戦争慣れしていました。しかし、それにしても朝鮮の戦いは情けなさすぎました。王も文武官も民を置き去りにして、都から逃げ出したのです。そういう中にあって、李舜臣の堂々たる戦いは、朝鮮の人々にとって大きな誇りとなったのだろうと思います。

王になった男
2012年韓国で制作された映画で、原題は「仮装」です。この映画は、前に述べた暴君燕山君(ヨンサングン、えんざんくん、第10代、在位14941506)と同様、暴君とみなされてきた光海君(クァンヘグン、こうかいくん、第15代、1575- 1641年)を扱っています。この映画では、光海君を暗殺から守るため王の影武者を立てるという手法がとられています。こうした手法は、「映画でイスラーム世界を観る アラビアン・ナイト 乞食のアミン」 (https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/06/blog-post_8.html)やマーク・トゥエイン「王子と乞食」などでも見られます。
壬辰・丁酉の倭乱は、朝鮮にとって破滅的でした。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥っていました。朝鮮王朝は増収策として穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策を採用します。これは賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれるというもので、これにより朝鮮の身分制度は大きく流動することになります。その結果、新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新され、政治は一時的に再び活気が蘇ります。とはいえ、派閥対立は相変わらず、延々と続けられていました。もしかすると、朝鮮王朝のバイタリティの根源は、この派閥対立にあるのかと思ってしまうほどです。
 1616年、謀反の噂が絶えない中で、光海君に似た人物を探し出して影武者にしようという策が考え出され、その結果踐民身分のハソンが連れてこられ、王に仕立てられます。その直後に王は暗殺未遂で重体となったため、王が回復するまでの15日間をハソンは王の替え玉として過ごすことになります。王とハソンは同じ俳優が演じますが、ハソンは当然のことながら失敗の連続で、物語はコミカルに進行していきます。しかし王として政治に関わっているうちに、ハソンは多くの不正や不当な法の存在を知り、政治の在り方に強い憤りを感じ、腐敗官僚を処罰するとともに、善政を実施していきます。そのためハソンは心ある人々から愛されるようになりますが、光海君が復帰したため、ハソンは宮廷を去っていきます。そして1623年に光海君は宮廷クーデタで失脚しますが、これについては次の映画で述べることにします。
 光海君は、宮廷の公式記録では、多くの罪なき人を殺し、人民を苦しめた暴君として描かれていますが、公式記録を作成した人々は光海君を失脚させた人たちですので、光海君を暴君として描くのは当然です。そのため近年光海君についての研究が進み、実は彼は腐敗を正し善政を行った名君ではなかったと考えられるようになりました。映画でハソンが光海君の身代わりを務めるという話は荒唐無稽ですが、光海君には暴君としての光海君と、名君としての光海君がいたと考えれば、辻褄が合います。光海君の善政は反対派により抹殺されましたが、ハソンは抹殺された部分を再現しているのではないでしょうか。韓国の時代劇で、ようやく良い映画に巡り合いました。 

神弓-KAMIYUMI-
2011年に韓国で制作された映画で、女真族=清による朝鮮の征服を描いています。
1623年に起きた宮廷クーデタにより、仁祖(インジョ、じんそ、1623- 1649年)が第16代国王となり、反対勢力を徹底的に弾圧しますが、その時の生き残りの中にナミという弓の名人がおり、この人物がこの映画の主人公となります。彼の弓術は、不規則な軌道で障害物を避けて命中するばかりか、発射位置さえ特定不能にする“曲射”と呼ばれる神業でした。
一方、1636年に後金の太宗ホンタイジは皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求しました。もともと光海君は、伝統的な朝貢関係にある明と、新興の後金との間で等距離外交をとり、これが親明派の反発を買って失脚しました。これに対して、親明反後金政策をとる仁祖は後金の要求を拒絶し、清と戦う準備に入り、その結果ホンタイジは朝鮮侵攻を開始することになります。なお、後金()については、このブログの「映画で中国―清朝を観て 大清風雲」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/12/blog-post_23.html)を参照して下さい。16361229日、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて出立し、漢城に向けて進撃しました。そして、はやくも1637224日に、仁祖は清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行うことになります。光海君の等距離外交が続けられていれば、このような結果にはならなかったでしょう。
その際清によって朝鮮に課せられた条約は屈辱的なものでしたが、この映画との関連だでいえば、国王は清軍が朝鮮の50万人もの人民を連れ出すことを認めたのです。その人民の中にナミがおり、彼は妹ジャインと結婚したばかりの夫を連れて脱走します。映画の後半は、ひたすら逃げる3人と、それを追う屈強な清軍の兵士たちとのサバイバル・ゲームが延々と続き、うんざりしてきました。
その後、1644年には、かつて朝鮮が宗主国として仰いできた明が滅び、李氏朝鮮は清の属国として、なお250年以上生き延びることになります。清は辛亥革命により1912年に滅びますが、李氏朝鮮も1910年に日本の植民地となります。


李氏朝鮮は戦争に負けてばかりですが、基本的に李氏朝鮮は中華思想に基づく文化国家であり、平和国家でもあったため、戦争に慣れていませんでした。朝鮮の西には巨大な軍事国家である中国が存在し、中国と地続きの朝鮮が中国と対峙しても勝ち目がありません。それなら初めから中国に朝貢し、中国に守ってもらう方が得策というものです。中国の朝貢国になったからといって、中国が朝鮮を支配するわけではなく、中国にとって朝鮮は中国に逆らわないという安全保障を得られればよいわけです。したがって、伝統的に朝鮮は大国中国に朝貢するという外交政策を採用してきました。このような政策を事大主義と呼びます。

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