2020年4月18日土曜日

「英国総督 最後の家」を観て

2017年にイギリスとインドにより制作された映画で、1947年におけるインド独立に至る経過が、デリーにあるインド総督府を中心に描かれています。なお、2017年とは、インド独立70周年にあたります。
 イギリスはインドへは17世紀に進出し、18世紀にフランスとの激しい主導権争いに勝利し、19世紀に本格的にインド進出を進め、1877年にインド帝国を成立させます。そしてヴィクトリア女王がこのインド帝国の皇帝であり、以後インドはイギリス資本主義に組み込まれていきます。インドは豊かであり、イギリスの繁栄はインド支配なしにはありえませんが、同時にインドの社会は大きく歪められ、人々の不満が増大します。20世紀に入ってガンディーが登場すると民族運動は高まり、第二次世界大戦で疲弊したイギリスには、もはやこれを抑える力はありませんでした。
 1947年に、イギリスはインドの独立を認め、イギリス政府はインドへの主権移譲のため、インド最後の総督としてマウントバッテン卿を派遣しました。マウントバッテン卿の母はヴィクトリア女王の娘でしたから、彼は王家と結びつきがあり、大した手柄は立てていませんでしたが、順調に出世し、インド独立を果たすという重要な任務を与えられたわけです。デリーの総督邸は馬鹿馬鹿しいほど広く、その中で500人ものインド人が働いていました。そこではヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もゾロアスター教徒も働いていました。

 ところが、アリ・ジンナーは統一インドでは少数派のイスラーム教徒が迫害されるとして、パキスタンの分離独立を強硬に主張します。すでに各地で暴動が始まっており、ジンナーは分離独立さえすれば、暴動はなくなると主張します。一方、統一インドの初代首相を約束されていたネルーは、分離に断固反対します。ガンディーは、インドを分断することは魂の分断であるとし、統一を維持するなら、少数派のジンナーに初代首相の地位を当てえてもよいと提案しますが、ジンナーはこれを拒否します。マウントバッテンは手詰まり状態となり、流血の惨事はますます拡大します。
 実は、パキスタンの分離独立とインドとの国境線は、すでに決まっていたのです。チャーチルは1945年に退陣しますが、彼はそれ以前に分離案を作製していたのです。チャーチルは徹頭徹尾植民地主義者であり、反共主義者でしたから、インドを分裂させておく方がイギリスに有利であること、さらにソ連の南下に対する緩衝地帯が必要であることから、この分割案を作製したのでした。つまり、初めからマウントバッテンには選択の余地などなかったのです。この映画の冒頭に、「歴史は勝者によってしるされる」という言葉が映し出されますが、この場合勝者とはチャーチルのことかもしれません。最近の研究では、ジンナーは1947年まで統一を支持していたとのことで、結局彼もチャーチルの決定に従わざるをえなかったのかもしれません。

 映画は、独立に至る時期の混乱がよく描かれています。普段はヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も一緒に仕事をしていたのですが、分離問題が表面化すると、次第に対立するようになります。またヒンドゥー教徒の男性とイスラーム教徒の女性との恋もあ
り、パキスタンに移るのか、インドに住むのかという決断を迫られます。かくして1400万人の人々が、インドからパキスタンへ、パキスタンからインドへと移動し、その過程で100万人の人々が死亡しました。

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